667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/21(火) 07:45:37.59 ID:EsphktCK
天正十五年の夏、豊臣秀吉の四国攻めの軍勢が迫る中、長宗我部元親は城ごとに軍勢を配置し、
一之宮城は江村孫左エ門、谷忠兵衛(忠澄)の両名に仰せ付けられた。
しかしここに大和大納言・豊臣秀長の軍勢が迫る。
谷忠兵衛は周りからも知慮ある者と呼ばれていたが、事ここに到っては、城攻めの始まる前に、元親公に
講和のための交渉を始めるべきだと考え、江村孫左エ門とも相談し、矢止め(停戦)のための神文を請うため、
元親の居る羽久地城へと参上した。
しかし元親は、谷忠兵衛の進言を聞いて以ての外に激怒し、忠兵衛は全く面目を失った。
それでも現在は一大事の時であると忠兵衛は考え、在城している重臣たち全てと話し合い、何れも
忠兵衛の見解に同心するに至った。
忠兵衛は3日ここに留まり、重臣一同の総意として、豊臣軍との講和をするよう元親に諫言した。
そのため終には元親も、忠兵衛の言う通りにするとした。
忠兵衛はこの講和を認める重臣一同の一札を取ると、一之宮城に帰り、豊臣秀長にこの旨を申し上げ、
降参の首尾を相整えた。
この時、城中よりも軍勢が出て、豊臣軍と対面したが、豊臣の上方勢は何よりも馬が大きく、武装も華やかで、
千騎が二千騎にも見えるようであった。
一方の四国勢は、馬も細く武装も侘しいもので、こちらは千騎が五百騎に見えるようであったと語り伝えられている。
同年12月には元親が降参のため大阪に向かった折にそのお供をし、秀吉にお目見えされ、直々に刀を拝領し
人々から名誉の侍であると大いに褒め称えられた。
豊後の戸次川の戦では、谷忠兵衛はその嫡男が、長宗我部信親と共に討死をした。
このことも有り元親は、信親の遺骸を受け取る使者として、島津の新納忠元の元に使わされた。
この谷忠兵衛は土佐中村城を任され、慶長五年(1600)11月7日、関ヶ原の結果長宗我部が崩壊する中、その地で病死した。
享年67歳であった。
(長曾我部覺書)
天正十五年の夏、豊臣秀吉の四国攻めの軍勢が迫る中、長宗我部元親は城ごとに軍勢を配置し、
一之宮城は江村孫左エ門、谷忠兵衛(忠澄)の両名に仰せ付けられた。
しかしここに大和大納言・豊臣秀長の軍勢が迫る。
谷忠兵衛は周りからも知慮ある者と呼ばれていたが、事ここに到っては、城攻めの始まる前に、元親公に
講和のための交渉を始めるべきだと考え、江村孫左エ門とも相談し、矢止め(停戦)のための神文を請うため、
元親の居る羽久地城へと参上した。
しかし元親は、谷忠兵衛の進言を聞いて以ての外に激怒し、忠兵衛は全く面目を失った。
それでも現在は一大事の時であると忠兵衛は考え、在城している重臣たち全てと話し合い、何れも
忠兵衛の見解に同心するに至った。
忠兵衛は3日ここに留まり、重臣一同の総意として、豊臣軍との講和をするよう元親に諫言した。
そのため終には元親も、忠兵衛の言う通りにするとした。
忠兵衛はこの講和を認める重臣一同の一札を取ると、一之宮城に帰り、豊臣秀長にこの旨を申し上げ、
降参の首尾を相整えた。
この時、城中よりも軍勢が出て、豊臣軍と対面したが、豊臣の上方勢は何よりも馬が大きく、武装も華やかで、
千騎が二千騎にも見えるようであった。
一方の四国勢は、馬も細く武装も侘しいもので、こちらは千騎が五百騎に見えるようであったと語り伝えられている。
同年12月には元親が降参のため大阪に向かった折にそのお供をし、秀吉にお目見えされ、直々に刀を拝領し
人々から名誉の侍であると大いに褒め称えられた。
豊後の戸次川の戦では、谷忠兵衛はその嫡男が、長宗我部信親と共に討死をした。
このことも有り元親は、信親の遺骸を受け取る使者として、島津の新納忠元の元に使わされた。
この谷忠兵衛は土佐中村城を任され、慶長五年(1600)11月7日、関ヶ原の結果長宗我部が崩壊する中、その地で病死した。
享年67歳であった。
(長曾我部覺書)
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