物事に分別のある人

2018年06月17日 17:47

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/17(日) 15:34:15.91 ID:p3ch8gs1
ある時、蒲生氏郷が伏見の前田利家の屋敷を訪ねた時、蒲生家と前田家はもとより縁辺であるので
(利家の次男・利政の妻が氏郷の娘)、供の侍たちは蒲生家、前田家共に座敷に入るのであるが、
その時は蒲生家の侍たちは、座敷には入らなかった。

ところが、氏郷の小姓である岡半七という者、これを知らずいつものように番所の戸を開けて
座敷に入ろうとした所、傍輩が一人も居ないことに気が付き、驚いて座敷の戸を閉めて退出した。
この姿を番所に居た者たちが小声で笑った。

その瞬間、岡半七は太刀の柄に手をかけた
「汝ら何を笑うのか!?」

声高に過ぎたその声を氏郷は聞き付け
「また半七めか。いつもの大声だな。」と、つるつると座を立ち半七を呼んで、特に用があったわけでは
無かったが、当座の事について長岡越中守(細川忠興)への使いに出した。これによって喧嘩を止めたのである。
このように氏郷は、物事に分別のある人であった。

(氏鄕記)



18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/17(日) 17:04:59.83 ID:UyI9nnUz
ぷーくすくすされたら、刀を抜かないといけない。これ、侍の掟。
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世の中に 我は何をか那須ノ原

2018年06月15日 20:58

13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/15(金) 00:04:24.55 ID:ldS390FA
文禄元年、朝鮮の役のため、会津より上洛の途に付いた蒲生氏郷は、途中那須ノ原という場所を
通った。そこはあまりに人気無く、非常に物寂しい場所であった。
ここで氏郷は思いつくままに、一首詠んだ

『世の中に 我は何をか那須ノ原 なすわざもなく年や経ぬべき』

そう言葉にして、打ち過ぎたという、

(氏鄕記)

氏郷みたいな人でも「俺は何も成さずに今まで生きてきてしまった」みたいに思うこと
あったのですね。



14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/15(金) 00:38:12.36 ID:aqx17Q8P
天下鳥以外は、「成した事」に入らないみたいなノリだったりして。

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/16(土) 10:50:45.33 ID:OPn9dD68
意識高い系戦国武将

お陰を以って天下に面目を

2018年06月14日 18:18

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/14(木) 17:07:32.39 ID:MnYHqCft
天正19年(1591)、豊臣秀吉は隠居し、天下並びに聚楽城を猶子である三好中納言秀次へ譲った。
その官位昇進のため、同年12月28日、秀吉秀次以下天下の諸大名は、位次第に車にて参内を
することとなった。

この時秀吉は、蒲生氏郷の次に伊達政宗、その次に山形出羽守(最上)義光と定めた。
ところが氏郷は御前に進み出て

「山形(最上)は源氏の縁であり、その上政宗にとっては母方の叔父にあたります。
政宗の後にすべきではありません。」

このように申し上げたところ、秀吉も「そういう事なら」と、最上義光を政宗の前に立てた。

これを知った義光は謹んで氏郷に申し上げた
「お陰を以って天下に面目を雪ぎました。この御恩はいつの世に忘れることが有るでしょうか。
氏郷殿御一代、それがし一世の間に、会津に何事か有れば、その御用に立ちましょう。
その証拠として人質を進上しましょう。」

それより子息の一人駿河守(家親)を、氏郷の生きている間は差し置いた。

(氏鄕記)



11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/14(木) 17:10:00.88 ID:NpoWDhvU
氏郷が、最上家の取次だったのかな。わざわざ人質まで送るとは。

大仏殿普請の事

2018年06月12日 21:01

5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/12(火) 00:05:21.87 ID:6bYuvtCd
大仏殿普請の事

去る程に四海八島の外も波静かに治まり、関白左大臣豊臣秀吉公は京都に大仏殿を御建立あるべしと、
天正17年の春より人夫を揃え、京に石を引かせた。
大仏殿は五条の橋の方で、その大門の石は松坂少将蒲生氏郷の担当と成った。
それは一辺が2間(約3.6メートル)の、四角形の大石であった。
大津三井寺の上より、漸く道まで引き出したが、そこで秀吉から氏郷に
「あの大石は人夫への負担が大きいので輸送は中止するように。」
と伝えられたため、氏郷も畏まりこれを中止した所、それを京童が一首の狂歌を詠んで
落書にして立てた

『大石を 道の蒲生に引き捨てて 飛騨の匠も成らぬものかな』

もちろん飛騨とは氏郷の受領名「飛騨守」の事である。氏郷はこれを知ると
「京童に嘲られる事こそ口惜しい!ならば引いてみせよう!」
そう決意し、再びこの大石に取り付き引き始めた。

蒲生源左衛門尉郷成の、その日の装束は太布の帷子の、袖裾を外し背には大きな朱の丸をつけ
小麦藁の笠に采配を取って石の上に上り、木遣をした。
その他には、蒲生左門家来である中西善内が笛の役、蒲生四郎兵衛郷安家来、赤佐一蔵は太鼓の
役で、拍子を取り、これが誠に面白いと人夫共もこれに勇を得て引いた。
また氏郷自身がこれを奉行したので、氏郷の侍たちも皆、石を引く本綱末綱に取り付き、
我劣らじと引いた。

ここで、戸賀十兵衛の人足の一人が、草鞋の奉行であるからと傍に居たのを氏郷が見つけ
「あれは如何にも悪き奴かな!搦め捕ってこい!」
と命じ、土田久介という小姓がこれを承り、走り寄り手巾にてかの者を搦めて来ると、
氏郷はこれを田の畦に引き据え、腰の脇差を抜いて、立ちどころに頸を落とした。

これを見た者たちは興醒め顔にて、なお一層石引に精を出した。しかしながらやはり大石
であり、なかなかうまく進まず、人夫たちにも次第に疲れの色が濃くなった。
そこで「彼らに力を与えよう」と、都より傾城十余人を呼び寄せ、石の上に登らせ
小歌を謡わせると、これにひときわ気力を得た。

しかし、日岡峠を登らせる時は流石に不可能に思えたが、氏郷は源左衛門尉郷成に、
「どうにか精を出して引き登らせよ!」と命じた。
郷成は「承り候」と言うや、わざと田の中に転び落ちた。彼は装束を泥だらけにして
起き上がると、それを見た人夫たちは、一斉にどっと笑った。その夥しい笑い声は
暫く鳴り止まないほどであった。
そしてその勢いでこの峠をついに越えたのである。氏郷は非常に喜び、彼に秘蔵の名馬を
与えた。

その後も人々精を出して引いたが、どうしたことか鎖綱が引きちぎれ、額に当たって
人夫一人が死んだ。しかし別の鎖に付け替えて引き、ついに加茂川へと引き入れ、都の内へと入った。

ここで氏郷は「今度の京童共による狂歌への返報である」と、人夫共を京の民家の上に
上らせで石を引かせた。このため大仏殿の方向にある家々は踏み破られた。

そこに関白秀吉が氏郷を迎えに御出になられた。御供は木村常陸介で、彼らは石の上に
上がってきた。これを見て赤佐一蔵は驚いて石より飛び降り、郷成、中西善内も下りようとしたが、
秀吉は「そのまま罷りあれ!」と彼らを留め、自身は帷子に着替えて木遣を成された。
常陸介は太鼓を打ち、中西善内はまた笛を吹いた。こうなった以上、秀吉の御供として
付き従っていた大名小名もみな石に取り付いて引いたため、そこからは飛ぶように進み、
程なく大仏殿へと到着した。
この時、一番の大石を尋ねた所、この氏郷の引いてきたものより大きな物は無かった。

(氏鄕記)

有名な話ですが、出典付きで



6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/12(火) 01:03:03.38 ID:gXqWeN7x
男塾の直進行軍を思い浮かべてしまうな

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/12(火) 09:24:59.36 ID:5Fu7ixea
蹴上あたりから、どういうルートを通ったんだろう。お寺も、犠牲になってそうだけどw

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/12(火) 11:34:45.72 ID:7/r2BUUk
約2名を除いて楽しそうだな(小並感

富士には似ぬぞ松坂の

2018年06月11日 19:16

993 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/11(月) 18:36:07.89 ID:3S+RqTvu
種村大蔵入道慮斎は元は織田信長に仕えた御咄の衆で、信長死後は蒲生氏郷に、
同じく御咄の衆として仕えた。

さて、氏郷が豊臣秀吉より伊勢松坂を拝領すると、蒲生家中の面々は屋敷を取り立て、
美々しく家を建てた。
この慮斎も屋敷を造り、その庭には富士山を築いたと評判であった。
そこで氏郷もある時、「そういう事ならば御辺の庭を見たい」と、わざわざ彼の屋敷へと
参った。

所が、慮斎の築いた山を見ると、頂上が丸い。
氏郷は去る年、織田信長による武田征伐の時東国へ赴き、富士山を見たことがあったので
思わず笑いだした

「これはどういう事だ、こんな富士山は聞いたこともない!」

そして興に乗り、硯と紙を持ってこさせ、短冊に一首を詠んでこの築山に立てて帰った。
その短冊には

『富士見ぬか 富士には似ぬぞ松坂の 慮斎が庭の擂粉木ヶ嶽』

(氏鄕記)



994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/11(月) 19:55:02.89 ID:6u0nRO91
すりこぎヶ岳って、どんだけ丸かったんだ。ハワイの火山みたいなものか。

天下一の比気者

2018年06月09日 14:02

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/09(土) 12:23:47.26 ID:eZTiEHQh
蒲生氏郷が豊臣秀吉により伊勢国松島十二万石を拝領した頃、彼への奉公を望んで来た
者たちの中に、松田金七という者があった。彼は元は大和国の侍で、生来武勇の者であったが、
ある年、南砺(奈良)に牢人して居た時、仔細のことあって町人たちと口論に及び、
大勢の中に取り籠められ、その内の一人が持っていた棒に当たった。

これは武士にとって非常に屈辱的なことであり、「是非とも死なねば!」と叫んで
自ら死のうとしたのを、周りの人々が無理に押し止めたため諦めて恥を忍んだ。
しかし以降、松田は自分の具足を威して、背中に金箔で『天下一の比気者(卑怯者)』と
書きつけた。

そしてこの度、蒲生氏郷の元に参り、河井金左衛門を頼んで奉公を望んだが、
「私は天下一の比気者ですが、御用に立つことも有ると思います。お目利き次第にて、
御扶持を申し請けたく思います。」
そう申し上げた。

氏郷は彼の正直に感服し、「只者ではない」と、彼に過分の知行を与え、鉄砲隊を預けた。

(氏鄕記)

就活中の方、ご参考に



981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/09(土) 13:04:21.16 ID:IgtKlBFt
工場長だから雇ってくれたような

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/09(土) 18:22:18.75 ID:yyO2B7IA
出典はないけどまとめの671工場長の名前が広がった
蒲生氏郷の、蒲生再生工場!・いい話
の蒲生再生工場(二)で既出


まとめの8518人さらいを推奨する困った仏様の話
ではこの松田金七はなぜか通古賀(福岡県太宰府市)の村出身になっている模様

勝家への返答

2018年06月08日 18:41

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/08(金) 17:47:16.27 ID:K7zh36zA
清須会議の後、織田信雄と織田信孝の対立が顕れ、諸大名は信雄・羽柴秀吉方と
信孝・柴田勝家方へと分かれた。

そのような中、蒲生氏郷は妻が信長次女であり(相応院)、信雄も信孝も自身の
小舅であることから、どちらに付くとも態度を表明しなかった。
そのため柴田勝家からも羽柴秀吉からも、平に頼み申すとの遣いが送られた。

蒲生家に対して世間ではこう考えていた
「蒲生父子は柴田勝家の寄騎として、勝家出陣の時は先手を任され毎回手柄を成された。
勝家が越前を拝領された後は柴田とは離れたが、最前よりの好であるから、きっと柴田に
同心するだろう。」

しかし氏郷はどう考えたのか、勝家に対して切れ目(断交)の返事をした。
蒲生家では安井孫右衛門という者を越前に付け置いていたのだが、彼を一旦帰国させ、
その上で使いとして勝家の元へ向かわした。

安井が蒲生の返答の内容を申すと、勝家は「思いもかけないことだ、蒲生は必ず味方となると
思っていたのに。」と、力を落とした様子であった。その上で、勝家はこの安井孫右衛門に
別して目をかけていたので

「今度の合戦に討ち勝てば、近江国にて存分の知行を宛てがおう」と、折り紙を渡して
帰させたという。

(氏鄕記)

勝家はいい人だな



979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/08(金) 19:13:33.87 ID:A67A5fmZ
>>978
>勝家はいい人だな
まあ裏を返せば悪い人には勝てないな…

氏郷初陣

2018年06月04日 17:50

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/03(日) 21:36:20.96 ID:RYlmtq2o
永禄2年8月、織田信長による伊勢北畠攻めにおいて、北畠方の徳山城も、織田掃部助(忠寛か)、
蒲生賢秀、その他約1万余騎にて攻め寄せ、揉みに揉んで攻め落とした。

この時、蒲生賢秀の嫡男である忠三郎(氏郷)も14歳にて軍始であったため、賢秀は殊に
気を使い、彼に結城十郎兵衛、種村伝左衛門という、家中の剛の者を付けた。

さて、賢秀が士卒を下知して駆け回っていると、「忠三郎様の姿が見えない!」という
声を聞いた。賢秀は驚愕して、結城、種村を呼びつけ
「汝等を付けたのは何のためか!?討たれてしまったのかも知れない、どうすれば…。」
そう悩み悶て居た所、そこにひょっこり、忠三郎は敵の頸を取って帰ってきた。
賢秀はその姿を見るや、感涙し鎧の袖を濡らした。

忠三郎の取った頸はやがて信長の見参に備えられ、信長は感じ入り、自ら打アワビを
取って与えたという。

(氏鄕記)

初陣のときから一騎駆け大好きなレオン様であった



973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/03(日) 22:57:26.59 ID:PvhrymRI
一騎駆けで、生き延びる人間と死ぬ人間の格差が・・・

蒲生氏郷の勤務管理

2017年09月19日 14:37

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/19(火) 00:17:03.10 ID:IG/5qCrB
蒲生氏郷は伊勢松島の頃、1日に3度ずつ着到(出勤帳)を付けさせ、人々の勤務状況を確認し
働きを励ましたという。また勤務状況を調べるため、山伏の姿に変装させた間者も使っていた。

これを考えるに、勤務において人を励ましたるまないようにするためには、このように詳しく
調べなければ通用しないものなのだ。自分の身を省みても、聊か油断あればやがて放埒に至る。
他の人もまたそのような物だろうから、度々に気をつけ、勤務状況を究明することが必要なのだ。

(士談)

蒲生氏郷の勤務管理エグいな



134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/19(火) 00:19:47.20 ID:dH0BVuCT
だって工場長だし

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/19(火) 00:32:57.94 ID:FfJk9yvS
当時「働く」ったら武力行使のことだよな?

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/19(火) 00:42:33.79 ID:Yut3aWsC
「着到」も連れて来た軍勢の内容確認だわな。

前足か後ろ足か

2017年07月23日 15:30

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/23(日) 12:03:46.98 ID:1Pz0svPG
蒲生氏郷が、その頃の伯楽(馬を見分ける名人)である”こつひら”という者に尋ねた

「早い馬というのは、前足の地面を蹴る力の故に早いのだろうか、それとも後ろ足の捌きが良い故に
早いのだろうか?」

こちひらは申し上げた
「馬は、後ろ足の捌きが良い物が早いと存じます。」

これに氏郷
「私は幼若の頃より織田信長卿の傍に昵近して、目にも見、耳にも聞いたこと多い。
弓矢のことは、先を追い立てられた場合、二の手を以って持ち返すのは非常に難しく、
ただ先を第一とするのが肝要なのだと、信長卿は常に仰っていた。
ここを以って考えれば、前足のよく効いた馬の方が早いのではないかと、私は思ったのだ。」

こつひら、謹んで申し上げた
「私はいやしき業の者ですから、左様な高きわざの事は存じません。ですが、私は元西国の出身なのですが、
船の往来を見た時、前櫓よりは後ろのとも櫓に上手な水夫を立てて押したほうが、船は早くなります。
前櫓が良くても、とも櫓の押し手の能力が低いと、船は満足に動かないものなのだと見えました。
船も馬も、遅速のことわりは同一の物であると考え、ご返答したのです。」

(士談)



110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/23(日) 12:10:18.68 ID:UWC8+0GP
新庄「バッティングで大事なのは腕ですか?腰ですか?」

野村監督「どっちもや」

を思い出した

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/23(日) 12:27:22.34 ID:NJfbG9iN
こういうのを拗らせると、拍子を打った時に音が鳴るのは右手か?左手か?みたいな話になっていくんだな

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/23(日) 14:36:31.16 ID:5Vt6clig
マキバオーのマスタング走法

「見るべき所を見ている」

2017年07月12日 18:13

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/12(水) 16:08:52.56 ID:7chqTk7M
天正15年、豊臣秀吉の九州征伐の時、豊前の岩石城に熊谷越中という者が、多くの人数とともに立て籠もった。
この方面の先手の大将は堀左衛門督(秀政)であり
「岩石は良き城なれば攻め損じては後に影響を与える」と、蒲生氏郷をこの城の押さえとし、
秀吉は秋月へと向かった。

この時、蒲生氏郷は岩石城の様子を詳しく見届けるために、斥候の侍として、吉田兵助、周防長丞の二人を
派遣した。二人は岩石城の状態、また麓の様子などを見て回ったが、そこにはひと一人無く、食を食べた
跡もあったが、飯粒は乾いていた。
これを見届け、その通りに報告した。

次に氏郷は、布施二郎右衛門、土田久助の二名を岩石城に遣わした。
二人が帰って報告する話も、前の報告と特に違いはなく、また先の飯粒の他に、一体いつ退去したのかを
知れる証拠も無かった。

その後さらに、蒲生四郎兵衛に「見てくるように」と斥候に出した。
四郎兵衛は見て帰り

「岩石城の者たちは10日以上前に退去しました」

と報告した。

「その仔細は?」

「このあたりでは10日ほど前に雨が降りましたが、その後降っていません。
また、道道には足跡が見つかりませんでした。雨の降った後まで居たのであれば、必ず足跡が
残っているはずです。」

この報告に氏郷は「見るべき所を見ている」と、褒美を与えたという。

(士談)


博打を用いる

2017年05月23日 11:45

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/23(火) 09:43:52.33 ID:YoCIryPr
蒲生氏郷は陣屋においては、諸侍に博打をすることを許していた。
これは陣屋にて番を勤める輩は、ややもすれば眠ってしまうもので、
ために博打を以て気をいさめ、夜寝ないように戒めるためであったという。

博打というのは人が生きる中で戒めるべきことである。だが、時に取ってこれを用いるのも、
また人君の究理より出た心得と言うべきだろう。
(士談)



951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/23(火) 10:11:45.05 ID:KRcfvKOY
博打に集中して監視がおろそかになりそうだが。寝ちゃうよりましか

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/23(火) 14:32:49.49 ID:DUfe8gBt
敵襲がきたらこっそり賽の目に細工してやるんだ

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/23(火) 18:43:00.23 ID:goqKRjOi
博打をした家臣を咎めなかったエピソードといえば、やっぱり官兵衛さんかな。

その勇功といい義を守ることといい

2017年05月02日 18:07

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/02(火) 14:23:41.27 ID:GWMsMAq8
天正18年に、蒲生氏郷豊臣秀吉より奥州会津を賜り、木村伊勢守(吉清)が葛西大崎を賜った。

その冬、木村の領分にて一揆が蜂起したとの知らせが氏郷の元に入った。
氏郷は雪中にも拘わらず、急ぎ妙佐沼へと救援に向かった。
この時、この一揆は伊達政宗が起こしたものだという風聞があった。

氏郷は速やかに出陣して所々の一揆を追い落としたが、ここに新国上総という者、彼は永沼の城主であり、
元は蘆名に属し、その後伊達政宗に従った人物であったのだが、彼が氏郷に面謁して言った

「この度の一揆は、悉く伊達政宗が扇動したものです。しかし現在雪中であり、分国の通路すら
自由にならず、また蒲生様は未だこの土地の案内も詳しくご存知ありません。であればこのような
救援の軍はうまくいかないでしょう。」

これを聞いて氏郷は答えた
「汝の言うことも尤もである。しかし、太閤殿下が奥州の背炙山まで御動座あって、奥州の仕置を
仰せ付けられたとき、木村伊勢守と私を左右に置いて立たれ、二人の肩をつかみ

『伊勢守は氏郷を兄と存じ、氏郷は伊勢守を弟と存じて、奥州のこと、互いに相談して仕置をするように。』

そう命ぜられたのである。であれば、たとえ途中においてこの氏郷が一命を失ったとしても、伊勢守を
見捨てては君命を蔑ろにし、義理を失ってしまう。
私は確かに昨今この土地に至り、地利を知らず、また雪中の時期であり、人馬の苦しみは言葉にならないほどだ。
しかし、だからといって伊勢守を棄てるというのは、義において欠ける行為である。
伊勢守が討たれて私の命が残っても、一体何の面目があって太閤殿下にお目通りできるだろうか。

これが、私が兵を起こして救援に向かう由縁である。」

そして氏郷は遂に勝利を得て、思いのままに一揆を退治し奥州を平均せしめた。
その勇功といい義を守ることといい、共に武士の本意に当たると言えるだろう。

(士談)


名ある勇士である上は

2017年04月25日 18:40

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/25(火) 05:13:46.15 ID:+SgLkxQo
蒲生氏郷が伊勢国松島在城の時、蒲生主計栗生美濃との間に口論があった。
ふと気づくと、蒲生主計の後ろには山中大運が、栗生美濃の後ろには倅の東が小脇差を持って
つめかけ、この二人が刀を抜けば、即座に突き掛かろうとの風情であった。
これに主計も美濃も、冬であるというのに大汗を流したという。

この時の評に、主計も美濃も大汗を流すほどに思っていたが、両人ともに相手を討ち果たせば
この場で多くの人が損ずると思って、そのようにならなかったのだ、という。
どちらも特別な勇士どもであり、いずれにも越度という物はない。
「両人ともに後ろ詰めに迷惑して汗を流した」と言うべきだが、その頃の評も殊勝である。

加藤清正、加藤嘉明、福島正則といった人々も、1年に2,3度づつは口論問答があったが、
それによって争いごとに成るということは聊かも無かった。
名ある勇士である上は、そうあるべき事である。

(士談)


エムベロルの覚え目出度からんためには

2016年02月20日 12:54

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/19(金) 21:59:32.75 ID:2fmnXVf9
それより両エムベロル(豊臣秀吉・秀次)は、その随行全員とともに、日本最大の諸侯である
飛弾殿(Fidandono 蒲生氏郷?)の宴に招かれたが、これもまた善美を尽くしたもので、
皿を覆っている金箔だけでも4千クラウンを要し、酒宴の費えはこれよりも遥かに多額を要した。
どういう事かといえば、エムベロルに対して飲む酒盃の数は九献にして、第一杯には献品として
1万クラウンを要し、第二杯より暫時上がって、最期には一杯目の倍、2万クラウンとなる。
故に饗宴費はほとんど計算することすら出来ない。エムベロルの覚え目出度からんためには、その費用を
惜しむことなど出来ないのだ。

翌日、太閤様はまた、八州の太守ギエタゾ(Gietazo 徳川家康?)の邸に赴き、飛弾殿のそれにも劣らない
饗宴に臨んだ。

(モンタヌス日本誌)

蒲生氏郷が、秀吉の御成りを受けた饗宴の模様。しかし、ギエタゾ…?



185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/19(金) 22:15:09.13 ID:EWxuNQyH
ポルトガル語なら
giはジ、もし最後のoがなければzはスに近くなるから
ジエタスにはなるか
や行の発音はたしかなかったからこのあたりが曖昧になるんだろう
前のレスを見ても「山口」を「アマングチウム」とか書いてたし

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 08:39:46.73 ID:T0tcXj2W
ジエタス→いえやす にはなるか
でも家康を家康って呼ぶ人はいないよなあ
トクガワヌスとかにならんのか

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 11:13:36.47 ID:+HWr++cl
>>187
当時の家康くらい高位になると「徳川」と書かかれたりすることの方が少ないよ

諱を書かれることについて「政宗」がよくネタにされるけど、書状なんかで「家康」
と書かれてる事がかなり多い。
ある程度のビッグネームには多い現象なんだよね。

もちろん当人への書状の宛名に使われるのは「江戸大納言」等だけどね。

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 11:24:45.82 ID:fgf6N03W
歴史上の人物は諱OK、雲の上の人も諱OK
宛名での諱を名指しも場合によっては一周回って厚礼になったりする場合もあるから複雑

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 17:31:11.87 ID:D1hnpXG6
諱呼びは「大名の中でも有名人枠」みたいな扱いじゃね
名字も領地も官職も書かないけど皆知ってるよねポジション
政宗と景勝が特に諱でほいほい出てくるせいか
北国でその傾向が特に強いんじゃないかって話は見たことがある

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 21:01:53.13 ID:1/ck4STB
「みなさん、本物の政宗でございますよ」
「偽物がいたら見てみたいんですけどね」

じゃねえよなあ

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/21(日) 14:27:00.42 ID:ou0lTV7q
>>195
佐竹家老梅津政景の日記で、義宣と親しい景勝が普通に日記上で諱で登場するんだが
景勝が亡くなって定勝に代替わりすると普通に「上杉弾正少弼」に表記が変わるので
身分の上下などでは表せない個人に対する敬意や親しみなんかが
諱表記で表現されるんだろうって研究がある

214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/22(月) 20:56:04.71 ID:+cazqg1Z
>>201
親疎や経緯はありそうだけど、定勝は景勝に比べて官位などが
恐ろしくグレードダウンしてるから比較対象としてどうなんでしょう?

かぎりあれば 吹かねど花はちるものを

2016年01月23日 10:10

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/22(金) 18:52:25.90 ID:Ckr/msp4
蒲生氏郷は名護屋に陣していた文禄2年の春、俄に体調を崩し下血夥しく、諸医術をなしたるも
験無く本国の会津へと帰還した。
同3年正月、病をおして上洛した。この年の11月、太閤秀吉は氏郷の邸に入り、饗宴の事があった。
その後も氏郷の病は日々重くなり、40歳という、文禄4年2月7日、都において死去した。

『かぎりあれば 吹かねど花はちるものを 心みじかき春の山風』

この歌を、氏郷は仮初の筆ずさみのように書き残していた。
この歌についてこういう説がある

去る天正19年、九戸での戦いが終わり、石田三成は都に帰還すると秀吉にこう報告した

「今回、蒲生氏郷が軍を運用する模様を見ましたが、彼はただ人ではありません。
彼の軍勢が道を通過するのに、7日ほども引きも切らないほどでした。
その上一人も軍法を犯すものがありません。

彼は殿下のお為に、二心を持たない限りは、あのような御固め世にも二つとないでしょう。
能く注意して見ておくべき人物だと思います。」

これを聞いて秀吉は、氏郷に密かに毒を與え、それによってたちまち病に冒され、終に空しくなった。
氏郷はこのことを察していて、このような詩を綴ったのだという。

(藩翰譜)




7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/22(金) 19:48:52.60 ID:8sLYXkgQ
徳川の世だし、悪口しかないよね

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/22(金) 20:39:59.59 ID:nTLumAyT
まぁ、結局辻褄の合わない話が多いね
後世の創作は…

武功の者の鑓は

2015年12月10日 17:23

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/10(木) 02:04:42.19 ID:9nbKXfmu
蒲生の家老・田丸中書(直昌)が伊勢国の長井というところを押領した時、
入道円通庵と田丸の家来・村山半八が槍を合わせた。

円通庵の槍は5本にも10本にも見えて、半八は負けそうにばかり見えたが、
最後には半八が円通庵に槍を付けて首を取った。

「武功の者の槍は“地神”や“荒神”といって、多数に見えるものである」と、
老功の者たちは言ったそうである。

(武功の者の鑓は地神荒神とて数に見ゆるものなりと。老功の者共申候由。)

――『武功雑記』




刈田夜合戦

2015年11月22日 07:43

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/21(土) 16:41:08.46 ID:8PIo0dPf
刈田夜合戦

天正12年、小牧長久手の戦いの時のこと。
蒲生氏郷は羽柴秀吉から織田信雄より奪った伊勢国松ヶ島城を与えられたが、
周辺には未だ信雄に与して抵抗する戸木城の木造具康や小倭の諸士がおり、氏郷は織田信包と共にこれらを討伐することになった。
氏郷と信包は戸木城の周囲に付城を築いて包囲したが、具康の抵抗と天然の要害に攻めあぐね、
城内からの出撃に備えて合図の鉄砲を所々に置くと、信包からは分部光嘉、氏郷からは蒲生郷可らを残して引き揚げた。
そのうちに早苗取の頃となり、農民を悩ますは天恩に背くに非ずやと双方弓鉄砲を止めて田畑の営みを許し、
その間に城中では鏃を研ぎ兵糧玉薬の調議をし、氏郷の方では小倭の諸士を討伐していた。


かくて九月十五日の夜の事である。
戸木の城中より、田中仁左衛門尉、畑作兵衛尉、金子十助、堀金右衛門尉、中川庄蔵
天花寺勘太郎、畑千次郎などの者が小川表(城の南方)へ刈田をしようと忍び出て来た。
木造勢は思うままに刈り取って心静かに引き揚げようという所、これに気付いた蒲生勢が迎撃してきたが散々に打ち破り、
勝鬨をあげて城へ引き揚げにかかった。

一方、松ヶ島の氏郷は兼て用意の合図の鉄砲でこれを知り、得たりや応!と唯一騎で馳せ付け、
木造勢に菅瀬(須賀瀬)村辺りで追い付いて散々に戦った。
その後、追々後続の蒲生勢が氏郷に追い付き、木造勢と入り乱れての戦闘となった。

そんな中、木造勢の一人である中川庄蔵という者、菅瀬村の見永という辺りを歩いていたが、そこで出会ったのは何と敵の大将・氏郷。
たちまち斬り合いとなり、庄蔵は氏郷の乗馬の平首をしたたかに斬り付け、氏郷も危うく見えたが
そこに氏郷の従兵田中新平という者が割って入り、庄蔵と新平は火花を散らして戦った。
しばらくはどちらが勝るとも見えない戦いであったが、遂には新平が打ち負け庄蔵に討たれた。
(氏郷はその間にどこかに行ってしまったようである。)

さて新平を倒した庄蔵はまた歩いて菅瀬村の高橋という所まで来たが、そこで“またも”氏郷に出くわした。
氏郷は庄蔵目がけて馬上から長刀を投擲、庄蔵はそれに兜の真向を切られてしまったが怯まず斬りかかる。
そこに、又も氏郷の馬前に黒川西と名乗って乗り入れた者があり、庄蔵は彼をも討ち取った。
(氏郷はまたその間にどこかに行ってしまい、)庄蔵は近くを味方の堀金右衛門尉の下人が通りかかったのを見つけると、
討ち取った田中・黒川の首を持たせ、心静かに引き揚げようとした。

が、庄蔵が庄村という所(見永から4km程の地点)までやってくると、そこで“三度”氏郷と出会ったのである。
斬りかかる庄蔵。だが、氏郷は何を思ったか突然槍を振り上げるとそのまま駈け通っていった。
徒歩の庄蔵は追うに追えず、ただ立ちつくすのみであった。
その間に首を持たせた下人は敵に生け捕られたのか、姿が見えなくなってしまっていた。


さて木造勢が漸く戸木城へ引き揚げた翌日のこと。行方知れずになっていた例の下人が松ヶ島城から戻されてきた。
その下人に敵方の様子を問うてみると、昨夜の戦いでは氏郷の兜に鉄砲が三発命中したそうで、
また中川庄蔵と二度三度馳せ違い、三か所で激しく戦うなど誠に軽率な大将だということだ。
下人が持っていた田中・黒川の首が露見したのでこの首を取った者は誰かと尋ねられ、
中川庄蔵だと下人が答えると、氏郷に三度まで渡り合った働きを敵方では大将(氏郷)を初め感心していたそうである。
下人を解放したのはそれを伝えるためだということは後になって知られたことであった。


その後の何度かの戦闘で城方の名のある者が幾人も討死し、寄手は諸方から一度に攻め寄せようと談合していると、
近くの一身田の門跡が来て和議の仲介を申し出、また信雄と秀吉も和睦したので十月下旬に戸木城を明け渡し、
木造具康は尾張へ逃れて行ったのであった。

(勢陽雑記)


夜の田んぼで敵の総大将に頻繁に出くわす羽目になった中川さんのお話。



16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/22(日) 15:56:28.24 ID:oPGCguPz
中川さんは相当すごいけど、なんというグダグダな話w

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/22(日) 17:00:44.43 ID:ZKG53IaR
自分の功績もどきと不幸の自慢なら
よそでやってくれ

蒲生氏郷、遅れた体の者に気づき

2015年11月19日 07:01

6 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/11/18(水) 23:17:48.97 ID:ymBsGgqT
蒲生氏郷が追鳥狩をしていた時、氏郷が進むのに遅れた体の者があった。
氏郷がそれに気づき「あれはどういうことか!?」と指し示すと、氏郷の側近くのもの一人が
急ぎその者に駆け寄り引き立て、足の真ん中に小刀を突き、出血させ、そのまま引きずってくると氏郷に申し上げた

「この者は踏抜きをしてしまったようで、そのため歩き兼ねているのです。」

(武功雑記)

単純に遅れたと言っちゃうと、氏郷に手討ちにされますからね。



7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/18(水) 23:30:58.40 ID:qjIYofm2
工場長はそんな人では無い

蒲生氏郷の陣が夜討ちを仕掛けられた時のこと

2015年10月10日 18:38


428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/10(土) 11:57:43.35 ID:8ZCLhqrc
小田原の役で蒲生氏郷の陣が夜討ちを仕掛けられた時のこと

北条勢は広沢兵庫秀信を大将として蒲生氏郷の陣に夜襲を仕掛けてきた。
蒲生側も予め警戒していたため、蒲生郷成や田丸直昌らも討って出て激戦となった。
氏郷も兜の緒を締め一丈余の槍を持って北条勢を追い散らしにかかったが、北条側も負けじと追ってくる蒲生勢に鉄砲を撃ちかけた。
この時、広沢は大豪の者であったので堀より大声で「かかってこい」と叫ぶや否や氏郷が聞きつけて向かって来た。蒲生勢も主に続けと突撃してくる。
更に広沢、続けて「今晩の夜襲の一番槍は大将の俺だ」と叫ぶと氏郷も「堀の中に飛び込んででも野郎を討ち取ってやんよ!」と槍を広沢に叩きつけたが、
敵兵に阻まれ逆に槍を奪われそうになること7、8回あった末に広沢を討ち漏らしてしまった。
広沢は城まで逃げようとするが、氏郷も諦めずに執拗に追い回した。結局、城内に逃げ込まれ、鉄砲を撃ちかけてきたので氏郷も帰っていった。
この時の戦闘で氏郷の兜には矢が二本折れて刺さり、具足は槍の傷跡だらけ、十文字槍に至っては刃が簓(今でいうタワシ)のようになっていたという。
秀吉もこれを見て、佐々の例の馬印を許したそうな。

『常山紀談』
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-16.html
こっちと微妙に話が違うので 敵の大将が可哀想な話



429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/10(土) 12:47:09.77 ID:DN3tbO2c
いつ裸になるかヒヤヒヤした。