博打を用いる

2017年05月23日 11:45

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/23(火) 09:43:52.33 ID:YoCIryPr
蒲生氏郷は陣屋においては、諸侍に博打をすることを許していた。
これは陣屋にて番を勤める輩は、ややもすれば眠ってしまうもので、
ために博打を以て気をいさめ、夜寝ないように戒めるためであったという。

博打というのは人が生きる中で戒めるべきことである。だが、時に取ってこれを用いるのも、
また人君の究理より出た心得と言うべきだろう。
(士談)



951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/23(火) 10:11:45.05 ID:KRcfvKOY
博打に集中して監視がおろそかになりそうだが。寝ちゃうよりましか

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/23(火) 14:32:49.49 ID:DUfe8gBt
敵襲がきたらこっそり賽の目に細工してやるんだ

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/23(火) 18:43:00.23 ID:goqKRjOi
博打をした家臣を咎めなかったエピソードといえば、やっぱり官兵衛さんかな。
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その勇功といい義を守ることといい

2017年05月02日 18:07

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/02(火) 14:23:41.27 ID:GWMsMAq8
天正18年に、蒲生氏郷豊臣秀吉より奥州会津を賜り、木村伊勢守(吉清)が葛西大崎を賜った。

その冬、木村の領分にて一揆が蜂起したとの知らせが氏郷の元に入った。
氏郷は雪中にも拘わらず、急ぎ妙佐沼へと救援に向かった。
この時、この一揆は伊達政宗が起こしたものだという風聞があった。

氏郷は速やかに出陣して所々の一揆を追い落としたが、ここに新国上総という者、彼は永沼の城主であり、
元は蘆名に属し、その後伊達政宗に従った人物であったのだが、彼が氏郷に面謁して言った

「この度の一揆は、悉く伊達政宗が扇動したものです。しかし現在雪中であり、分国の通路すら
自由にならず、また蒲生様は未だこの土地の案内も詳しくご存知ありません。であればこのような
救援の軍はうまくいかないでしょう。」

これを聞いて氏郷は答えた
「汝の言うことも尤もである。しかし、太閤殿下が奥州の背炙山まで御動座あって、奥州の仕置を
仰せ付けられたとき、木村伊勢守と私を左右に置いて立たれ、二人の肩をつかみ

『伊勢守は氏郷を兄と存じ、氏郷は伊勢守を弟と存じて、奥州のこと、互いに相談して仕置をするように。』

そう命ぜられたのである。であれば、たとえ途中においてこの氏郷が一命を失ったとしても、伊勢守を
見捨てては君命を蔑ろにし、義理を失ってしまう。
私は確かに昨今この土地に至り、地利を知らず、また雪中の時期であり、人馬の苦しみは言葉にならないほどだ。
しかし、だからといって伊勢守を棄てるというのは、義において欠ける行為である。
伊勢守が討たれて私の命が残っても、一体何の面目があって太閤殿下にお目通りできるだろうか。

これが、私が兵を起こして救援に向かう由縁である。」

そして氏郷は遂に勝利を得て、思いのままに一揆を退治し奥州を平均せしめた。
その勇功といい義を守ることといい、共に武士の本意に当たると言えるだろう。

(士談)


名ある勇士である上は

2017年04月25日 18:40

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/25(火) 05:13:46.15 ID:+SgLkxQo
蒲生氏郷が伊勢国松島在城の時、蒲生主計栗生美濃との間に口論があった。
ふと気づくと、蒲生主計の後ろには山中大運が、栗生美濃の後ろには倅の東が小脇差を持って
つめかけ、この二人が刀を抜けば、即座に突き掛かろうとの風情であった。
これに主計も美濃も、冬であるというのに大汗を流したという。

この時の評に、主計も美濃も大汗を流すほどに思っていたが、両人ともに相手を討ち果たせば
この場で多くの人が損ずると思って、そのようにならなかったのだ、という。
どちらも特別な勇士どもであり、いずれにも越度という物はない。
「両人ともに後ろ詰めに迷惑して汗を流した」と言うべきだが、その頃の評も殊勝である。

加藤清正、加藤嘉明、福島正則といった人々も、1年に2,3度づつは口論問答があったが、
それによって争いごとに成るということは聊かも無かった。
名ある勇士である上は、そうあるべき事である。

(士談)


エムベロルの覚え目出度からんためには

2016年02月20日 12:54

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/19(金) 21:59:32.75 ID:2fmnXVf9
それより両エムベロル(豊臣秀吉・秀次)は、その随行全員とともに、日本最大の諸侯である
飛弾殿(Fidandono 蒲生氏郷?)の宴に招かれたが、これもまた善美を尽くしたもので、
皿を覆っている金箔だけでも4千クラウンを要し、酒宴の費えはこれよりも遥かに多額を要した。
どういう事かといえば、エムベロルに対して飲む酒盃の数は九献にして、第一杯には献品として
1万クラウンを要し、第二杯より暫時上がって、最期には一杯目の倍、2万クラウンとなる。
故に饗宴費はほとんど計算することすら出来ない。エムベロルの覚え目出度からんためには、その費用を
惜しむことなど出来ないのだ。

翌日、太閤様はまた、八州の太守ギエタゾ(Gietazo 徳川家康?)の邸に赴き、飛弾殿のそれにも劣らない
饗宴に臨んだ。

(モンタヌス日本誌)

蒲生氏郷が、秀吉の御成りを受けた饗宴の模様。しかし、ギエタゾ…?



185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/19(金) 22:15:09.13 ID:EWxuNQyH
ポルトガル語なら
giはジ、もし最後のoがなければzはスに近くなるから
ジエタスにはなるか
や行の発音はたしかなかったからこのあたりが曖昧になるんだろう
前のレスを見ても「山口」を「アマングチウム」とか書いてたし

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 08:39:46.73 ID:T0tcXj2W
ジエタス→いえやす にはなるか
でも家康を家康って呼ぶ人はいないよなあ
トクガワヌスとかにならんのか

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 11:13:36.47 ID:+HWr++cl
>>187
当時の家康くらい高位になると「徳川」と書かかれたりすることの方が少ないよ

諱を書かれることについて「政宗」がよくネタにされるけど、書状なんかで「家康」
と書かれてる事がかなり多い。
ある程度のビッグネームには多い現象なんだよね。

もちろん当人への書状の宛名に使われるのは「江戸大納言」等だけどね。

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 11:24:45.82 ID:fgf6N03W
歴史上の人物は諱OK、雲の上の人も諱OK
宛名での諱を名指しも場合によっては一周回って厚礼になったりする場合もあるから複雑

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 17:31:11.87 ID:D1hnpXG6
諱呼びは「大名の中でも有名人枠」みたいな扱いじゃね
名字も領地も官職も書かないけど皆知ってるよねポジション
政宗と景勝が特に諱でほいほい出てくるせいか
北国でその傾向が特に強いんじゃないかって話は見たことがある

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 21:01:53.13 ID:1/ck4STB
「みなさん、本物の政宗でございますよ」
「偽物がいたら見てみたいんですけどね」

じゃねえよなあ

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/21(日) 14:27:00.42 ID:ou0lTV7q
>>195
佐竹家老梅津政景の日記で、義宣と親しい景勝が普通に日記上で諱で登場するんだが
景勝が亡くなって定勝に代替わりすると普通に「上杉弾正少弼」に表記が変わるので
身分の上下などでは表せない個人に対する敬意や親しみなんかが
諱表記で表現されるんだろうって研究がある

214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/22(月) 20:56:04.71 ID:+cazqg1Z
>>201
親疎や経緯はありそうだけど、定勝は景勝に比べて官位などが
恐ろしくグレードダウンしてるから比較対象としてどうなんでしょう?

かぎりあれば 吹かねど花はちるものを

2016年01月23日 10:10

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/22(金) 18:52:25.90 ID:Ckr/msp4
蒲生氏郷は名護屋に陣していた文禄2年の春、俄に体調を崩し下血夥しく、諸医術をなしたるも
験無く本国の会津へと帰還した。
同3年正月、病をおして上洛した。この年の11月、太閤秀吉は氏郷の邸に入り、饗宴の事があった。
その後も氏郷の病は日々重くなり、40歳という、文禄4年2月7日、都において死去した。

『かぎりあれば 吹かねど花はちるものを 心みじかき春の山風』

この歌を、氏郷は仮初の筆ずさみのように書き残していた。
この歌についてこういう説がある

去る天正19年、九戸での戦いが終わり、石田三成は都に帰還すると秀吉にこう報告した

「今回、蒲生氏郷が軍を運用する模様を見ましたが、彼はただ人ではありません。
彼の軍勢が道を通過するのに、7日ほども引きも切らないほどでした。
その上一人も軍法を犯すものがありません。

彼は殿下のお為に、二心を持たない限りは、あのような御固め世にも二つとないでしょう。
能く注意して見ておくべき人物だと思います。」

これを聞いて秀吉は、氏郷に密かに毒を與え、それによってたちまち病に冒され、終に空しくなった。
氏郷はこのことを察していて、このような詩を綴ったのだという。

(藩翰譜)




7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/22(金) 19:48:52.60 ID:8sLYXkgQ
徳川の世だし、悪口しかないよね

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/22(金) 20:39:59.59 ID:nTLumAyT
まぁ、結局辻褄の合わない話が多いね
後世の創作は…

武功の者の鑓は

2015年12月10日 17:23

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/10(木) 02:04:42.19 ID:9nbKXfmu
蒲生の家老・田丸中書(直昌)が伊勢国の長井というところを押領した時、
入道円通庵と田丸の家来・村山半八が槍を合わせた。

円通庵の槍は5本にも10本にも見えて、半八は負けそうにばかり見えたが、
最後には半八が円通庵に槍を付けて首を取った。

「武功の者の槍は“地神”や“荒神”といって、多数に見えるものである」と、
老功の者たちは言ったそうである。

(武功の者の鑓は地神荒神とて数に見ゆるものなりと。老功の者共申候由。)

――『武功雑記』




刈田夜合戦

2015年11月22日 07:43

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/21(土) 16:41:08.46 ID:8PIo0dPf
刈田夜合戦

天正12年、小牧長久手の戦いの時のこと。
蒲生氏郷は羽柴秀吉から織田信雄より奪った伊勢国松ヶ島城を与えられたが、
周辺には未だ信雄に与して抵抗する戸木城の木造具康や小倭の諸士がおり、氏郷は織田信包と共にこれらを討伐することになった。
氏郷と信包は戸木城の周囲に付城を築いて包囲したが、具康の抵抗と天然の要害に攻めあぐね、
城内からの出撃に備えて合図の鉄砲を所々に置くと、信包からは分部光嘉、氏郷からは蒲生郷可らを残して引き揚げた。
そのうちに早苗取の頃となり、農民を悩ますは天恩に背くに非ずやと双方弓鉄砲を止めて田畑の営みを許し、
その間に城中では鏃を研ぎ兵糧玉薬の調議をし、氏郷の方では小倭の諸士を討伐していた。


かくて九月十五日の夜の事である。
戸木の城中より、田中仁左衛門尉、畑作兵衛尉、金子十助、堀金右衛門尉、中川庄蔵
天花寺勘太郎、畑千次郎などの者が小川表(城の南方)へ刈田をしようと忍び出て来た。
木造勢は思うままに刈り取って心静かに引き揚げようという所、これに気付いた蒲生勢が迎撃してきたが散々に打ち破り、
勝鬨をあげて城へ引き揚げにかかった。

一方、松ヶ島の氏郷は兼て用意の合図の鉄砲でこれを知り、得たりや応!と唯一騎で馳せ付け、
木造勢に菅瀬(須賀瀬)村辺りで追い付いて散々に戦った。
その後、追々後続の蒲生勢が氏郷に追い付き、木造勢と入り乱れての戦闘となった。

そんな中、木造勢の一人である中川庄蔵という者、菅瀬村の見永という辺りを歩いていたが、そこで出会ったのは何と敵の大将・氏郷。
たちまち斬り合いとなり、庄蔵は氏郷の乗馬の平首をしたたかに斬り付け、氏郷も危うく見えたが
そこに氏郷の従兵田中新平という者が割って入り、庄蔵と新平は火花を散らして戦った。
しばらくはどちらが勝るとも見えない戦いであったが、遂には新平が打ち負け庄蔵に討たれた。
(氏郷はその間にどこかに行ってしまったようである。)

さて新平を倒した庄蔵はまた歩いて菅瀬村の高橋という所まで来たが、そこで“またも”氏郷に出くわした。
氏郷は庄蔵目がけて馬上から長刀を投擲、庄蔵はそれに兜の真向を切られてしまったが怯まず斬りかかる。
そこに、又も氏郷の馬前に黒川西と名乗って乗り入れた者があり、庄蔵は彼をも討ち取った。
(氏郷はまたその間にどこかに行ってしまい、)庄蔵は近くを味方の堀金右衛門尉の下人が通りかかったのを見つけると、
討ち取った田中・黒川の首を持たせ、心静かに引き揚げようとした。

が、庄蔵が庄村という所(見永から4km程の地点)までやってくると、そこで“三度”氏郷と出会ったのである。
斬りかかる庄蔵。だが、氏郷は何を思ったか突然槍を振り上げるとそのまま駈け通っていった。
徒歩の庄蔵は追うに追えず、ただ立ちつくすのみであった。
その間に首を持たせた下人は敵に生け捕られたのか、姿が見えなくなってしまっていた。


さて木造勢が漸く戸木城へ引き揚げた翌日のこと。行方知れずになっていた例の下人が松ヶ島城から戻されてきた。
その下人に敵方の様子を問うてみると、昨夜の戦いでは氏郷の兜に鉄砲が三発命中したそうで、
また中川庄蔵と二度三度馳せ違い、三か所で激しく戦うなど誠に軽率な大将だということだ。
下人が持っていた田中・黒川の首が露見したのでこの首を取った者は誰かと尋ねられ、
中川庄蔵だと下人が答えると、氏郷に三度まで渡り合った働きを敵方では大将(氏郷)を初め感心していたそうである。
下人を解放したのはそれを伝えるためだということは後になって知られたことであった。


その後の何度かの戦闘で城方の名のある者が幾人も討死し、寄手は諸方から一度に攻め寄せようと談合していると、
近くの一身田の門跡が来て和議の仲介を申し出、また信雄と秀吉も和睦したので十月下旬に戸木城を明け渡し、
木造具康は尾張へ逃れて行ったのであった。

(勢陽雑記)


夜の田んぼで敵の総大将に頻繁に出くわす羽目になった中川さんのお話。



16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/22(日) 15:56:28.24 ID:oPGCguPz
中川さんは相当すごいけど、なんというグダグダな話w

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/22(日) 17:00:44.43 ID:ZKG53IaR
自分の功績もどきと不幸の自慢なら
よそでやってくれ

蒲生氏郷、遅れた体の者に気づき

2015年11月19日 07:01

6 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/11/18(水) 23:17:48.97 ID:ymBsGgqT
蒲生氏郷が追鳥狩をしていた時、氏郷が進むのに遅れた体の者があった。
氏郷がそれに気づき「あれはどういうことか!?」と指し示すと、氏郷の側近くのもの一人が
急ぎその者に駆け寄り引き立て、足の真ん中に小刀を突き、出血させ、そのまま引きずってくると氏郷に申し上げた

「この者は踏抜きをしてしまったようで、そのため歩き兼ねているのです。」

(武功雑記)

単純に遅れたと言っちゃうと、氏郷に手討ちにされますからね。



7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/18(水) 23:30:58.40 ID:qjIYofm2
工場長はそんな人では無い

蒲生氏郷の陣が夜討ちを仕掛けられた時のこと

2015年10月10日 18:38


428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/10(土) 11:57:43.35 ID:8ZCLhqrc
小田原の役で蒲生氏郷の陣が夜討ちを仕掛けられた時のこと

北条勢は広沢兵庫秀信を大将として蒲生氏郷の陣に夜襲を仕掛けてきた。
蒲生側も予め警戒していたため、蒲生郷成や田丸直昌らも討って出て激戦となった。
氏郷も兜の緒を締め一丈余の槍を持って北条勢を追い散らしにかかったが、北条側も負けじと追ってくる蒲生勢に鉄砲を撃ちかけた。
この時、広沢は大豪の者であったので堀より大声で「かかってこい」と叫ぶや否や氏郷が聞きつけて向かって来た。蒲生勢も主に続けと突撃してくる。
更に広沢、続けて「今晩の夜襲の一番槍は大将の俺だ」と叫ぶと氏郷も「堀の中に飛び込んででも野郎を討ち取ってやんよ!」と槍を広沢に叩きつけたが、
敵兵に阻まれ逆に槍を奪われそうになること7、8回あった末に広沢を討ち漏らしてしまった。
広沢は城まで逃げようとするが、氏郷も諦めずに執拗に追い回した。結局、城内に逃げ込まれ、鉄砲を撃ちかけてきたので氏郷も帰っていった。
この時の戦闘で氏郷の兜には矢が二本折れて刺さり、具足は槍の傷跡だらけ、十文字槍に至っては刃が簓(今でいうタワシ)のようになっていたという。
秀吉もこれを見て、佐々の例の馬印を許したそうな。

『常山紀談』
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-16.html
こっちと微妙に話が違うので 敵の大将が可哀想な話



429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/10(土) 12:47:09.77 ID:DN3tbO2c
いつ裸になるかヒヤヒヤした。

蒲生氏郷、たった一人で

2015年09月21日 12:00

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/21(月) 10:43:13.89 ID:ci+j6nbh
豊臣秀吉による小田原征伐の時、城中より夜討が行われたことが在った。
これに先手の者達が対応したが、この時蒲生氏郷は、具足も着けず鑓を引っさげて、正面の敵に構わず
敵の後ろにたった一人でまわり、後方から突き立て散々に攻撃した。

驚いた夜討勢は城に引き取ろうとしたが、氏郷一人に責められ堀に飛び入るなどした。
その様子を見て後ろに回ってきた侍たち、我も我もと氏郷に続き、敵の首を討ち取った。
氏郷自身、敵をあまた討ち取り、多くの頸を取った。

豊臣秀吉はこの氏郷の働きを聞くと大いに感じ入り、「氏郷が働きを成すのは珍しいことではないが、
今回、夜討してきた敵の後ろにまわり、跡を一人で切り取り数多の頸を討ち取ったという。この気概、
古今稀なる働きである」そう激賞した。

蒲生氏郷記)




蒲生氏郷、自分のなした第一のこと

2015年09月20日 17:28

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/19(土) 19:53:54.94 ID:LGD1Qjx4
信長公ご切腹の後、羽柴筑前守(秀吉)はその味方に頼み申し付け、小牧面に軍勢を出した。
敵はこれを見て清洲の城に引き退き、秀吉は清洲の城際まで押し詰め、やがてまた引き返す事となった。

この時、後ろ払い(殿)を誰に申し付けるべきかと、秀吉は思案した。城より追撃されては一大事である。
いかにすべきかと考えた結果、この時の後ろ払いを、蒲生氏郷に仰せ付けた。

氏郷は承ると「御心易く思って下さい。敵が出てくれば段々に人数を立て、一まくりに追い返します。
御心易く撤退して下さい。」と申し上げた。これに秀吉は御感斜めならぬものであった。
そして軍勢の者達に次々と、順次撤退を仰せ付け、それはほぼ無事に完了した。

秀吉は、今度の尾州面からの引取を成功させる事は一代の大事であると考えていた。ここで氏郷が
堅固に後ろ払いをし、緩々と引き取ることに成功したこと大変満足したと、氏郷は
仰せ聞かされた。

蒲生氏郷一代の覚えはこの儀であった。
氏郷はいつもこのように語っていた。「皆が一代の大事と考えていることを、氏郷に仰せ付けられたのは
面目の至り、これに過ぎることはない。この時、敵が出てこなければ交戦することはないが、
私はこれを第一のこととする。」

蒲生氏郷記)

蒲生氏郷の考える、自分のなした第一のこと、である。




九戸政実の乱始末

2015年04月29日 17:09

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/28(火) 21:26:57.19 ID:/7nFTWj5
九戸政実の乱において、蒲生氏郷を始めとする豊臣軍の寄手は政実の籠もる九戸城を激しく攻め立てたが、
要害である九戸城に籠もる兵たちは戦意も高く、これを攻略することは難しかった。

寄手は一旦退却し、その日は人馬を休め、明朝攻めるのだと皆が油断していた所に、氏郷は竹束を用意させ、
夜中に仕寄に竹束を付けた。これにより寄手の軍勢は手負い無く、城を攻めることが出来た。
蒲生氏郷は九戸城が屈強の地であり容易に攻めることが出来ないことを考え、竹束を付けたのである。

寄手は数千丁の鉄砲を並べて城を撃ちすくめると、城中は難儀に及び、ついに堪えかね
『降参仕るによって身命を助け、釈明のため京都に上がりたい』と申し出たため、
寄手の軍はこれを了承し、籠城衆を三ノ丸に移動させ、本丸を接収した。

九戸政実に警護の武士を置き、九戸家中の者達は三ノ丸の長屋に押し込めたが、彼らはそこで
焼き殺された。そこから逃げようとした者達は、弓鉄砲で撃ち殺された。
それは目も当てられぬ有り様であった。

蒲生氏郷記)

豊臣軍による、九戸城攻めと、そのの降伏後行われた虐殺についての記事である。



713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/29(水) 00:47:32.81 ID:rz/ldAoa
浅野の介在が見受けられんね

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/29(水) 06:53:02.85 ID:cAcNPfvK
そりゃあ、力攻めじゃ無理だったので騙し討ちにしましたじゃ、物語的に蒲生ageできなくなるし

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/29(水) 17:50:47.03 ID:oAb/VsFW
よほど特殊な例でもない限り、記録って自家や自分に関係ある武士を持ち上げるために書かれるようなものだからな

蒲生氏郷、伊達政宗を出し抜く?

2015年04月26日 16:08

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/25(土) 20:27:37.87 ID:ehskVbmA
天正18年(1590)葛西大崎一揆が起こると、会津の蒲生氏郷は豊臣秀吉の命を受け、11月5日に出陣し、
7日に伊達政宗領との国境に至り、二本松に着陣した。

この時、伊達政宗は1万騎余りを率いて信夫郡の鎌田、本折、杉ノ目のあたりに陣を取っていた。
ここで伊達政宗には内々に下心があり、何時こちらに向かって攻めてくるかわからないというような
状況であったので、蒲生軍の先手より、蒲生四郎兵衛、玉井数馬の両人が、二本松の本陣に駆けつけ
氏郷に申し上げた

「前線ではそのように不穏な状況ですので、下々には喧嘩口論をしないよう随分と申し付けておきました。
また、政宗の謀反はもはや歴然であると、皆申しております。そのため、ここに2,3日も御逗留あって、
政宗の様子をよく見てからこちらの動きを考えるべきです。」

ところがこれを聞いた蒲生氏郷は、以ての外に激怒した
伊達政宗が逆心をするかもしれないということは、会津を出る前から覚悟をしていた!
どこであろうと謀反の色を立てたなら、政宗と一戦を遂げ勝負を決すると、思い定めて出てきた以上、
今更それに相違することはしない!

しかし今は、政宗についてはともかく、明日未明に出立し、政宗勢より先に押して通るべし!
この氏郷も明日早朝には出立する。そして誰であろうと我らが道を塞ぎ抵抗する者達がいれば、
そこで一戦を遂げる覚悟をせよ!」

このように、出立を見合わせるべきだなどという臆したような意見はひどく叱り飛ばされたため、
蒲生四郎兵衛、玉井数馬の両名は何も言うことも出来ず閉口した。

さて、その夜半からひどい豪雨に成ったが、それにも構わず、氏郷は払暁に二本松をうち立ち、
政宗領の大森城下に着陣した。
伊達政宗は油断していたため、氏郷に先行されてしまったが、それに気がつくと直ぐに出立し、
軍勢を押し立て押し立て、夜を日に継いで急いだが、それでも一揆勢の勇猛な者達は氏郷に押し付け、
大崎の境、政宗の領分である黒川というところに、11月17日に着陣し、翌日早朝より、敵地にて
戦闘を行った。

蒲生氏郷記)

葛西大崎一揆にて、蒲生氏郷伊達政宗を出し抜く?というお話。




693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/25(土) 22:30:44.46 ID:mNaZy1G0
>それでも一揆勢の勇猛な者達は氏郷に押し付け
おいw

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/25(土) 22:41:13.21 ID:YJHZw508
>>691
裸に鎧は一味違うぜ

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/26(日) 00:37:25.64 ID:ydlk+68D
工場長なら一揆もろともDQNを殺してもラスボスに許されると思うけど
なんでやらなかったんだろう。

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/26(日) 01:21:41.16 ID:s7u4W3fO
工場長を暗殺して許されたDQNならいるな

雑談・氏郷リスペクト

2015年02月10日 18:45

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/10(火) 07:45:46.04 ID:zzeQz5UM
http://en.rockinvienna.at/files/page/974_poster.jpg
974_poster[1]

氏郷リスペクト

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/10(火) 08:12:09.13 ID:xMugn9Xw
量産型ですね

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/10(火) 09:54:51.32 ID:4RT5wBcX
だから工場長と言われるわけか

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/10(火) 13:59:31.73 ID:BFmOfkWu
まさか、ここにメイトや父兄がいるわけないよね?

蒲生氏郷と伊達政宗の対面

2015年01月16日 18:40

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/15(木) 20:18:33.55 ID:L+YjOFig
天正十八年(1590)、葛西大崎一揆が起こると、会津の蒲生氏郷はこの平定のため出撃し、
一揆方の名生城を攻め落とすと西高清水に陣取った。
ここに、伊達政宗が味方するためと参上した。

しかし、氏郷はそれまで政宗に、使いを以って『一揆を攻められるべきである』と、再三に渡り伝えたにも
かかわらず、全く戦おうとしなかったため、政宗の心底を見ようと、氏郷は政宗の陣所へと向かった。
政宗はこれを喜んだ。その座は、左の上座に氏郷、次いで佐久間久右衛門(安政)、前田慶次(利益)、
佐久間源六(勝之)、蒲生源左衛門。
右の上座は政宗、次いで武田・田村・茂庭・片倉であった。

この時、酒乱に及び、政宗は座を立って乱舞した。そして「肴を取ってくる」と勝手の方に入ろうとしたが、
ここで佐久間源六が政宗を抑えて「このような座敷で、大将が勝手に入るような真似はせぬものです!」と
元の座に戻し、「私が肴を取ってきます。」と勝手の方を見に行くと、そこには数百の兵が控え、事有れば
打って出るという気配に満ちていた。

源六は勝手より肴を持って出ると政宗の右手に近づき、「お酒を注ぎましょう。氏郷の前に杯がありますから、
政宗殿がお納め下さい。」と進めた。
そして酒宴も収まり、氏郷は退出した。久右衛門と源六の佐久間兄弟、および前田慶次は残って、
政宗と京や田舎の物語をし、氏郷が充分逃げ延びた間合いを見計らってから退出したという。
(佐久間軍記)

佐久間軍記による、蒲生氏郷伊達政宗の対面の模様である。



260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/16(金) 17:13:29.67 ID:7WkErP5W
>そして「肴を取ってくる」と勝手の方に入ろうとしたが、

怪し過ぎるわwwww
もうちょっと自然に席を立てよwwww

臆病権内

2014年12月19日 18:50

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 00:17:58.46 ID:t0QMj00O
筒井順慶の家臣に板倉権内と言う者がいた。

この権内、どうしたわけか彼のことを「臆病者である」と誰かが言い始め、
やがて家中は勿論、隣国までその評判は伝わり、臆病者の話が出ると「筒井家の権内か」と
世間で言われるまでになった。

権内はこのことを大変口惜しく思っていたが、誰がということではなく、世間一般にそう言われる事なので、
致し方もなく日を送っていたが、何分不快なことであり、終に筒井家を立退き牢人となった。
そして諸大将の器量を見て回り、蒲生家に出向くとこのように申し上げた

「拙者の事、きっと聞き及ばれた事もあるでしょう。臆病者の板倉権内です。
臆病者であってもお使い下さるのなら、御奉公仕らん。」

居合わせた蒲生家の侍たちは、「これが臆病者の権内か」と言いながら、非常に軽蔑した様子で
奥に行きその事を言上すると、蒲生氏郷が出てきて聞いた

「その方が権内か。どうして私に仕えようと思って来たのか?」

権内は答えた
「臆病者を抱える主君は、あなた以外にはあり得ないと考えましたので、この様にまかり出ました。」

氏郷は深くうなずき、即座に彼を召抱えた。

その後、合戦が起こり氏郷はこの権内を連れて出陣した。
この戦場で権内は抜群の働きを成し、大将分の首を二つ取った。
氏郷は大喜びし「まるで吾妻鑑に出てくるような武功だ!」と、即座に二千石を与え物頭とした。
これより権内の臆病者の名前は消えうせ、諸国に勇名を轟かせた。
これに「家臣が豪胆か臆病かは、主君が用いるか捨てるかにあるのだ」と、その頃の人は言ったそうである。

(明良洪範)




403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 01:46:51.41 ID:lSjFHYWZ
人の上に立つようになると「ワシが育てた」をやりたがるものなんですかね

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 03:43:22.97 ID:VLfieFcQ
あー、また雇っちゃったよこの人って思いました。

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 04:07:41.36 ID:1I2zabS8
氏郷は戦場で先陣きっていく御仁だからお前も我に続け的な感じだったんかね

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 04:17:16.49 ID:9PiUghCr
板倉さん汚名返上できて良かったよ
臆病者は洞ヶ峠の方だった

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 08:23:49.13 ID:B90+8CPy
どうせやっかみから始まった陰口でしょ

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 08:38:47.40 ID:GBhxa6qI
その根拠は?

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 23:35:34.17 ID:i/c7bF2+
戦国時代にタイムスリップして仕官するなら、蒲生氏郷
農民として住むなら北条領

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 23:43:04.21 ID:Utuf3/Mp
小便しに行って斬られるのか

近江に蒲生忠三郎という利口なる若者がいる

2014年11月21日 18:43

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/21(金) 00:23:41.07 ID:DkPo+BuD
ある時内藤修理(昌豊)が言われた

「俵藤太(藤原秀郷)の子孫は、近江国日野の蒲生の一党である。
今、近江に蒲生忠三郎(氏郷)という利口なる若者がいる。これは三河の家康などに少し相似た武士で、
江州においては浅井備前守(長政)に次いで、この忠三郎が心ばせあると聞き及んでいる。

かの蒲生の家は、交互に一代弱く一代強い状態が続いているという。その理由は、かつて先祖の
俵藤太は王威を以って平将門公を討った。しかし将門も名大将であったので、それを討った罰があり、
討った功徳と罰の両方が、かの家の侍大将に、順番に弱み、強みと成って現れるのだそうだ。

忠三郎の親(蒲生賢秀)に対して、下劣な者共が作った歌に
『日野の蒲生は武者けたよ 陣と申せばしもごしおこる。具足をうりやれ衣めせ』
(日野の蒲生は武者ぶっているだけだ。戦と聞けば臆病風に吹かれている。具足を売って風よけの衣を召したほうが良い)
こう歌われたそうだ。

しかしその子の忠三郎は、世の常ならぬ若者と聞く。親と子は違うものだ。

(甲陽軍鑑)

甲陽軍鑑に見える、若き日の蒲生氏郷の評判である。




226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/21(金) 00:45:21.19 ID:kZjBsizg
>>225
小山・結城「...」

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/21(金) 12:07:48.52 ID:jRwsxZfR
父ちゃん散々な言われようだな

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/21(金) 12:58:53.30 ID:WlCvwZtb
蒲生のメイン盾ですので

229 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/11/21(金) 19:48:11.61 ID:pAQqNgnM
さすが名門藤原氏の蒲生家

「今日の芳志、絶対に忘れない!」

2014年08月29日 18:54

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/28(木) 21:13:22.38 ID:4zOv+m4z
毛屋主水武久は佐々成政に仕えていたが、成政の切腹のあと、中津に来て黒田家に三百石で仕えた。

さて、天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐の結果、蒲生氏郷が伊勢松坂十二万石から、
会津四十二万石を賜った。氏郷は俄に大大名と成ったため、この時毛屋主水に、一万石で
自らに仕えるようにと密かに書状を送った。

しかし、主水はこれに
「只今私に高禄を賜るとのことですが、朝鮮への出兵をひかえて他家に移るというのは、
私の本意ではありません。
もし、つつがなく帰朝できましたら、御意に従うでしょう。」
と、断った。

氏郷と主水の間には、かつてこのような事があった

羽柴秀吉による播磨三木城攻めの頃、毛屋主水は山崎源太左衛門(片家)に仕えていた。
この頃彼は、田原金十郎と名乗っていた。

さて、その三木城攻めの最中、秀吉の軍は敗北し、これに参加していた蒲生氏郷の部隊は郎従ら皆逃げ去り、
氏郷の身も危うし、との時、毛屋主水が馳来て近づく敵を追い散らした。
そして氏郷に向かって言った

「私は田原金十郎と申して、山崎家の家人です。貴公と我が主君とは不和ですが、
只今の急難、見捨てがたきによって救い奉る!」

これに氏郷は感激し、主水に向かい「今日の芳志、絶対に忘れない!」と叫んだ。

これ故に、氏郷は兼ねてから毛屋主水の武勇をよく知っており、かつ、昔の忠節を思い出し、
あのような書状を出して、大禄を遣わして召し抱えたいと言ってきたのである。

(黒田家臣伝)



633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/28(木) 22:09:17.22 ID:6ZpOri4S
>>632
さすが工場長。いつでもスカウトを忘れないな。

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/28(木) 22:20:06.89 ID:8aXF40D2
いつも断られてる気がするが。

矢の根

2014年06月04日 18:51

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/04(水) 17:53:14.55 ID:TFzAhEoD
天正十七年四月、秀吉は初めて男子が生まれたために
喜びなさることはなみなみならず、その名は棄若と称した。

此度の慶賀として天下の貴賎は刀剣の類から重代の器を献上した。
その中で蒲生飛騨守氏郷は矢の根を一本献上なさった。

これは先祖の俵藤太秀郷(藤原秀郷)が龍宮においてムカデを
殺しなさった鏃であり、蒲生家にとって累代の重器である。

しかし棄若は成長せず、天正九年(十九年の誤り)八月五日、
三歳にして早世し、妙心寺に葬った。その矢の根も、そのまま
その寺に納めたということである。寺記に詳しい。

――『明良洪範』

矢の根についての他の逸話↓
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3759.html



450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/05(木) 14:16:44.63 ID:8fH0IENl
>>449
この子本当に秀吉の種だったんだろうか?

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/05(木) 15:43:45.41 ID:kMtxemWk
墓荒らして・・・じゃなくて発掘調査してやるしかないだろうね。
他にも興味があるのがあるけどあの方に手出すとリアルにタヒが出そうだからやるバカはいないだろうな

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/06(金) 00:44:02.73 ID:GNJFux/z
>>449
鶴松って名前以外あったんだ。

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/06(金) 01:16:45.36 ID:M2gKAwcK
ああ「すてわか」なんだな
「葉」若に見えて単なる与太話だと思ってたわw

氏郷はそれを踏まえ

2014年05月06日 18:59

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/06(火) 12:56:48.23 ID:Qfg5SQO+
会津の黒川城は、至徳元年に蘆名直盛が築城した城である。天文7年に火災を受け改築され、
その後天正18年、蒲生氏郷の入部により再び改築が計画されることになった。

氏郷は最初、安芸の広島城を模して城を築こうとしていたが、
徳川家康と会うことがあった時にこの話に及んだ。
家康は築城に関して、

「おおよそ居城の大小については、城主の分限に関わることなので、予め論じがたいのだが、
大抵本丸を初め二の郭・三の郭は、塀・櫓ともに如何にも堅密にしておき、
また外郭においても、一の門・二の門と(それらにより形成される)升形は、
いざという時にすぐ作れるものではないから、予め設置して不測の事態に備えておくべきだ。
長塀の古くなった物は、いざと言うとき役に立たないから、外郭は土居・石垣のみにしておくのも悪くない。
必ずしも広島城のように外郭まで塀をめぐらしておくには及ばない。
それと、松永久秀が工夫して大和信貴山城に設けた多門櫓は、二の郭・三の郭に造っておくと一際便利なものだぞ。」

などと細かく氏郷に教えた。氏郷はそれを踏まえ、
文禄元年の夏より、大いに役夫を動員し築城を始め、家臣の曾根内匠らに命じ、
甲州流の縄張りを用いて内外の郭を築いたのである。

(新編会津風土記)


家康、氏郷に築城の心得を教えてあげる、というお話。
ちなみに孫の家光が完成させた江戸城の外郭には、八代将軍吉宗が撤去するまで長大な塀があったそうです・・・




891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/06(火) 15:24:27.21 ID:P5XHWXJH
ドケチ野郎とか散々家康をdisってるくせに