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加藤清正、立花誾千代に兵糧を送る

2021年08月19日 17:13

441 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/19(木) 13:04:28.11 ID:3psnQ4c0
加藤清正立花誾千代に兵糧を送る

1601年に書かれたと推定される加藤清正小野鎮幸に宛てた書状より

「左近殿御内儀へ御兵粮まいらせ候ところ、御礼として飛脚給うについて御状に預かり候、誠に御隔心がましき御礼など候へば、かえって迷惑せしめ候、しかるべき様に御心得頼み入り候、左近殿御身上落着の儀、到来候はば示し預かるべき候」

関ヶ原の戦の後、食客的立場で肥後の加藤清正の元にいた立花宗茂は故あって少数の家臣達を連れて清正の元を離れた。
清正に仕えた旧立花家臣団のまとめ役として肥後に残った宗茂の元家老である小野鎮幸に対して清正が送った書状には、鎮幸の旧主の奥方である立花誾千代に"兵糧“を差し入れたことなどが記されている。

左近(宗茂)殿の奥様に兵糧を送りました。御礼の書状が飛脚で届きました。気兼ねさせてご迷惑かけることになってないかな?(´・ω・`) 以下略


当方、古文に疎いため拙い意訳なのでアレですが加藤清正立花宗茂立花誾千代、その旧臣達に色々気遣いしていたことが判る書状が残っている。詳細翻訳は詳しい方お願いします。

しかし、立花誾千代への差し入れに対し"兵糧"って書いてるのはよほど関ヶ原後に清正が攻め入った時の立花誾千代の姫武者ぶりが強く印象に残ってるのか、洒落なのか?

立花誾千代の出陣・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-365.html



小野鎮幸宛加藤清正書状 小野文書141より』(立花家資料館所蔵)



443 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/20(金) 13:06:23.32 ID:CHsfUeX3
>>441
原文はネットにあるのかな?


450 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/21(土) 13:00:33.64 ID:YfJQA42z
>>443
https://i.imgur.com/L2FACvx.jpg
L2FACvx.jpg

原本自体はGoogle Arts & Cultureで加藤清正書状と検索すると出て来るよ。

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/21(土) 14:29:06.72 ID:DBOy4uXM
>>443
翻刻はネットにはないんじゃないかな
柳川市史 史料編V 近世文書(前編)には収録されてたよ
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7歳の女城主誕生

2016年10月12日 14:09

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/12(水) 11:04:47.29 ID:KK0uFwxp
7歳の女城主誕生

立花山城督・戸次道雪には後を継がすべき男子がいないのが老齢の本人のみならず大友家の
悩みの種になっていた。そこで大友宗麟は道雪の猶子・鎮連の子で実の大甥に当たる男子(統連か?)を道雪の養子として
立花山城督を継がせその男子が成長するまで道雪と鎮連に後見させてはどうかと道雪と鎮連に諮った
しかし道雪はこれを断り次女(長女は夭折)のギン千代に立花城の城督・城領・諸道具の一切を譲った
姫が家督を継ぐのは異例だがこれは然るべき婿養子を迎えるという算段が道雪にあったから出来たこと
道雪には誰を迎えるかの算段がすでにあった。それが宝満山城主・高橋鎮種の長男・千熊丸だった
道雪は弥七郎が幼少のころから目を掛け(スパルタ教育を施し)ていた

一例:ある時二人が食事をしていた時、千熊丸が骨を取りつつ鮎を食しているのを見て道雪は怒り

「武士の子にあるまじき軟弱者!武将たるもの魚は骨ごと食べるべし」

とடりつけたとされる

参照:涙をこらえつつ少年宗茂は
URL:http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7089.html

このように厳しい指導を幼少時から道雪から受けていた千熊丸改め高橋統虎は
道雪の婿養子になりのちに「西国無双」と称されるまでの武将に成長する
一方、ギン千代以前の立花山城督になってたかもしれない戸次統連は父が島津への内通を疑われ
義統に誅殺された後に戸次氏の家督を継ぎ名を統常と改め父の汚名を注ぐために島津氏と戦うことを決意する
最後は戸次川の戦いに豊臣勢として参加して長曾我部信親や十河存保らと共に戦死した

ギン千代が立花家を継いだ話を少年期宗茂や戸次統常の話と織り交ぜてアップしてみた




238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/12(水) 19:29:05.57 ID:zRqAX6S/
>>236
統常は母親が烈女だからなあ
母子揃って最期は壮絶すぎる
仮に親父の無謀が義統の謀略だったらやるせない

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/12(水) 22:09:56.86 ID:KK0uFwxp
>>238
統常は戸次川に赴く前に自分の子を宗茂夫妻に託して戸次本家の血を残している
ちなみに統常の妻の父が吉弘鎮信だから後年石垣原で戦死した統幸とは義兄弟

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/13(木) 07:28:48.33 ID:M+xN9isV
大友家って家臣はすごい人多いのに主がどうしてああなのか

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/13(木) 20:58:15.04 ID:c64bFhbI
宗麟のDNA

~ギン千代出陣~お方様は俺たちのアイドル

2012年08月07日 20:55

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/06(月) 21:19:38.95 ID:TE77SgVU
IMEに「モンガマエに言」の字がない…orz

~ギン千代出陣~お方様は俺たちのアイドル

関ヶ原の戦いによって天下の情勢は決定づけられ、
西軍に組した立花宗茂には東軍側九州諸勢が攻め寄せることになった。
大敵と戦うは武人の誉れ、宗茂は領内に兵を配置し、迎え撃つ体制を整えた。
しかし兵が足りない。どうしても国境の一角が手薄になってしまう。

その間隙を埋めたのが宗茂室、不仲で有名なギン千代が腕に覚えのある女中を率いた部隊である。
逸話によっては大活躍しているが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-365.html
それはこの際関係ない。

それにしてもこのギン千代、ツンデレである。(「世界丸見え」風に)

それはそうと、ギン千代が出陣すると、宗茂が配置した他の部隊から、
「お方さま守備」と称して勝手にギン千代の部隊の近くに行ってしまう武士が続出した。

立花武士1( ゚皿゚)「殿が軍略を駆使して構えた備えから離れることなど許されるはずありません。
聞けば不忠になるので、勝手に離れたのです」

立花武士2( ゚皿゚)「我が殿はかくれなき名将。しかれども、お方様は…お方様は…
道雪様の忘れがたみでございまするぅぅぅぅっ!」

それらの口上を聞いた宗茂がどんな顔をしていたか、本には書いてない。




854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/06(月) 21:32:41.63 ID:v+qQfvwr
誾千代

表示されるかしらん?

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/06(月) 21:51:34.17 ID:2OTs5u5a
>>852
出典書かないといけなくなったらしい

というかそれ小説じゃないか?

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/06(月) 21:52:12.32 ID:qBz7FJDO
>>854

俺のPCでは表示されてるよ

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/06(月) 21:57:04.67 ID:y16USDnQ
誾千代くらいは辞書登録してるのがスレ住民のたしなみ(キリッ

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/06(月) 21:59:24.56 ID:UGL/iYwy
鳩巣小説が出典だとどうなんだろ

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/06(月) 23:18:20.46 ID:TE77SgVU
>>852
海音寺潮五郎の短編集「剣と笛」収録「立花宗茂」

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/06(月) 23:26:39.88 ID:nsoh7Q6t
>>864
Thanks
男気あるね!!

腹赤村の「ぼたもちさん」

2009年09月21日 00:36

16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/20(日) 18:45:14 ID:qAAc0AnZ
悲しい姫の話が出たので。


腹赤村の「ぼたもちさん」

立花宗茂の正室・千代姫が肥後国腹赤村で亡くなったのは、慶長7年(1602年)
10月17日と記録される。現在も残る墓は、石塔の頭の形から「ぼたもちさん」と
呼ばれている。

この話には異説がある。

慶長6年2月7日のこと。腹赤村の庄屋のところに、阿弥陀寺の住持・淡海から
「気のふれた女が現れた」と届出があった。
庄屋が見に行ったところ、狂人に相違なかった。色々尋ねてみても柳河から
来たとしか分からず、そのまま阿弥陀寺で預かることになった。
そして翌年の10月17日、阿弥陀寺から、柳河の女が寺の前にある古井戸に身を投げて
死んだと連絡があった。庄屋は村の者立会いのもと、淡海の引導で古井戸に葬った。

この「柳河の女」こそ国を失い夫とも別れた千代姫であり、身を投げた古井戸に
建てた墓が「ぼたもちさん」のはじまりなのだという。自然の丸石をのせた簡素な
ものだったのだろう。

信憑性うんぬんよりも、あまりに哀れで、本当とは思いたくない千代姫の話。




617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/20(日) 18:50:09 ID:8Ipt9JHP
惨めすぎる・・・

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/20(日) 19:27:30 ID:RJ0/YkBg
第一狂う理由が分からんわな


619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/20(日) 20:50:54 ID:wlEoAWBt
種無しの夫


良清寺と瑞松院の火の玉

2009年07月04日 00:10

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/02(木) 21:21:43 ID:A6fuYJ7J
初カキコになります。いい話なのか微妙ですが。


良清寺と瑞松院の火の玉

立花宗茂の正室千代姫。関ヶ原後に宗茂が改易されると、肥後国腹赤村(現熊本県玉名郡長洲町)に
隠棲し、34才で世を去る。その後、宗茂が柳川藩に返り咲くと、宗茂は柳川に良清寺という寺を開き、
千代姫の菩提寺とした。
さて、柳川には宗茂と縁のある寺がもうひとつある。名を瑞松院といい、宗茂の側室である矢嶋氏
(八千子姫)を祀っている。そして瑞松院と前述の良清寺は、道を挟んで向かい合っているのである。

で、柳川では夜になると、良清寺と瑞松院から火の玉が飛び上がって
上空でぶつかり合う光景が見られ、
柳川の人々は「千代姫と矢嶋の娘が喧嘩している!」と噂していたそうな。

なお、千代姫と矢嶋氏には生前の面識はない。
宗茂公、あの世では男女関係の方面で苦労してるんだろうなあ。




16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/02(木) 21:23:36 ID:xvGMkTcJ
宗茂さんモテモテっていい話なんだな、うん

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/02(木) 21:26:39 ID:GQl4V0ba
戦国ちょっと怖い話かなw
最近暑くなってきたからちょうどいい

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/02(木) 21:44:41 ID:y0GRV2ps
>>15

置いて行ったのか付いて来なかったのか判らんが
宗茂さんも前妻へ充てつけがましいなw

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/02(木) 22:32:15 ID:FovdhXdD
矢嶋八千は細川幽斎からの紹介で足利義昭の落胤の娘っていう説がある人なんだよな。

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/02(木) 23:02:20 ID:qinF1wGS
なるほど、ちょうどいい話か。


立花千代の出陣・いい話

2008年10月24日 00:12

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/23(木) 14:36:06 ID:fRL61sUO
立花千代の話が無いのは意外だ

関が原の後、柳川城に黒田、加藤、鍋島の軍が降伏を迫って進軍してきた時、
これを向かえ討つために、宗茂を城に残し、千代が出陣した。
海岸で鍋島軍を撃退した後、陸路を来る加藤軍2万に備え街道に陣取る。
清正は、大将が千代と知ると兵の損失を恐れ大きく迂回し直接の戦闘を避けた。
だが抵抗の限界は来た。2ヶ月後開城し、宗茂と千代は蟄居となる。

このときから、稲荷神社に願をかけ茂の復帰を祈りながら、34歳で死去する。
宗茂の旧領復帰は18年後である。



747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/23(木) 15:55:28 ID:FSeXdtg4
>>744 実際の宗茂、加藤、黒田、千代、鍋島をごちゃ混ぜにした話だなw

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/23(木) 16:46:06 ID:EijX8oPT
>>744
闇千代が鍋島を撃退したなんて逸話があるんだ。
ゲームでは宗茂の鎮西一を闇千代に当てていたけど
この話は日本七槍の一である小野和泉の八院合戦が混じっているのかな。
実際は別居中で城に元々いなくって、住んでいる館の街道を警護したんだっけ?
八院合戦自体も鍋島を撤退させたって話と、やられて落とされそうなところを清正に助けられたって両方あるよね。

なかなか面白いなぁ


753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/23(木) 19:25:44 ID:ld72H3c0
えええええええええええ
あれ、ギン千代にやられたの?
鍋島勢では、男たちが共に死ぬ誓いをたててたほどなのに……

関ヶ原のはるか後、誓いの中心にあった鍋島茂賢の死により、
上司への殉死という形で、共に死ぬ誓いは達成されました。
当然、上司への殉死は筋違いということで藩当局?から意見があったようだけど、
それをつっぱねて。

wikipediaには死んだのは「家臣」とあるけど、確か寄騎・組子の類だったとおもう。