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中馬大蔵

2014年09月04日 18:54

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/04(木) 04:29:14.01 ID:tENVPmda
中馬大蔵

秀吉亡きあと、前田利家が他界すると上方
での情勢が慌ただしくなってきました。
誰もが戦が起きると感じ取っていたようです。
しかし、その頃の島津義弘の在京兵力は
わずかに200人ほどでした。
「義弘が京で兵がなく困っている」というニュースは口コミで伝わり、なんと義弘を
慕う家来たちは陸路を京へと走り出したのです。
その時、中馬大蔵は畑にいて甲冑を着て走
る者を呼び止め、その話を聞くなり、その
者の甲冑を奪い、走り出しました。
大蔵は九州統一のころから、朝鮮出兵にも
義弘軍に従軍し、非常に義弘を慕っていた
ことがうかがえます。このように、陸路を
走って、関ヶ原の合戦の開戦の前に着陣し
た者は1000人ほどいました。そして、大蔵
が着陣すると義弘は「大蔵は真っ先に来て
くれるだろうと思った」と涙まで見せたと
いいます。




126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/04(木) 06:32:04.97 ID:tFlF7n/c
「走って参った!」

ってか奪うなよw

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/04(木) 07:33:08.46 ID:TtX6PoK2
奪われた家臣はその後どうなったん?w

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/04(木) 08:30:50.29 ID:s1I28lv4
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-390.html
ちゅうまんさんの有名なエピソードだとだとおもったのに、
そういう反応がないってのは、もしかしてこの話が有名なのは鹿児島だけだったのだろうか
鹿児島の自分の伯父なんて、島津義弘の名前は知らないのに、なぜか中馬重方の名前は知っていた

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/04(木) 08:56:31.45 ID:TRRUjqoY
大坂や京なら戦場でかっぱらってきた甲冑を売ってそうだが
もっとも、畑仕事に行くのに銭なんか持って出ないだろうが

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/04(木) 10:40:44.49 ID:eB71V3XZ
薩摩人は素で「考えるな。感じるんだ」みたいな連中だからな
だからこそ最強のお留守番も、くじを引いて視覚的に納得させたのだろう

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/04(木) 10:52:20.50 ID:s1I28lv4
一応中馬重方はちゃんと考えている方
以前にも出たが、関ヶ原の退き口後薩摩に逃げ帰る途中、
弱った馬を潰し、義弘の駕籠かきが義弘に馬肉を差し出したところ、
中馬「こら!殿様はいざというとき腹を切るだけの力が残っていればいい。
馬肉は駕籠かきのお前が食え!」(自分が食ったという話も)
と思慮深い発言を

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中馬大蔵必殺の技

2011年08月18日 23:01

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/17(水) 20:48:06.59 ID:C/obvjCI
関が原の戦いの時のこと。いわゆる『島津の退き口』の際、島津義弘は福島正則の陣中を横切った。
百戦錬磨の正則は、死兵と争う愚を避け、家臣に深追いを禁じたが、正則の養子・正之など一部の将は
これを猛追した。

中でも穴沢某なる武者の勢いは凄まじく、大長刀をあたかも小枝の如く右に薙ぎ、左に払って道を作り、
義弘目がけてまっしぐらに迫ってきた。
「あれは尋常の武辺者ではない。大蔵、お前で無ければ相手になるまい。征けっ!」
「承った。」
義弘の指名に一言で応じた中馬大蔵少輔壱重方は、前線に飛び出ると自慢の強弓を番え、「来い!!」
と、穴沢に呼びかけた。

「おい、本当に向かって来たぞ。中馬殿、早く矢を射ぬか!」
「まだまだ。」
同僚の心配する声をよそに、中馬は微動だにしなかった。
「中馬殿!」「まだ!!」
もはや穴沢の顔がハッキリと分かる距離になっても、中馬は矢を射ようとしない。

ついに目前に迫った穴沢は、大長刀を一閃させ、中馬の弓を真っ二つに斬り折った。

と同時に、穴沢はバタリと倒れ伏した。その胸板には、中馬の放った矢が深々と突き立っていた。
(想古録より)


実はこの零距離弓術こそが、『良き敵』のみに使用する中馬大蔵必殺の技であり、彼は戦に臨んで
矢を二筋しか持って行かなかったという。




122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/17(水) 21:08:07.47 ID:5Cq6PbZZ
大坂の冬の陣で活躍した薙刀使いの穴沢主殿助と関係あるの?

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/18(木) 08:58:21.15 ID:CGWfRhLy
>>121
そこは普通に種子島使うべきだろ
戦国時代は成功した厨2病は語り継がれるが、きっと何万何千もの厨2病患者の屍の上に築かれた栄誉なんだろうな…
義弘も若かりし時に刀じゃ無く大剣もってヒャッハーしようとしたら大怪我負ってたな…

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/18(木) 09:56:16.34 ID:pENoDK33
戦が始まる前の心得としてはごもっともだが
戦中なら自分が最も自信のある武具を用いるのがベターでないかい

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/18(木) 11:57:50.79 ID:bRnA5TpI
>>121
中馬 大蔵少輔 壱 重方 だよな?


この壱ってなんだ?

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/18(木) 12:22:53.26 ID:uiONzrgf
>>130
つい、中馬大蔵少輔・壱、中馬大蔵少輔・弐、中馬大蔵少輔・参…と続くのを想像してしまったw

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/18(木) 20:09:35.90 ID:N1SgclVI
義弘「中馬が量産の暁には徳川など(ry


133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/19(金) 05:52:01.27 ID:drJIDQhw
中馬「殿の食事なぞ(ry


134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/19(金) 13:47:16.82 ID:vSpXtfY8
>>132-133
仲良すぎだろ二人共

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/19(金) 20:51:42.44 ID:LciVYVec
中馬大蔵も食うに困って藩庫に入る年貢米を奪って居直ってみたり、
義弘が見初めた娘を見に行かせたら「ワシの嫁だった」(←勿論まだ知り合いでもない)と報告して嫁にしちゃったり、
西日本一のめんどくさい侍だよなw

これに対抗できるのは三河もんか曲淵庄左衛門ぐらいだろうな


136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/19(金) 21:13:59.83 ID:m4CNpvlm
作佐と鳥居元忠を合わせた感じ

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/19(金) 21:21:28.79 ID:vSpXtfY8
>>135
それ、面倒臭いって類かな? 扱いに困る というのもまた何か違うし

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/19(金) 21:33:17.01 ID:v0YceKF1
>>135
めんどくさいというかただの人格破綻者のような

めんどくさいというのは一応根本に主君愛なり自頑固さみたいな自分なりの哲学あってのものだけど
こいつの場合は自分の欲望最優先なだけで本人なりの哲学とかなしに主君に迷惑かけてるだけでないかい

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/19(金) 21:43:32.47 ID:vSpXtfY8
義弘が関ヶ原から退散した時に
殿は馬乗ってるんだから、肉食うなって言って、渡さなかったのもこいつだっけ?

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/19(金) 22:39:53.03 ID:vXom+iIq
こんなのが居るんじゃ悪久も部下を処分したくなるわな

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/20(土) 03:18:33.37 ID:nVPNeU8d
>127
ぶっちゃけ種子島は不発の危険性があるので・・・
弓なら弦が切れない限りは大丈夫だし。
零距離射撃にこだわらなければ別にいいんだけどね。

ギリギリまで引き付けるのは威力と「絶対外れない距離で射る」ってのが狙いなのかな。

島津義弘、中馬大蔵をかばう・いい話

2009年05月17日 00:15

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/16(土) 11:37:49 ID:N7hk9jpK
上で島津義弘と中馬大蔵の話があったので、別の逸話を投下。

島津の中馬大蔵重方が家に帰ってみると、嫁や娘が泣いていた。
こりゃどうしたことだと尋ねてみると、年の暮れなのに今夜炊く米もないと。
この言葉に中馬大蔵が一言。

「そんな事で泣くやつがあるか。都合してくる」

と、言って、向った先は、百姓が藩の米蔵に米を納めに行く道。
何と中馬、その道に立ちふさがって、来る百姓に
「これから後の米は自分が殿様から貰ったから、自分の家に運べ」
と、言ってのけた。無論、百姓衆は信じないのだが、
断ったら切り捨てられる雰囲気だったので、言われた通りに。
中馬は、それらの米を、家の倉に入れさせ、縁に積み上げさせ、
屋根裏にまで入れさせた後、焼酎を買って、百姓に充分に振舞った。

さて、収まらないのは藩の役人達。早速中馬の所に行って、米を返すよう抗議するのだが

「拙者は戦場においてはいつも一番槍、一番首を欠かさない代わりに、
米は殿様に預けていると思って貧乏に甘んじている。
 飯米がなくなったので、今日は預けていた米を返してもらっただけ」

と、全く悪びれた様子も見せない。とうとう中馬に切腹をさせようと老臣達が評議した所、
義弘が一言。

「中馬はしょうがない暴れ者だが、戦場では最も重要な所で活躍する剛の者で、
巧妙手柄は数え切れない。
 それほどの者を貧乏にしているのは自分の罪だから、自分が謝るので許してほしい」

と、涙を零して詫び、結局不問になった。
家来思いの島津義弘の良い話とすべきか、中馬大蔵の悪い話とすべきか迷ってしまう逸話である。




649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/16(土) 23:15:09 ID:KSJibq/C
>635葉隠にもあったねえ。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-612.html

 そろばん勘定の才覚はないけど、強剛のもののふで主君から目を掛けられている
武士のテンプレなのかもね。

台風からの義弘邸復旧作業と中馬大蔵重方・いい話?

2009年05月16日 00:11

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/15(金) 21:25:12 ID:BUiiyiqc
じゃあ南のほうで空気を読まない人を。



その年も薩摩は台風に見舞われた。
義弘の屋敷も無事では済まず、庭は荒れ放題、屋根も壁も惨憺たる有様だった。

そこへあいつがやってきた。
その名を中馬大蔵重方。
「船に乗り遅れたから走っていくばい!」と関ヶ原まで文字通りに駆けつけたり、
その途中、「スマン、後で返すから!」と叫んで他人の鎧をぶん取ってみたり、
退却戦では「おいどんが倒れたら殿の一大事ですたい!」と義弘の食事を横から頂戴したり、
挙句にニコニコ大百科では「愛すべき馬鹿」呼ばわりされている、言わば薩摩の⑨である。

その中馬が屋敷を訪れたとき、大工や庭師は岩のような庭石を元の場所に戻そうと奮闘しており、
義弘は庭の縁側で「頑張れ頑張れ」と督励している真っ最中だった。

実のところ義弘、屋根の雨漏りや垣根さえ直してもらえばよかったのだが
庭師や大工達が「いや、こうなったら隅々まで治させてください!」というので彼らに任せていた。
だがさすがに大きな庭石は数人掛りでも動かせず苦労する破目に。
その一方で義弘も「庭師達にも意地があるだろうし、ここで俺が手伝ったら面目丸つぶれだよなぁ」
と督励するにとどめていたのである。

だがそんな義弘の心遣いも天然の一言が木っ端微塵にする。
「おいおい、そんな石ころ一つに何を手間取っておるのだ。
 どれ、それがしが動かして進ぜよう」
言うが早いか庭師たちを押しのけ、庭石を軽々と元の位置に戻してまった。

呆然とする庭師たち、あちゃーと頭を抱える義弘を意に介さず天然は追い討ちをかける。
「ささ、殿もこれへ!こんなもの日が暮れる前に片付けてしまいましょうぞ!」

結局、大勢の庭師や大工でも片付けられなかった多くの庭石は
「鬼島津」島津義弘と「五人力」中馬大蔵の二人で全て片付けられてしまった。

義弘は中馬の昔と変わらぬ働き振りを褒めるとともに
「殿やご家中の方の手間で煩わせては…」と褒美を固辞する庭師たちを
存分にねぎらって帰らせた。

関ヶ原の後の話なので義弘も中馬も良いお年のはずなのだが、
三つ子の魂百までとか雀百まで踊り忘れずとか、そんな感じの話。




616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/15(金) 21:29:13 ID:aqoa0RVl
>>615
ニコニコ動画を見てること前提の用語と、東方Projectを知ってること前提の用語を使うのは
流石にいかがなものか。

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/15(金) 21:42:41 ID:ZA4zSfkI
> 言わば薩摩の⑨

ここがどうしてもわからん

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/15(金) 22:02:39 ID:dW2YIGu+

>>619
下を参照してくだされ
ttp://www.geocities.co.jp/Playtown-King/6260/cirno/cirno.htm

このネタがニコニコ動画なんかで良く出てくるというワケでして
しかしこれは>>616に賛成
2chだからってみんながニコ動見てるとは限らないんだぜ?

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/15(金) 22:07:22 ID:BUiiyiqc
いやスマン、以後気をつけるわ。

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/15(金) 22:11:20 ID:zK/CJuL9
でも空気読めない奴ってキライじゃないぜ

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/15(金) 23:40:11 ID:PKI1fIbo
>623空気なんか読んで阿諛追従してたら

さくざがしかる

からな

中馬大蔵の関ヶ原の思い出・いい話

2008年10月29日 00:05

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/28(火) 12:28:44 ID:g/Al61t/
中馬大蔵の逸話は鹿児島では有名だよ
上記の話の続きには最後に大事な話がある
以下コピペ


江戸時代はじめのことである。鹿児島城下の二才(にせ)たちが25里(約100キロ)の道を歩いて、
出水の中馬大蔵(ちゅうまんおおくら)(1564-1635年、大蔵允〔おおくらのじょう〕重方(しげかた))を訪ねた。
慶長5(1600)年の関ケ原合戦からすでに2、30年たっていた。中馬もすでに還暦を越えていただろうが、
合戦従軍者のなかの数少ない生き残りだった。

二才たちは城下の咄合中(はなしあいじゅう)(のちの郷中教育の前身)に属し、関ケ原の合戦談を
中馬からじかに聞くために、はるばるやってきたのだ。
応対した大蔵は二才たちが麻上下の盛装をしているのを見て、自分も盛装し、威儀を正して二才たちと対座した。
二才たちが「後学のために、ぜひに関ケ原での武勇談をお伺いしたい」と頼んだ。
二才たちは中馬の口から出てくる言葉を一言も聞き漏らすまいと真剣なまなざしを向けている。

ところが、話を切り出そうとした中馬だったが、意外な成り行きになった。
「(中馬は)麻上下で床を背にして坐(すわ)り、『関ケ原と申すは…』と言い出したものの、
みるみるうちに感涙があふれ出て、それから先、一言も語ることができなかった。
二才衆も同様で、しばらく呆然(ぼうぜん)とするしかなかった。
二才たちは帰路の道すがら、関ケ原の話はこれまで何度も承ったが、
そのどれよりも優れていたと語り合い、言葉にできないほどの難儀を思いやったという」(「薩藩士風沿革」)

中馬の朴訥(ぼくとつ)で涙もろい性格が察せられる逸話である。
中馬は義弘のお気に入りの家来だったらしく、
「中馬大蔵殿は惟新(いしん)公(義弘)別して御秘蔵の人」といわれている(「薩藩旧伝集」)。


作家の桐野作人氏が地元紙に逸話を寄稿しています。ついでに中馬重方でwikipediaにも載ってる
ttp://373news.com/_bunka/jikokushi/37.php



163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/28(火) 12:56:40 ID:XfmiMr3M
さすが島津奔るの主人公なだけあるな

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/28(火) 14:38:57 ID:mILF7veu
ただそれはどっちかつうといい話だな

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/28(火) 19:34:00 ID:TlpN2Qu+
このくだりを読むたびに、釣られてないてしまう

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/28(火) 19:37:37 ID:QIy/caP/
>二才たちは帰路の道すがら、関ケ原の話はこれまで何度も承ったが、
>そのどれよりも優れていたと語り合い、言葉にできないほどの難儀を思いやったという
二才達もできた人物だな。
普通凡人ならあの爺さん泣いてやんのwとか馬鹿にしそうなシチュエーションだけど
今までに聞いたどの関が原の話よりも優れていたと感じれるのは普通に凄いな。

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/28(火) 19:50:56 ID:vb0yKRQc
>>164
確かに。

しかし、義弘の飯強奪とか、他人様の鎧強奪の話が伝わっているところを見ると
年を取る前には涙腺もゆるんでなくて
いろんな話を二才連中にしゃべってたんだろうな、と推測。

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/28(火) 21:51:08 ID:uH1rNRa1
幕末薩長は好きじゃないけど、この手の話を訊くと
さすがに維新回天の主役を担った連中の先祖だけはあるなと賞賛したくなる。

中馬大蔵、島津義弘の兵糧を奪う・悪い話

2008年10月27日 00:04

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/26(日) 19:56:58 ID:fmb3/Po7

関ヶ原の合戦で西軍が負け、西軍についていた島津義弘軍は
家康軍の前を突破するという前代未聞の退却劇で何とか大将の義弘は助かった物の、
他の名だたる武将はあらかた討ち死にしてしまい、しかも折からの雨と日没で迷子になる武将も続出し、
ついに1000人ほどいた軍勢が50人になってしまった。

もっとまずかったのは、みんながろくに兵糧も持っていなかったこと。
気が付けば朝からほとんど何も食べていなかった。
そして、空腹と疲労のためで多くの兵が身動きできなくなってしまった。
・・・結局、やむなく最後に残っていた一頭の軍馬を斬り殺して食べることになった。

やがて、焼き上がった肉のかたまりを捧げ持った兵が義弘の前に出て
「殿様、これでもお召し上がり下さい」
と、言おうとした そ の 瞬 間
義弘の目の前からあったはずの肉が消えてしまった。
やはり肉は疲労のための幻覚だったのか?いやいくら老眼でも見間違いのはずはない。
気が付くと一人の小汚い兵が義弘が食うはずだった肉をむさぼり食っている。
他の武将がその兵を叱りつけると、その兵は
「なにぬかしとんじゃおんどりゃー
 殿様を担ぐ雑兵が倒れたら、助かるはずの殿様も助からんのじゃわれー
 雑兵のためには飲まず食わずで我慢するのがほんまの殿様にきまっとるじゃろうが!!!11」
・・・と逆切れした。あまりのことに義弘は呆気にとられて苦笑するだけだったという・・・。

この雑兵の名前を 中 馬 大 蔵 という。
帰国後、この暴り・・・いや、豪椀を買われて国境の出水に領地を与えられる。



131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/26(日) 20:03:12 ID:88BmKRf6
島津奔るのあの人かw

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/26(日) 20:13:39 ID:tpnLfTgz
子供向けの島津何とか(たぶん義弘)の伝記で、
関ヶ原編の主人公的扱いをされていたのが中馬大蔵であったことは、
島津奔るで知った。

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/26(日) 21:25:26 ID:BYrcVKmA
親父は人間できてるのになぁ

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/26(日) 21:54:15 ID:TWQ3AQ/1
>>130
いい逸話だ
雑兵の主張はけだし正論だろう

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/26(日) 22:00:20 ID:nPAXcyCA
>>130
義弘は輿にのってたそうだから正論ではあるな。

薩摩隼人具足を奪う・悪い話

2008年10月27日 00:02

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/26(日) 21:52:24 ID:J0cBuwX+
名前でぐぐったらこんなエピソードもあった
ttp://www.geocities.co.jp/NeverLand-Mirai/3960/tinjiken.htm

味方の具足を奪う!
1600年、関ヶ原の戦いの時、西軍についていた島津軍はわずか200人ほどしか兵が集まっていなかった。
島津義弘は、兄の義久に援軍を要請するが、先の朝鮮出兵や、伊集院忠真の荘内の乱等のため兵を送る事が出来なかった。
しかし、島津豊久などが義弘を助けるために無断で義弘のもとへむかっていた。
その時、中馬大蔵(重方)という武将は畑にいた。
大蔵も義弘のもとに行こうとするが具足をもってきていなかった。
しかし、畑は家から離れており具足を取りに行くひまがない。
すると大蔵は、走りぬいて行く味方の兵から具足を奪い義弘のもとへと行った。いくら具足がなかったとはいえ、味方から具足をとるとはすごい。
奪われた味方の兵はどうしたのであろうかと思うのは、私だけであろうか。
ちなみに、この中馬大蔵は私の祖先にあたる武将である。



136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/26(日) 21:55:16 ID:/3d3ezmY
>>134
具足無いから帰ったのかもな。
関ヶ原行ってたら死んでた可能性が高いから感謝してるかも