片手の武人

2013年04月18日 19:53

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/18(木) 18:52:34.28 ID:MED5YaXE
片手の武人(1/2)

>>54
この話に出てくる小幡昌忠の話(途中までは同じ話の詳しいバージョン)

天正壬午の乱において、元武田家臣で板垣衆覚えの者として名高かった平原宮内が
北条氏直に内通したとの疑いが発覚し、詮議が行われた。
罪を逃れ難くなった平原宮内が、その場で奥山新八郎の従者が刀を携えていたのを見て取り
馳せ寄ってこれを奪い取り斬り回ったため、手負い・死者が合計21人も出た。

辻盛昌(元武田家臣山県衆)はこれを素手で取り押さえようと立ち向かったが
面を斬られ目に血が入り進みがたく退いた。
土屋権右衛門重成は家康の御前の板戸を引き立てて御座に侵入させまいと支えた。
小幡昌忠は短刀を抜いて平原宮内に立ち向かい戦ったが、左手を負傷し少し間を取った。
その合間に永見新右衛門勝貞が鑓の石突で平原宮内を突き、平原が思わず倒れたところを
小幡昌忠が馳せよって平原を刺し殺した。

このときまだ20歳にもなっていなかったにも関わらず
剛の者に短刀で立ち向かい倒した小幡昌忠のこの働きを、家康は限りなく褒め称え、
医師2名を遣わして昌忠の左手の治療にあたらせ、
近臣の者に一日に2度も昌忠の傷の具合を問うほど気にかけたという。
しかし結局、このときの傷のため小幡昌忠の左手は不自由になってしまった。

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/18(木) 18:55:16.19 ID:MED5YaXE
片手の武人(2/2)

けれども、小幡昌忠は元来剛気だったのでその後もなお片手で近接戦闘をし、
信濃前山で味方が崩れかかった際に高名し、更に味方が退却しようとした際に
馬を返して首を挙げた他、信濃国岩尾、長久手など各地の戦いで高名を挙げた。
家康も、他の者が取った首は、大久保治右衛門(忠佐)らに実検させていたものを
昌忠が取った首は自ら実検し、その働きぶりに感じ入るほどだった。

天正13年、徳川氏が信州上田の真田氏を攻めて敗れた際も、
小幡昌忠は兵士6人ほどと染屋村に踏みとどまり、
追撃してきた敵を防戦して支えたので、味方は無事に退くことができた。

徳川家康が小幡昌忠のこの働きを聞いて本多正信にこう命じた。
「昌忠は出陣するごとにいつも手痛く戦う。
片手でこのように危ない戦いをすれば、
討死してしまうのではないかといつも心が痛んでしまう。
これ以降は昌忠を本陣に留めおき、みだりに先手に進ませないようにせよ」
本多正信は承り、この旨は白須平次を通じて小幡昌忠に伝えられた。

こうして小幡昌忠は、(戦場で討死することなく)慶長4年に36歳で死んだ。

以上、干城録より抜粋訳。
小幡昌忠というのは小幡昌盛の長男で、甲陽軍鑑の編者小幡景憲の兄にあたる人です。

ちなみに下の逸話では、昌忠の左手は手首から先を斬り落とされたことになっています…
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