器量の謀り

2016年04月19日 17:17

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 14:04:39.99 ID:l9K9toaz
泉州堺は大阪に近隣する繁華の湊であり、関東より柴山小兵衛が政所に置かれていた。

大阪の豊臣勢が片桐且元の茨木城を攻め、幕府と豊臣家との対立が決定的になると、
堺においては『大阪城中では評議が在って、ここに関東の軍勢が滞在できないよう放火すべきであると
決定し、軍勢を差し向けるそうだ。』との風聞が流れ、言葉にも出来ないほどの大混乱と成った。
ある者は財貨雑具を船に積んで四国南海へ逃れようとし、ある者は山林に身を隠し、親を忘れ
子を逆さまに背負った。

このように前代未聞の騒動の中、幕府の代官たる柴山小兵衛は当時眼病を患い、起居すら自由にならない
有様で、豊臣の軍勢を防ぐ事など考えもできなかった。

このような時、ここに阿賀屋正斎という古今不敵の町人が在った。彼は自身で街中を駆けまわり説いた
「女、童、足弱(老人)たちはどこかに避難させ、15歳以上60歳未満の男は一人も散乱してはならない。
今度のことは、私の計らいに任せて頂きたい。

その計らいの内容だが、若年の者と老人とは、当分の間交わりを絶って、敵味方のように振る舞って欲しい。
また、大阪には焔硝千斤を献上し、『堺の町人は残らず大阪の御味方です。』と伝え、放火狼藉を免れるべし。

また京都へ宿老の内二人を上らせ、所司代の板倉殿にこう申し上げよ『大阪より堺を放火して略奪するという
風聞が有り、この凶から免れるため、このように計らいましたが、これは全く御敵対をしようという決断では
ありません。』

こうしておけば後の祟も無いだろう。

また、若者たち二百人ばかりは政所に馳せ参じて、『備えの軍勢ではなかなか防ぐことも出来ないでしょうから、
早々岸和田に御退きあれ。』と提案せよ。今政所の柴山様は眼病でもあるから、必ずこの意見に従うだろう。
また、宿院の荒男(柴山小兵衛の弟である五助の事。この時代官として宿院に在った)が、我らが大阪に
焔硝を献じたことを咎めてきたら、『その事は老人たちの采配であり、我々にはどうにも出来ませんでした。』
と、若者たちはその難を逃れよ。また、大阪から政所の者たちが岸和田に退いたことを咎められた時は、
『若者たちが是非を存ぜずあのようにしてしまいました。そのため私達は、彼らを義絶致しました。』
と言い訳して時間を稼ぐのだ。

そして、天下一統の時は宜しき方に従う迄である。絶対に騒動してはならない。」

堺の人々はこの提案を受け入れ、尽く鎮まった。
豊臣家が滅び天下一統の後、大御所徳川家康はこの話を聞くと、
「器量の謀りである。あの時の状況に適した智謀であった。」そう賞賛し、阿賀屋に褒美を与えた。

(慶元記)



スポンサーサイト

阿賀屋正斎・器量の謀り

2013年02月18日 19:51

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/18(月) 12:17:08.08 ID:c0AXQ9Pk
大阪冬の陣が勃発した時の事

泉州堺は大阪の近隣で、繁華な港であり、幕府からは柴山小兵衛が代官として置かれていた。
この頃大阪城の評議として、幕府軍の駐留を妨害するため、堺を放火すべしと決定され、
そのための軍勢が派遣された、との旨が聞こえてきた。

これに堺は大恐慌をきたし、あるいは私財雑具を船に積んで四国南海へと向かおうとし、
あるいは山林に身を隠し、親を連れて行くのを忘れる、子を逆さまに背負うなど、前代未聞の騒動となった。
こんな時に代官の柴山小兵衛は眼病を患い、起居すら自由に成らぬ有様で、この混乱を防ぐ術もなかった。

ここに、阿賀屋の正斎といって、古今不敵の町人があった。
彼は自身で堺の街中を走り触れて回った!

「女子供、足弱の老人たちは、どこかに避難させるべきである!
そして15歳以上60歳未満の男は一人も逃げ出してはならない!今度のことは私の謀らいに任せて頂きたい!」

この、正斎の謀らいとはこのようなものであった

「年若の者達と老人とは、当分は交わりを絶って、敵味方のように振る舞っていただく。
また大阪へは硝石千斤(約600キロ)を献上して、堺の町人は残らず大阪の御味方なりと言って放火狼藉を免れるべし。
また京都にも、町衆宿老のうち複数名を上らせて所司代板倉殿にこう伝えるのだ

『大阪より堺を放火して略奪を行うという情報が聞こえてきたため、この災いから
免れるためこのような計らいをいたしましたが、これは全く、幕府に対して御敵対すると
意図したことではありません』

これを言っておけば、後の祟も無いだろう。

また、若き者どもは200人ばかりで代官所へ馳せ参じ

『僅かの軍勢にては中々大阪方を御防ぎすることは叶わないでしょう。早々に岸和田にお退きなさいませ。』

と申し上げるのだ。代官此の頃眼病を患っており、必ずこの言葉に従うであろう。
この時代官所の荒男(吏僚)が大阪に硝石を献上したことを咎めるならば、

『その事は老人たちが差配したことであるので、我々ではどうすることもできません。』

と申し上げ、若者たちはその難から逃れよ。

また、大阪から代官を岸和田に避難させたことを咎めてくれば、年寄衆が

『若き者どもが是非を存ぜずにあのような事をしてしまいました。それ故に、私どもは彼らとは義絶したしました。』

と申し上げ、大阪方の実力行使を引き延ばすのだ。
そして現在の事態が収拾すれば、その時宜しき方に従うまでである。

とにかく、必ず騒動し混乱してはならない!」
そう人々を制した。

この後暫くして大阪の陣も鎮まり天下一統に復したのち、大御所(家康)がこの阿賀屋の正斎の事を聞き

「器量の謀りである。その時の事態に応じた智謀である。」
(器量ノ訛方ナリ、時ニ取テノ智謀)

と高く評価し、彼に褒美を下されたとのことである。
(慶元記)

大阪の陣勃発のおり、活躍した町人についての逸話である




448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/18(月) 12:54:44.88 ID:bpPmMlrL
結局焼き払われてるがな(´・ω・`)

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 08:23:22.97 ID:UCrLU+aF
>>448
それ夏の陣

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 10:47:56.19 ID:OEF++wXY
実際大阪の陣が始まる直前に、城方が堺を襲撃してるんだよね
で、片桐且元や今井宗薫が奮戦して且元の重鎮・多羅夫左衛門とかが戦死してる
だから堺における動揺と混乱ってのは非常に激しいものがあったんだと思う

(「本光国師日記」「大阪市立博物館所蔵、今井宗薫・宗呑宛片桐且元直筆書状」)