中江与右衛門の異議

2013年03月16日 19:51

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/16(土) 14:09:28.30 ID:ErCvbDB9
寛永五年、祇園祭の夜のこと。
儒者、菅玄同が弟子の安田安昌に斬り殺される事件がおきた。
これを受けた林叔勝(羅山長男)は、
藤原惺窩の弟子で、京都では知られた存在であった玄同擁護に立ち、
弟子が師を殺すなど不義不忠の至りであると、
安昌への徹底的な批判を展開した。
学問派閥の頂点、林家が意見したことでこの事件は瞬く間に全国へ知れわたることとなった。
林家が言うのならばと、安昌への批判はいっそう激しさを増したのだが、
伊予国は大洲藩の下級武士、中江与右衛門がこれに異議の声をあげた。
近江滋賀生まれの与右衛門は京での菅玄同のふるまいを知っていたこともあり、
菅玄同という儒者は、膨大な書物を読み知識歴史には詳しいが、
詳しいがゆえに、あくまでも文字で示した「仁」であり「義」の型に人を押し込め、
「忠」という文字をもって弟子を扱い、
その態度はまるで畜生を扱うようであったことを批判し、
あれでは弟子の人間性も武士の誇りをも傷つけて当然である。
しかし、弟子の安昌も短絡的に過ぎたとし、
師、弟子ともに人面獣心であったと結論した。
そして、その三年後には、
「林氏、髪を剃り位を受くるの弁」
という論文を発表し、林羅山の知識偏重と美麗字句を批判するに至る。
それが与右衛門二十四歳のころ、
後の日本陽明学の祖、中江藤樹である






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