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戸川秀安の最期について

2022年07月18日 16:13

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/18(月) 14:38:41.02 ID:3H39QenK
天正十年には、東、北の諸国は概ね静謐となり、織田信長公は在洛されていた。
戸川秀安はその頃病気を患っており、東国が治まった事で、関東草津の温泉に、療養のため赴いた。

そのような所に、秀吉公が備中高松城を水攻めにされ、宇喜多家より危急の通告があり、
帰ろうとしている所に、信長公父子が御不慮の横死(本能寺の変)に及び、諸国一統に騒動し、
東海北陸のあたりは殊に全く通行すら出来かねる有様で、秀安も心ならずも草津に、四月から八月まで
逗留し、八月に上方に登って秀吉公に拝謁した。その後も大阪に詰めていたという。

しかしながら彼は病気のために、年々御陣にも出られないことが多くなった。
天正十四、五年頃に、宇喜多秀家公の重臣、四、五輩が受領を仰せ付けられ、秀安も叙任し
肥後守となった。
暫くあって病気を申し立て、受領を嫡子助七郎達安に譲り、自身は入道して友村と号し、児島常山の麓に
引き籠もり、茶湯、連歌、並びに文章を楽しんだ。
日々日蓮宗を崇み、病が進んだ後は仏道の外、他事無かった。
備前の宇喜多家家臣で古老の面々は、残らず日蓮宗を尊崇していた。

慶長二年八月六日、秀安は死去した。これは嫡子である肥後守達安が高麗陣のため留守をしている間の
事であった。常山に葬られた。その場所には今も、石塔がある。
法名自任斎坊授友林と号した。

惜しいかな、彼には生涯の行状記が無く、その悉くを知ることは出来ず、僅かに十のうち一つを
ここに挙げるのみである。
秀安の扶禄は二万五千石、外に預かりとして五十人組、凡そ合わせて六万石、人数三千の先手備えにて、
宇喜多直家第一の重臣であった。

戸川記

戸川秀安の最期について



298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/18(月) 15:40:06.22 ID:/AevqENK
危急の通告て何やろ
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この勢いに忠家は辟易し

2022年07月16日 15:55

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/16(土) 10:09:10.24 ID:/LXbNVQQ
宇喜多忠家(直家弟・入道後、号安心)は、小野田四郎右衛門(直家家老分の者也)を討った。
これに直家は大いに怒り、忠家はそれを恐れて富山城へ引き籠もり、直家が呼び出しても
出てこなかった。その様子はもはや謀反であると見え、これについて重臣である
岡豊前(家利)、長船越中(貞親)などは、日頃忠家との関係が悪かった事もあり、これを幸いと
直家に「御果たすべきです。」との旨を讒言した。

しかし戸川秀安は、忠家の乳母の子であった故にこれを嘆き、
「この事、それがしにお任せ下さるように。」
との旨を直家に願い、富山城へ向かった。しかし彼は忠家に対して一言の教訓にも及ばず、
偏に城攻めの用意をして、富山城の周囲に仕寄を付け井楼を用意し、夥しい攻戦の勢いを
奮い見せた。

この勢いに忠家は辟易したのか、起請文を出して降参した。
秀安はこれを取り繕って和睦を整えた。

これは秀安が、忠家が日頃から物に驚くという気質を能く知っていたためこのようにしたのだという。

戸川記

直家の前に出る時鎖帷子を付けていたという忠家ですが、ガッツリ後ろ暗いことやってたんですね。



542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/16(土) 13:58:17.49 ID:V+56qfjT
宇喜多は上から下まで悪い話ばっかりだな

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/16(土) 16:16:43.39 ID:wL7omZe+
そりゃあ防御を万全にしないと兄貴に会えんわな

544 名前:人間七七四年[時期は] 投稿日:2022/07/16(土) 19:12:18.40 ID:KA9Iku8U
というか主が稀代の大悪人なら、家来に善人が揃うものかというのが素直なとこだよね

性質廉直、柔和にて仁慈あり

2022年07月15日 17:00

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/15(金) 11:54:08.91 ID:BM9I11l+
戸川秀安は性質廉直、柔和にて仁慈あり、故に政事賞罰の事について、主君である宇喜多直家
不直が有る時は、何度も押し返し諌めて正理に行い、またこれ故に人々は彼を敬い懐いた。

岡平内(家利・後豊後守)と長船又三郎(貞親・後越中守)は共に短慮であり、どうもすれば
口論に及んだが、秀安はこれを宥め諭し、

「この三人が不和になった時は、主家破却の基であるぞ!」

と涙を流して説得した。故に両人も和平したという。

また、宇喜多直家は表裏有る将であり、時々、相違う事が多いことを隣国も知っていて、
宇喜多と何かしら議する事が有る時は、彼らは戸川秀安から起請文を乞い取ってこれを
実であるとした。

戸川記

宇喜多家における戸川秀安について。



戸川秀安とその母

2022年07月13日 18:49

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/12(火) 23:28:11.92 ID:QkyA8lng
戸川家の濫觴は、その祖を塀右衛門秀安と云う(幼名平助)。備後国門田という所の産まれであり、
父は門田某(姓氏不肖)、天文七年に誕生し、五歳の時父が死に、母の介抱によって備前に漂白した。

二歳の妹があり、母はこれを懐にて養育していたが、母が熟考するに、「今、乱世に男子たるものは
運を天に任せていかなる立身をもすることができる。あわれ平助を世に在らせたい。」と念願し、
先ず、この女児を携えていては足手まといになり平助の妨げと成ると、とある池に女児を沈め殺した。

それより平助は独り息子となり、作州に富川某という入道があって、彼は母の姉婿であり名の有る者で
あったので、彼を頼もうと思い作州へ頼り行き、入道に事情を話すと、入道は平助を見て、
「未だ嬰児ながらただならぬ所がある、後に家を起こさないような者では無いだろう。」と思い、
甲斐甲斐しく請け合い、養子として富川を名乗らせた。
母は悦んで平助をそこに残し、自分は再び備前へと帰った。

その頃、宇喜多興家は備前の守護(原文ママ)・浦上備前守宗景に仕え、邑久郡音湖の内に於いて、僅かに
三百貫を領し小身であったが、次男忠家が産まれその乳母を求めており、かの平助の母を召し抱えた。
この女は生来才発にて主人の心にかなったため、興家は家事を尽く彼女に任せるほど甚だ寵愛した。

そのような中、作州では干戈が起こって富川入道も死に、その妻であった母の姉も死に臨んで、姉が
帰依している僧に平助を託した。この僧も了解し、平助を連れて備前に出て実母へと渡した。
主人である宇喜多興家はこれを憐れみ、母とともに召し使う事にした。幸い嫡子直家も未だ幼かったため、
平助は直家の伽として扶助した。(平助は直家の五歳下である)

忠家が成長すると、乳母であった母は宇喜多家来の岡惣兵衛方へ、主人より嫁ぐよう命ぜられた。
ここにて彼女は男子三人、女子三人を産んだが、その後は子供のことは大抵にして、母は秀安を
取り立てる心からか、彼女は女ながら軍陣にも慣れており、子供に具足を着せ、駆け引き進退の事なども
教えたという。

ある時、夫子供が留守しているのを知って、強盗が大勢来る音がしたが、そのまま絹張の箙を取り出し
矢束ねを解く音をさせ、その後静まり返って人を呼び集める体を成した。
強盗たちはこれを外で聞いて、恐怖して逃げ失せたという。

このようなけなげなる女ゆえに、秀安を思いのままに産み立て、後年宇喜多家の長臣となり、飽きるほどの
武功を立てたのは、偏に母の功であるという。

(中略)

秀安は後年受領して肥後守と云った。また富川を戸川と改めた。
そしてこの母は長寿にて、孫の肥後守達安が備中国庭瀬城に在った頃まで存命し、諸人に尊崇され、
慶長八年、九十三歳にて死去。法名妙珠と云う。

(戸川記)

戸川秀安とその母について。全体的にはいい話なのだけど、この母エグい



このような時は、武功をなすべきである。

2016年01月12日 18:23

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/12(火) 02:40:22.81 ID:8ZqBou7N
朝鮮出兵の折、戸川肥後守(達安)の父・戸川平右衛門(秀安)
の家士・馬場重助という者が南天門の棟へ上って中を見ると、
人が1人もいない。

時に、重助は味方を顧みて招いた。同家士の宍耳太郎兵衛は
続いて上り、

「大門の一番乗り、宍耳太郎兵衛!」

と名乗った。これによって、重助は功を空しくした。このような時は、
武功をなすべきである。

――『常山紀談』




931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/12(火) 10:03:34.52 ID:D8+SgqqM
山内一豊のような強かさ

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/12(火) 17:22:34.35 ID:jBoLvV2e
あれを笑って許すのが器量ってやつだよなぁ

秀安は忠家の気質をよく知っていたので

2013年01月30日 19:50

222 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/01/30(水) 07:46:43.69 ID:ro4mP+NL
ある時、宇喜多忠家は直家の家老・小野田四郎右衛門を討ち、これに直家は激怒した。
忠家は怖れて居城・富山城(とみやまじょう)に引き籠り、直家の呼び出しにも応じないため
もはや叛意は確実と見られた。
ここで岡家利・長船貞親らは日頃忠家と仲が悪く、これ幸いと直家に討ち果たすべしと讒言した。
戸川秀安は忠家の乳母の子だったのでこれを嘆き、某にお任せくだされと願い出て
富山城へと向かった。

富山城に着いた秀安だが、説得など一言もせず城攻めの用意を始め、
仕寄を設け井楼を用意し、これでもかと城攻めの気勢を見せつけたところ、
忠家はこの勢いに恐れをなし、起請文を出して降参してしまった。
これを秀安がうまく取り繕ったので和睦となったのである。

秀安は忠家の日頃臆病な気質をよく知っていたので、こんな方法を取ったそうだ。

(戸川記)


戸川秀安、無言の脅迫で乳兄弟を救ったいい話。





224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/30(水) 08:58:32.27 ID:7XZCZzFN
・・・で直家に詫び入れるときは鎖帷子を着込んで登場ってわけですね

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/30(水) 21:43:21.71 ID:4c/Ysv3g
戸川△