903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/12(火) 01:51:54.47 ID:+UJq/Rto
慶長19年7月19日、福島掃部頭高晴(正頼とも)は、幕府より閉門を仰せ付けられた。
これはその先年、高晴の家臣が、主人の行跡よろしからずと訴訟を起こしたためであったが、この時は、彼の兄である
福島左衛門大夫正則の旧勤に免じられ、厳密の御沙汰には及ばなかった。
この時、彼を訴えた家臣は逐電したのだが、この高晴はその行方を探し出し、終に駿府の町家に潜んでいるのを
突き止め、手のもの5人を差し向け理不尽に搦め捕ったのである。
これに駿府町奉行の彦坂九兵衛は、届出なしにこのような捕物が行われたことを憤り、高晴を譴責した。
そのためこの騒動は大御所・徳川家康の裁定を仰ぐこととなり、詮議の上勘気を被った。
こうして、事件の翌年6月下旬、高晴の咎は重畳であると、小堀新助宗次、中坊左近秀政によって伝えられ、
彼の大和国宇多郡6万石を没収、改易となった。この時同時に、宇陀城も破却された。
(関難間記)
福島正則の弟、福島高晴改易についての記録である。
慶長19年7月19日、福島掃部頭高晴(正頼とも)は、幕府より閉門を仰せ付けられた。
これはその先年、高晴の家臣が、主人の行跡よろしからずと訴訟を起こしたためであったが、この時は、彼の兄である
福島左衛門大夫正則の旧勤に免じられ、厳密の御沙汰には及ばなかった。
この時、彼を訴えた家臣は逐電したのだが、この高晴はその行方を探し出し、終に駿府の町家に潜んでいるのを
突き止め、手のもの5人を差し向け理不尽に搦め捕ったのである。
これに駿府町奉行の彦坂九兵衛は、届出なしにこのような捕物が行われたことを憤り、高晴を譴責した。
そのためこの騒動は大御所・徳川家康の裁定を仰ぐこととなり、詮議の上勘気を被った。
こうして、事件の翌年6月下旬、高晴の咎は重畳であると、小堀新助宗次、中坊左近秀政によって伝えられ、
彼の大和国宇多郡6万石を没収、改易となった。この時同時に、宇陀城も破却された。
(関難間記)
福島正則の弟、福島高晴改易についての記録である。
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