738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/30(木) 04:58:19.68 ID:mfYPus1T
慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原の結果、土佐国は権現様(徳川家康)によって召し上げられ、
山内対馬守殿(一豊)が拝領されました。
それに先立ち土州請取を井伊兵部殿(直政)が仰せ付けられ、兵部殿から浦戸城請取のため、鈴木平兵衛殿が
遣わされました。平兵衛殿は上下100人ほどの人数で、同年10月中旬に土佐浦戸の湊に到着されましたが、
この城請取の時に紛争が起こり、長宗我部は年寄方(重臣層)と家中方が真っ二つに分れ、大きな合戦が
ありました。平兵衛殿は”みませ”と申す所に居られましたが、年寄衆が相談され、夜中に平兵衛殿を
城に引き入れ、請け渡しを相済ませました。
この事に家中方一揆共は異論を成し、「城を渡す訳にはいかない!」と城に攻め寄せて参り、
浦戸の南、”ヌカワカ”という場所で大きな合戦となり、これに家中方は敗北しました。
私達福富一門は、年寄方でした。
こうして停戦が行われ、程なく土佐の情勢も鎮まりました。そして私は鼓谷という所に引き籠りました。
この家中方一揆の内に、北岡六兵衛・源七という父子があり、彼らは一揆を扇動する徒ら者であり、
とにかくこれらを討ち取らなければならないと年寄衆の間で相談の上決定し、
熊野又右衛門、前田久右衛門、佐和良木理兵衛、北岡宗右衛門、苅屋小左衛門、宇津野孫右衛門、
三谷六右衛門、そして私の、計8人が討ち手として向かいました。
私は一足先に出発し、2番の熊野又右衛門と、北岡の家の正面に向いました。
残りの者達は家の後ろに廻りました。
私と熊野又右衛門が北岡の家に着くと、息子の北岡源七が家から出てきて、私に斬り懸かって来ました。
そして父親の北岡六兵衛も出てきて、こちらは又右衛門と斬り合いをはじめました。
私の方は、胴田貫の刀で北岡源七の頭を割り、源七を討ち果たしました。
北岡六兵衛の方は、熊野又右衛門に腕と細腰(腰の帯を締めるあたり)を斬られ転びましたが、
又右衛門は「頭を斬られて目に血が入り目が見えない!」と申しましたので、私は源七を
討ち取った所から三間ばかり(およそ5.5メートル)もありましたが、そのまま走り寄って
六兵衛に止めを刺しました。
残りの六人は事が終わった後に到着したため、間に合わす無念であると口々に申しておりました。
さて、私が六兵衛を討ち取った時に使った脇差は、その地の地侍である高橋平右衛門と言う者に
与えました。彼に対し
「私は、長宗我部家が改易されたため、きっと他国に退くことに成ります。今後浪々の身になりますが、
もしまたここに戻って来た時は、今回の私の首尾を証言し、証人となって下さい。」
と申し置きました。
しかし最早、高橋の家も子の代になったと思いますが、それすら私は存じておりません。
(福富平右衛門親政法名淨安覺書)
長宗我部家改易の際に起こった「浦戸一揆」についての記録である。
739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/30(木) 13:11:46.40 ID:+42DkQlr
ちなみに長宗我部氏そのものは国親の三男、親泰が香宗我部氏の養子となった系列が
徳川家臣の堀田氏の重臣として存続している
740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/30(木) 23:49:10.68 ID:h4aiswuR
足立七左衛門(長宗我部康豊)もいるな
741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/31(金) 00:17:30.36 ID:gukCAe+o
現在の長宗我部当主の友親さんは国親の四男の島弥九郎(親益)の家系だっけか
慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原の結果、土佐国は権現様(徳川家康)によって召し上げられ、
山内対馬守殿(一豊)が拝領されました。
それに先立ち土州請取を井伊兵部殿(直政)が仰せ付けられ、兵部殿から浦戸城請取のため、鈴木平兵衛殿が
遣わされました。平兵衛殿は上下100人ほどの人数で、同年10月中旬に土佐浦戸の湊に到着されましたが、
この城請取の時に紛争が起こり、長宗我部は年寄方(重臣層)と家中方が真っ二つに分れ、大きな合戦が
ありました。平兵衛殿は”みませ”と申す所に居られましたが、年寄衆が相談され、夜中に平兵衛殿を
城に引き入れ、請け渡しを相済ませました。
この事に家中方一揆共は異論を成し、「城を渡す訳にはいかない!」と城に攻め寄せて参り、
浦戸の南、”ヌカワカ”という場所で大きな合戦となり、これに家中方は敗北しました。
私達福富一門は、年寄方でした。
こうして停戦が行われ、程なく土佐の情勢も鎮まりました。そして私は鼓谷という所に引き籠りました。
この家中方一揆の内に、北岡六兵衛・源七という父子があり、彼らは一揆を扇動する徒ら者であり、
とにかくこれらを討ち取らなければならないと年寄衆の間で相談の上決定し、
熊野又右衛門、前田久右衛門、佐和良木理兵衛、北岡宗右衛門、苅屋小左衛門、宇津野孫右衛門、
三谷六右衛門、そして私の、計8人が討ち手として向かいました。
私は一足先に出発し、2番の熊野又右衛門と、北岡の家の正面に向いました。
残りの者達は家の後ろに廻りました。
私と熊野又右衛門が北岡の家に着くと、息子の北岡源七が家から出てきて、私に斬り懸かって来ました。
そして父親の北岡六兵衛も出てきて、こちらは又右衛門と斬り合いをはじめました。
私の方は、胴田貫の刀で北岡源七の頭を割り、源七を討ち果たしました。
北岡六兵衛の方は、熊野又右衛門に腕と細腰(腰の帯を締めるあたり)を斬られ転びましたが、
又右衛門は「頭を斬られて目に血が入り目が見えない!」と申しましたので、私は源七を
討ち取った所から三間ばかり(およそ5.5メートル)もありましたが、そのまま走り寄って
六兵衛に止めを刺しました。
残りの六人は事が終わった後に到着したため、間に合わす無念であると口々に申しておりました。
さて、私が六兵衛を討ち取った時に使った脇差は、その地の地侍である高橋平右衛門と言う者に
与えました。彼に対し
「私は、長宗我部家が改易されたため、きっと他国に退くことに成ります。今後浪々の身になりますが、
もしまたここに戻って来た時は、今回の私の首尾を証言し、証人となって下さい。」
と申し置きました。
しかし最早、高橋の家も子の代になったと思いますが、それすら私は存じておりません。
(福富平右衛門親政法名淨安覺書)
長宗我部家改易の際に起こった「浦戸一揆」についての記録である。
739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/30(木) 13:11:46.40 ID:+42DkQlr
ちなみに長宗我部氏そのものは国親の三男、親泰が香宗我部氏の養子となった系列が
徳川家臣の堀田氏の重臣として存続している
740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/30(木) 23:49:10.68 ID:h4aiswuR
足立七左衛門(長宗我部康豊)もいるな
741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/31(金) 00:17:30.36 ID:gukCAe+o
現在の長宗我部当主の友親さんは国親の四男の島弥九郎(親益)の家系だっけか
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