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鷹に対する意見の相違

2020年01月02日 15:45

森忠政   
474 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/02(木) 07:40:47.00 ID:Wcs3LzPY
新年明けましておめでとうございます。初夢の鷹にまつわるエピソードを。

鷹に対する意見の相違

ある時、大名衆の寄り合いがあった時のこと、森忠政が金森法印(長近)に声を掛けるとこう言った。

忠政「金森殿、高麗鷹が沢山入って来たので目利きをして、良い鷹を2~3羽選んでもらえませぬか?」
これに長近、答えて曰く
長近「美作殿、鷹など好んでその様に飼って何になるのかね?」

忠政「好き嫌いではなく、鷹は大名でなくては飼えぬ物。鷹を飼うのは大名の義務であって、国への奉公のような物でござる。」

長近の言葉に忠政はこう切り返したと言う。
ちなみに徳川家康が公家の鷹狩を禁じたのが1604年の事とされ、これ以後の事なら1608年に長近が亡くなるまでの4年以内の話であり、
幾ら茶の湯で知られた長近でも80歳超える頃で鷹狩する様な歳でも無さそうだし、鷹のこと聞かれても困ったんじゃなかっタカ?と思った今日この頃。



475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/02(木) 08:34:34.85 ID:JV2Y+tb7
森家が絡むと何かハラハラする

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/02(木) 16:59:19.12 ID:nqke4BFJ
嫌疑をかけられてザマァと思うのが森家のやり口
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森の美作殿、屋敷の池に化け物すみし事

2019年08月27日 17:18

森忠政   
341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/26(月) 22:14:32.56 ID:Dm7AYDWD
「諸国百物語」「森の美作殿、屋敷の池に化け物すみし事」
まとめの5865の
「森家屋敷の怪女」
と後半が被ってるけど書いとく。

森美作殿、屋敷の裏に小さき堀あり。
その堀の内より小さき児出づる事もあり。
又女のかづきを着たるが、あなたこなたと歩く事も有り。
ある時美作殿、近習の衆を集め夜ばなしをなされけるに、
座敷のまはりを、女、髪を下げ、二人連れにてあなたこなたを歩きける影、座敷の壁に映りて見えければ、
美作殿、不思議に思召し座敷の内を立て廻し、すみずみまで侍どもに探させ御覧なされ候へども、何物もなし。
ただ影ばかり、あなたこなたとするが、みな人の目に見えけるとなり。
それより一年ほどすぎて、殿も御死去なされけると也。

参照
森家屋敷の怪女








作州は即日に京の町人から借りていた銀を返しなされ

2019年04月23日 18:37

森忠政   
818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/23(火) 18:16:07.38 ID:dWsJWe3M
難波の役の冬陣(大坂冬の陣)で大名たちに白銀を分かち下された。加賀・仙台・薩摩などは
取り分けての大名なので、台徳院殿(徳川秀忠)から白銀3百枚、東照宮(徳川家康)からは
2百枚、合わせて5百枚ずつを下された。

森作州(忠政)などの大名には2百枚と百を合わせて3百枚を下された。作州はその時、即日
に京の町人から借りていた銀を返しなされ、人々は感心した。

――『老人雑話』



819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/23(火) 18:46:17.16 ID:xWlDplvi
コーエーのゲームだと金も米も腐るほど余るけど、実際の台所事情はどこも厳しかったんだろうね
毛利なんかも、隆元が亡くなったあとは信用がなくて商人から金が借りられないって嘆く逸話があるし

森忠政、川中島四郡のかわやに牢屋番などを命じる

2018年08月01日 21:57

森忠政   
988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/01(水) 00:04:14.80 ID:EJ6MU2Mq
森忠政、川中島四郡のかわやに牢屋番などを命じる


以下は森忠政がかわや*(いわゆる被差別民)の孫六に送った黒印状。
慣習権が認められる一方、後のえたと同様の役務が課せられていた。

四郡の内のかわや共に牢屋番や細工の仕事を、物頭の孫六が申し付けること。
扶持として(百姓)一戸ごとに籾を一升ずつ取らせる。ただし村々の家の数を
追って書き付けて提出するように。形式は口上にて申し渡す。
下々のかわやは、その者の居住地で稲を一戸につき一把ずつもらう代わりに
城の掃除を油断なくするように。

慶長五年                    忠政黒印
  七月九日
         孫六

――『続舊記集』

* かわたとも言う。語源は"皮のやく"とされ皮革業に従事する人を指した。


よく人を見立ててから

2018年03月22日 18:39

森忠政   
717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/22(木) 14:38:32.21 ID:Ml9sJDFQ
よく人を見立ててから


あるとき、森忠政君に近習の者が
「中小姓の扶持方に切米で勘定するのは、百石の物成より多くなりますから
 (中小姓に)所付*されて下さい」
と申し上げれば、(忠政は)
「折紙は本阿弥の札のごとく大切な物である。切米を貰っている者が
 他の国へ行っても大したことにはならないが、所付は他国でその者が
 放言すれば『あんな馬鹿者に知行を取らせたのか』と俺が笑われることに
 なるのだから、よく人を見立ててから所付はするものだ」
と仰せられたという。


――『森家先代実録』

* 具体的に知行所(領地)を付けること。


首を取り返す程なら

2018年01月27日 15:41

森忠政   
502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/27(土) 03:05:35.16 ID:sDG9Imzt
首を取り返す程なら


大坂夏の陣でのこと。
森家家臣の石田惣右衛門が、佐竹衆から味方討ちにあったので
惣右衛門の子供二人が追いついて首を取り返すということがあった。

そのころの評判で
「知らないふりをしておけば、親はよく奉公したことになり
 佐竹衆も手柄に出来ただろう。首を取り返す程ならその者を討って
 親の首と一緒に持って帰ればよかったのに。二人とも弱いことだ」
といわれたという。


――『森家先代実録』



503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/27(土) 09:44:51.58 ID:VA82doJi
お、おう

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/27(土) 10:43:16.03 ID:MG3bVX6b
情け容赦がねえな

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/27(土) 15:18:35.40 ID:oJeOzHbl
夏の陣でも戦国の気風は残ってたんだなw

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/27(土) 16:23:19.87 ID:jh7qn4rj
まさむね「知らないふりをしておけばいいものを神保が…」

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/27(土) 18:26:15.97 ID:h5bGR4Hh
この場合、惣右衛門さんの扱いはどうなるんだ?
事故死?

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/27(土) 20:58:26.45 ID:S3i1cgJH
たぶん討たれ損なんだろうね
だからこそ、黙ってれば戦闘中の討ち死にですんだんだろうし
武士としての面目を考えるなら、やはり敵を討ち取ってくるべきだったと思う

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/27(土) 22:45:01.93 ID:CmJGJAHL
中途半端が一番悪いというのがよくわかる事例

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/27(土) 23:42:10.35 ID:VA82doJi
秋田佐竹は遅参で居ないからどこの佐竹衆だろう

今西春房と娘の大蔵姫

2017年03月31日 21:45

森忠政   
708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/30(木) 22:04:28.35 ID:Tm99nypP
今西春房と娘の大蔵姫


摂津今西氏は元を辿れば春日大社の社家出身で摂津国垂水西牧に下向し
現地において荘園経営を行った荘官である。
代々従五位下に叙され室町時代には「南郷目代」と称されたとする。
戦国時代になると周辺の有力国人が台頭して荘園を
脅かすようになったため、今西氏の屋敷の回りの約216m四方は
内外二重の堀で囲まれ、内堀は約2mの深さがあったという。

荘園を守るため姻戚関係を結ぼうと、社家36代目の今西春房
明智光秀の娘・美津を正室にする。
長女の大蔵姫をはじめ子に恵まれたが、本能寺の変が起きてしまう。
山崎の戦いでは弟の春光が明智方で参戦したが敗戦。
当然秀吉の怒りを買い荘園を没収され、目代としての実権を失ってしまった。
以降は医者や神主として家を続けていくことになる。

一方光秀の孫娘にあたる大蔵姫はというと、最初は多田の豪族
山問左近将監に嫁いでいたが、山問氏が没落したため
娘二人を連れて実家に戻っていたらしい。
どういう訳か大蔵姫はその後中川秀成の養女となり、森忠政に再嫁した。
その縁で弟たちの浅田宗英は2700石、今西道春は1500石で召し抱えられ
他の一族からもその後何人も森家に仕えることとなった。

大蔵姫は元和9年9月13日に亡くなったが、忠政に遺言をして自分の衣装と
愛玩の手道具、自身の肖像画を今西氏に送らせたという。
大阪府豊中市にある今西氏の屋敷は現在は国指定の史跡となっており
その西南にある松林寺の墓地には大蔵姫の五輪塔がある。

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以上の話は、主に今西家に伝わる史料(『今西家文書』)から見た話で
森家の史料とは少々食い違っている部分がある。
『森家先代実録』では、大蔵姫は森忠政に嫁いだとは記されていない。
大坂夏の陣で森軍の渡河で活躍した宗英・道春兄弟の姉として紹介されるが
”中川清秀の従弟山問の妻” ”女中頭を務め御内所まで申し上げることが出来た”
という記述があるのみで、表記も大蔵卿となっている。
加えて大蔵姫の肖像画の記述を見ると忠政が従三位とされていたり
遺体が葬られたとする津山の寺がどこか分からないなど不明な部分が多い。
おぉこれは……という訳で悪い話スレに。


春日周防の徒党の磔

2017年03月25日 20:44

森忠政   
698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 00:05:44.43 ID:Ko4xD5Gw
春日周防の徒党の磔


ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-357.html
↑の記事の2つ目の話の詳しい版になります。

天正壬午の乱のときに森長可を裏切ってひどい目にあった春日周防
(参照 ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5950.html)
慶長5年3月に弟の忠政が海津城に入った頃には病死していたので
(葬儀で)親類が一か所に集まっており磔に懸けることになった。

そのとき彼の地の風説では、信州は人がいない国なので
徒党の者を残らず成敗してしまっては亡所になるだろう。
ならば(忠政が)見回りに来る前に、磔に懸けてご覧に入れ
御成敗したと判断してお通りした後で悉く命を助けようと
下劣の者共が(春日周防の徒党に)申し做した。

そういうことならば一日磔に懸けられているのもどうかと
日用を雇って名代として磔に懸かってもらうことにした。
米壱石で懸かる者が多く、あるいは七、八斗で懸かる者もいたが
少しの内なのだからと値切る者がいたり、壱石出すくらいなら
自分で懸かろうという者が、金持ちの中にもいたそうだ。

海津城はその頃松城といったが、乾の方角にある鳥居坂から
なしか池まで二十町ばかりに磔を懸け並べた。
そこに先走りの者が、忠政様の追付きお通りと参るやいなや
大身の槍を持って片っ端から突いて通った。
そのとき磔木の上から口々に日用なりと断る声があったという。
百々瀬加兵衛、三溝三右衛門[両人共に信州のあのあたりの地侍の家
だったが森家へ召し出された]がこの話を度々承ったそうだ。

そのときの罪人の内6才の子供を一人、名は又右衛門と申す者を
お竹様(忠政側室・香々美殿)が引き取り養われた。
後に大膳重政様(忠政庶長子・母お竹)の草履取りとして仕えたが
元和4年に大膳様が御逝去の後、作州久米南条郡中嶋村へ引っ込んだ。
百姓をしていたそうだが、同郡北村の者と公事取詰になり
寛永16年6月3日、46才で一家残らず長法寺河原で御成敗に逢ったのは
天罪奇妙な事なのでここにこのことを記す。


――『森家伝記』


702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 22:47:30.61 ID:gmJK76VS
>>698
この「松代物語」でも春日皆殺しについて触れられてるね
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4100.html
ところで高坂信達(春日周防)って病死って書いてるけど、真田昌幸のせいで上杉裏切ろうとして殺されたんじゃ
(真田丸では調略がバレたのをなぜか昌幸の策略にして主人公側を悪どく書いてたな)

森忠政の水理

2017年01月08日 16:12

森忠政   
494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/08(日) 14:57:57.93 ID:IDAI/Glu
森忠政の水理


森忠政は美濃国可児郡金山城に生まれ、慶長5年に信濃国川中島城に移ったが
どちらの場所も川に近いところだったので、水理には細心の注意を払っていた。

美作に初めて入ったとき、津山川(現:吉井川)の水の勢いを見て
日照りの年でも涸れないだろうと喜ぶと共に、排水にも大いに配慮した。
津山への築城に決まってからは、市街に三十六の町を置く計画で区画を定め
市街の南方、津山川の沿岸には悉く石垣を設けて十箇所余りに水刎を築いた。

ttp://www.civil.pref.okayama.jp/img/hyakusen/spot/059-03.jpg
059-03.jpg
(画像手前の構造物が今も現役の吉井川の水刎)

洪水に備え津山川の川幅は、水上の村落や山野の広狭を考えて
上流一里に対し、幅員を六間以上八間までに定めた。
津山川の水源、西々條郡上齋原村までは七里十一町の行程だったが
伯耆国の境までの川路が屈曲しているので十里余りあるものとみなし
津山町においては、岸に達する川幅が最も狭い八出村覗山下までの
距離を八十二間とした。
(津山)市中を南北に横断する宮川の源流の上横野村までは
二里九町余りだったが、川路屈曲から三里余りとし宮川大橋を二十六間とした。
翁川は水源まで一里以内だったが、市の西北部を取り囲むように流れているので
翁橋を八間一尺に定めた。

森氏入封後この排水の施策が行われない内は、慶長12年と17年の二度の洪水で
市中が浸水し、いくらか人家も流出したことは先代実録にも記載があるが
その後市内の備えが全て出来た後は、天明5年までの170年あまりにわたり
しばしば洪水があって、この施策のない沿岸で堤防が決壊したり浸水しても
津山市中では水災がなかったのは忠政の余沢である。


――『美作中古紀事』



伴惟安、妙向尼と森忠政を救い出す

2016年11月02日 17:11

森忠政   
283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/02(水) 16:21:59.71 ID:e8s4vPn2
伴惟安妙向尼森忠政を救い出す


天正十年六月二日、京都に於いて信長・信忠親子と蘭丸、坊丸、力丸
伴氏の伴正林伴太郎左衛門等が討死したことは三日の辰刻には甲賀の伴惟安にも伝わった。

そのとき長可は川中島にいて、母の妙向尼と千丸(忠政)は人質のために安土にいたが
惟安は以前から可成、長可にとりわけ目をかけられていたので
「今お二人はさぞ途方に暮れていられるだろう」と一族で話し合い
四日に野越の間道を越え安土へ行き、妙向尼と千丸をお守りして五日に甲賀へ連れ帰り
二人をすぐに自分の家に移し、伴氏一党で番をした。

十三歳の千丸はどじょうすくいとカエル釣りが好きなので伴家の子供達は日々お供していた。
あるとき「お千殿、いざカエル釣りに行きましょう」と子供達が言うと親どもが来て
「大名のお子様だが、訳あって少しこちらにいらっしゃる間は
お千様とお呼びし、何事も逆らわずお心のままにするのです」
と堅く制したという。

長可が信州を引き払って金山に帰ってくると、九月十一日に甲賀に迎えを送ったが
伴一党は守山武佐筋に朝倉の残党がいる可能性を危惧し、伊勢街道をお供して
勢州坂下で妙向尼と千丸を迎えの金山の者に渡した。

この忠義により天正十二年の暮れ(長可が討死し忠政が家督を継いだ頃)に甲賀に迎えが送られ
十三年の春、伴惟安と惟利の親子は初めて森家へ出仕することになり
他の残った伴党もこの親子の口利きで召し出されることになったという。


――『森家先代実録』



徳守神社と森忠政の奉納鉄盾

2016年10月18日 18:39

森忠政   
252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/18(火) 17:17:10.34 ID:aUAL/OcM
徳守神社と森忠政の奉納鉄盾


現在、大阪歴史博物館で行われている特別展『真田丸』に展示されている"鉄盾"は
森忠政が大坂の陣後に徳守神社に奉納したとされ、津山市の重要文化財に指定されている。

ttp://stat.ameba.jp/user_images/20160920/19/tokumorijinjya/7a/b5/j/o2336175213753264122.jpg
o2336175213753264122[1]


盾一つの大きさは縦91cm横44cmで15kgの重さがあり、一対で30kg。
ところどころに深さの異なるくぼみや、銃弾が当たって割れたような跡がある。

森家の記録には直接この鉄盾の記載はないものの、
『駿府記』等には大坂の陣のときに家康が備後から鍛冶を呼んで鉄盾を作らせ
城内からの銃撃を竹束で防いでいた諸大名に10張ずつ配ったという記述があり
そのときに使った物ではないかと推定されている。

徳守神社では津山城完成400周年を記念し、この鉄盾のレプリカを作成する。
10月23日に行われる徳守大祭には忠政が徳守神社を造営したときの時代背景を伝えるため
今年から従来の神事に加え津山城鉄砲隊と備州岡山城鉄砲隊の発砲演武などを行い
鉄盾のレプリカもその際に使用される予定。



253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/18(火) 17:35:55.52 ID:PWWTSBp7
>>252
一応防げたのか

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/18(火) 17:39:34.54 ID:gq55S696
鬼武蔵の眉間よりは頑丈だったということか

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/18(火) 20:23:28.97 ID:YdJlLrny
古田織部のハゲ頭と組み合わせればこうかはばつぐんだ!

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/18(火) 21:51:26.62 ID:9mEXkEVr
ソーラレイ+重装甲か

松平の家がある限り

2016年08月12日 18:56

森忠政   
72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/12(金) 13:27:31.42 ID:s4KcRqqy
松平の家がある限り


慶長三年の冬、石田三成が家康を暗殺しようとしているという噂があり、
その警戒のために伏見向嶋の家康の屋敷に諸大名が毎日出入りしていた。
森忠政細川忠興と示し合わせ、御供には具足と食物を挟箱に入れて持ってくるように言って
家康邸に三日三晩一緒に詰めて(自分の)屋敷には帰らなかった。

夜中に家康公は井伊直政に手燭を持たせ(忠政と忠興を書院に呼び出して)お出ましになると
「両人の懇志は言葉に言い尽くせないほどです。大坂方には詮なきことを企んでいる者がいること
聞き及んでいますが、もし万一そのような者が(本当に)いたときは
大坂方面に信頼できる者を配置しているので大坂勢が出陣することがあればすぐに注進があるでしょう」

「そうなればこの屋敷にいても守るのは難しいので大仏へ閉じこもり防戦をする覚悟です。
両人の衆もそのときは大仏で戦ってもらうことになるので自分の屋敷へ帰って一報を待って下さい。
必ず使者が参ります。いずれの衆(他の諸大名)にもこのことは伝えませんでしたが
両人の深切は他と異なるので内々に申し合わせておこうと思いました」

そうして家康公は御両将(忠政・忠興)の御手を一度にお握りになると
「松平の家がある限り末々まで今回の心遣いを忘れません」と仰せられたと言う。

――『森家先代実録』



森忠政の養母大野木殿のこと

2016年06月26日 17:57

森忠政   
884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 16:51:28.88 ID:V5zi0zXd
森忠政の養母大野木殿のこと

天正4年森忠政が7歳のとき、塙直政の養子に行く取り決めが交わされたことがあった。
塙直政は妙向尼(忠政母)の母の兄弟で、忠政からみれば大叔父に当たる人物である。
直政には既に男子がいたものの、信長から山城南部と大和・河内の守護を任せられ、
柴田勝家の娘(養女という説も)の大野木殿を後妻に迎えるなど当時の織田家では権勢を振るっており、
森家にいては"家督を継ぐ可能性はほぼゼロの六男坊"の忠政にとっては悪くない話であった。

ところが塙直政はその年の天王寺の戦いで討死し、責任を負わされる形で塙一族は没落。
大野木殿も勝家の家臣の原元次に再嫁し、当然ながら養子の件は白紙になってしまった。

その後大野木殿は元次との間に男女一人ずつもうけたものの、
天正11年に元次は勝家と共に賤ヶ岳の戦いで戦死したので、尾張の大野村に隠れ住んでいた。
しかし天正18年の小田原征伐のとき、それを聞きつけて来た秀吉により
「勝家の孫だから」という理由で12歳になっていた息子を殺されてしまい、以後は細々と暮らした。

~それから21年後~

慶長16年春42才の忠政は、名古屋城普請をしているとふと大野木殿のことを思い出したらしい。
養母になるはずだった彼女の居所を突き止めると、家臣を迎えにやり津山へ呼び寄せて内山下の屋敷に住まわせた。
忠政は大野木殿のことを「御母公様」と呼び慕い、実の母親のように扱ったという。

寛永4年に大野木殿が亡くなると忠政は遺言に従い法然上人ゆかりの誕生寺に葬送し、御霊屋を建立した。
御霊屋は後世に観音堂に転用されたものの、現在も残る。

――『森家先代実録』



885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 17:10:02.82 ID:vj5SNGYk
た…忠政にいい話だと…

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 19:27:35.39 ID:3vlpcHIf
それなのにラスボスは相変わらず

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 23:28:09.26 ID:V5Jo8c+e
小田原攻めの時には、たしか遠江時代のいじめの報復を考えて相手を探索させてなかったっけ?

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/26(日) 21:29:56.93 ID:KbY3yhVd
>>884
川中島時代にひどい事したよね
自業自得かもしれんけど

智勝院殿には父母が四人いる

2016年06月17日 17:57

森忠政   
856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 16:22:25.49 ID:kp3uQH50
智勝院殿(森忠政正室・お岩)には父母が四人いる。
実父:名護屋因幡守 実母:養雲院
養父:大和大納言(豊臣秀長)  養母:智雲院

太閤御台政所(高台院)の父は尾州浅井庄の浅野与七郎で、(高台院は)初名を祢々といい
養雲院殿の筆子(←原文ママ)だったので、当時木下藤吉郎と名乗っていた太閤との縁組の際
因幡守は与七郎へ「藤吉は唯人ではないので(嫁に)やりなさい」と差図した。

また(因幡守は)信長公にも木下殿を執り成され少々便宜を図られたので
(因幡守が亡くなった後)養雲院殿は後家料として摂津国の尾坂田に知行を与えられ
京都四条の屋敷で、余生は結構自由な暮らしでいらっしゃった。
養雲院殿死後は(世話をしていた者たちを)忠政君は召し抱えられたということだ。

――『森家先代実録』




美作国万灯会

2016年06月05日 21:58

森忠政   
797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/05(日) 15:25:59.13 ID:pZdal2K2
美作国万灯会

森家菩提寺の津山市本源寺では7月2日18時から21時まで、333年ぶり77回目の万灯会が行われる。

元は江戸時代に森忠政の正室お岩が死去した1607(慶長12)年の初盆に、
城下の町民が供養するために津山川(現:吉井川)の向河原で灯籠を灯したのが始まりで、
忠政死後も2人を偲んで1683(天和3)年まで毎年続けられた。(森家先代実録)

当日は出雲街道から本源寺までの道の両側と御霊屋、裏庭に竹灯籠が千基ほど並べられ、
精進カレー、喫茶、プリン、和菓子セットなどの出店や演奏会もある予定。



798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/05(日) 16:54:12.21 ID:h7wzGMo4
お兄ちゃんのプリン食べたら怖い怖いぞ~

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/05(日) 18:59:03.60 ID:X3hQG0Qm
町民に慕われるようなことしたっけ

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/05(日) 19:07:35.23 ID:r8ReCCN+
>>799
慕わない領民は…

森忠政、幕府からの下賜金で

2014年06月25日 19:23

森忠政   
214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 21:04:07.32 ID:tSLvIleb
大阪冬の陣の時、幕府より諸大名に白銀を分け下された。
加賀前田家、仙台伊達家、薩摩島津家などは別格の大名なので、
台徳院殿(徳川秀忠)より白銀300枚、東照宮(徳川家康)より200枚、合計500枚づつ下された。
森美作守(忠政)などの大名には、200枚と100枚、合計300枚を下された。

この時、森忠政は白銀を下げ渡された即日に、京の町人より借りた銀を返却した。これに人々は
深く感じ入ったそうである。
(老人雑話)

森忠政、幕府からの下賜金で即座に借金返済、というお話し。





215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 22:38:45.52 ID:KUyAud79
>>214
「幕府」って原文だとどうなってんの

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/25(水) 21:53:46.24 ID:uqVMZxp+
>>215
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0026-11005&IMG_SIZE=&IMG_NO=42
該当箇所は見つけたけど、文字の解読に自信がないから誰かに任せた

217 名前:215[sage] 投稿日:2014/06/26(木) 02:54:49.60 ID:7lrUXono
これの233ページの最初の話っぽい
ttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925907

原文だと主語省略だ

海津を待城と名付けた理由

2013年12月16日 19:16

森忠政   
34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/16(月) 11:33:41.34 ID:GsmB4bPw
慶長四年より森右近(忠政)殿が入国され川中島四郡を領された。この時から
海津を待城と名付けたと言う。

その理由は、森庄蔵(長可)殿が在城されていた時に、信長公が明智光秀の為
に討たれ庄蔵が川中島を捨て退いた時の事。川中島の百姓どもは庄蔵を討つ
べしと猿ヶ馬場峠まで追いまくった。

庄蔵は引き返して戦った。しかし山中の百姓どもが結託して駆けつけたので
追い返され庄蔵は討死されたと言う。

(海津城主次第)

なぜか鬼武蔵が逃走中に討死にした事になっている逸話

この後に忠政が待城と名付けたり兄の仇として住民を磔にかける逸話に繋がり
ますが、蛇足なのでカット。





阿彌陀寺と森美作守殿御家

2013年12月05日 19:00

森忠政   
967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/05(木) 04:30:45.25 ID:XPYGYYA1
森美作守(忠政)殿の御家(津山藩)が御繁昌の間は、毎年6月2日に御使者が阿彌陀寺に遣わされ、
御向月の御法事を毎年執り行っていた。年中の御茶湯料も少々づつ送り遣わされていた。

しかし美作守殿の御家がお取り潰し(元禄10年(1697年))になった後は、これも相止み、
無縁と罷りなってしまった。
それでも毎年6月2日の御向月の御法事は、搭頭にうち寄り、現在においても懈怠無く執り行われている。

信長公百年忌の節は、森美作守殿の御家が御繁昌であったので、美作守殿より御法事として
千部読経の御執行が有った。またご由緒の方よりの御使者、御香典等もあった。

(阿彌陀寺由緖之記)

阿彌陀寺が、忠政の森家と繋がりがあったらしい、というお話






津山城普請奉行襲撃事件

2012年12月03日 20:08

森忠政   
598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 19:03:32.14 ID:wM6SK17W
津山城普請奉行襲撃事件


慶長13年(1608年)2月、森忠政が統治する美作でのこと。

津山城普請奉行の一人である薗四郎右衛門が今村与一右衛門の屋敷の前を通りかかったところ、
かねてより遺恨のある足軽数人に襲撃を受けるという事件が起きた。

しかしながらこの四郎右衛門も只の奉行ではない。殺されるどころか敵相手に大立ち回りを演じて
ついには足軽たちを撃退したのである。
主君の森忠政はこれを聞いて四郎右衛門の首尾よきを賞して50石を加増した後、
足軽たちを一人残らず処刑した。
(森家先代実録)




599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 19:09:38.62 ID:NAmIn8cp
さすが森家の裁定は気持ちがいいね!

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 19:12:34.52 ID:dkwSjn/Q
津山城の建築関係で人死んだ逸話何個目だよ・・・

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 19:16:03.93 ID:p39R6qdU
久しぶりに森家来たと思ったらこれだよ・・・

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 19:20:32.42 ID:YUwcE7Qz
津山呪われてるんじゃねえの?

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 19:23:40.81 ID:6xDbdqAk
32名そろわんと駄目だ 津山は

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 19:47:04.12 ID:VPBbHfJr
毛利・尼子「俺たち関係ないからね」

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 19:55:14.52 ID:ejwx7XgR
森家の悪い話の安定感

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 20:54:28.56 ID:/LHDYjR+
森忠政の、こういう遺恨を残さないやり方はある意味正しいのかも知れないな

今川氏真みたいに、讒言を受けて家臣を誅殺したものの後で罪を撤回し、
讒言した者を罰するけど命は助ける、みたいなことをやってると遺恨が
深まる一方になる

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 21:03:12.35 ID:71bXYi1H
ヒャッハー!森家の悪い話だー!

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 21:16:18.37 ID:nxs0sbJa
つーか、奉行を足軽が襲う時点で悪い話だろ。まともな武士を最下級の兵士が道端で襲ってるんだぞ?
よっぽどひどい恨みを買ったんだろうけど、何やらかしたんだ?

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 21:32:16.43 ID:p6ggS3XC
数人がかりでたった一人が仕留められない役立たずなんぞいらぬわぁっ!
・・・ていう幻聴が聞こえたorz

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 21:36:55.60 ID:WHuJOZkt
ことの良し悪しなんかどうでもいい、強いほうを助けろ

って声が聞こえたような…

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 23:32:58.93 ID:TTmp3Ail
森家はいつも楽しそうだなぁ。

>>608
この家中のことだから、逆恨みという可能性もあると思うw

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/03(月) 02:06:10.41 ID:6mzFXQpn
名古屋山三郎といいコレといい、森家中は内ゲバも多いのか?

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/03(月) 06:42:39.38 ID:B4nuTJbp
面白いのはこういう不祥事が森可政呼んだら殆どなくなること

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/03(月) 10:39:53.93 ID:WuGekULZ
先代だったら一緒になって暴れたんだろな。

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/03(月) 10:44:40.22 ID:S1WTMBWD
>>613
森苛政 草抜きすれば 治安良し

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/03(月) 12:37:58.85 ID:iWZv2K9t
安定な森家だなw

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/03(月) 12:41:42.75 ID:+CZVJZi6
ある意味薫陶が行き届いてるってことですかなw

右近検地 ~美作編~

2011年12月27日 22:00

森忠政   
509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 19:32:24.46 ID:VrNNahAn
右近検地 ~美作編~


慶長8年(1603年)、美作一国18万6500石に森忠政が入り、その翌年の慶長9年(1604年)には森家による
検地が行われることになった。

前に検地が行われたのは宇喜多秀家の統治にまで遡るが、その時の検地は実は
朝鮮出兵の真っ最中に行われた事もあって、
面倒事を避けるために村方で作った帳面を提出させて不審な点があれば実地にあたったという
徹底した検地とは呼べない代物であった。

と、いう事情もあってまだまだ在地の武士と土地の癒着が断ち切れているとは言い難いこの美作でも
ようやく本格的な検地が行われる事になったのだ。
森忠政も信濃時代の失敗(参照:http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2607.html)の事がある。
今回は慎重に検地を実施・・・


18万6500石→24万2500石


・・・どうやらあまり懲りてなかったようである。
この検地は石高の激増以上に田畑の実収高と食い違う所が多く、苦情が殺到したので
渋々やり直したがそれでも苦情が多かった。
その為、2代目藩主森長継の時代には検地による田畑の位付けを捨てて、実際の出来高に応じて
年貢を徴収する「段免」方式に切り替えられたのであった。



510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 19:56:32.06 ID:96Ausont
噂をすれば…

ぶれない男だな、悪い意味で

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 22:16:04.34 ID:q1XTyam5
ラフォーレさん…

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 02:11:08.99 ID:w0dVdEVL
忠政の実績はよく見ると商工関係にかなり偏ってる。

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 07:00:22.58 ID:PAxZjI91
自分を高く売ることにたけた男だからな、商売への親和性高かったんだろう