fc2ブログ

安房守については「表裏の士」であると

2021年07月30日 18:50

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/30(金) 15:45:51.63 ID:B1SsKwpE
信州上田の真田安房守(昌幸)は上杉景勝公の御留守中に、太閤(秀吉)家臣の大谷刑部少輔(吉継)と
内縁の筋目が有ることを以て、大谷に頼り才覚仕り、次男源次郎(信繁)を秀吉に差し上げ、
景勝公との関係を引き切った。
彼が総領である伊豆守(信之)を自分の所に差し置いていたのは、安房守は老巧であり、末を考え、
今後権現様(家康)へ進上仕るべしと思案し、よって次男を太閤に差し上げたのだという。

こう言った事であったため、太閤に対し景勝公より御断りを仰せ入れられ、源次郎の身柄を
是非お返し下されるようにと訴えたが、太閤に大谷が能く取り繕った故に、太閤より様々に
御詫言が有ったことで、事済んだ。

これ故に安房守については「表裏の士」であると、彼を咲わない者は無かった。

管窺武鑑

上杉も真田昌幸には相当思う所あったんだろうな。


スポンサーサイト



室賀正武謀殺

2020年03月03日 17:06

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/03(火) 00:42:44.47 ID:Zrb3PBKC
かくて(天正壬午の乱の結果)、信州一国は徳川家康公に属し奉ったが、同年(天正十一年)十月、真田安房守(昌幸)は
信州国中を従えんと企み、先ず室賀兵部太夫(正武)を討つべしと、一門が一手になって室賀の館へ押し寄せた。
兵部太夫は自ら討って出て、篠山において火の出るほどに戦い、互いに郎党が討たれ相引きに撤退した。
しかし翌日に安房守勢はとって返し攻めかけたことで、室賀方は内より和を乞い、これを安房守も許して
帰城した。

室賀は真田に屈することを無念に思い、翌天正十二年六月、家臣の高井彦右衛門尉を以て遠州の家康公にに申し上げた所、
家康公より「何としても謀を以て真田を討つべし」と仰せ寄越された。室賀は斜め成らず悦び、真田を油断させるため、
いよいよ以て上田を訪問し彼らに懇切にした。

ある時、上方より囲碁の上手が上田を訪れたため、室賀も彼と囲碁を囲む事に招待された。室賀は「良き時節」と心得、
日限を定めて、同苗孫右衛門を以て、『来月七日に真田が居城へ碁の会に参り候。その時昌幸を討とうと考えており、
御加勢を下さりますように。』と。家康の重臣である鳥居氏の方へ申し使わした。

ところが、この孫右衛門が内々に安房守へ心を通じており、そこから直に上田へ行き、この旨を申した。
昌幸は悦び、孫右衛門を馳走して返した。

室賀は準備が整ったと思い、家の子の桑名八之助、相澤五左衛門尉、堀田久兵衛などを従えて上田に参った。
昌幸は兼ねて用意のことであり、彼を書院へと招いて囲碁を始めた。
この時、昌幸方で、室賀の討ち手は長野舎人、木村戸右衛門と決められており、この座にあった
禰津宮内大輔、麻里古藤八郎、長命寺、安楽寺、などの合図があると、長野、木村は次の間より太刀を抜いて
乱入し、室賀兵部太夫を無情にも殺したのである。

室賀の家臣である桑名、相澤、堀田たちは聞くより早く殿中に斬り入って散々に戦い、三人共に項羽の勇を
顕したが、多勢の敵に取り囲まれ、遂に生け捕りとなった。
この三人は後に心を変じて真田に仕え、無二の忠を尽くした。この時、桑名八之助は深手を負った。

室賀に於いては、この事を聞くと、妻、子供たちは取るものもとりあえず甲州へと落ちていった。

(加澤平次左衛門覺書)

『真田丸』でも描かれた、室賀正武謀殺のお話ですね。




876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/03(火) 06:27:25.79 ID:pgqA0lOw
黙れ!小童!

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/03(火) 08:57:02.26 ID:xH2zkPKl
最期のセリフでいうかと思ったらそのセリフ言わなかった

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/03(火) 15:04:15.57 ID:YETpin/L
茶坊主が正解

白井百人衆謀討

2018年05月30日 19:55

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/30(水) 19:08:50.93 ID:Q6o9fFY/
天正12年正月上旬の頃のこと
当時、白井長尾の家中には百人衆と言う、歩行の武士集団があった。
正月に、沼田衆の林太郎左衛門、吉野太郎右衛門、吾妻衆の井上金太夫は、私曲あって
沼田の真田家から立ち退き、白井に属し、この百人衆の一員となった。

ところが程なく真田家への忠信を立てて故郷に帰りたいと思うようになり、3人は談合して
この事を真田家の高橋右馬允へ申した。右馬允がこれを金子美濃に相談すると、
「その方、上田へ参りこれを注進せよ」という事になり、高橋は丸山土佐守、木村戸右衛門を
通して真田昌幸にこれを申し上げると、昌幸は非常に喜び

「神妙の事である。卒爾無きように計るべし!」

そう仰せになった。そこで高橋はお暇を乞い戸鹿野へと帰った。
かの3人の者たちは、指示に従い百人衆の朋輩たちをたぶらかした
「沼田の鹿野には有徳(裕福)の者が多い。夜討ちして金銭を奪い取ろうではないか。」
そうして130人が申し合わせ、林、吉野、井上が案内して戸鹿野へと忍び入った。

しかし、かねての計画通りであり、彼らが侵入した所で橋を外し、四方より取り巻いて
襲撃した。このためまたたく間に120人余が討たれ、水練の達者であった5,6人のみが
助かり、白井に帰ることが出来た。

この忠節により、高橋右馬允は昌幸より知行を賜った。

(加澤平次左衛門覺書)



828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/30(水) 19:42:23.53 ID:m3QtbrAB
うーん、敵方をほいほい受け入れてはいけないのだな。120人討死って、大損害じゃないの。

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/30(水) 21:50:14.33 ID:8830ayA8
>>828
この場合の120人て小者は無しだろうから
いきなり侍大将120はキツすぎると思う

【ニュース】真田父子肖像 原画は別人? 上智大准教授が研究

2016年12月31日 20:31

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/30(金) 20:33:02.40 ID:T9EaeWR+
まじかー
https://twitter.com/kino_mayohitsu/status/814790483427762176
http://pbs.twimg.com/media/C063ndIVEAA7Ubi.jpg
C063ndIVEAA7Ubi.jpg

真田父子肖像 原画は別人? 上智大准教授が研究
http://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20161230/KT161227KQI090004000.php



485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/30(金) 20:56:44.53 ID:BImuGQqE
たびたびこういうの見かけるけど寺ってどんだけいい加減なんだ

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/30(金) 21:39:30.18 ID:GyTo8wUi
親族だし
源頼朝→足利直義
足利尊氏→高師直
武田信玄→畠山義続
とかの説よりはマシな気が

室賀はそれに納得しない態度を見せたため

2016年04月09日 18:33

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/08(金) 21:46:41.33 ID:wX2tR8C9
天正10年は、織田信長、武田勝頼のご生涯があったため、都鄙兵乱止むことがなかった。
信濃国には、徳川家康、上杉景勝が出兵し、上州には北条氏政・氏直父子が出兵した。

真田昌幸徳川家康に出仕を遂げるべしとて、伊奈の家康陣へ父子にて出仕した。
そのほか。禰津、矢澤、室賀、八代、芦田、保科、常田といった人々、何れも伊奈に出仕し
御礼申し上げた。しかし当時、家康は秀吉との合戦の最中であったため、国々の地頭も居城に引き籠もり、
我が意に任せて大身は小身を掠め、強は弱を侵し領地を争ったため、片時も合戦は止まなかった。

ここに信州室賀の城主、室賀兵部大輔(正武)は文武智謀の勇将であった。
遠く先祖を尋ねるに村上源氏義清公の類葉であり、禰津宮内大元直の嫡子長右衛門尉利直の舅であり、
その上昌幸とは甲府数代の傍輩、知音の仲であったが、真田昌幸が甲州没落後、信濃衆が諸方へ行動を
起こす時、まるで大将のようにこれを取り仕切り、多くの一族はその通り、万事昌幸の指図を
受け入れていたが、室賀はそれに納得しない態度を見せたため、互いに疎遠になっていった。

このため真田昌幸は室賀を退治しようと、禰津に行った。
禰津の家臣である加澤与七郎、別府若狭の両人は、智謀の勇兵であった。彼らに昌幸は、
矢沢頼綱を通じて様々に指示を出し、これによって室賀の家来である室賀九右衛門、松江、堀田らに
調略を廻した。この際別府・加澤に昌幸が与えた証文によると

『おのおのの調略によって室賀家中の過半は我らに納得し、同意したこと、これは忠信の至りであり
感悦している。彼の地について本意を遂げれば、そこから一所を宛がうであろう。

天正十年四月三日                  昌幸
                   別府若狭殿
                   加澤与七郎殿


このような事があって、4月下旬、昌幸は室が城に攻め懸けたが、室賀も聞こえる兵であれば
打ち取ること出来ず、居城に戻り、互いに互いを討つことを計った。

(加沢記)



鐵(かね)兵衛殿と呼ぶべきか

2016年03月31日 12:15

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/31(木) 05:18:15.10 ID:D7dfEllj
武田家滅亡の後、織田信長は武田の分国への仕置をなし、関東の管領として滝川左近将監一益を
上野国群馬郡厩橋の城に移した。武蔵・上野の旧武田分国の武士は残らずこれに出仕した。
真田昌幸は信州、上州両国に領地が在ったため、厩橋にも出仕した。

滝川一益は厩橋城で昌幸と対面した時、こう声をかけた

「あなたは承った所によると、以前は武藤喜兵衛と名乗っていたそうだ。しかし今回、つつがなく
武田が没落した以上は、鐵(かね)兵衛殿と呼ぶべきかな?」

そう、座興として言ったそうである。(喜兵衛を音が似ている金兵衛とかけた駄洒落である。)

その頃沼田の城は甲州の乱によって北条殿に横領され、藤田信吉は越後に浪人していた。
そこで一益は沼田の城に甥の滝川義太夫を城代として入れた。
一益は国中より人質をとったが、真田からの人質はなかった。これは真田信幸の姉が、人質として
安土に遣わされたためである。

(加沢記)


白井百人衆を謀る

2016年03月17日 14:39

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/16(水) 19:50:36.70 ID:AOgP06Dt
天正12年の正月上旬のこと。
上州白井長尾の家中には、百人衆と呼ばれる徒歩の侍の集団が有った。
その頃、真田昌幸の家臣であった沼田衆の林太郎左衛門、吉野太郎右衛門、吾妻衆の井上金太夫は、
私曲の事があって沼田を立ち退き白井に属し、白井においてこの百人衆に組み入れられた。
しかし、この3人はどうにかして昌幸に忠節を立て、故郷に立ち返りたいと考えていた。

この3人、談合してその事を昌幸家臣の高橋右馬充に伝えると、右馬充はこれを金子美濃に相談した。
金子美濃は「其方、上田に参り注進すべきだ。」と勧めたため、右馬充は上田に参り、丸山土佐守、
木村戸右衛門を通じて申し上げると、真田昌幸は大喜びした
「神妙のことである!卒爾無きように謀るべし!」
そして高橋右馬充は戸鹿野へと戻った

さて、かの3人は白井において、傍輩の者たちをたぶらかした
「沼田、戸鹿野には有徳(金持ち)の者が多い。夜討ちして金銭を奪い取ろうではないか!」
こうして130人ほどが申し合い、この林、吉野、井上を案内として、戸鹿野へと忍入った。

彼らが侵入し終わると、かねてからの計略通り、橋を外し、彼らを四方より取り巻き、討った。
突然の事に、瞬く間に白井の者達は120人余が討ち取られ、水練の達者の者5,6人だけが助かり、白井へと
逃げ帰った。

この忠節により、高橋右馬充には知行が与えられた。

(加沢記)




男であったら今弁慶

2016年03月15日 11:24

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 10:50:34.72 ID:wXXKRlD6
第一次上田合戦でのこと
小縣上田原染ヶ馬場に、徳川軍の大久保、鳥居勢が出撃し、真田信幸の軍勢と合戦と成った。
この時、真田勢は劣勢となり、昌幸は禰津助右衛門尉に下知して三百騎あまりを救援に向かわせる。
これに森右近の軍勢が二千騎あまりにてかかり来ると、救援軍の加澤世間兵衛は大薙刀を水車に回して
それと戦った。しかし鳥居軍中根の二百人あまりがこれに駆け寄り、加澤は取り囲まれた。

この時、加澤の妻が上田城大手の櫓より、敵に囲まれている旗印が、夫の用いるすわまに鷹の羽の紋で
あることに気がついた。

彼女はこの櫓に禰津主膳が置いていた馬に打ち乗ると、粥を飯籠に入れさせ、”はた織”という下女に
これを持たせ召し連れ、染ヶ馬場へと突撃した。

そして敵兵ニ百人余りの中に割って入ると、夫婦一緒に成って敵を四方へと追い散らし、
小高い場所へと上がって散らばっていた兵を集め粥を与え、殿して城中へと引き入れた。
この女房、城に帰って自分の体を見ると、鉄砲の弾が五つ当たっていた。

彼女は禰津の一族、別府閑斎の娘であった、父は信州において隠れなき剛の者であったが、
昌幸は「さすが別府の娘である。男であったら今弁慶とでも呼ぶであろう。」と賞賛した。
そして上田合戦が終わった後、小縣郡西田澤において五貫文の知行が与えられた。

(加沢記)



468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 11:49:52.95 ID:M7rnYvQk
>>467
無双キャラ決定か

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 12:32:37.76 ID:hyAM4yJg
>>467
粥食わしてる暇あるならさっさと戻れよw
あえて戦場で食べる示威効果とかもあるのかな。

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 15:19:14.78 ID:X083umLf
「お腹がすいてもう動けないよ~」的なアレだろ

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 16:16:42.85 ID:8+mdhNud
はた織もお粥持ちながら奮戦したんだろうな

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 16:31:22.71 ID:fCODIKy5
ふむ、前に見た上田真田を舞台にしてるアニメで
「一番いけないのはお腹が空いていることと、一人でいることだから」という
家訓があったがこれが元ネタだったのか(真顔

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 23:43:45.89 ID:bijnJOfb
てっきり熱々のお粥を敵兵めがけてブチ撒けるのかと思ったら、普通に食うのかよ

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 23:59:37.88 ID:hdMqxwPy
>>474
食い物粗末にする訳ないだろ、籠城の時に敵に浴びせるのは
熱々の糞尿と楠木正成の時代から決まってる

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/16(水) 00:59:29.18 ID:BOz2xNr+
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3356.html
真田や楠木の粥云々は前に色々話題になってた

室我入道謀殺

2016年03月14日 18:31

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/14(月) 17:54:03.61 ID:Yc5G3ZeV
天正壬午の乱の結果、信州一国は徳川家康に属することになったが、ここで天正11年6月、
真田安房守昌幸は国中を従えんと企て、先ず室賀を討つべしと一門を一手に引き連れ
室賀の館に押し寄せた。

しかしこれに、室賀兵部太夫(正武)は自ら打って出て、篠山において火が出るほど激しく戦い、
互いに多くの郎党が戦死したため、双方ともに引いた。しかし翌日、真田は再び取って返して押し寄せ、
これに室賀より和睦を請うてきたため、これを許して帰国した。

室賀入道は真田に従属したことを無念に思い、翌天正12年6月、高井彦衛門尉を通じて
遠州の徳川家康に訴えた。これに対し家康は、「謀を以って真田を討つべし」との返答を得た。
室我入道はこれに大喜びし、それから上田に見舞いに参ること甚だ頻りとなった。

ある時、上方より囲碁の上手が上田へと参り、これに室我入道は招待された。
室賀は「よき時節なり」と考え、日限を定め、一門の室賀孫右衛門を以って
「来月7日、真田の居城に囲碁に参りますが、この時真田昌幸を討ち取ります。
ですのでご加勢下さるように。」
と、徳川家臣の鳥居氏に申し送った。

ところが、この室賀孫右衛門は内々真田昌幸に通じていたため、その書状を直に上田に持って行き、
その内容を語った。真田昌幸は大いに喜び、孫右衛門を馳走して反した。

一方、室我入道は全てうまく行っていると思い、家の子である桑名八之助、相澤五左衛門尉、
堀田久兵衛などを従えて上田に参ると、昌幸は兼ねて用意してあった通り、書院に招いて
囲碁を始めた。
この時、長野舎人、木村戸右衛門が討ち手に決められており、合図を出すのは禰津宮内太輔、麻利子藤八郎、
長命寺、安楽寺であった。

長野、木村は次の間より太刀を抜き出し、室が入道を無常にも殺した。
室賀の家臣である桑名、相澤、堀田はこの騒ぎを聞くより早く殿中に斬り入り、散々に戦った。
しかし、たとえこの3人が項羽の勇を顕したとしても、多勢に取り巻かれ、最後には生け捕りにされた。
この3人は後には心を変じて真田に仕え、無二の忠を成した。
この時、桑名八之助は深手を負った。

室賀の妻子たちはこのことを聞くと、取るものも取りあえず早々に甲州へと落ちていった。

(加沢記)



おしき武士を討ってはならない

2016年03月01日 10:45

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/29(月) 22:33:38.22 ID:T189vIaX
武田家の滅亡後、真田昌幸が室賀兵部を攻めていた時のこと。
室賀の城より、6尺(約180センチ)あまりの大男がただ一人、5町(約500メートル)ばかり出て
物見をして、馬に乗って帰っていった。

これに、昌幸の配下である大熊五郎左衛門の足軽が一人追いかけ、「逃さじ!」と声を上げたが、
この武者は少し振り返っただけで、そのまま静かに退いた。

その姿を見た昌幸が左右の者達に「あれは何者ぞ!?」と尋ねると、何れも
「あれこそ聞こえる、松澤五左衛門です!」と申し上げた。

彼を追いかけていた足軽は、3町ばかりの内に追いつき、斬りかかった。
五左衛門、手を差し伸ばしてこの足軽の髻を掴んで引き伏せ、足で踏んで首を掻き落とし、
田の中へ捨てると、何事もなかったかのように再び退いた。

これを見た真田勢は何れも槍を押し取り馬に打ち乗り五左衛門を追いかけようとしたが、
昌幸は采配を以ってこれを止めた

「室賀は小身者である。おっつけ踏み潰して私は、あの五左衛門を我が手に付けるであろう。
おしき武士を討ってはならない。」

その言葉通り後年、松澤五左衛門は真田の臣となった。

(名将言行録)



403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/29(月) 22:54:14.29 ID:Nzh5sqjC
真田丸のおかげで室賀という名前に聞き覚えがある
信濃の豪族衆で昌幸に突っかかる小物って感じだけど

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/01(火) 05:28:41.27 ID:w14DspfW
>>403
黙れ小童!の印象が強すぎて強すぎて…

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/01(火) 07:53:07.53 ID:S6X9nm2V
童貞に見えた

【雑談】我が両眼昌輝説?

2016年02月29日 22:04

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/28(日) 22:05:32.20 ID:/ZYhmTFD
真田の逸話が出た所で聞いてみたいんだけど
武田信玄が「我が両眼なり」って評した逸話について
どうも真田の方は昌幸説と昌輝説があるみたいなんだけど
昌輝を指してる文献って知ってる人居る?
正直昌輝説って初耳でwikiとかに乗ってるようだが出展乗ってないんだよね




391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/28(日) 23:01:23.74 ID:vxlJIPkF
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/899828
近代デジタルライブラリー版の甲陽軍鑑のp145の右側のページだと
ちょうど潰れているけど
曽根内匠、真田喜兵衛
のことを信玄は「両眼」と呼んでいる。
甲陽軍鑑以外に「わが両眼」の出典があると聞いたことはないが
ほかの甲陽軍鑑のバージョンがあるのかもしれない
しかしwikiに真田昌輝を指した、てソースが示されていないなら、昌幸と考えたほうがいいような

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/28(日) 23:51:06.40 ID:YYM3tdLp
ヤフー知恵袋で10日ほど前に両眼の質問があった
http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q14156041644

小和田泰経の三増峠についての戦いの解説に載ってる可能性があるそうだからそれに出典があるかも
しかし、確かに今川・北条との戦いで伊豆侵攻してた時に昌幸がいたら
大河で「儂は海を見たことがない」と言ってるのがおかしくなるな
脚本家がどこまで考えてるかは知らないが

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/29(月) 00:05:08.83 ID:nrh/V1rV
ありがとう。やはり軍艦だと曽根内匠と真田喜兵衛だよね
wikiの記述は以下の通りなんだが

>小姓として武田信玄に近侍し、器量を見抜いた信玄により、
>有力武将の子弟が任じられる「百足衆」に抜擢される。信玄に常に付き従い、
>「一之先衆七千」を務め、「兵部は我が両眼なり」とまで言わしめたという
>逸話が残っている。現在の本で、弟の昌幸が「我が両眼なり」と称せられたかのように
>記載された書籍があるが、それは誤認であり、「我が両眼なり」
>と称せられたのは、兄である昌輝の方である。

現在の本では誤認と言ってるがまず何の本か明記してないし
この記述だと兵部昌輝一人が両眼と言ってるように読み取れる
甲陽軍艦以外にこの記述が無ければ編集者の先走りかそれこそ誤読の可能性高いかな
wiki以外にも昌輝だとする記述があるけどwikiを見て書いてる可能性もあるしな

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/29(月) 02:23:53.59 ID:20JiABHD
昌輝のwikiには「兵部は我が両眼」とある、まずこれを探そうか
軍艦だと喜兵衛だしな、軍艦よりましな資料なんだろう

殿には腰が抜けられたと見えました!

2015年12月11日 07:32

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/10(木) 20:26:11.02 ID:GAXiWdNB
関ヶ原のあと、真田父子(昌幸、信繁)は助命かない、両人とも剃髪して染衣を着し、
高野山に赴くこととなった。この時、安房守昌幸は57歳で、于雪と号した。

この真田の譜代の士に、窪田正助という者があり、彼は昌幸に、供をしたいと強く乞うた。
しかし昌幸

「その志は嬉しいが、私が召し連れる人数は上より定められている。
である以上、我が心のままには出来ないのだ。」

それでも正助は
「ならば、私は草履取り代わりに参ります!」

「それは尚宜しからず!士を草履取りにするとは、後日の世の聞こえも如何か!」

これを聞いて正助は立ち上がり
「殿には腰が抜けられたと見えました!私をお役に立たないものと見定められましたか。
もはや存命しても申し甲斐ない!」

そう言い捨てその座から去ると、たちまち自害して果てた。
これを、昌幸は甚だ惜しんだという。

(明良洪範)



海野能登守父子謀殺

2015年01月12日 18:46

226 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 02:21:57.43 ID:2R3C01cP
真田昌幸が沼田城を奪取したあと、昌幸は海野能登守(輝幸)を城代として置いていた。
彼は昌幸より吾妻郡岩櫃城の支配も許され、権勢高く、城代といえどもまるで本主のようであった。

時に、海野信濃守棟綱の三男、矢沢薩摩守頼綱と言う者があった。すなわち真田弾正入道一徳斎(幸隆)の
弟であり、昌幸にとって叔父であった。
また海野能登守の嫡子・中務に娘を嫁がせ、舅となっていた。
そんな矢沢頼綱が、昌幸にこう進言した

「海野能登守はその心、至って猛勇であり志も高く、仮にも人の風下には立たないと欲している人物です。
ですので、彼を速やかに誅罰すべきです。
そうしなければ、彼は北条か上杉景勝に与して我々に逆心を企て、沼田や吾妻を我が物としてしまうでしょう。」

昌幸はこれに
「仰るように、私も内々そう考えていた。ただし尋常に討ち取ることは難しい。不意を突いて討たなければ。」

そして舎弟である真田隠岐守信尹を大将とし、田口又左衛門を検使として差し遣わし、これを北条と戦う
軍勢だと言って十月二十二日、沼田に到着した。

海野能登守は、この軍勢が自分に向けられたものとは知らなかったが、翌朝妹婿である摂津守が馳来たり
密かに告げた

「北条方が攻めてきて、それを防ぐためとして隠岐守殿が軍勢を率いてお越しになりましたが、
昨夜ある者が来て知らせるには、一体どういうことでしょうか、殿を討つために来たとのことなのです。
どうかご油断ありませんように。」

能登守は城代であったので、二の丸北条曲輪にあった。真田隠岐守は本丸へと入っていた。
能登守はこの話を聞いても信じられず、「どうしてそのような事があるだろうか?汝、本丸に行って
事の体を聞いてまいれ。」と摂津守を遣わしたが、彼は本丸においてたちまち討ち取られ、
帰って来ることはなかった。

摂津守が帰ってくるのがあまりに遅いので、不審に思い能登守は「見てくるように」と富澤某を遣わした。
これも討たれ、帰って来ることはなかった。
これにより二の丸の人々の気色もにわかに変わり、足音も高く、騒然とした雰囲気となった。

能登守は言った
「本丸に遣わした二人は、両人共に討ち取られたと思われる。何と不憫なことをさせてしまったのだろう。
これは我が身に降り掛かった珍事である。然れども我においては、天のご照覧もあれ!全くもって
逆心はない。定めて佞人のために讒言をされたのだろう。であでば、今一度使いを立て弁明をしたい。」

そうして安中勘解由という者を召して、
「事の安否を見聞きしてまいれ。先に遣わした者達は二人ながら帰らぬ。充分に用心するように。」
そう忠告して三度遣わした。

案の定、二の丸から本丸に通る橋詰に武士たちが待ち受けていた。勘解由が橋を通っている最中、
彼らのうち逸った若武者が馳せ来て撃ち掛かり、棒を以って強かに打たれたため、橋より打ち落とされた。
それでも勘解由は起き上がったが、堀を伝って落ちていった。

227 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 02:24:59.11 ID:2R3C01cP
勘解由の伴をしていた童が急ぎ帰りこれを伝えると、能登守は子息・中務に言った
「私が本当に逆心したのであれば、例え百万騎に囲まれたとしても、彼らを打ち破って出ることたやすい。
しかし私には毛頭そんな気持ちはない。ただお前の妻子のため、私は加葉山に向かい、誤りのないことを
申し訳する。それでも承知無くば、寺にて自害しよう。」

これに中務
「仰せ然るべしと思いますが、このような火急の状況になった以上、もはや陳謝も立ち難いでしょう。
我が妻は薩摩守(矢沢頼綱)の娘ですから、危害が加われることもないと思います。
子供については、例え敵に捕まり馬の蹄に掛けられたとしてもかまいません。
さあ、早くあの者達を蹴散らし、いづ方へでも行って運を開きましょう!」

そう言って諌めたが、能登守
「私はもう年老い、この身も惜しくない。
そして罪なき孫達をはじめ、下人たちに憂き目を見せる事こそ口惜しい。
唯我に任せよ。」
そして馬に打ち乗り従僕に下知した
「敵を討ってはならない!ただし敵が打ちかかってくれば打ち払って押し通れ!
上田・沼田に武士多きといえども、私と太刀組み出来るような者は居ない!」
そして雑兵百五十あまりを率いて突撃した。

中務は恩愛浅からざる妻子を打ち捨て出撃しようとしたが、この時8歳になる娘が
泣き悲しんで後を追いかけ、袖にすがりついて「私も連れて行って下さい」と叫んだ。
中務は人に弱さを見せてはいけないと強いて袖を振りきって出撃した。
海野能登守はこの様子を見て、「さればあの娘も連れてくるように」と、馬に乗せて連れた。

二の丸を囲んでいた者達は、出撃した能登守勢を恐れ、風に木の葉が舞い散るように逃げ散り、
あるいは堀へと落ちた。こうして加葉山に向かって馳せ退く。

この前に、真田昌幸は隠岐守にこう言い含めていた。
『能登守父子の事だが、中務の妻子を絶対に失う事無いように、よくよく奪い取れ。』
この言葉があったので、隠岐守は下知し、中務の娘の乗っている馬と能登守たちの間に
大勢の兵を入れ分断した。そのため分断された者達はみな散々に逃げ落ちた。
娘に付いていた舎人は道端の畑に馬を引き退き、彼女を馬から下ろすと、
能登守が孫娘に持たせた、金銀を入れた小袋を奪い取って逐電した。

海野能登守・中務父子は追いすがる敵を打ち払い、田口又左衛門、木内八右衛門といった豪の者達も
討ち取ったが、やがて中務が敵を追い立てるのを能登守止めて

「罪無く殺すな。先刻、その方の娘が敵に押し隔てられてから姿が見えない、おそらくは敵に
捕虜とされたのであろう。

我ら父子が連れ立っていけば、敵が何千騎あっても打ち破ることは出来るだろうが、
孫娘はもはや逃れるすべはない。
先に二の丸で言ったように、私に逆心はない。陰謀によってこのようになってしまった。
しかし私の誠心は、死後に知ってもらえるだろうから、今はもはや、思い残すことはない。
さらば、刺し違えよう。」

そういって父子ともに追手の田口又左衛門の死骸に腰掛け、同音に「これに勝ることがあるだろうか?
なんとも面白い今の気分である。」と歌い、父子刺し違えて相果てた。
隠岐守がこのことを昌幸に注進すると、昌幸は大いに喜んだという。
(羽尾記)

真田昌幸による、海野能登守父子謀殺の逸話である。



228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 09:12:32.73 ID:v3sulBcy
被害多すぎじゃね?

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 09:43:38.19 ID:eEne3kgX
悔いたんじゃなくって喜んだのか...。

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 10:29:10.80 ID:/xsyciHV
汚いさすが真田汚い

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 11:54:15.17 ID:2o0UyTcL
武田氏配下時代の真田信尹って昌幸の家来でも寄騎でもないし色々とおかしいね
まあそもそも当時の名からして違うとかは大目に見るとしてもさ

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 13:29:50.01 ID:MtzFMxeZ
何でこんな策略大好き人間から、忠義一徹の真田幸村が生まれたんですかね

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 18:58:29.92 ID:V30zpDvx
>>232
どこぞの心理学によると子は親をコピーしたような性格か真逆の性格になるらしいぞ。

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 21:50:03.98 ID:liC2NIq+
じゃあ親爺と一緒で家康が嫌いなだけか

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 22:01:59.20 ID:lQFIXTT3
親父も祖父も忠義は貫いてたぞ。

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 22:06:20.94 ID:qd0IuZhm
長篠で死んだ伯父2人も入れて

真田昌幸による沼田城奪取

2015年01月11日 17:07

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/10(土) 06:12:11.24 ID:TvfmqqMH
天正6年(1578年)、上杉景勝は武田勝頼に上州沼田を譲ると約束し、勝頼は真田安房守(昌幸)に
これを受け取らせに向かわした。

しかし、昌幸が沼田に入ろうとすると、沼田城主の沼田平八は使いを以ってこのように申し遣わした

『この城は先祖より代々、我々が保ってきた城であり、簡単にお渡しすることは出来ない。
どうぞお帰りあるように。』

これに昌幸はこう返答した
『沼田の城地をあなた方が代々保ってきたのは事実でしょう。しかしながら私は、武田勝頼の
恩賜によりこちらに罷り越したのです。もしこれにご意見があるのでしたら、沼田を譲ると約束した
上杉景勝に対し訴えるべきです。我々に言うべき事ではありません。

しかし、お渡し下されないのであれば仕方なし。一戦仕らん。』

こうして沼田の所々にて戦闘が行われたが、そのうちに昌幸より沼田城に使者が送られた。

『このように日々攻め合いをするのは詮無いことであり、我ら双方にとって全く利がありません。
ここは曲げて、城をお渡しいただけないでしょうか?
もしお渡し頂ければ、沼洲に新しい城を作り、そこをあなたに差し上げましょう。
その上今の沼田城下の町も、沼洲に引っ越しをさせ、新たに町を作らせましょう。

もし、この事もご承知無いというのなら、近日中に沼田に乱入いたします。
この是非を申し述べていただきたい。』

これに沼田平八は、運の末の悲しさというものだろうか、この提案を誠であると信じてしまい、
拒否すること無く開城した。すると真田昌幸

「虚に乗じるのは疾風の如くせよという!」
そういって開城した沼田城に、息をも尽かさず押しかけ攻め立てた。
これに沼田平八は、痛ましくも先祖伝来の地から没落していったのである。

(羽尾記)


真田昌幸による沼田城奪取についての逸話である。




年積り候故、気根草臥れ候

2014年11月17日 18:55

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 21:22:39.81 ID:e8mJx3vo
割と有名な書状のようだが、ここではまだ出ていないようなので


「追って珍しからず候へども、はり(玻璃)の盆一つ、同じくとうさん(「灯盞」か)二つこれを進じ候、
書状の験までに候、次に左衛門佐慮外ながら御言伝申し入れ候、
『先書に申し上げ候ごとく、爰元(ここもと)永々の御山居、よろづ御不自由、御推量なさるべく候、
我等手前などの儀は、なほ以て大草臥れ者に罷り成り申し候、御察しに過ぐべからず候、以上、』
其の許の様子、久々承はらず候間、(青木)半左衛門相下し候、御息災に候や、承はりたく候、
此の方別儀なく候、御心安かるべく候、但しこの一両年は、年積り候故、気根草臥れ候、
万事此の方の儀、御察しあるべく候、委細は半左衛門申し述ぶべく候間、具にするに能はず候、恐々謹言、 

安房 三月廿五日 昌幸(花押) 豆州 参」

(追って珍しくはありませんが、玻璃の盆一つと、同じく灯盞二つを進上します。
書状のしるしまでに。次に出しぬけですが左衛門佐の言伝を申し入れます。
『前の手紙に申し上げた通り、(昌幸の)ここでの長い御山居、御不自由を想像してください。
私たちや家臣などのことは、なおさら大草臥れ者になってしまっています。
(これについては)心配しすぎないでください。』
そちらの様子を長らく聞いていないので、半左衛門を遣わします。御息災かどうか聞きたく思います。
こちらは特に変わったこともありません。安心してください。ただしこの一両年は年を取ったせいで
気根が草臥れてしまっています。万事こちらのことを察してくださるよう。
委細は半左衛門が申し述べるでしょうから、つぶさには書きません。)


文面から長年の蟄居による昌幸・信繁の疲れ具合が見て取れる、昌幸の晩年に書かれたらしき書状である。
昌幸から信之に物を贈っているのが珍しい気がしたので、個人的にいい話に





わしほどの者はたくさんいるので

2014年02月23日 18:59

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 17:46:07.12 ID:9GhmNLc7
真田安房守(昌幸)を、家老たちは
「とにかく家康公へ御付きになるのが適当です」と諌めた。

安房守はこれを受けて「いやいや、家康公へ付いても、
わしほどの者はたくさんいるので、重宝に思ってはくださらないだろう。

太閤へ付いたならば、重宝に思ってくださるだろう」と言って、
最後には太閤へ属した。そうではあるが、子息伊豆守(信之)を家康へ出した。

――『武功雑記』





上田表からの撤退

2013年02月07日 19:52

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/07(木) 02:09:33.53 ID:66hdrzrX
第一次上田合戦に徳川方は討ち負けていたので遠州へ軍使を送って加勢を願った。
これを聞いた家康公は「早く軍を引き取らせよ」と命令を下した。
けれど上田の城兵が食いついて戦を仕掛けるので、軍を引き揚げることが出来ないでいた。
そこで家康公は、井伊直政松平康重の両名を遣わした。
2人は五千人の軍勢を率いて、天正13年9月13日に上田表に着陣した。
先手の恥辱を晴らそうと思ったのか、二十日余り対陣して度々軍を仕掛けたが
城中からは一人も出てこず取り合わなかった。
そこへ真田昌幸の越後へ加勢を依頼したことと、武田勝頼の舎弟である龍峯という住職を取り立てて
一揆を起こそうと謀っていることを忍びの者から聞いた井伊直政は言った。

「越後から加勢を出すほどなら大軍であろう。
そして一揆が所々で起こるとなると、昌幸は思慮深い大将なので、いかなる謀をしておくかも測り難い。
味方の軍勢は遠く路を隔てているし、その上負け軍にて気疲れもしているし戦ったところで利もないだろう。
家康公からの命令は我々二人に人数を引き揚げて帰るようにとの仰せだ。
このまま戦を企て人数を討たせるなど詮もないことだ」

諸大将に談じ、これを受けた大久保忠世が言った。

「それならば押さえの兵として、我が弟の忠教をこの国に残しておくのが良いであろう」

兄から命じられた忠教は言った。

「某は所領に望みがあって残るのではない。主君の為とあれば兄の命令に従ってここに残りましょうぞ」

忠世は大いに喜んで井伊と松平に告げた。
小諸の城に大久保忠教を入れ置き、申し渡した。

「信州の先鋒衆の諏訪・保科・知久・遠山・下条・大草の面々は居城・居館に籠り大久保平助の催促に従うように」

そして11月、徳川勢はことごとく陣払いし上田表から引き取った。
それに際して段々に備えを立て、井伊直政松平康重の両人が殿としてはるか後ろから引き退いた。
城中から追ってくる相手と一戦する為であった。
これを見て、真田昌幸の家臣が言った。

「徳川勢力は既に人数を引き揚げているが、井伊と松平は僅か四、五百騎の軍勢で先手に離れて引き退いています。
これを食い止めるならば討ちとどめることが出来ましょう」

昌幸はこれを制して言った。

「以前に寄せ手の大久保が軍兵を引き揚げようとしたことが何度かあったが、
我が軍に食い止められて軍を帰すことが出来なかった。
今回はいまだ若年の井伊と松平周防守が来て軍を仕掛けている。
その軍立てを見ると以前の寄せ手などとは大いに違う。
その上、井伊が近藤登之助をはじめ遠州で名のある者や武田より降った者が多くきており
また、井伊も松平周防守も若年でありながら名高い剛の侍である。
今日の退き口の立て方を見ても尋常の者ではない。
彼らを少勢だからと軽はずみに打ち出たらこちらが不覚の負けを取るに違いないわ。
決してこれを追ってはならぬ」

はたして、井伊と松平の両人はやすやすと軍勢を引き揚げ遠州へと帰って行った。

『信州上田軍記』




324 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/02/07(木) 04:55:30.77 ID:OiFpSEIs
上田表

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/07(木) 09:48:01.53 ID:fyvbU8hm
ものは言い様、というか書き様だな

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/08(金) 07:36:28.76 ID:7F6/yvtr
>>323
真田パパは松平周防守を父親の方と勘違いしてないか?


梟雄の晩年

2012年12月15日 19:54

766 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/12/15(土) 07:15:44.09 ID:FQXJtEvs
梟雄の晩年

慶長五年(1600)十二月、関ヶ原合戦ののち次子・信繁と共に九度山に移った真田昌幸は同十六年(1611)に六十五歳で病死するまで、同地で悶々とした日々を送ることとなる。


配流から三年後、慶長八年(1603)に比定される昌幸の書状がある。


…なおなお銀子二匁目を送りいただき、忝なく思います。
度々お手紙を頂き、恐悦の至りであります。
おっしゃるように、それ以来は便りもありません。
こちらは別段変わった事もございませんのでご安心下さい。
内府様(家康)が当夏中に関東へ下向なされる、との噂を聞き及んでおりますから、拙者の事を
本佐州(本多正信)がおそらくご披露に及ばれるでしょう。
もし下山できる事があれば、久々にお目にかかってお話したく存じます。恐惶謹言。

卯之三月十五日 安房
信綱寺座下 昌幸(花押)

(『先公実録』)

これは、昌幸が長篠合戦で討死を遂げた兄・真田信綱の菩提を弔う為に建立した
信綱寺の住職に宛てた手紙であり、現在も同寺に伝わっている。

さて、配流後昌幸は長男・信之や家康と親しかった浅野長政らに働きかけて、
家康に赦免してくれるようにと嘆願を繰り返していたらしい。
事実、この書状には自身の赦免が家康のブレーンである本多正信から家康に
披露されるであろう、との旨が記されており、また昌幸もかなり楽観的な意見を述べているから、
一定以上の成果をあげたようだが、結果は周知の通りであった。

更にこの書状の八年後、慶長十六年(1611)、昌幸の最晩年に比定され、
家臣小山田氏の娘、小宰相に宛てた書状には
「われら、しよくぢのあじも、しかじかおほえ候わず」などと記しており、食欲も衰えてきたのであろう。
その後、「心地はよく候あひだ、御心やすく候へく候」と続き、安心するように述べている。
しかし小康状態も長くは続かず、同年六月四日、かつて信玄に「我が両目の如し」、
秀吉に「表裏比興の者」と評された男の眼光は既に無く、遠く故郷に戻る事を夢見ながら没した。




767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/15(土) 16:14:39.84 ID:O0pXVcS+
関ヶ原で西軍なんかについたばかりに・・・。
でも真田親子の蟄居がなければ真田幸村の活躍も無かったんだよなあ。

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/15(土) 17:25:09.03 ID:6eAZaUB+
真田人気もなかったかもしれないからね

だが晩年の昌幸の事を考えれば赦免してやっても良かったと思うがな

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/15(土) 17:29:10.38 ID:PTjSIrKc
信之は東軍についたんだし、家の生き残りを図るんなら東西両軍について保険をかけておくのが普通だろ
東軍が100%勝つなんてわかるのは後世の人間だけ

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/15(土) 19:08:31.26 ID:mRNRElBD
真田紐ビジネスで一山当てるつもりだったんだよ!

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/15(土) 19:25:13.57 ID:JdZhUVQv
本当に応仁の乱のように長引くと思ってたのかね?

772 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/12/15(土) 19:30:01.28 ID:tCJu2Vox
長引くと思って当てが外れた武将も多いんだろうな

773 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/12/15(土) 19:55:50.73 ID:MLXmjZsX
当てが外れた場合、やはり死を選んだ(ことになった)幸村さんが英雄になるんだよな
葉隠理論は正しい

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/15(土) 23:02:28.16 ID:Rqf1vsgO
大阪夏の陣で大阪方について、戦後命乞いしてなんとか助命された俺の先祖は負け組かよ…

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/15(土) 23:13:33.51 ID:KMS9TfBI
助命されてなかったら今の自分がいないと思いねぇ・・・

うちの祖先は正純さんが飛ばされた後の宇都宮に赴任する途中、
見沼用水の辺りで農民になったらしい

でもなんか眉唾っぽいわなwww

「真田ノ七本槍」

2012年09月03日 20:50

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/03(月) 00:13:27.62 ID:J8naobvn
関ヶ原において徳川秀忠は東山道を進み、途中真田勢が籠る上田城を囲んだ。

緒戦の攻め合いの後、両軍はにらみ合いのような状況になる。
そんな中上田城内に籠っていた百姓たちのうちで用事があって外へ出たがった者たちがいたため
足軽を添えて城下へと出したことがあった。。

この時秀忠の旗本7人がこの一団に目を付けた。

この7人は抜け駆けして百姓足軽達に迫る。
しかしながらに襲われたのは百姓といえども勝戦に馴れたものたちであったため
7人を追い払い、難なく城内へと引き取った。

この7人を「真田ノ七本槍」と号するが
世に真田家の何某と槍を合わせたという話は合っても
この7人と槍を合わせたという者の話を聞かないのは
7人が戦ったのが百姓足軽達だったからである。

『上田軍記』




290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/03(月) 22:26:04.68 ID:2wrUDnfM
>>282
ちょっと待て。その七本槍はつまり
「真田の百姓に追っ払われちゃった、秀忠の七人の旗本」て事?
不名誉やん…。誰でしょうねー?そんなあだ名付けちゃう口の悪い人は。

この為真田家の者たちは勇むこと限りなく

2012年09月02日 20:53

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 23:53:22.33 ID:KntcF8d0
関ヶ原の際上田城に帰着した真田昌幸
家老・士大将・物頭を残らず集めると「此の度秀頼公へ御味方申すに於いては、甲信上三国を給ふべし」という
証文を皆に見せた。

そして昌幸は家臣たちの知行を約束した。
禰津長右衛門には小諸で6万石、矢沢但馬には矢沢の城付きの知行
小山田壱岐には松本に7万石、その他の家老たちにも伊那・高遠などで城付きの知行を与えると申し渡し
丸子三右衛門に諏訪3万石、昌幸の弟金井高勝や昌幸の三男信勝にも信州のうちで知行を分けた。

さらに士大将達は皆知行の倍増し、手柄次第でのさらなる加増を約束
騎馬、徒歩を問わず侍、足軽、中間、小者、百姓、町人といった全領民に対しても
「此の度の働きに付いては、敵の首一つに知行百石を宛与ふべし。偽り有るべからず」と申し渡した。

この為真田家の者たちは勇むこと限りなく、城内の普請を始め城下の外町筋を焼き払った。

『翁物語』
―――――

なお現存する三成から昌幸宛ての書状には「国数を拝領できるだろう」とあるのみで
具体的な国名等は挙げられていません。




264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 00:02:10.93 ID:cw/PlS1L
律儀もののお兄ちゃんがわざわざ残すから

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 00:34:56.49 ID:H7zQZ2qF
>>262
八月五日付けの三成の書状では「小諸、深志、川中島、諏訪」の所領を約束してたね
それと、切り取り次第ともどこかの書状あたりで書かれていたと思う

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 06:02:31.41 ID:0+fxU+xX
真田昌幸にそんな大領渡したら関ヶ原に勝っても政権乗っ取られるだろ?
なんか危ないなw

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 08:20:50.55 ID:UmpYMEEy
真田昌幸は甲信の国人出自のため天下取りとか考えてなさそう
旧武田領を手に入れたところで拡張欲はおしまい
黒田如水のような関が原時に領地子供全てを抵当に入れての博打もやらない


268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 08:23:50.82 ID:UmpYMEEy
但しこれは如水の所領が中央に近かったことと
本因果天下機構(織田家)に組み込まれたため
学ぶ機会があったための差で昌幸が悪いわけではない