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三好元長の滅亡

2020年05月14日 17:20

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/14(木) 01:04:19.56 ID:xkIpefxS
享禄五年(1532)、細川晴元の要請による一向門徒一揆の輩は、畠山義堯を討つと、その勢いで
三好元長入道海雲を討ち取らんと堺へ向かった。

六月十九日の夜、元長は妻子を近づけこのように申した
「敵は今にも攻め寄せ、多勢が路を遮るため、落ち行くことは難しい。私はこの寺にて腹を切って死ぬ。
其の方は如何にもして、嫡子千熊を伴い急ぎ阿州へ落ち行きて、ここの有様を讃州持隆へ申し上げ、千熊を
預け奉って家の運を待ち給え。」

と暇乞いをした。妻女は名残を惜しみつつ「同じ枕にて死に遂げん」と涙を流して申されたが、供の侍が
押し分け妻女も千熊も疾く疾くと追い立て、小舟に乗せて漕ぎ出し、阿波国へ落ちていった。
海上遥かに隔たった頃、夜はほのぼのと明けた。この千熊丸、成長の後は四国五畿内、おしなべて天下に
威を振るった三好修理太夫長慶と云われた人である。

去るほどに、明ければ六月二十日、和泉、河内、摂津三ヶ国の一揆十万余人、馳集まって三好元長の陣所、
堺の津南ノ庄へ取り掛かり、鬨の声を上げて攻めかかった。三好山城守(一秀)、塩田若狭守等は随分
防ぎ戦って、一先ずは一揆を追い散らしたが、寄せ手は限り無い大勢が、幾重とも無く取り囲んで、入れ替わり
入れ替わり、息をも継がせず攻めかかった。また元長の陣所である南ノ庄の者たちも、一揆勢に説得されm
俄に心変わりし所々より敵を引き入れたため、もはや何処を防ぎ留めるという事も出来なかった。

三好元長は、「軍には取り合わず、敵を防ぐに及ばず」と、日頃信仰している日蓮宗の顕本寺に立て籠もり、
「これこそ閑所なり。思いのままに腹切るべし」と云っている所へ、ここにも敵は寄せてきて、四面を
取り巻いた。そのころ、阿波の御所である足利義維は河内国四条の道場に居られたのだが、これも顕本寺に
入られており、一揆等はこれも取り込めた。

三好元長は当寺の本堂に端座して、腹十文字に掻っ切り、腸を繰り出して天井へ投げつけ、臨終正念に
死去した。その腸の跡は、近年まで顕本寺本堂の天井に残っていたと聞いている。
三好山城守一秀も、お伴申さんと続けて腹を切って死ぬと、塩田若狭守、同子供二人、加地丹波守父子、
その他都合二十余人、尋常に居並んで腹を切って死んだ。御所侍の上杉等も八人自害した。
この日、三好方死亡の者上下七十余人。一揆の寄手等も三十余人討たれた。
阿波御所(足利義維)も既に御腹を召されようとした所を、晴元方より使者が来て御刀を奪い参らせ、
人数多警護し奉って元の如く四条の道場へ送り入れ奉った。誠に危うきことであった。

さても細川晴元は、言う甲斐もない者共の讒言を信じて、老臣である三好元長を殺した事は、一家の衰運、
このような事が何事があろうか。例えて世の諺に言うならば、天竺に有ると聞く銘々鳥という鳥、胴は
一つで喙は二つ有り、二つの喙が互いに餌物を争い、一方がもう一方の喙を喰い伏せれば、残る喙も胴も
一度に倒れ死す。今晴元のやったことは、この鳥に異ならず、遠からず滅亡するであろうと、心有る人は
言い合った。

續應仁後記

三好元長の滅亡について



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昔阿波衆鑓突きと申し伝わり候事

2013年03月26日 19:50

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/25(月) 22:40:35.14 ID:WSOpR7a2
昔阿波衆鑓突きと申し伝わり候事

越前のくわうりん(朝倉家家臣・佐々布光林坊)と申す者、2万人の軍勢で都まで進出した。
(これは大永7年(1527)、細川晴元と対立し、京から逃亡していた将軍足利義晴が、
朝倉教景の軍勢を引き連れ上洛しようとし、京都泉乗寺口で三好勢との戦いとなった時のことである)

越前衆は手に持つ武器として、柄を堅木にて如何にも強靭にし、長さ1間(約1.8メートル)程に
拵えた鑓に、黒鉄製の菱を一つ持っていた。
彼らはこの菱を地面に撒きそれを敵に踏ませ、混乱した所を攻撃して勝つことに
巧みであった。

一方の阿波衆は、鑓の柄を四方竹にして如何にも軽くして、長さ3間(約5,5メートル)ほどもあった。

しかしこの時、阿波衆は3千に過ぎず、敵の越前衆は2万人であり、とても合戦において
勝てるとは思えなかった。

越前衆は阿波勢の人数の少ないのを見て取り、「細工など要らない!ただ懸かれ!」と言って、
菱も捨てて力攻めに攻め懸った。

この時阿波衆は
「我等は人数少なく、このまま攻め懸ってこられれば、まともに戦う事すら出来ず、
皆殺されるだろう。
であれば、思い切ってこちらから撃ち懸り、討ち死にしようではないか!」

そう決心し越前衆の先陣を手元に寄せ、長鑓にて散々に突いた。
するとそのうちに越前衆の後方が崩れ下がり始めた。ところがこの時越前衆は、自分たちが先に捨てた
菱に足を貫かれ大混乱となった。

ここぞと阿波衆は「首は取るな、切り捨てにせよ!」と一気に攻め、1万人を殺したという。

京衆や堺衆は天正の年号の頃までこの合戦のことを話題にし、阿波衆の事を「鑓突き」と
呼んでいたそうである。
この合戦より後、阿波衆の鑓は皆、四方竹の柄になったそうだ。
(三好記)




840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/25(月) 22:57:21.76 ID:AwM0kfZf
>自分たちが先に捨てた菱に足を貫かれ大混乱となった
ってコントかよw

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/25(月) 23:05:15.67 ID:52LjMvOs
宗滴は何してたんだよ

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/25(月) 23:38:14.19 ID:v5XHUDW2
忍たまでも撒き菱を間違って自分の手前に投げるシーンがあったなあ

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 03:58:50.55 ID:V/xdGEAT
初代佐々布光林坊である光林坊掟運ってこの戦で戦死してしまったんだよね
こんな間抜けなエピソードで討取られていたとは…

某歴史ゲームの影響で佐々布一族って越前府中の神官って認識されがちだけど
本当は近江の元国人領主で越前に落ち延びて入仏後に還俗したれっきとした武士なんだよな

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 10:49:22.25 ID:yj+zb7F9
我が国におけるファランクスであった。

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 10:59:13.57 ID:A5Kj6Pcu
寡兵を侮るエピソードは人間くさいなぁw

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 21:14:18.30 ID:1CJ4D3rR
>>839
長慶?当時何歳だよ?

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/27(水) 02:23:14.85 ID:8yQGX7cC
泉乗寺合戦(東山の合戦?)なら三好は三好でも親父さんの元長の方だろうなぁ、長慶さん1522年生まれだし
※修正しました

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/27(水) 15:58:52.97 ID:oqbLfgEf
三好側の資料だと2万の軍勢を破ってその半分を討取った事になってるんだな
朝倉側の資料だと宗滴率いる朝倉軍先陣は約1万(細川や六角の軍を入れると3万5千)
それでこの泉乗寺での合戦の事は小競り合いがあったぐらいの記述しか無くて
その後、宗滴や景紀が大活躍した川勝寺や東寺での合戦の記述しかないんだよな