飫肥城引き渡し

2016年11月09日 13:35

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/08(火) 20:32:26.56 ID:ZmqVOuEJ
天正15年、伊東祐兵豊臣秀吉より飫肥を拝領したが、島津家の将である上原長門守(尚近)は飫肥城から
退去せず、引き渡そうとする気色もなかった。

伊東家はその年の8月初めより川崎又右衛門尉を大将、川崎宮内左衛門尉を副えて郷原水城に陣を取り、
上原を説得したが、彼はこれに従おうとせず、あまつさえ8月10日には軍勢を出して、郷原において
苅田を行った。

伊東勢もこれに打って出て、飫肥城勢を広木田まで追い詰め、大勢を討ち取って引き上げた。しかし味方にも、
桜木藤七兵衛尉、海老原清左衛門尉の両名が討ち死にした。

この事は豊臣秀吉に報告され、秀吉は早速、土井九右衛門尉を上使として飫肥に差し下した。
土井九右衛門尉は豊臣家の朱印を持って、同年12月13日、飫肥に到着した。
彼は上使であったので一の城戸を騎乗のまま乗り通り、二の城戸まで乗り通ろうとした所で、
上原の門卒たちが「乗打無礼なり!」と腹を立て、九右衛門尉を始めとしてその一行のうち13人を
惨殺した。その時は伊東家からも、平原河内守、松浦甚助が案内者として同行していたが、平原は
殺され、松浦は生け捕りにされ、のちに解放された。

上原長門守は門卒たちの濫妨を聞いて驚愕した
「上使を殺した罪は逃れがたい!お前たちは私の首を斬ったのと同じであるぞ!」
そう悔やんだが及ばず、程なくこの事件は秀吉に聞こえた。

秀吉は激怒し、即座に上原長門守を召喚した。
上原は、とても逃れられないと思ったか、嫡子城之介を名代として大阪に上らせたが、上使を殺した罪により、
この嫡子が斬罪となった。
飫肥城は天正16年閏5月3日、伊東家に引き渡された。

(日向纂記)

島津家の上原尚近、よりによって秀吉の上使を無礼討ちにしたというお話。



282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/08(火) 23:42:29.86 ID:RvUCPlAS
息子を斬らせて助かるなんて…

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/09(水) 04:27:01.27 ID:LHaGcvNP
???「子供なんていくらでも産めばいいのよ」

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/09(水) 04:55:48.51 ID:oIThLz4f
何そのカテリーナ・スフォルツァ
スポンサーサイト

伊東家毛利家喧嘩の事。並びに落合浅之助について

2016年06月21日 21:17

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 00:11:17.89 ID:qBcS+riJ
朝鮮の役の折、伊東祐兵が釜山城に在番していた時に、伊東家の兵と毛利家の兵が喧嘩に及び、
毛利家からは騎馬の武者が多数出て伊東家の船手の者たちを海岸際まで置い詰めた。

ここで伊東家からは落合九右衛門尉を始めとして大勢が駆け付け互いに鑓合わせとなったが、
伊東勢は毛利家の小谷又右衛門(知行八千石)をはじめとした大勢を海岸際まで追い込め、
石田九郎右衛門(知行六百石)に重症を負わせ、毛利家では討ち死に6人に及んだ。
伊東家も討ち死に3人、手負い数十人が出た。

このようにほぼ合戦の有様で、鎮め難い状況になったが、ここに寺沢志摩守(広高)、
島津又七郎(豊久)、相良左兵衛(頼房)の三大将が間に入って調停し、事態はどうにか
鎮まった。

この時、落合九右衛門尉の嫡子で、16歳の落合浅之助、容儀人に優れ伊東祐兵の小姓であったが、
喧嘩の注進を聞くと馳せ付け一文字に斬り掛かった。これを見た毛利の武士の一人が、弓を引いて
浅之助に放とうとしたが、彼が年少でありながら、その勇ましいことに感じ入ったのか、わざと
足元の地面に射って、浅之助の姓名を尋ね、感謝して退いた。

この落合浅之助は元来勇気人に優れた男であり、或る日、伊東祐兵の眼前で敵を討ち取り
比類なき働きが有ったので、近習外様の者たちも、彼に一廉の褒美があると思っていたにも
かかわらず、その後全くその沙汰がなかった。皆不思議に思い、ある者が「どうして浅之助に
褒美を与えられないのですか?」と尋ねると、祐兵は答えた。

「なるほど、確かに恩賞を与えるべき功名であろう。だが浅之助は、年齢少なくして勇気が
あまりに強すぎる。彼に今褒美を与えては、さらに逸って近いうちに必ず討ち死にするだろう。
そう思ったので、その沙汰をしないのだ。」

しかしその後浅之助に、何と言う理由もなく、短刀が与えられたそうである。

(日向纂記)



874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 02:16:31.73 ID:kVu0ZNF3
自決の引導でしたか

遠からぬ内に、世の中は

2016年06月20日 17:57

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/19(日) 19:37:51.41 ID:SUyILvdO
慶長元年12月下旬、伊東祐兵は朝鮮の安骨浦陣中より、黒田如水に相談の事があって、家臣の
借家原甚右衛門尉満鎮を豊前に派遣した。如水は甚右衛門を近くに召して

「さてさて、良い所に参った。私の方からも使いを出して、伊東殿に申したいことがあったのだ。
実はな、太閤が近頃殊の外衰えられた、その上日本中で様々な怪異が多く起こっている。
遠からぬ内に、世の中はまた騒がしくなるであろう。

民部殿(祐兵)は小身であるから、国元について甚だ心もとなく思うだろう。
天下の事が未だ起きない内に、片時も早く島津家と談じて、縁故を取り結ぶか、又は麾下に入る事を
申し入れるべきだろう。その上で互いに神文を取り交わすべきだ。
この旨を早々に帰って伝えるように。」

甚右衛門は急ぎ豊前を立って明けて慶長2年正月中旬、安骨浦に帰り黒田如水の口上の趣を申し上げると、
伊東祐兵はこの助言を喜び、早速加徳島にあった島津の陣中に赴き、兵庫頭(義弘)と会談して、
以後、堅く唇歯の好みを結び、互いに違背有るべからずと、神文を取り交わした。

(日向纂記)



増高を願って

2016年06月18日 11:28

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 20:37:22.89 ID:quiHw0RT
伊東祐兵が豊臣秀吉によって飫肥に封ぜられた時、石高は2万8千石であった。
しかし文禄2年、朝鮮の役に参戦する中、軍費が足りないと、増高を願って検地を行った。
これによって伊東家の石高は3万6千石となった。

しかし、それでも猶、軍功成し難いとして、文禄4年、再び増高を思い立ち、飫肥、清武にて
検地を行った。だがこの時は目的通りの高にはならず、僅かに4万5百石の数字が出ただけであった。
当初の予測に及ばなかった事で、この時の増高は中止されたという。

(日向纂記)



736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 20:52:18.95 ID:qGvkDOSE
ワロタ。隣みたいに無理やり嵩上げ石高出さなかっただけマシだな

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 20:59:36.74 ID:L9K8Eq0L
島津のこと?

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 21:25:25.91 ID:5P/de7pp
>>735
信長の野望じゃないんだからそんなに簡単に石高増えないだろw

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 21:55:50.54 ID:qGvkDOSE
申告漏れを掘り起こしてる状態だから増えるんだなこれが

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 02:12:54.78 ID:gdW/4aF4
柳生の隠し田ですか?

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 06:50:55.40 ID:DPUQJOLE
実際には石高大幅増は検地した場合でも石盛や等級を操作してるケースばかり。
指し出しに一定の率を掛けるという雑なものも多いな。

関ヶ原後の毛利くらい逼迫すると、荒地扱いだった土地を無理やり組み込んだり
無茶することもあるけどさ

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 10:02:28.50 ID:fZr4YD9T
最後、どの位を期待してたんだろ?

朔寧の監司

2016年06月15日 13:13

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/14(火) 20:20:08.45 ID:dzuNT2ui
文禄の役でのこと。

文禄元年10月18日、朝鮮に派遣されていた伊東祐兵は駐屯していた鐵原より出陣、19日早朝に
朔寧の城を攻め落とし、400名余を討ち取った。

するとその後、日本軍が占拠している王城(ソウル)において、朝鮮人が群集し、痛く泣き
哀しんでいた。不審に思った石田治部少輔(三成)が彼らに理由を尋ねると、このように答えた

「鐵原の上官(伊東祐兵)によって、朔寧の監司を討ち取られたとの事なのです。それ故に嘆いて
いるのです。」

石田はこの事を伊東祐兵に伝え、急ぎこの監司の首を送るように言った。
この使いに伊東祐兵は大いに驚いた

「夜懸けであったので切り捨てにしたため、大将を討ち取ったことも知らなかった!
急ぎその首を探すのだ!」
そして落合九右衛門尉、川崎又右衛門尉両人に、士卒70を付けて朔寧城に派遣した。

両人は朔寧に住む朝鮮人二人を捕え、監司の死骸について問うたが、彼らは有無の返答も
しなかった。この態度に落合、川崎は大いに怒り、即座に一人を惨殺した。
すると残った一人は大いに怖れ、死骸のある場所を知っていると白状した。
そこで彼を先に追い立て案内をさせた所、朔寧城から三里ほど奥にある松山に入った。
ここには墳墓が多くあったのだが、監司を埋めた所は墳も築かず、上に木の葉などを撒き散らして
何事もない体に偽装していた。

落合たちは士卒に命じてこれを掘り出し、死骸は長持に入れ、金襴の類にて包んだ。
冬のことであったので、色もほとんど損じていなかった。
そして首を斬って持ち帰ると、すぐに王城へと送った。

この首は中台門に曝されたが、朝鮮人はこの首の前を通る時、必ず再拝して泣いたという。

(日向纂記)



米良重矩の帰参

2016年06月13日 11:21

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/12(日) 18:57:26.47 ID:b8183FBv
米良美濃守重矩は日向伊東家の家臣であったが、過ぐる天正4年、一旦の憤りに、
累代の主君に背き、島津家へ寝返った。これが終には伊東家の日向没落へと繋がったのである。

しかし米良は薩摩において栄達したものの、心安い日は無く、鬱々と思った。

『私はこのまま、叛逆の罪を抱いて生き、不快の月日を送るよりも、一度旧主に見まえて、
身の罪過を謝し潔く誅殺を被ってこそ、この上の本意ではないだろうか。』

そう考えている中、天正16年、伊藤祐兵が再び飫肥を拝領したと聞いて、取るものもとりあえず
飫肥に帰り、祐兵に対面して先非を謝した。

伊東祐兵はこれを聞くと
「美濃守は叛逆の徒であり、国を覆した者であるから、必ず厳罰が行われること必定である。
であるのに、死を決して帰ってきたこと、奇特である。」

そう言ってその罪を宥し、さらに知行を与えた。
米良重矩は感激のあまり、叫んだ

「公百年の後、私は必ず殉死します!」

しかし、伊東祐兵が慶長5年、大阪で死去した時、嫡子祐慶は未だ幼少であり、また宮崎一乱の
最中でも在ったため、心ならずも本意を遂げることが出来ず、その後、清武の領主にもなったが、
程なく病死した。
この時、末期に及んで嫡子勘之助にこう言い残した

「汝、必ず我が志を継ぐべし。」

寛永13年(1636)、伊東祐慶が江戸にて死去すると、米良勘之助は清武にて殉死を遂げた。

(日向纂記)



稲津重房の帰参

2013年08月12日 19:51

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/12(月) 02:42:17.05 ID:sRHr9IkJ
稲津二郎兵衛尉重房は日向伊東家の譜代の家臣であったが、伊東義祐の日向没落(伊東崩れ)の時は
未だ年齢は14で、三位公(義祐)に伴することが出来ず、心ならずも薩摩島津氏の幕下に属した。
その後、島津家の大坂屋敷に勤務し、母と妻は薩摩に留め置いてあった。

そんな所に、伊東祐兵が豊臣秀吉より、旧領である日向飫肥を拝領する、という話が聞こえてきた。

稲津は「累代の旧君を余所の君主として見ることは快からず。大名として旧領に復帰されるからには、
たとえ死すとも、帰参しなければならない!」と思い立ち、自分の譜代の郎党を呼び、
この決意を話し

「我が心底は以上の通りである。お前は急ぎ薩摩に下り、我が母と妻とを伴って飫肥に
連れてくるのだ。私はその頃合いを考えあわせて、この大坂屋敷を立ち退き飫肥に向かう。」

そう命じて早舟を求め、これに乗せて薩摩へと下した。そして郎党がもはや薩摩に着いたと思われる
時期に、稲津は密かに島津の大坂屋敷を脱出した。

稲津重房の逃亡を知った大坂屋敷の番頭は、早舟を仕立ててこの事を国元に知らせた。
ところが、である、

稲津の郎党の乗った早舟は、はるか以前に大坂を出たのであるが、海上の波風が悪く、
殊の外到着が遅れ、却って大坂屋敷の番頭の出した注進の早舟のほうが、1日早く
薩摩についてしまったのである。

この注進を受けて島津家では、『この処分を寛大にしてしまえば、これまで我が家に降参した者達に
非常な悪影響を与える。』と考え、稲津重房の母と妻を殺した。

稲津重房は飫肥に帰り着き、伊東祐兵は彼に200石を与えた。
のち、慶長5年10月9日、木脇口にて戦死した。享年37歳であった。
(日向纂記)

稲津重房帰参における、悲劇についての逸話である。





家伝の御旗系図を再度お手に入れられる事

2013年07月12日 19:50

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/12(金) 08:49:41.95 ID:Z6dCIJ8o
家伝の御旗系図を再度お手に入れられる事

祐兵様が入国に及び、日向没落時の奈須右近将監祐貞(日向星原城主)の
忠節の功を謝する為かつ三位入道殿が預け置かれた御旗御系図等を返して
もらう為にと、曽我雅楽助を使者として送られた。

右近将監は「曽我は我が親類であれば他人の疑いも遁れ難い。大切な御旗
系図であるから伊東の御一族か、さもなくば一軍の大将たる人を寄越して
頂きたい」と申され曽我をすげなく返された。

これによって山田土佐入道匡徳が豊後大友殿へ先年の謝礼の為に使者と
して送られていたが、続いて神門村へと赴き御旗御系図等を受け取って
帰るようにと仰せ付けられ、かの所へと到着した。

右近将監は畏まって預け置かれた御旗御系図ならびに文書目録を調えて
一紙に抑留仕らぬ旨の起請文を添えて渡し、匡徳にも馳走して藤島の脇差
を与えられたと言い伝えられている。

(日向記)

山田土佐入道は、以前の逸話にも登場した島津義久に妻子を送り返して
貰った人で匡徳(匡得または京得とも言う)は入道後の号です。




672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/12(金) 14:43:24.52 ID:TSNLLwvw
>>670
家久勢を破った堅田合戦で佐伯勢の指揮採った人か

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/12(金) 15:43:44.57 ID:Z6dCIJ8o
>>672
その人です。

三位入道たちが豊後を去った後、佐伯氏に仕えて島津と戦い続け
九州征伐後に伊東家へと帰参した訳です。

伊東家、豊後から退転

2013年06月17日 19:56

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 11:49:57.62 ID:VrAJmhBe
大友の諸勢が日向高城において敗北した為、大友を頼っていた入道殿(伊東
義祐)や祐兵は心苦しく思っていた頃、祐兵の室家(妻)が野津から御母堂の
旅館を訪ねて逗留していた。

彼女は容顔美麗であったので大友家は密かに祐兵を殺害しこれを奪おうと
謀っているとにわかに密告するものがあった。

そこで入道殿と祐兵に対し「急ぎ豊後から立ち退きましょうと」と家臣達が
諌めたが「武の家に生まれたものが、命を惜しんで妻女を奪わせる事が
できようか」と承引されなかった。

これによりも室家も救出して皆でともに脱出しようと河崎駿河守(祐長)ら
が密かに談じ、母堂の女中新大夫は頼りになるものであるから、これに
計らわせようと告知した。

城中の旅宿は警備も厳しくそのまま忍び出ることは困難であったが、新大夫
は寝殿の庭内に塵出しの隙間を見つけ「あそこから脱出させましょう。夜に
紛れてお迎えにきてください」と注進した。

これにより計画を定め、三位入道殿や祐兵は密かに旅館を逃げ出して室家の
脱出を待ち構えていた。

室家のお迎えには河崎駿河守に物馴れた侍を二名差し添えて、かの塵出しの
外で待ち構えていたところ、計画通り塵出しの隙間から脱出なされた。

駿河守は室家にお供して入道殿、祐兵が待っている場所へとたどり着いた。
両主は喜ばれ、皆で船に乗って伊予国へと赴いた。

(日向記)

伊東家が豊後から退転する模様である




878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 13:09:43.41 ID:G40qEFIS
そーりん自重しないなw

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 13:16:24.63 ID:VrAJmhBe
「大友家」とあるので宗麟かどうかは不明です。義統の可能性も十分です。
何より豊後退転をとりつくろうための創作の可能性も否定できないですし。

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 13:17:08.65 ID:aOSoVu2J
女が絡む時の宗麟は息子並にぼんくら

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 13:18:20.59 ID:aOSoVu2J
>>879
逆に考えると大友某に女を奪おうとされた!と言えば世間に納得してもらえるということでもあるw

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 13:39:51.07 ID:VrAJmhBe
>>881
は・・・反論の余地が無いw

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 15:19:00.41 ID:fisDmLvD
大友家危険度チェック

・妻女は見目麗しい
・評判の茶器を持っている
・仏に深く帰依している
・武士として八幡大菩薩は尊重している
・気分次第で沙汰が変わるのには我慢できない性質だ

1つでも該当した場合身の振り方の再考をお勧めします。
特に上2つ。

全部該当した場合大至急退転してください。
貴方とご家族の命と操が今まさに危険にさらされています。

釜山の喧嘩騒動と褒美の与え方

2013年06月12日 19:50

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/12(水) 12:01:29.20 ID:5k95V3pO
釜山浦城に御在番のとき、大将毛利壱岐守(勝信)と当家の間で喧嘩騒動
が起こり、毛利の者どもが大勢で当家船手の者を海へ追い込んだと注進
があった。

まず最初に落合九右衛門尉、宮田久左衛門尉、平賀喜左衛門尉とその他
足軽どもにて交戦し、その時三名が討死した。

さらに河崎大膳亮ら大勢で駆けつけて、敵多数を海へ追い込んだが、
当家の者も数十人が手負いとなった。

その時、落合九右衛門尉の嫡子小辨と言うものは年は十六歳で容顔美麗
であり佑兵様の小姓としてお傍に居たが喧嘩の注進を聞いて駆け向かい
一文字に切って掛かった。

毛利家の侍何某が弓を取って矢を放とうとしていたが、その幼年にして
勇猛な事を感心したのか、それとも美麗なるを惜しんだのか、その矢で
地面を射、小辨の姓名を尋ねこれを讃えて退いた。

喧嘩騒動は寺沢志摩守、島津又七郎、相良左兵衛の三大将が間に入って
和睦となった。

この小辨は元来勇士であり、ある時、佑兵様の目の前で敵を討ち取った。
比類なき働きでもあり、格別のご褒美を賜るであろうと誰もが思ったが
その沙汰は無かった。

この措置について佑兵様に尋ねたところ「褒美を遣わすべきなのは当然の
事である。しかし、かの者は若く余りある勇気を持っている。今褒美を
与えれば、今後も同じような行動に及び討死するのは必定だと思ったので
そうしないのだ。」と仰せられた。

小辨には後にその事とは別に御脇差が与えられた。元服してからは落合
浅之助と名乗り、日向宮崎合戦でも活躍した。

(日向記)

釜山の喧嘩騒動と褒美の与え方の話




462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/12(水) 16:14:48.87 ID:SewYdqbu
してその毛利家の何某とはどなたなのですかな?

佑兵、戦功により河内国半田村を知行する事

2013年06月10日 19:51

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/10(月) 09:03:01.26 ID:W6c3jPw9
佑兵、戦功により河内国半田村を知行する事

北越の柴田勝家を征伐された後、加州は前田利家、越前若狭は丹羽
長秀に与えられた。柳瀬七本槍の面々にもそれぞれ御加増があった。

その頃の佑兵はわずか三十人扶持の堪忍分であったが、たびたびの
軍労を思召して、河州丹南郡の内半田村五百石の知行を賜った。

秀吉公はかつて姫路から御帰陣の時、いかなるついでであったか
「伊東殿は幸先の能い人である。やがて本国へ復帰する事もできる
だろう」と仰せられたと伝えられる。誠に符合する御祝詞であった。

(日向記)





以後は入魂になられたとのことだ。

2013年06月10日 19:50

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/10(月) 12:23:49.99 ID:W6c3jPw9
慶長二年十二月二十二日、佑兵は安哈良より豊前の黒田如水翁へと
宮川甚右衛門を使者として用事の旨を含めて遣わされた。

進物は如水翁へ鷹二羽、由地以益老へ鹿皮十枚である。
甚右衛門は豊前に到着し進物を差し出して用事の旨を申し上げた。

如水翁はこれに会い「よき時期に参られた。使者にだけ伝えたい事が
ある」と御前近くに呼び寄せられ「太閤様は殊の外に衰弱されている
その上天下には怪異が度々おこっており、もし乱世になったら佑兵は
小身であるから家を保つのも心許ない。一時も早く島津へ申し入れて
縁辺を組まれるか、または入魂の契約を結び神文を取り交わしておく
べきであろう。この事を早く朝鮮へ罷り戻って申し伝えよ」
と仰せられた。

甚右衛門は畏まって急ぎ船を出し、正月八日に安哈良に到着。
佑兵に御返答一通りを申し上げてから、隠密の御口上がございますと
言った。御前伺候の小姓どもまで引き下がらせてから、島津と入魂に
するべき趣の巨細を申し上げた。

その頃、島津はカトクへ在陣していたので佑兵は彼陣へ出向かれて、
島津に入魂にしたい旨を談ぜられ、互いに神文を取り交わし、以後は
入魂になられたとのことだ。

(日向記)

黒田如水、乱世を予見する




438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/10(月) 12:28:50.22 ID:UnbnNjc+
如水って、関ヶ原の動乱に乗じて天下狙ってた、て言われるけど
本気で東軍として九州をまとめることで、天下安寧考えてた気もしないではない

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/10(月) 12:29:37.05 ID:vG5RRJYo
仇敵の島津と仲良くしろって...

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/10(月) 19:07:32.54 ID:/2Mvl9bz
それが戦国の世の習いだろ、相馬といっしょにするなよ
それに佑兵は国を追われてたことで秀吉の配下になれたし、天下取り事業に加われた
その過程で秀吉の懐刀である如水と昵懇になったので、如水を頼るのは自然な理
また領地を接する大大名の島津に潰されないように約定を交わすのも自然な理

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/10(月) 20:06:22.24 ID:SAp53zWJ
>>438
むしろ後者だろ
前者は厨二が思いつきそうなネタだ

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/10(月) 20:11:44.40 ID:GWHqvamu
しかし大河で後者やったら
「左手のエピ省きやがって、捏造するな!」
といちゃもんがくると予想

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/10(月) 20:18:11.17 ID:gOq1FwJe
なお明治になってできた逸話の模様

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/11(火) 10:06:27.01 ID:nIBCP0EI
>>438
天下を狙ってたと言うのは大げさだろうが、広家宛の書状とか見てると
天下安寧からはほど遠い気がする

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/11(火) 12:59:47.06 ID:oa9WKeCD
島津攻めの準備万端ですよ行っていいですか?
つって家康に止められたんだっけ

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/11(火) 13:15:47.73 ID:nIBCP0EI
>>448
一応、家康が薩摩出陣を延期するように要請した書状が届く前に
島津が謝罪してきてたので如水の主導で延期してる。

ちなみに清正は八代攻めを島津に邪魔されたので戦いたかったらしい。

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/11(火) 17:43:19.96 ID:26GGUzHn
島津攻めの先鋒を受けて開城した立花宗茂が、
島津宛てに徳川と和睦するように勧める書状を10月28日の日付で送ってるし、
これは、状況的に如水か清正の許可を得て送っただろうから、
全体的に積極的には島津を攻める気はなかったんじゃないかな。


秀吉公山崎合戦で佑兵へ槍をたまわる事

2013年06月07日 19:50

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/07(金) 18:50:45.19 ID:9xWeM5LF
秀吉公山崎合戦で佑兵へ槍をたまわる事

伊東佑兵は秀吉の麾下にあり、備中御陣よりこのかた片時も離れずに
随行していた。

惟任日向守が敗れた時、立派な鎧をまとった武者が一騎で落ちて行った。
秀吉公はこれをご覧になって「能き敵であるぞ、若き者ども討ち取って
高名せよ」と仰せられ「我こそが討ち取らん」と逞しきものが四、五騎
ほど出撃していった。

佑兵はこの中を駆け抜け「返せきたなし」と呼ばわったところ、敵も
もはや遁れ難しと思い引き返してきた所、これをすかさず組み伏せて
討ち取った。

秀吉公はこれを望見して「只今、庵に木瓜の旗をつけて敵を討ち取った
のは日向の伊東ではあるまいか」と仰せられていた所へ、佑兵がかの首
を持参し実検に備えた。

秀吉公の御感浅からず、南都金坊左衛門尉政則が打った三尺長身にくり
から龍を彫り熊の皮の投げ鞘をつけた御槍を手ずから賜り面目を施した。

その槍は今も相伝して家宝としている。

六月十三日、惟任はついに討たれたので秀吉公は凱旋され、信長公の
葬事を営み、大徳寺の塔頭として一宇を建立し総見院と号された。

それから秀吉公は尾州へ向かわれ、織田の幼主を安土城へお入れして、
十一月には江州長浜へ御出陣、濃州一国を平均に討ち靡けてから宝寺城
(山崎城または天王山城とも呼ばれる)に御帰城された。

(日向記)

日向記に記された山崎の戦いの様子なのだが戦の内容は全てスルー。
まあ佑兵は秀吉の馬廻でしかないから仕方ないんだけど…





三十六人逆徒追伐の事

2013年05月31日 19:50

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/31(金) 17:40:33.82 ID:n1lUYz8+
三十六人逆徒追伐の事

去る天正十五年六月に祐兵様が日向に戻って以来その統治は四年に及ぶが
入国の翌年にようやく飫肥本城を請けとるという不安定な状況でもあり、
かつての家臣を手に加えようと御憐憫を加えられ、家風の形儀をも確とは
定めていなかった。

その為か遠近に分散せし譜代の士には、十年にも及ぶ島津の風俗に馴染み
なんでも我意を主張する者も多く、最近になって召し抱えた侍もあるので
すぐに帰参した者たちでも人によっては扶持が少ないと御暇を賜るものも
多かった。

そうしている間にも家臣間で談合するものがあり「よろず御奉公を致すと
言えども一味同心して忠を遂げよう。身の大事と成る事があれば、一同で
申し開きをしよう」などと内談し党を結び血判をしていた。
その数は三十人余りでなお増えつつあると言われていた。

ある日、河崎権介は曾井に在城していたが、そこに談合していた連中の
うち二人が「義賢様を守護とするべき旨を申し合わせて謀反を企んでいる」
と密告してきた。

これをうけ祐兵様は悪逆の頭人を討伐し残党は鎮めるようにと指示され、
七人の頭人が各地でそれぞれ討ち果たされた。

残党の輩はなだめられたが従わず、その旨を祐兵様に窺ったところ、
その者達にはさっそく腹を切らせよと仰せられ、これに御馬を向けられる
事となった。

残党は、曾井麓の源藤というところにある初瀬山長命寺の観音堂が立て
籠るに相応しいと考え、天正十八年八月二十八日に三十六人の者どもが
立て籠もった。

討伐側は、曾井は言うに及ばず清武・田野・紫波須崎の三ヶ所から馳せ
集まって一戦に及んだ。

田野衆は威徳山から観音堂を眼下に見て、鉄砲をつるべ打ちに打ち込んだ。
これで籠ったものどもは身動きが取れなくなったが、遁れる道もなかった
ので命を捨てて一時に切り出てきた。

寄手は大勢だったので八月三十日、一刻の間にこれをやすやすと鎮圧し、
二十四人を討ち取り残り十二人が遁れていった。寄せ手は八人が討死した。
これにより祐兵様はお仕置きを終えて御帰館なされた。

(日向記)

徒党を組んで我意を通そうとした家臣達を討伐した話。

これを見ると新生伊東家も家中の統制を重視する豊臣大名ですね。
我意の強い家臣を「島津の風俗に馴染んだ」とか言い切ってしまう
ところを見ると、義久や義弘が家臣達の統制がとれずに書状で嘆く
のも仕方ないかなぁとも思ってみたり





米良美濃守、薩州を退いて当家へ帰参の事

2013年05月30日 19:56

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/30(木) 06:18:53.27 ID:NLkeaN4h
米良美濃守、薩州を退いて当家へ帰参の事

先年、米良美濃守(矩重)は当家の恩を忘れ、領する所の三ツ山、
須木の地を島津兵庫頭(義弘)に捧げて背いた。

これが伊東家没落の始まりとなり、ことに天正五年に島津義久が
日向へ出陣した時には先鋒を命じられ、一番に乗り入れた事で本領
を安堵され義久の幕下となっていた。

しかし美濃守は一時の恨みで数代の主君を裏切った事が心の重荷と
なり日夜苦しみつづけていたが、天正十五年の九州征伐後に祐兵が
飫肥の領主として復帰する事を知った。

美濃守は生きて日々を不快に過ごすよりも、帰参して先非を懺悔
してから殺された方が良いと考え、密かに薩摩を立ち退き祐兵の
前でその旨を述べた。

敵ともなり味方ともなるのは勇士の習いでもあるが、かの美濃守の
反逆は随一のもので、特に島津の先鋒となり国を乱したものである
から死罪にするのが当然であろうと誰もが考えていた。

しかし祐兵は先非を悔い死をもって詫びようと言うのは奇特である
として御感浅からず、その罪を許してすぐさま知行を与えた。

米良美濃守は、祐兵逝去の後も修理大夫祐慶に仕えて清武の地の
地頭に任じられたが程なく病を得て亡くなった。

末期の際に嫡子勘之助に「私が先非を悔い当家へ戻った時、その罪
を許しあまつさえ深く情けをかけていただいたので面目を保つこと
が出来た。祐兵様が逝去なされた時には報恩の為に殉死しようと
思っていたが、世は静かならずして祐慶様も幼年であられたので、
死をもって忠功を果たす機会も別にあるだろうと止めていたところ、
更に当地の地頭まで任され、その厚恩ははなはだしい。汝は祐慶様
に忠節を遂げ殉死の約束をして欲しい」と言い残した。

これにより祐慶逝去の際に勘之助は殉死を遂げた。

(日向記)

一度は謀反までした米良美濃守が前非を悔いて忠節を尽くす話

米良美濃守が伊東家に背いた話しは下記を参照
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7574.html





伊東祐兵、秀吉公に仕える。

2013年05月27日 19:52

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/27(月) 09:21:18.23 ID:q4RGpC9u
河崎駿河守は祐兵の外祖父にあたり、彼の肝煎により日向流浪以来
天正九年までの四年間、大峰修行の護摩を焼いていた。

その時の山伏は三峰と言う人で、生国は越前だったが心ならずも日向に
下国し数年の間、入道殿(義祐)の扶持を受けて在国していた。
三峰は流浪にも同行し、彼は山伏としての働きで歳月を送っていた。

天正九年、三峰は上洛した際に播州姫路はさる天正五年に信長公より
羽柴筑前守秀吉が拝領し、五年にも及ぶ普請でとても賑わっていると
伝え聞き、これを見物しようと立ち寄った。

そこで偶然出会った人物に「御僧は何処の人ですか」と尋ねれたので
「九州日向の者です」と答えた所、「それならば仔細を尋ねたい事が
あるので、こちらにおいでください」と言われた。

三峰はいったいなんだろうと思ったが辞退する訳にもいかず伺候した。
彼は「日向の伊東殿は浪人されたと聞きました。また伊東の東は藤
と言う字でしょうか?」と問われたので、三峰は「伊東の東は字は
ひがしと言う字でございます。島津に国を奪われ四国河野殿の領内で
蟄居しております」申し上げた。

掃部助は「それならば私と祖を同じくする一家です、羽柴殿にお仕え
したいのであれば、若くあられるようだし随分と取成し致しましょう。
私は伊東掃部助と言うものです」と仰せられた。

三峰は「ありがたい話です。急ぎ下国して、この旨を申し上げ早速上洛
するようにして頂きます。その際にはお取り成しの程を頼み入ります」
と申し上げ、急いで伊予に下国した。

この旨をありのままに言上したが、伊予道後は人の心根も良い国で
あれば名残惜しく、大内殿の情も振り捨てがたいとぐずぐずしている間
に月日が経って行った。

三峰は歯噛みしてぜひとも播州へ急がれるべきですとしきりに言上した
ので翌天正十年正月になってようやく、全員が小舟に乗って伊予道後を
後にして播州へと渡海した。

掃部助は即座に秀吉公に祐兵を推挙したが、当時は蔵米が不足しており
新たに浪人を召し抱えるのは難しいとの御意であった。

掃部助は祐兵は器量の優れた若武者であるから、秀吉公にお目に掛かり
さえすれば召し抱えられるはずだと考え、御通路に祐兵を置かれた。

案の定秀吉公がご覧になられ、何者かと尋ねられたので「日向の伊東で
ございます」と言上したところ「器量たくましき勇士である、扶持を
与えよう」と仰せられ、30人扶持を下された。

祐兵はその時までは六郎五郎と称していたが、掃部助が「それは
よろしくないでしょう民部大輔と名乗られては如何」と勧めたので以後は
民部大輔と名乗ることにした。

(日向記)

祐兵、秀吉公に仕える

続き
伊東三位入道、秀吉との謁見を断る


伊東家の禄高

2013年05月26日 19:04

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/25(土) 20:54:22.67 ID:++3Iv3+U
伊東家の禄高

慶長十年三月、平川分右衛門が領分検地帳を伏見へ持参。奉行所へ
届け出て禄高五万七千八十石余と確定しました。

これはさる文禄元年に検使を受け禄高三万六千石と定めらたのですが、
祐兵はなおもって禄高を上げようと思し召し、文禄四年にひそかに検地し
四万五千石ありましたが、表には出ないように止めました。

しかるに祐兵逝去の後で落合九右衛門、山縣太郎衛門の両人が相談して
伏見にて禄高は六万石であると披露しました。

これを国許の家老が聞いて、もし所替などの時には引き渡す帳面が無い。
急いで検地しようと評議して川崎主水、三谷作右衛門、平川分右衛門が
奉行して、慶長九年冬に検地して右の通りの禄高となりました。

(日向記)

やっぱ石高っていい加減だよねー





伊東祐兵逝去と祐慶家督の事

2013年05月25日 19:45

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/25(土) 08:10:35.46 ID:++3Iv3+U
伊東祐兵逝去と祐慶家督の事

豊後守祐兵の病はついに治らず、慶長五年十月十一日に
御年四十二歳にして大坂で逝去された。

しかし嫡男祐慶は未だ幼年であり日向に下って合戦を
仕掛けている最中でもあり祐兵逝去が露見すれば、
その威が軽くなり功も成り難いと考え、落合九右衛門、
山縣太郎右衛門、看病の者には山田紀伊介入道玄清など
わずか数名で秘密にし病中の真似をして、日向宮崎の
様子を聞き届けていた。

翌年春の終わり頃にご逝去の旨を披露して御葬礼を営んだ。
法名は報恩寺殿心関宗安大禅定門と申し、当家中興の明君
なれば、上下万民が嘆き悲しむこと事限りなかった。

高橋越中守は殉死しようと思い定めていたが、祐慶が幼年で
あるため、しばらく守り立て七回忌の際に殉死を遂げた。

嫡男左京亮祐慶は十三歳で家督を相続して、慶長六年四月八日
に上洛して家康公に謁見し、翌年四月十日に従五位下修理大夫
に任ぜられた。

(日向記)

激動の時期に若年の当主への相続を成し遂げた伊東家のお話






如水さん、伊東祐兵に適切なアドバイス

2013年05月24日 19:51

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 20:50:01.23 ID:Mnno51pM
慶長五年六月、家康公が関東へ出陣したのち輝元並びに奉行衆が
逆心の沙汰に及んだ。
その頃、黒田如水は家康公の無二の味方であり豊前中津に在城し
九州の事をとりしきっていた。

祐兵は西軍に取り込まれていたが東軍に属していた証を残して
おきたかったので、如水の指図を得て届を出しておこうと考え
如水に使札を出した。

如水の返答は「祐兵が味方したいと考えても小身であり上方に
居ては思ったように働けないだろう。急ぎ帰国して敵に向かって
攻めかけてはどうか」と申しこされた。

しかし祐兵は病にかかっており、病状は日を追って悪化し風毒腫
となり病臥していた。(仮病ではなく同年10月11日に病死)

祐兵の帰国は困難であったから、留守居の家老へ申し遣わして
敵に攻めかけるようにしようと考え、検使を一人受け入れたい
との旨を稲津又次郎に申し含めて如水への使者に立てた。

如水翁は「検使を遣わすのは容易いことだが、父子ともに大坂に
いたままでは家康公のお味方と言っても、今後疑義を受けることも
あるだろう。父子三人は帰国しなさいとの旨を、急ぎ大坂に戻って
祐兵へ申し入れなさい」と仰せられた。

又次郎は「もっともなお話ですが、私は国許に戻り軍を調えて
御味方である事を表明しなさいと堅く祐兵から申しつけられて
おりますので、ただちに国許へ罷り戻りたいのです」と申し上げた。

如水は「伊東の家が続くように謀ることこそが大切だ。私の考えに
従って大坂へ帰りなさい」と強く仰せになった、

又次郎は「それならば検使を一人たまわり、それがしの手の者を
添えて日向へ下して関東お味方の由を知らせたい」と申し入れたので
如水は宮川伴左衛門尉と言う侍を検使に出された。

又次郎は喜んで手の者一人を差し添えて日向へと遣わし、自身は
大坂へ立ち戻り如水翁の仰せられた旨を祐兵に報告した。

そして嫡男である左京亮(伊東祐慶)が十二歳になられていたが、
これを日向へ下す事に決めた。

このとき落合九右衛門尉が「祐兵の病は日々悪化しているが、もし
御存命のうちに、この事が漏れれば奉行方より討手を向けられるだろう。
その時は御自害をお勧めし、私は老人なので死出三途のお供こそ相応しい。
あなたは若いので左京亮殿にお供してなにがなんでも日向へ降り、
本懐を遂げられよ」と又次郎に言った。

左京亮を又次郎の小姓であるかのように装わせ、輝元の船手衆が固めていた
番所も軍勢を呼びに国許へ帰るのですと披露して遁れ日向に戻った。

(日向記)

如水さんが伊東祐兵に適切なアドバイスを送る話。





伊東祐兵、出陣の催促を免れる

2013年05月24日 19:51

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 21:12:26.15 ID:Mnno51pM
伊東祐兵、出陣の催促を免れる

石田治部少輔三成が逆心の棟梁として廻文をまわし、
在大坂の大名小名とともに慶長五年七月晦日に伏見城を攻め落とし
鳥居元忠らを討ち取って濃州へと出陣した。

かねてから伊東祐兵にも出陣するように催促があったが
祐兵は重病であり催促にも従わなかった。

島津中務少輔(豊久)は大坂から出陣する時に、祐兵の居所へ立ち寄り
さあいっしょに出陣しましょうと申し入れたが、郎党たちは大病にて
病臥していると答えたが「直にあってお話したい」と言われたので
奥へ通された。

祐兵の病状を見て疑いも晴れると、泪を流して「ともに出陣しようと
思っていたのにこんな容体とは・・・。十分に養生してください。
命があればまた会いに来ます」と言って出て行かれた。

もし家康公に通じていることが露見すれば大事だったであろうが
強運の程こそ頼もしけれ

(日向記)

伊東祐兵が東軍に通じてなければ美しい話だったのだけれど・・・




693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 01:28:34.38 ID:xoZzArbF
関ヶ原直後に死んでるのは強運といえるのか
しかし、島津を仇と思ってるだろうに、豊久もよく行ったもんだ

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 06:36:58.88 ID:BhoaUw4r
伊東家が日向から追い出されたのは、豊久が幼少の頃だから
あまり意識してなかったかも