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津軽信建と天藤四兄弟

2012年11月29日 19:50

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 11:34:54.86 ID:5nEj0bsG
慶長7年(1602)、津軽氏は堀越城に本拠を置いていたが、津軽為信は黒石の館で政務を執っており、
長子・津軽信建が堀越城の城主となっていた。
津軽信建の嫡男である熊千代はこの年のある日に祖父為信の元へ遊びに行った。
その折にどうしたことか、囲炉裏の中へ真っ逆さまに落ちてしまい、顔から頭にかけて、
月代まで焼けただれてしまったといわれる。

熊千代のやけどは為信によって秘密にされていた。しかし、噂が信建の耳に入ってしまう。
信建は烈火のごとく怒った。
「熊千代をすぐさま黒石から堀越へ連れて来い」と、家臣に命じた。
この使者に選ばれたのが、天藤家の衛門四郎、小太郎、佐衛門四郎、甚右衛門の四兄弟
(津軽家譜草案)であった。

天藤兄弟はさっそく黒石館に駆けつけ、為信に目通りした。信建の意志を伝えたが、為信は拒絶した。
やけどの熊千代を見れば信建が何をしでかすか分からないからである。

しかたなく四人は堀越城へ帰還、その旨を信建に報告した。しかし、逆上している信建は、
「必ず連れてもどれ」と重ねて厳命。兄弟は再び黒石を訪れたが、為信は依然として
連れ帰ることを許さなかった。
兄弟は板ばさみとなり、しばらくは黒石館で粘ったものの、ついにはあきらめて堀越へ帰ることにした。

ところがその途中、ちょうど天藤家の前にさしかかった時、四人は信じられないものを見た。
家族が皆殺しに遭い、その遺体を縁者、知人らが葬ろうとしていたのである。
仰天して訳を聞くと、四人の帰りが遅いので、激怒した信建が斬り殺させたのだという。
兄弟は呆然し、怒った。

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 11:36:14.04 ID:5nEj0bsG
「まことに宮仕えほどくやしきものはない。連れ帰れというのも主君なら、おさえて
帰さぬのも主君。臣たる者、どちらの道をとれば良いのか。
 我々の家来としての命運もここに尽きた。家族を皆殺しにするほどの主君だから、
我々も極刑に処されるだろう。
 しばり首になるよりは、場内へ斬りこみ、命を懸けて諌言しよう。 それから
腹を切っても遅くは無い。むしろ家族への供養になる。」

四人は堀越城に着くと、喚声をあげて無二、無三に斬り込んだ。黄昏時だったという。
不意をつかれた城内の武士はたちまち斬られて、四人は信建の居間の近くまで迫った。

しかし、ここで「三代相伝の主君へうらみをなし奉らんことは、臣たる者の道にあらず。」
と剣先が鈍った。
そこで、この上は、日ごろ奸臣と苦々しく思っていた奴ばらを討って取り、
最後の思い出とするべく城内を発った。

一方の津軽信建は居間にいた。騒ぎを聞いて仰天し、乱入者どもが近づくにつれて、色青ざめ、
立ち尽くすばかりであった。
とうとう、女中のすすめに従い、長持の中にかくれ、女どもにかつがれて居間を脱出、
四兄弟が城を出るまで離れたところに隠れていた、とされる。(永禄日記)


さて、城外へ出てきた天藤兄弟は白取瀬兵衛を襲うも、下人どもがかけつけたため、撤退。
次に森岡信元を暗殺した梶仁右衛門方を襲撃し、仁右衛門の母を惨殺。夜明けの頃だったという。
この後も四人は散々に暴れ回り、奈良岡万助が討たれ、他にも怪我人が十数人いたという。
徹夜で暴れた天藤兄弟は疲れ、近くの空き家に入り休憩した。

この頃には騒動を聞いた津軽家中の諸士が天藤兄弟の立てこもる空き家を包囲。
双方とも激しい攻防戦をするも、多勢に無勢。
東海幸義が向かいの家の屋根にこっそり登り、雁股の大矢を放ち、矢は衛門四郎の首を貫き、
二本目の矢は小太郎の胸板を射通し、二人は討たれた。
これを見た左衛門四郎と甚右衛門は立ち腹を切り、最期を遂げた。

家臣が首を持ち帰り、ことの次第を言上すると、信建は怒りにまかせて首を獄門にかけたという。
津軽の官製史書『津軽一統志』もさすがに哀れと思ってか、一件っを記したあと、
「天藤が横死せし、不運のほどこそ浅ましけれ」と結んでいる。

以上、「続・つがるの夜明け」から

ちなみに熊千代のやけど跡は治らず、醜いままであったのも一因となり、津軽氏を継承せずに
為信三男で関ヶ原合戦時に家康本陣にいた津軽信枚が二代目を継承することとなった。




544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 14:19:17.31 ID:ebhULvH2
豊臣時代に信建は京でそつなく為信の代行をこなしてるんだよな

信建が豊臣に近かったことと為信よりも先に亡くなったことで、この系統は没落するんだよな
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