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志賀親次の島津との合戦

2022年08月02日 18:30

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/02(火) 17:28:40.91 ID:3Lv4miiH
「大友興廃記」より志賀親次の島津との合戦

島津義久の舎弟、兵庫頭義弘が天正十四年(1586年)の冬、豊後朽網に在陣したため、大友家の大身の将どもは大友家を背き義弘に次々と従った。
ただ義弘は近くの親次の岡の城には攻めあぐねていた。
それどころか志賀親次の手の者が義弘陣所に忍び入り、小屋などをたびたび焼き払った。
また天正十四年冬の初めから翌二月の末まで、親次が攻め滅ぼした城は十五に上った。当時志賀親次は十八歳であった。

また肥後国坂足は豊後の幕下にありながら早々に薩摩勢に降っていたため、志賀親次は天正十五年三月十八日に阿蘇表に出て坂足を攻めた。
このとき志賀勢は宮ノ寺に陣を張ったが、岡城の雑兵の奴ばらは釣鐘を壊し、狛犬を焼き、社壇を破り、鳥獣を殺し、肉食をするなどの邪なる振る舞いをした。
さては軍に物の怪が取り付いたのではないかと人々はおそれた。
そんな折、薩摩勢の新納忠元、伊集院肥後守、入来院、祁答院らの四大将の軍が豊後日田から肥後国小国に到着し、この豊後勢の狼藉について地元の住人から聞き知った。
翌朝、薩摩勢の四大将は宮ノ寺の豊後勢に打ち掛かった。
豊後の先陣として中尾伊豆守、大塚典薬、朝倉伊予守、中尾駿河守、朝倉土佐守などが受けてたった。
しかし前夜に神前を穢し、その身も穢れに触れた奴ばらは、眼前に霧が襲って全く物が見えなくなり、草木を敵と思って斬りかかったり矢を放ったりした。
あたかも自ら首を刎ねてくれと言わんばかりであり、雑兵かれこれ百五十人が枕を並べて討死した。
中尾伊豆守は軍兵に「このたび山谷鳴動し、煙雲が味方を襲ったのはただごとではない。
軍気をうかがって退くべきだ」と言って退却した。
そののち豊後勢はなんとか態勢を立て直し、豊後、薩摩双方とも軍を引いた。
また朝倉一玄は「このたびの阿蘇表への出兵は、親次の勇み足であり、血気の勇に似た振る舞いであった。
若気の至りとはいえ、親次には似合わぬことであった」と言ったそうだ。

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/02(火) 17:33:37.41 ID:3Lv4miiH
なお志賀親次は熱心なキリシタンだったそうで。



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「天正の楠木」の軍略

2019年03月28日 17:52

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/27(水) 21:16:37.06 ID:EoGMKe7N
志賀親次は薩摩人が攻め来たるに及んで、向かえ戦い、偽って三度敗走した。
これにより薩人は親次を怯しとして、戦いに及んでも備を整えることなく、ただ競い乗り進み撃つようになった。

ここに於いて親次は、兵を3つに分けて、薩人の攻め来る通路の山間の樹林に伏せさせた。
そしてこのように命じた

「薩人が敗れ逃走する時、一組は前を遮り、一組は中を絶ち、一組は山の半ばに備えて、
鼓を打ち、声を上げ敵の気を奪え。」

一月ほどして薩人は攻め寄せてきた。元より親次を侮っており、深く攻め入り猥りに戦った。
しかし親次は守りを固くして動かず、薩人は攻略することが出来なかった。そして彼らの勇気がたゆむ所を
親次は見て取ると、各所の民家や藪陰より足軽五十三十に、下知人の騎士を加え、方々より打って出た。
親次は静かに旗を進めると、薩人たちまち裏崩れして逃走した。
この所に伏兵起きて前を遮り、薩人はこれに当たろうとすれば、又伏兵起きて中を絶つ。山では鼓を打って
声を上げれば、その響き夥しく、薩人は大いに敗れて、後ろも顧みず散り散りに逃げた。

この戦いで志賀親次は、首級三百八十余りを得たという。

(武将感状記)

「天正の楠木」の軍略



義は千載朽ちざる

2019年03月26日 11:51

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/26(火) 09:48:24.70 ID:wP2JiKyy
志賀太郎親次は大友の家臣であり、豊後の岡城を守っていた。
ある年、薩摩が豊後の諸塁を攻め、或いは下り或いは陥り、国中大いに恐れる所に、志賀親次は一人
少しも屈しなかった。そんな親次にある人が言った

「貴殿が自らの勇気を頼まれても、薩人は目に余るほどの大軍であり、その鋒はありえないほどだ。
その身が死しても戦況に少しも影響を与えないだろう。であれば何の為に戦うのか。速やかに降伏すべきだ。」

そう諌めたところ、親次は威儀を正して

「年来の知因であるなら、男夫の義をこそ勧めるべきであるのに、弱みの異見とは心得ず。
主君の禄を受けたる者、ただこの一身のみではない。妻子もその御蔭で心安く養うことが出来、
今日に至るまで、凍え飢える憂いは無い。
無事の時は威を争い座を論じて、危難に臨んで忠を忘れ節を改めるのであれば、それは人と呼ぶべきだろうか。

古より誰であっても死なぬ者は居ない。しかし義は千載朽ちざるものだ。
私の息が絶えない間は、この城を敵の泥足に踏ませるものか。ただ死して君恩を九泉の下に報ずるばかり
である。」

諌めた者は、この言葉に感じ入り親次に与力した。そして岡城の守兵はおよそ六百あまり。
薩人と戦うこと度々であった。
豊後の地は多く薩人のために掠められたが、親次は岡城を全うした。

(武将感状記)

敵である島津義弘からも「天正の楠木」と讃えられたと言われる、志賀親次のお話。
しかし本当に大友家の家臣はみんな立派なイメージが残ってますね。



志賀親次と道益父子のガチバトル

2012年08月30日 20:50

213 名前:名無しさん@お腹いっぱい[sage] 投稿日:2012/08/29(水) 21:11:01.52 ID:jUvkrsnJ
志賀親次と道益父子のガチバトル

天正14年の豊薩合戦で大友方の岡城は島津義弘・新納忠元が率いる大軍に包囲されていた。
守るは若き北志賀家の惣領・太郎親次弱冠18歳。しかも包囲軍の中には
島津に寝返った父の道益(親度)と叔父の入田宗和(義実)の姿もあった。
また祖父の道輝(親守)も宗和や道益に同心していたものの宗和や道益のような表立った動きはしなかった。
この時は道益とは逆に孫と一緒に岡城に篭城していたという説もある。

親次と道益の父子が戦ったのはヤオではなくガチだがこの二人の仲は悪かったらしい。
原因として大友義統への姿勢と信仰にあった。
道益は耳川合戦の前年、義統と対立し父共々誅殺されそうにことがあったことから義統を憎んでいた。
対して親次は大友家ひいては義統に対しても純忠一途の人物であった。さらに
親次は熱心なキリシタンであり道益は熱心な仏教徒であった。
これらのこともありこの父子が仲が悪かったのはある意味必然だったかもしれない。

214 名前:名無しさん@お腹いっぱい[sage] 投稿日:2012/08/29(水) 21:36:50.52 ID:jUvkrsnJ
豊後国内では栂牟礼城の佐伯惟定や丹生島城の大友宗麟たちも奮戦中。志賀親次はさぞ
「逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ…」な心境だっただろうが
決して逃げず寡兵で「天正の楠木」と評された戦ぶりで島津の大軍を何度も追い払い、
たまらず手を焼いた島津義弘の降伏勧告を撥ね付け勇敢に戦い抜く。
島津軍の攻撃が膠着したのを機に近隣の城を奪回に乗りだす。折りしも豊臣秀長勢が豊後に到達。
島津勢を追撃し反乱した南郡衆を滅ぼしていった。
その過程で父・道益を捕らえ言い訳一つも許さず問答無用でその場で自刃に追い込んだとも
親次自ら斬ったとも言われている。
反逆した父に対する苛烈な処置とかは親次の名声を高める結果になったものの今度は
その名声が皮肉にも主君・義統改め吉統に徐々に疎まれる原因になっていく…