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光秀のもとに、このような天晴の武士が

2018年10月04日 21:36

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/04(木) 18:42:28.47 ID:1Z/FlA7k
さて羽柴の大軍は稲麻竹葦の如く十重二十重に坂本城を取り巻いた。左馬助(明智秀満)は先日光秀が安土
より奪ってきた信長公が秘蔵された不動国行の太刀・二字国俊の刀・薬研藤四郎の脇差、並びに柴の肩衝・

乙御前の釜・紺ふこの水指・虚堂の墨蹟などを唐織の宿直物に包み、女房の帯に結びつけ天守の武者走りへ
持ち出した。左馬助は大声を揚げて「寄手の人々に頼み入れ候! 明智日向守光秀は運尽きて討死したこと

によりその妻子はことごとく刺し殺し左馬助も只今自殺仕るなり! 明智の一族滅び候ともこの品々は天下の
重宝であり、一時に焼け失われるのも無念なれば目録を添えて御渡し申し候!右大臣家の君達へ進上されて

給われかし!」と言い、かの包みを天守より降ろした。数万の寄手はこれを見て「かつて松永弾正が平蜘蛛
の釜を打ち破って後に、自身も切腹した多聞山城の有様とは雲泥の違いである」と感涙を流した。

その後、左馬助はかの二の谷の兜と雲龍の陣羽織に金子百両を添えて小姓1人を使いとし、坂本の西教寺に
送って亡き後の法事を頼むと、今は思い残すことなしと光秀の妻子と自身の妻子をも共に刺し殺して焼草に

火をかけた。そして天守が半ば燃え上がるのを見て腹を十文字に掻き切り、火の中へ飛び入って名を今の世
までも残しける。「どういうわけで主君を弑逆する程の光秀のもとに、このような天晴の武士がいたことよ」
と、感動しない者はいなかった。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武家閑談・武徳編年集成)』



327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/04(木) 22:58:34.67 ID:1Rdjvim5
爆弾正「茶釜が勝手に爆発したんですよ」

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/05(金) 04:47:49.18 ID:GksxLCZm
それ創作
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左馬助の馬

2018年09月29日 18:37

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/28(金) 20:03:16.89 ID:9noaiQKG
明智左馬助(秀満)は2千騎で安土城を守っていたが、羽柴筑前守が3万余騎で西国より馳せ上り6月13日に
山崎表で一戦あると聞き、「敵は亡君復讐の義兵で勇気は激しく、味方は不義天罰を逃れまい。

私はこの城を誰のためにいつまで守るべきなのか。ただ山崎の勢に馳せ加わり光秀と死を共にせん」と志を決し
すでに出陣したところに、光秀は山崎の一戦に打ち負け、青龍寺にも堪りかねて坂本へ引き返そうとし、途中の

小栗栖で土民のために討たれたとの噂を聞き「それでは出軍しても仕方ない。坂本城へ引き返して光秀の妻子ら
を刺し殺し、自分もこれでは甲斐もないゆえ直ちに自殺せん」と思い定め、粟津を北へ大津目指して馳せ帰った。

羽柴の大軍は昨日の勝ちに乗じて堀久太郎秀政を先手とし雲霞の如く群がり、えいえい声を出して大津松本の間、
おものの浜打手の浜辺まで押し来たり、光秀の居城・坂本を一呑みにせん勢いであった。羽柴勢は左馬助と札の

辻辺りで出合い頭に出で逢いたちまち戦いを交えた。左馬助は真っ先に駆けて右往左往に馳せ廻り、力を尽くし
花々しく戦った。しかし左馬助の2千騎は大軍に引き包まれてあるいは討たれ、あるいは落ち去り、今は左馬助

1人となって、ついに一方を切り抜けて名にある琵琶湖へ馬をさっと乗り入れた。左馬助のその日の出で立ちは
“二の谷”といわれる名高き兜、白練に狩野永徳が描いた雲龍の陣羽織で大鹿毛の駿馬に跨り、さざ波や志賀の

浦風に立つ波を蹴立て蹴立て、唐崎の1本の松を目指して静々と馬を泳がせた。羽柴の大軍は口々に「今に見よ、
左馬助は水に沈んで死ぬであろう」とこなたの湖岸に立ち並び、ただうかうかと眺めていた。左馬助はやがて

唐崎まで事もなく乗り付けたため、大津浦で眺めていた大軍は「ややっ、左馬助は海上を渡ったぞ!」と湖岸を
西へ喚き叫んで馳せ向かった。左馬助は唐崎に乗り上がり、1本の松陰で馬から降りて松の根に腰を打ち掛け、

追い来る大軍を遠見して休んでいたが、追兵がすでに4,5丁に迫る時、ひらりと馬に打ち乗ってただ一乗りに
坂本へ馳せ入った。町中には十王堂があった。左馬助はその堂の前で馬から降り、手綱を切って堂の格子に馬を

繋ぎ付けた。そして矢立の筆を取り出すと帖紙を引き裂いて「この馬は只今湖水を渡った馬です。分捕った御方
はこの馬に憐れみを御かけになって下さい」と書き付け、手取髪に結い付けると自身は坂本城へと入った。

光秀の妻(原注:服部出羽守保章の娘なり。台徳公(徳川秀忠)の御生母・宝台院殿とは又従姉妹だという)は
自然・天然(原注:原書に二男・阿古、三男・乙寿)という兄弟の子を天守に登らせ、下に焼草を積んで寄手を

待ち受けた。羽柴の大軍は潮の湧くが如く追々嵩んで押し寄せた。その時、十王堂に繋がれた馬を見付けて秀吉
に献上すると、秀吉は大いに賞愛されて翌年の賤ヶ岳の合戦でもこの馬に乗られたのだという。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武家閑談・武徳編年集成)』



325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/02(火) 16:21:54.44 ID:mS5x8qWa
>>321
自然ってこのときすでに井伊直虎に匿われたんじゃなかったの?
と大河ネタ

秀満は人目に触れないよう隠させた

2012年06月03日 21:04

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/03(日) 00:51:07.53 ID:AdnI7bmv
明智左馬助秀満は本能寺の焼跡から信長の屍を捜索していた。
すると並河金右衛門が自ら討ち取った信長の首と白綾衣袖を持ってやってきた。
秀満はすぐにこれを人目に触れないよう隠させた。
金右衛門は「左馬助殿はそれがしの功を隠されようとなさるのか!」と怒った。
秀満は金右衛門を諭して言った。
「前右府殿(信長)はかつて甲斐征伐において勝頼公の首を罵詈されたが、今になって人々はこれを誹誇している。
もし今、殿に前右府殿の首を御見せすれば恨み骨髄に達しているゆえ、必ず陵辱されるであろう。
そうなると殿の汚名が末代まで残ってしまう事は必定だ。天命とは実に畏るべきものである。
そなたの功はわしが後日必ず証を立ててやるゆえ、今は黙ってわしの言う事を聞いてもらいたい。」
そして涙を流しながら頼み込んだ。
金右衛門もその志に感じて秀満に托す事を了承し、秀満は僧西誉に命じて信長の遺骸を葬らせた。

光秀は信長の屍がなかなか見つからないので斎藤(内蔵助)利三を遣わして秀満にこう伝言をさせた。
「その方は先陣となっておるのに未だ前右府殿の生死の明証を得ていないとはどういう事だ!
もし生き延びて逃げられていたならば既に我等は為す術が無くなってしまう。」
これを聞いて秀満は真実を利三に告げた。
利三も感じ入って、焼け焦げた白綾の衣を取って信長の死の証としたのである。

ところで織田信長を討ち取った並河金右衛門だが、明智軍が山崎の合戦で敗れるとその素性を隠して
後に加藤清正に仕え、江戸時代になってからも長生きていたそうである。




741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/03(日) 01:02:18.69 ID:KXdInI4V
信長は死体損壊ばっかしてたから評判最悪でしたね