289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/09(金) 15:05:29.75 ID:b26G34El
永井右近太夫直勝(別名長田伝八郎)は永禄六年、三州大浜邑に生まれた。
祖父を長田喜八郎といい、松平広忠君に仕え、三州岡崎にて奉公した。
権現様(家康)が幼い頃、今川義元に仰せに成り、喜八郎に対して所領を賜った。
義元の証文判形が現存する。
父を長田平右衛門尉重元という。御当家(徳川家)に奉仕した。
天正十年六月、織田信長公御生害の時、権現様は泉州堺より伊賀路を越えて、三州大浜まで
出られた。この時重元が御迎えに出て、重元の館にて御膳を上げ、御供の衆へも饗応した。
永井直勝は若年の頃は、三郎信康君に奉公仕り、信康君御逝去の後、遠州浜松に於いて、
権現様に召し出され、
「長田氏は源義朝への逆臣の苗字であるので、永井氏になるように」
と仰せられた。長田は平姓であり、永井は大江姓である。大江の家紋、一文字に三ツ星をも。
直勝に御免なされ、御譜代阿部伊予守(正勝)の婿に仰せ付けられた。
(管窺武鑑)
永井家と永井直勝について
永井右近太夫直勝(別名長田伝八郎)は永禄六年、三州大浜邑に生まれた。
祖父を長田喜八郎といい、松平広忠君に仕え、三州岡崎にて奉公した。
権現様(家康)が幼い頃、今川義元に仰せに成り、喜八郎に対して所領を賜った。
義元の証文判形が現存する。
父を長田平右衛門尉重元という。御当家(徳川家)に奉仕した。
天正十年六月、織田信長公御生害の時、権現様は泉州堺より伊賀路を越えて、三州大浜まで
出られた。この時重元が御迎えに出て、重元の館にて御膳を上げ、御供の衆へも饗応した。
永井直勝は若年の頃は、三郎信康君に奉公仕り、信康君御逝去の後、遠州浜松に於いて、
権現様に召し出され、
「長田氏は源義朝への逆臣の苗字であるので、永井氏になるように」
と仰せられた。長田は平姓であり、永井は大江姓である。大江の家紋、一文字に三ツ星をも。
直勝に御免なされ、御譜代阿部伊予守(正勝)の婿に仰せ付けられた。
(管窺武鑑)
永井家と永井直勝について
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