蘆名義広の改名

2013年03月15日 19:57

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/14(木) 20:14:10.16 ID:7q8hpfO6
天正17年(1589)、蘆名義広は摺上原の戦いによって、従兄に当たる伊達政宗より会津を追われた。

それ以前から伊達政宗の累年の狼藉は豊臣秀吉の耳にも聞こえており、蘆名義広に対して少々の
援助は有ったものの、何と言っても都鄙は遠く離れており、援兵を送ることが出来なかった。
その為この様な事態になったのである。

こういう事であったので秀吉は義広に、会津を奪われた罪を問うこともなく、この年、
小田原征伐のため関東に下向した後に、政宗を所領を取り上げ、先規のごとく義広を旧領に戻すと、
折あるごとに伝えてきた。
これを義広は一途に頼りに思っていた。

さて、3月になって秀吉は、北条退治として相模国に下向し、小田原にしばらく陣を定めた。
この時蘆名義広は石田三成を通して、前から内々に言われていたよう、会津への復帰・安堵の
御沙汰が出ることを願い上げたが、はたして、鳥がいなくなれば良い弓も捨てられ、兎が死ねば
猟犬も煮て食われる、という諺の通りであろう。

秀吉は去年までは、北条を退治することを心にかけ、関東・奥州に一人でも味方をつくろうと
考えている時は、義広にも会津への復帰の御沙汰などあったのだが、この頃小田原北条氏は
秀吉軍の猛攻に言う甲斐もないほど弱り果て、残った燭の火が今まさに消えようとする有様であり、
逆に秀吉の威光の上り立つこと、烈火の焔を巻くにも似ており、この様な状況で義広は、
旧領復帰の沙汰を、言い出すことすら出来なかった。

こう言った状況で、取次の石田三成は蘆名義広に対し、内々にこのように提案した。

「あなたは”義広”と名乗っていますが、蘆名の家督を相続されたのですから、(蘆名の姓である)
平氏累代の一字、例えば”盛の某”などと名乗るべきなのです。
それなのに、いかに源氏の名門である佐竹の御子であるとは申しながら、養子に入っても
そのまま”義広”と名乗られていること。これでは平氏の家督を相続されたとは、言い難いのでは
ないでしょうか?」

これを聞いた義広は、誠にその通りだと思い、すぐに”盛重”と改名した。
その後も折につけ様々に訴えたが、秀吉の方ではこれに全く関心を示さず、会津の旧領を
回復することは終に無かったのである。
(会津四家合考)




914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/14(木) 23:36:32.21 ID:q2hi2GXb
三成のエピソードは何なんだ。名前変えたらいいことがあるのかと思いきや何もないじゃないかw

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/15(金) 02:59:22.00 ID:Rsw3PLK2
アピールしすぎてウザがられたんじゃw

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/15(金) 06:36:54.47 ID:L/B8O0RT
前線で一隊率いてアピ。アボーンすればそれで御仕舞いリスクはあるけど。

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/15(金) 09:55:37.06 ID:bmlkKorS
三成ってほんと、普段気を遣わないくせにたまに余計な気を遣って失敗しますます恨みを買うっていう、
天才タイプというかなんというかだな

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/15(金) 10:43:46.45 ID:dvPhRh2j
養子とはいえ佐竹の子息だし勢力拡大を恐れたんじゃないの?
小田原で何か戦功があったわけでもないのに旧領復帰とか虫がよすぎる

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/15(金) 14:50:16.84 ID:Oh8VcyrX
家康と政宗の両方を牽制しないといけない場所に
家柄だけの人間を置くわけにはいかないだろうな

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/15(金) 15:46:14.35 ID:81johXuF
まーくんと仲良く攻めて来ちゃまずいしかといってタヌキとま-くんとガチ戦争するような
椰子でもまずい・・・やっぱ工場長とかになるだろうな、クロカンじゃ絶対陰謀しそうだし

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/15(金) 18:21:11.24 ID:RguHCmfy
>>914
>>917
「はいはいわしが悪いわしが悪い」


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