今西春房と娘の大蔵姫

2017年03月31日 21:45

森忠政   
708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/30(木) 22:04:28.35 ID:Tm99nypP
今西春房と娘の大蔵姫


摂津今西氏は元を辿れば春日大社の社家出身で摂津国垂水西牧に下向し
現地において荘園経営を行った荘官である。
代々従五位下に叙され室町時代には「南郷目代」と称されたとする。
戦国時代になると周辺の有力国人が台頭して荘園を
脅かすようになったため、今西氏の屋敷の回りの約216m四方は
内外二重の堀で囲まれ、内堀は約2mの深さがあったという。

荘園を守るため姻戚関係を結ぼうと、社家36代目の今西春房
明智光秀の娘・美津を正室にする。
長女の大蔵姫をはじめ子に恵まれたが、本能寺の変が起きてしまう。
山崎の戦いでは弟の春光が明智方で参戦したが敗戦。
当然秀吉の怒りを買い荘園を没収され、目代としての実権を失ってしまった。
以降は医者や神主として家を続けていくことになる。

一方光秀の孫娘にあたる大蔵姫はというと、最初は多田の豪族
山問左近将監に嫁いでいたが、山問氏が没落したため
娘二人を連れて実家に戻っていたらしい。
どういう訳か大蔵姫はその後中川秀成の養女となり、森忠政に再嫁した。
その縁で弟たちの浅田宗英は2700石、今西道春は1500石で召し抱えられ
他の一族からもその後何人も森家に仕えることとなった。

大蔵姫は元和9年9月13日に亡くなったが、忠政に遺言をして自分の衣装と
愛玩の手道具、自身の肖像画を今西氏に送らせたという。
大阪府豊中市にある今西氏の屋敷は現在は国指定の史跡となっており
その西南にある松林寺の墓地には大蔵姫の五輪塔がある。

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以上の話は、主に今西家に伝わる史料(『今西家文書』)から見た話で
森家の史料とは少々食い違っている部分がある。
『森家先代実録』では、大蔵姫は森忠政に嫁いだとは記されていない。
大坂夏の陣で森軍の渡河で活躍した宗英・道春兄弟の姉として紹介されるが
”中川清秀の従弟山問の妻” ”女中頭を務め御内所まで申し上げることが出来た”
という記述があるのみで、表記も大蔵卿となっている。
加えて大蔵姫の肖像画の記述を見ると忠政が従三位とされていたり
遺体が葬られたとする津山の寺がどこか分からないなど不明な部分が多い。
おぉこれは……という訳で悪い話スレに。


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春日周防の徒党の磔

2017年03月25日 20:44

森忠政   
698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 00:05:44.43 ID:Ko4xD5Gw
春日周防の徒党の磔


ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-357.html
↑の記事の2つ目の話の詳しい版になります。

天正壬午の乱のときに森長可を裏切ってひどい目にあった春日周防
(参照 ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5950.html)
慶長5年3月に弟の忠政が海津城に入った頃には病死していたので
(葬儀で)親類が一か所に集まっており磔に懸けることになった。

そのとき彼の地の風説では、信州は人がいない国なので
徒党の者を残らず成敗してしまっては亡所になるだろう。
ならば(忠政が)見回りに来る前に、磔に懸けてご覧に入れ
御成敗したと判断してお通りした後で悉く命を助けようと
下劣の者共が(春日周防の徒党に)申し做した。

そういうことならば一日磔に懸けられているのもどうかと
日用を雇って名代として磔に懸かってもらうことにした。
米壱石で懸かる者が多く、あるいは七、八斗で懸かる者もいたが
少しの内なのだからと値切る者がいたり、壱石出すくらいなら
自分で懸かろうという者が、金持ちの中にもいたそうだ。

海津城はその頃松城といったが、乾の方角にある鳥居坂から
なしか池まで二十町ばかりに磔を懸け並べた。
そこに先走りの者が、忠政様の追付きお通りと参るやいなや
大身の槍を持って片っ端から突いて通った。
そのとき磔木の上から口々に日用なりと断る声があったという。
百々瀬加兵衛、三溝三右衛門[両人共に信州のあのあたりの地侍の家
だったが森家へ召し出された]がこの話を度々承ったそうだ。

そのときの罪人の内6才の子供を一人、名は又右衛門と申す者を
お竹様(忠政側室・香々美殿)が引き取り養われた。
後に大膳重政様(忠政庶長子・母お竹)の草履取りとして仕えたが
元和4年に大膳様が御逝去の後、作州久米南条郡中嶋村へ引っ込んだ。
百姓をしていたそうだが、同郡北村の者と公事取詰になり
寛永16年6月3日、46才で一家残らず長法寺河原で御成敗に逢ったのは
天罪奇妙な事なのでここにこのことを記す。


――『森家伝記』


702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 22:47:30.61 ID:gmJK76VS
>>698
この「松代物語」でも春日皆殺しについて触れられてるね
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4100.html
ところで高坂信達(春日周防)って病死って書いてるけど、真田昌幸のせいで上杉裏切ろうとして殺されたんじゃ
(真田丸では調略がバレたのをなぜか昌幸の策略にして主人公側を悪どく書いてたな)

森忠政の水理

2017年01月08日 16:12

森忠政   
494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/08(日) 14:57:57.93 ID:IDAI/Glu
森忠政の水理


森忠政は美濃国可児郡金山城に生まれ、慶長5年に信濃国川中島城に移ったが
どちらの場所も川に近いところだったので、水理には細心の注意を払っていた。

美作に初めて入ったとき、津山川(現:吉井川)の水の勢いを見て
日照りの年でも涸れないだろうと喜ぶと共に、排水にも大いに配慮した。
津山への築城に決まってからは、市街に三十六の町を置く計画で区画を定め
市街の南方、津山川の沿岸には悉く石垣を設けて十箇所余りに水刎を築いた。

ttp://www.civil.pref.okayama.jp/img/hyakusen/spot/059-03.jpg
059-03.jpg
(画像手前の構造物が今も現役の吉井川の水刎)

洪水に備え津山川の川幅は、水上の村落や山野の広狭を考えて
上流一里に対し、幅員を六間以上八間までに定めた。
津山川の水源、西々條郡上齋原村までは七里十一町の行程だったが
伯耆国の境までの川路が屈曲しているので十里余りあるものとみなし
津山町においては、岸に達する川幅が最も狭い八出村覗山下までの
距離を八十二間とした。
(津山)市中を南北に横断する宮川の源流の上横野村までは
二里九町余りだったが、川路屈曲から三里余りとし宮川大橋を二十六間とした。
翁川は水源まで一里以内だったが、市の西北部を取り囲むように流れているので
翁橋を八間一尺に定めた。

森氏入封後この排水の施策が行われない内は、慶長12年と17年の二度の洪水で
市中が浸水し、いくらか人家も流出したことは先代実録にも記載があるが
その後市内の備えが全て出来た後は、天明5年までの170年あまりにわたり
しばしば洪水があって、この施策のない沿岸で堤防が決壊したり浸水しても
津山市中では水災がなかったのは忠政の余沢である。


――『美作中古紀事』



伴惟安、妙向尼と森忠政を救い出す

2016年11月02日 17:11

森忠政   
283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/02(水) 16:21:59.71 ID:e8s4vPn2
伴惟安妙向尼森忠政を救い出す


天正十年六月二日、京都に於いて信長・信忠親子と蘭丸、坊丸、力丸
伴氏の伴正林伴太郎左衛門等が討死したことは三日の辰刻には甲賀の伴惟安にも伝わった。

そのとき長可は川中島にいて、母の妙向尼と千丸(忠政)は人質のために安土にいたが
惟安は以前から可成、長可にとりわけ目をかけられていたので
「今お二人はさぞ途方に暮れていられるだろう」と一族で話し合い
四日に野越の間道を越え安土へ行き、妙向尼と千丸をお守りして五日に甲賀へ連れ帰り
二人をすぐに自分の家に移し、伴氏一党で番をした。

十三歳の千丸はどじょうすくいとカエル釣りが好きなので伴家の子供達は日々お供していた。
あるとき「お千殿、いざカエル釣りに行きましょう」と子供達が言うと親どもが来て
「大名のお子様だが、訳あって少しこちらにいらっしゃる間は
お千様とお呼びし、何事も逆らわずお心のままにするのです」
と堅く制したという。

長可が信州を引き払って金山に帰ってくると、九月十一日に甲賀に迎えを送ったが
伴一党は守山武佐筋に朝倉の残党がいる可能性を危惧し、伊勢街道をお供して
勢州坂下で妙向尼と千丸を迎えの金山の者に渡した。

この忠義により天正十二年の暮れ(長可が討死し忠政が家督を継いだ頃)に甲賀に迎えが送られ
十三年の春、伴惟安と惟利の親子は初めて森家へ出仕することになり
他の残った伴党もこの親子の口利きで召し出されることになったという。


――『森家先代実録』



徳守神社と森忠政の奉納鉄盾

2016年10月18日 18:39

森忠政   
252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/18(火) 17:17:10.34 ID:aUAL/OcM
徳守神社と森忠政の奉納鉄盾


現在、大阪歴史博物館で行われている特別展『真田丸』に展示されている"鉄盾"は
森忠政が大坂の陣後に徳守神社に奉納したとされ、津山市の重要文化財に指定されている。

ttp://stat.ameba.jp/user_images/20160920/19/tokumorijinjya/7a/b5/j/o2336175213753264122.jpg
o2336175213753264122[1]


盾一つの大きさは縦91cm横44cmで15kgの重さがあり、一対で30kg。
ところどころに深さの異なるくぼみや、銃弾が当たって割れたような跡がある。

森家の記録には直接この鉄盾の記載はないものの、
『駿府記』等には大坂の陣のときに家康が備後から鍛冶を呼んで鉄盾を作らせ
城内からの銃撃を竹束で防いでいた諸大名に10張ずつ配ったという記述があり
そのときに使った物ではないかと推定されている。

徳守神社では津山城完成400周年を記念し、この鉄盾のレプリカを作成する。
10月23日に行われる徳守大祭には忠政が徳守神社を造営したときの時代背景を伝えるため
今年から従来の神事に加え津山城鉄砲隊と備州岡山城鉄砲隊の発砲演武などを行い
鉄盾のレプリカもその際に使用される予定。



253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/18(火) 17:35:55.52 ID:PWWTSBp7
>>252
一応防げたのか

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/18(火) 17:39:34.54 ID:gq55S696
鬼武蔵の眉間よりは頑丈だったということか

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/18(火) 20:23:28.97 ID:YdJlLrny
古田織部のハゲ頭と組み合わせればこうかはばつぐんだ!

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/18(火) 21:51:26.62 ID:9mEXkEVr
ソーラレイ+重装甲か

松平の家がある限り

2016年08月12日 18:56

森忠政   
72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/12(金) 13:27:31.42 ID:s4KcRqqy
松平の家がある限り


慶長三年の冬、石田三成が家康を暗殺しようとしているという噂があり、
その警戒のために伏見向嶋の家康の屋敷に諸大名が毎日出入りしていた。
森忠政細川忠興と示し合わせ、御供には具足と食物を挟箱に入れて持ってくるように言って
家康邸に三日三晩一緒に詰めて(自分の)屋敷には帰らなかった。

夜中に家康公は井伊直政に手燭を持たせ(忠政と忠興を書院に呼び出して)お出ましになると
「両人の懇志は言葉に言い尽くせないほどです。大坂方には詮なきことを企んでいる者がいること
聞き及んでいますが、もし万一そのような者が(本当に)いたときは
大坂方面に信頼できる者を配置しているので大坂勢が出陣することがあればすぐに注進があるでしょう」

「そうなればこの屋敷にいても守るのは難しいので大仏へ閉じこもり防戦をする覚悟です。
両人の衆もそのときは大仏で戦ってもらうことになるので自分の屋敷へ帰って一報を待って下さい。
必ず使者が参ります。いずれの衆(他の諸大名)にもこのことは伝えませんでしたが
両人の深切は他と異なるので内々に申し合わせておこうと思いました」

そうして家康公は御両将(忠政・忠興)の御手を一度にお握りになると
「松平の家がある限り末々まで今回の心遣いを忘れません」と仰せられたと言う。

――『森家先代実録』



森忠政の養母大野木殿のこと

2016年06月26日 17:57

森忠政   
884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 16:51:28.88 ID:V5zi0zXd
森忠政の養母大野木殿のこと

天正4年森忠政が7歳のとき、塙直政の養子に行く取り決めが交わされたことがあった。
塙直政は妙向尼(忠政母)の母の兄弟で、忠政からみれば大叔父に当たる人物である。
直政には既に男子がいたものの、信長から山城南部と大和・河内の守護を任せられ、
柴田勝家の娘(養女という説も)の大野木殿を後妻に迎えるなど当時の織田家では権勢を振るっており、
森家にいては"家督を継ぐ可能性はほぼゼロの六男坊"の忠政にとっては悪くない話であった。

ところが塙直政はその年の天王寺の戦いで討死し、責任を負わされる形で塙一族は没落。
大野木殿も勝家の家臣の原元次に再嫁し、当然ながら養子の件は白紙になってしまった。

その後大野木殿は元次との間に男女一人ずつもうけたものの、
天正11年に元次は勝家と共に賤ヶ岳の戦いで戦死したので、尾張の大野村に隠れ住んでいた。
しかし天正18年の小田原征伐のとき、それを聞きつけて来た秀吉により
「勝家の孫だから」という理由で12歳になっていた息子を殺されてしまい、以後は細々と暮らした。

~それから21年後~

慶長16年春42才の忠政は、名古屋城普請をしているとふと大野木殿のことを思い出したらしい。
養母になるはずだった彼女の居所を突き止めると、家臣を迎えにやり津山へ呼び寄せて内山下の屋敷に住まわせた。
忠政は大野木殿のことを「御母公様」と呼び慕い、実の母親のように扱ったという。

寛永4年に大野木殿が亡くなると忠政は遺言に従い法然上人ゆかりの誕生寺に葬送し、御霊屋を建立した。
御霊屋は後世に観音堂に転用されたものの、現在も残る。

――『森家先代実録』



885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 17:10:02.82 ID:vj5SNGYk
た…忠政にいい話だと…

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 19:27:35.39 ID:3vlpcHIf
それなのにラスボスは相変わらず

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 23:28:09.26 ID:V5Jo8c+e
小田原攻めの時には、たしか遠江時代のいじめの報復を考えて相手を探索させてなかったっけ?

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/26(日) 21:29:56.93 ID:KbY3yhVd
>>884
川中島時代にひどい事したよね
自業自得かもしれんけど

智勝院殿には父母が四人いる

2016年06月17日 17:57

森忠政   
856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 16:22:25.49 ID:kp3uQH50
智勝院殿(森忠政正室・お岩)には父母が四人いる。
実父:名護屋因幡守 実母:養雲院
養父:大和大納言(豊臣秀長)  養母:智雲院

太閤御台政所(高台院)の父は尾州浅井庄の浅野与七郎で、(高台院は)初名を祢々といい
養雲院殿の筆子(←原文ママ)だったので、当時木下藤吉郎と名乗っていた太閤との縁組の際
因幡守は与七郎へ「藤吉は唯人ではないので(嫁に)やりなさい」と差図した。

また(因幡守は)信長公にも木下殿を執り成され少々便宜を図られたので
(因幡守が亡くなった後)養雲院殿は後家料として摂津国の尾坂田に知行を与えられ
京都四条の屋敷で、余生は結構自由な暮らしでいらっしゃった。
養雲院殿死後は(世話をしていた者たちを)忠政君は召し抱えられたということだ。

――『森家先代実録』




美作国万灯会

2016年06月05日 21:58

森忠政   
797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/05(日) 15:25:59.13 ID:pZdal2K2
美作国万灯会

森家菩提寺の津山市本源寺では7月2日18時から21時まで、333年ぶり77回目の万灯会が行われる。

元は江戸時代に森忠政の正室お岩が死去した1607(慶長12)年の初盆に、
城下の町民が供養するために津山川(現:吉井川)の向河原で灯籠を灯したのが始まりで、
忠政死後も2人を偲んで1683(天和3)年まで毎年続けられた。(森家先代実録)

当日は出雲街道から本源寺までの道の両側と御霊屋、裏庭に竹灯籠が千基ほど並べられ、
精進カレー、喫茶、プリン、和菓子セットなどの出店や演奏会もある予定。



798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/05(日) 16:54:12.21 ID:h7wzGMo4
お兄ちゃんのプリン食べたら怖い怖いぞ~

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/05(日) 18:59:03.60 ID:X3hQG0Qm
町民に慕われるようなことしたっけ

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/05(日) 19:07:35.23 ID:r8ReCCN+
>>799
慕わない領民は…

森忠政、幕府からの下賜金で

2014年06月25日 19:23

森忠政   
214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 21:04:07.32 ID:tSLvIleb
大阪冬の陣の時、幕府より諸大名に白銀を分け下された。
加賀前田家、仙台伊達家、薩摩島津家などは別格の大名なので、
台徳院殿(徳川秀忠)より白銀300枚、東照宮(徳川家康)より200枚、合計500枚づつ下された。
森美作守(忠政)などの大名には、200枚と100枚、合計300枚を下された。

この時、森忠政は白銀を下げ渡された即日に、京の町人より借りた銀を返却した。これに人々は
深く感じ入ったそうである。
(老人雑話)

森忠政、幕府からの下賜金で即座に借金返済、というお話し。





215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 22:38:45.52 ID:KUyAud79
>>214
「幕府」って原文だとどうなってんの

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/25(水) 21:53:46.24 ID:uqVMZxp+
>>215
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0026-11005&IMG_SIZE=&IMG_NO=42
該当箇所は見つけたけど、文字の解読に自信がないから誰かに任せた

217 名前:215[sage] 投稿日:2014/06/26(木) 02:54:49.60 ID:7lrUXono
これの233ページの最初の話っぽい
ttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925907

原文だと主語省略だ

海津を待城と名付けた理由

2013年12月16日 19:16

森忠政   
34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/16(月) 11:33:41.34 ID:GsmB4bPw
慶長四年より森右近(忠政)殿が入国され川中島四郡を領された。この時から
海津を待城と名付けたと言う。

その理由は、森庄蔵(長可)殿が在城されていた時に、信長公が明智光秀の為
に討たれ庄蔵が川中島を捨て退いた時の事。川中島の百姓どもは庄蔵を討つ
べしと猿ヶ馬場峠まで追いまくった。

庄蔵は引き返して戦った。しかし山中の百姓どもが結託して駆けつけたので
追い返され庄蔵は討死されたと言う。

(海津城主次第)

なぜか鬼武蔵が逃走中に討死にした事になっている逸話

この後に忠政が待城と名付けたり兄の仇として住民を磔にかける逸話に繋がり
ますが、蛇足なのでカット。





阿彌陀寺と森美作守殿御家

2013年12月05日 19:00

森忠政   
967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/05(木) 04:30:45.25 ID:XPYGYYA1
森美作守(忠政)殿の御家(津山藩)が御繁昌の間は、毎年6月2日に御使者が阿彌陀寺に遣わされ、
御向月の御法事を毎年執り行っていた。年中の御茶湯料も少々づつ送り遣わされていた。

しかし美作守殿の御家がお取り潰し(元禄10年(1697年))になった後は、これも相止み、
無縁と罷りなってしまった。
それでも毎年6月2日の御向月の御法事は、搭頭にうち寄り、現在においても懈怠無く執り行われている。

信長公百年忌の節は、森美作守殿の御家が御繁昌であったので、美作守殿より御法事として
千部読経の御執行が有った。またご由緒の方よりの御使者、御香典等もあった。

(阿彌陀寺由緖之記)

阿彌陀寺が、忠政の森家と繋がりがあったらしい、というお話






津山城普請奉行襲撃事件

2012年12月03日 20:08

森忠政   
598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 19:03:32.14 ID:wM6SK17W
津山城普請奉行襲撃事件


慶長13年(1608年)2月、森忠政が統治する美作でのこと。

津山城普請奉行の一人である薗四郎右衛門が今村与一右衛門の屋敷の前を通りかかったところ、
かねてより遺恨のある足軽数人に襲撃を受けるという事件が起きた。

しかしながらこの四郎右衛門も只の奉行ではない。殺されるどころか敵相手に大立ち回りを演じて
ついには足軽たちを撃退したのである。
主君の森忠政はこれを聞いて四郎右衛門の首尾よきを賞して50石を加増した後、
足軽たちを一人残らず処刑した。
(森家先代実録)




599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 19:09:38.62 ID:NAmIn8cp
さすが森家の裁定は気持ちがいいね!

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 19:12:34.52 ID:dkwSjn/Q
津山城の建築関係で人死んだ逸話何個目だよ・・・

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 19:16:03.93 ID:p39R6qdU
久しぶりに森家来たと思ったらこれだよ・・・

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 19:20:32.42 ID:YUwcE7Qz
津山呪われてるんじゃねえの?

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 19:23:40.81 ID:6xDbdqAk
32名そろわんと駄目だ 津山は

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 19:47:04.12 ID:VPBbHfJr
毛利・尼子「俺たち関係ないからね」

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 19:55:14.52 ID:ejwx7XgR
森家の悪い話の安定感

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 20:54:28.56 ID:/LHDYjR+
森忠政の、こういう遺恨を残さないやり方はある意味正しいのかも知れないな

今川氏真みたいに、讒言を受けて家臣を誅殺したものの後で罪を撤回し、
讒言した者を罰するけど命は助ける、みたいなことをやってると遺恨が
深まる一方になる

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 21:03:12.35 ID:71bXYi1H
ヒャッハー!森家の悪い話だー!

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 21:16:18.37 ID:nxs0sbJa
つーか、奉行を足軽が襲う時点で悪い話だろ。まともな武士を最下級の兵士が道端で襲ってるんだぞ?
よっぽどひどい恨みを買ったんだろうけど、何やらかしたんだ?

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 21:32:16.43 ID:p6ggS3XC
数人がかりでたった一人が仕留められない役立たずなんぞいらぬわぁっ!
・・・ていう幻聴が聞こえたorz

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 21:36:55.60 ID:WHuJOZkt
ことの良し悪しなんかどうでもいい、強いほうを助けろ

って声が聞こえたような…

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 23:32:58.93 ID:TTmp3Ail
森家はいつも楽しそうだなぁ。

>>608
この家中のことだから、逆恨みという可能性もあると思うw

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/03(月) 02:06:10.41 ID:6mzFXQpn
名古屋山三郎といいコレといい、森家中は内ゲバも多いのか?

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/03(月) 06:42:39.38 ID:B4nuTJbp
面白いのはこういう不祥事が森可政呼んだら殆どなくなること

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/03(月) 10:39:53.93 ID:WuGekULZ
先代だったら一緒になって暴れたんだろな。

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/03(月) 10:44:40.22 ID:S1WTMBWD
>>613
森苛政 草抜きすれば 治安良し

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/03(月) 12:37:58.85 ID:iWZv2K9t
安定な森家だなw

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/03(月) 12:41:42.75 ID:+CZVJZi6
ある意味薫陶が行き届いてるってことですかなw

右近検地 ~美作編~

2011年12月27日 22:00

森忠政   
509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 19:32:24.46 ID:VrNNahAn
右近検地 ~美作編~


慶長8年(1603年)、美作一国18万6500石に森忠政が入り、その翌年の慶長9年(1604年)には森家による
検地が行われることになった。

前に検地が行われたのは宇喜多秀家の統治にまで遡るが、その時の検地は実は
朝鮮出兵の真っ最中に行われた事もあって、
面倒事を避けるために村方で作った帳面を提出させて不審な点があれば実地にあたったという
徹底した検地とは呼べない代物であった。

と、いう事情もあってまだまだ在地の武士と土地の癒着が断ち切れているとは言い難いこの美作でも
ようやく本格的な検地が行われる事になったのだ。
森忠政も信濃時代の失敗(参照:http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2607.html)の事がある。
今回は慎重に検地を実施・・・


18万6500石→24万2500石


・・・どうやらあまり懲りてなかったようである。
この検地は石高の激増以上に田畑の実収高と食い違う所が多く、苦情が殺到したので
渋々やり直したがそれでも苦情が多かった。
その為、2代目藩主森長継の時代には検地による田畑の位付けを捨てて、実際の出来高に応じて
年貢を徴収する「段免」方式に切り替えられたのであった。



510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 19:56:32.06 ID:96Ausont
噂をすれば…

ぶれない男だな、悪い意味で

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 22:16:04.34 ID:q1XTyam5
ラフォーレさん…

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 02:11:08.99 ID:w0dVdEVL
忠政の実績はよく見ると商工関係にかなり偏ってる。

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 07:00:22.58 ID:PAxZjI91
自分を高く売ることにたけた男だからな、商売への親和性高かったんだろう


松乃露ものがたり

2011年11月11日 22:02

森忠政   
484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 00:00:33.08 ID:NFQgJ0Da
岩城御膳っておいしそうだなw

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 00:12:22.22 ID:r/ygYmPP
おいしそうと云えば、信玄餅旨すぎて大好きなんだが
ああいう戦国武将由来のお菓子ってどれくらいあるんだろうね

486 名前:480[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 00:23:00.86 ID:rOejoffy
>>484
あっ、しまったw

>>485
謙信の笹団子、政宗のずんだ(信憑性薄い)とか
まとめスレに「戦国、お菓子関係話!」があるよ

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 00:25:23.98 ID:r/ygYmPP
>>486
あ、まとめにあったのか ありがとう
如水の「筑紫もち」がどうみても信玄餅だった

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 01:12:32.81 ID:uPDXiV4u
信玄餅って、昭和のお菓子で甲斐の国だから信玄って名前を付けたとかそんなんだっけ?
安倍川餅の方がそれっぽい名前の付き方だったような・・・

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 01:13:45.00 ID:ccvf/tog
安倍川餅は江戸時代から家康由来とされていたりするね。実際はともかくw



488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 00:29:29.04 ID:c8LmnpeK
>>485
【松乃露ものがたり】
今から400年以上も昔、江戸時代のはじめごろ、どこからともなくやってきて津山に住みついた菓子職人が
「唐の珍菓」をつくりました。
その菓子はとても美味しく、噂はたちまち城下に広まり、津山城内、そして藩主・森忠政公の
耳にも入ることとなりました。早速にその菓子職人を呼び寄せて、噂の珍菓を作らせました。
森忠政公はその珍菓をおおいに気に入り、愛用の銘菓としました。この銘菓はお城の
松の常緑に映える朝露のよう・・ということから「松乃露」と名付けられ、
「茶の湯にはきっとこの菓子を用意するように」と家臣に言いつけ、城内の茶会に必ず出されるまでになりました。
しかしその後、菓子職人は津山の町を去ってしまい、銘菓「松乃露」だけが残されたのです。


・・・という言い伝えの元に再現されたお菓子がある
ttp://item.rakuten.co.jp/kasyoukuraya/c/0000000121/




489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 00:39:10.69 ID:20WuvwWR
戦国ではないが大名由来の有名菓子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E5%B7%BB

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 01:07:19.08 ID:rOejoffy
おいしそうな話題がちらほら

>>489
吉良さんも素直に賄賂要求しとけばなぁw
吉良邸のあった両国には吉良さんに因んだ吉良まんじゅうの店があったり
忠臣蔵のシーズンには吉良祭・義士祭があって、静かな街が和やかに賑わうのですよ

森家屋敷の怪女

2011年10月07日 22:00

森忠政   
212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/07(金) 15:05:48.72 ID:UVoyDIct
森家屋敷の怪女

ある時森美作守忠政殿が近習の者を集めて夜話をなされた時の事、
髪を垂らした女の二人連れが屋敷のあちらこちらを歩き回る影が壁に写って確かに見えたそうな。
美作守殿は不思議に思い、侍共に屋敷をくまなく探させたがそれらしい者はいなかった。ただ影のみが
あちらこちらに歩き回るのが人々の目に見えたそうな
それから一年ほどして、美作守殿は死去なさったとの事だ。




213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/07(金) 16:04:32.26 ID:/3eNJ2ca
おい幽霊、祟る相手間違ってるぞ

214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/07(金) 18:55:06.95 ID:CkDs/NNE
先代に祟って斬殺されたら大変だろ

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/07(金) 19:48:51.64 ID:VgxB3Yc1
忠政って美作守じゃなくねw

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/07(金) 19:49:08.80 ID:1sChpJMM
まー忠政も磔で沢山粛清してるから怨まれててもしょうがない

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/08(土) 09:34:56.93 ID:24Iqr3Oz
幽霊「祟れるなら誰でもよかった。いまでは反省してない」

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/08(土) 12:36:18.07 ID:P7nTddbC
本当は鬼武蔵んとこに行きたかったけど、あれは怖いから…

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/08(土) 17:54:59.64 ID:bKo91DdR
>>217
幽霊が幽斎に見えて
あれ、幽斎さんて死後誰か祟ったっけ? て思っちゃった

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/08(土) 19:48:20.72 ID:Hh9fEz7l
鬼武蔵はとっくに成仏して気持ち良くなってそう

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/08(土) 19:57:36.83 ID:bKo91DdR
ヘブン状態か

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/08(土) 20:03:35.62 ID:BiphwJWz
地獄で鬼と一緒に他の亡者を折檻する鬼武蔵の図、と。

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/08(土) 20:46:43.91 ID:W1BoGxlS
あまりにもドSすぎるでしょう…

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/08(土) 21:44:09.15 ID:A7Ttqns1
むしろ閻魔大王を成敗して後釜に座ってそうだ


225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/08(土) 22:42:49.18 ID:W1BoGxlS
それ前田さんの仕事

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/09(日) 00:19:19.45 ID:PcOX9E56
>>225
無駄に人を斬ったことはないって死ぬ前に言ったからなあ

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/09(日) 02:42:46.75 ID:6AWhGhxd
焼き殺したり、釜で茹でたりはしてるんだぜ

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/09(日) 08:01:57.20 ID:AUIDzGrA
閻魔大王後継者決定トーナメント

229 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/09(日) 08:58:43.58 ID:qftO/ZMC
>>218-228旧ソ連圏のアネクドート(政治小話)を改変

森長可が討死して冥府に向かう途中、阿弥陀如来に行き逢った。
「俺も極楽とやらに行けるのか?」
「そなたは無闇に人を殺し過ぎた。残念乍ら地獄へ堕ちるしかない」

暫くすると、地獄の鬼たちが西方浄土へ押し寄せてきた。
「どうしたのです?」阿弥陀如来が聞くと、鬼たちはこう答えた。

「武蔵守に殺されそうになったので、逃散して参りました。お助け下さい」

信じない男

2010年06月22日 00:00

森忠政   
518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/21(月) 21:19:12 ID:exf9XOVU
信じない男


慶長8年(1603年)津山藩主、森忠政は新たに藩政の要となる城を鶴山の地に建てることを決めた。(後の津山城)
当時、鶴山には鶴山城がありそれを中心に神社・仏閣や集落などが既に形成されていたのだが忠政は
そんな辺鄙な城下町ではなく
新たに大規模な城郭都市を形成することを計画していたので神社・仏閣は移転させ、集落の住民も山下に移住させた。

そんな移転された神社の一つが『鶴山八幡宮』である。
この神社は名前通り鶴山に建っていたから鶴山八幡宮だったのだが近くにある覗山という場所に移されてしまった。

それから5年後の慶長13年(1608年)、忠政は鶴山八幡宮大祭の前日に、宴を催した。そしてその夜、忠政が
眠ったあとの事。
「鶴山八幡宮の神」を名乗る翁が忠政の枕元に立ってこう言った。


翁「そなたの信仰の厚さは分かった。しかしながら今、この社が立っている場所は以前の地より他群である。
  すみやかに前いた郡の西北の地に遷宮せよ。必ず国家の鎮護となるであろう。」


翌日、この夢を見た忠政は内容をしっかりと覚えていたが「最近は臓物の具合が悪いのでおかしな夢を見た」と、
とても現実的な結論を出しスルーした。
そしてその日の夜も同じ夢を見せられたが、これもまた体調のせいにして無視をした。しかしながらまた
次の日の夜にも神が現れ同じ夢を見せてきた。
これで3夜連続で同じ夢を見せられたことになる・・・ようやく忠政もこの夢の内容が気になってきたので
鶴山八幡宮の神主と家臣の伴惟利に郡内で良い移転先を探すように命じた。

神主は神に良き移転先について八幡宮の神に伺いをたてると「城の乾(西北)、十六夜山がいい」
との神託が下ったので伴はそれを結果として報告した。
驚いたのは忠政である。夢の内容などもちろん誰にも口外していないが、まさにお告げ通りの結果が出たのだ。

忠政は、即刻家臣に命じて十六夜山に社殿を造営して、久米郡の覗山より返遷し、神器を奉納した。
こうして現在の位置に鶴山八幡宮は移ったのである。



520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/21(月) 22:41:16 ID:0hqnizAe
>>518
忠政の枕元に立ってたのは八幡宮の神主とかいうオチはないのか

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/21(月) 22:53:07 ID:s76c9VdC
>>520
八幡宮の神主はどんなすご腕忍者だよw

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/22(火) 10:42:35 ID:kWT/FMYl
>>520
それ切られるから

共犯者?

2010年05月05日 00:03

森忠政   
528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/03(月) 23:55:27 ID:5wNoMg3v
共犯者?

ある日、徳川秀忠のもとに諸将が集まり武辺話に興が湧いた際、ひときわ良く語る男に井伊掃部頭が質問した。

「森右近どのは先年上田で、真田と槍を合わせて逃げたというが、撤退戦でのご武功などあったのですか?」
「・・・・・・・・」
森右近大夫忠政は、黙して語らない。

「・・・・その辺どうだったんですかね、秀忠さま?」
「・・・・・・・・」
忠政について語られるどころか、秀忠もあらぬ方を見て黙り込んでしまった。





慶長8年(1603)、忠政は「自領の一揆を鎮定した」という謎の名目により、津山18万6千石に栄転した。




529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/04(火) 00:13:03 ID:YZCiAKdB
実は出撃すらしてねぇからなぁw

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/04(火) 00:17:54 ID:PdfAARED
自領の一揆って右近検地の一揆ならマッチポンプじゃないかw

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/04(火) 00:32:23 ID:MozPGqwX
実際に苦労してたのは井戸さんだしねぇ↓

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2530.html

あの秀忠にしてこの甘さ
秀忠と忠政の間に何があったというのか…

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/04(火) 14:25:45 ID:FMAuUb+V
>>531
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3852.html
この話からすると秀忠は突っ込むタイプのようだから
危ないところを助けられたとかかな?「天下人が後先考えずに突っ込むってどうよ。」で隠匿されたとか。

森忠政と清巌宗渭

2010年01月20日 00:09

森忠政   
158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/19(火) 06:04:05 ID:K2X3M93Q
森忠政と清巌宗渭

書画、茶道の達人として知られる清巌宗渭(せいがんそうい)は
幼い頃に預けられ、養雲院という女性が養母となって育てた。
清巌宗渭が五歳の頃になると、兄の宗園(名古屋山三郎)が
母の元に顔を出したが、暫くの時が経つと還俗してしまい
姉達も森家家臣のもとに嫁ぐ事が決まった。

森忠政も義母養雲院に、何度か森家へ住居を移すよう誘い
清巌宗渭も幼いながらに実子が4人もいる森家に母は行き
自分は小坊主となり、一人で生活していかなければならないのだと思っていた。
清巌宗渭は母に捨てられるものだと思っていたが母養雲院は
女手一人で京に残って育ててくれた。

いつか立派になって恩返しがしたいと9歳で兄宗園と同じ
玉甫紹(細川忠興の伯父)に参禅し、苦しい修行を乗り越え
15歳の立派な少年に育ったが、兄が森家でとんでもない死に方をし
当主である我が子を失った母は病で伏せ気味になってしまった。

森家中では親類だけで小規模の葬儀が行われたが、せめて母に
実子であり嫡男の遺骨や遺品を渡したかった清巌宗渭は山三郎が
師である玉甫和尚と生前に墓所を決めていたのを知っていた上で、
思いきって全く面識のない忠政室の姉を通して森忠政に
「同じ師に参じ、同じ母に育てられた兄をこちらで預からせ頂きたい」と
書状を送ると「この度の御不幸は云々...こちらから使者を使って送らせる」
とえらく丁寧な文が帰って来た。

義母への義理立てもあっただろうが、山三郎の嫡男が森家に居るにも関わらず
配慮してくれた事に感謝した清巌宗渭はのちに大徳寺の住職となると
高桐院に山三郎の墓を移し、忠政が亡くなり大徳寺三玄院で忠政が眠りにつくと、
二人の命日には欠かさず訪れ、墓を綺麗に磨き供養をしたようだ。

伝承のようなものなので本当に忠政なのか疑問だがこれくらいは優しかったんだろうか





真の後継者は

2010年01月19日 00:03

森忠政   
813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/18(月) 17:06:54 ID:v9OsxzXn
「真の後継者は」


森忠政とその子忠広・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-444.html

寛永10年(1633年)森忠政が嫡子、森忠広が色々あって30歳の若さでこの世を去る。(上記逸話参照)
これにより忠政の実子はみな親に先立って亡くなった事になり、忠政は
新たな後継者を決める事になった。

忠政「やはり関家の兵助かなぁ・・・」

まず最初に頭に浮かんだのが関兵助(当時24歳)。兵助の父の関成次は
忠政の娘を娶っており兵助は忠政の外孫にあたる。
更に成次の母も森可成の娘であり兵助は森家の血を色濃く引き継いでいる。
それになかなか聡明な男であった。
そういう訳で後継者を関家の兵助に定めた忠政は早速、津山に兵助を
江戸へと呼ぶ書状を送った・・・のだが

忠政(いや・・・待てよ。果たして本当に兵助でいいのか?)

書状を出した後で忠政はにわかに変節する。
というのも忠広は徳川秀忠の養女を娶ったいわば将軍家の
準一門だったのであるがその後任が家臣筋の関家というのも如何なものかと思ったのだ。
やはり未練があったのか忠政は家格的に考えてもっと良い後継者を考えた。

忠政「本多家の唐之助!そうだあの子にしよう。」

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/18(月) 17:07:50 ID:v9OsxzXn
そこで思いついたのが忠政の娘婿である本多忠義(忠勝の孫)の子である唐之助であった。
ただ当時2歳の子供である。
しかしながら思いついたら即行動、忠政はすぐに本多家の屋敷に行くと交渉に乗り出した。
実はこの当時はまだ忠義と忠政の娘の子は唐之助一人しか居ないので
本多家としても思うところあっただろうが忠政は無理やり話を通してしまった。
こうして唐之助の森家への養子縁組の話が決まったのである。しかしながら忠政は
兵助を江戸に呼び出したという事はすっかり忘れていた。

忠政「『兵助は津山に帰れ』・・・と。これでよし」

唐之助に継がせると決めたので兵助は津山に戻るように書状を出した・・・のだが。

兵助「ただいま到着しましたぞ」
忠政「え・・・?手紙は?」
兵助「届きましたが納得行きませぬので処断覚悟で参りました!」

兵助としてもあそこで引き返せばもはや自分への相続は無いという事を悟ったのか
忠政の手紙の言い付けを破って江戸へとやって来てしまった。
森家の濃く血を継ぐ自分の方が本多家から養子を取るよりふさわしいと熱弁する兵助と
関家付きの家臣達。
忠政も帰れとは言いにくい雰囲気になってきて悩んでしまった。兵助か、唐之助か、決めねばならない。
答えに窮した忠政は細川屋敷へと駆け込んだ。

忠政「という訳でかくかくしかじかで~どっちにしよう?」
三斎「俺に聞くんかい・・・まぁいいけど」

相談するのはもちろん親友の三斎どの。
そうして話合った結果、「本多家に謝って養子縁組を白紙にしてもらい、やはり兵助が跡を継ぐ。」
という事に決まったのである。

そして同年10月8日。忠政のの決定を受けた老中酒井忠勝と細川忠利(忠興のお節介で同席)の2人が
幕府に届けを提出。
これによって関兵助改め関家継。後の津山藩2代藩主、森長継が誕生したのである。