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この御用を蒙ること、全くその武功に寄るもの

2022年08月27日 18:40

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/27(土) 18:28:50.89 ID:nJHAYYUM
元和二年四月十七日、東照大権現が御他界されたことで、駿府詰めの面々は皆江戸へと帰った。
同五年夏、台徳院殿(徳川秀忠)御上洛され、伏見において福島左衛門(正則)の領国を
召し上げる時、その家老である福島丹波が明け渡しを拒否致した故に、中国四国の大名が
芸州広島へ発向することとなり、安藤対馬守(重信)、永井右近太夫(直勝)、戸川肥後守(達安)が
三奉行として出陣した。彼らに対して中国四国の列侯が、崇敬すること斜めならぬものであった。

しかし、安藤、永井は将軍家昵懇の家柄であるのでさもありなんが、肥後守は外様の身分でありながら
この御用を蒙ること、全くその武功に寄るものであった。

この時、加藤左馬介(嘉明)に先鋒が仰せ付けられたのだが、嘉明は
「正則は在国しておらず、国元は家来ばかりなのですから、私一人でも打ち潰すことは容易の事です。」
と申し上げた。

これらの事は伏見において仰せ付けられ、諸家段々に広島へ押し詰め、重ねての御下知を待っていた所、
伏見より花房志摩守を使いとして江戸に遣わし、江戸の福島正則に仰せ遣わされた所、正則は心服して、
滞りなく御請け申し上げ明け渡すように、とする証文を正則の自筆にて広島へ遣わした。
福島丹波はこれを見て、「然る上は」とて無事に城を渡した。

正則は越後に蟄居し、四万石がくだされた。

戸川記

福島正則改易についての戸川記の記事



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老後の面目、何事がこれに等しいだろうか

2022年08月16日 18:48

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/16(火) 18:36:12.91 ID:3gjOkIHM
慶長二十年(元和元年)、両公(徳川家康・秀忠)は正月末に御帰府されたが、程なく大阪との
御和睦破れ、同三月、御陣令があり、速やかに出陣すべきとの由にて、四月、諸大名悉く上方へ登り、
両御所も四月末上洛された。

内藤紀伊守が尼崎御番を仰せ付けられ、肥後守(戸川達安)并びに備中組は残らず尼崎加番を仰せ付けられ、
各々そこに詰め番所を構え、往来を改めた。

五月始め、諸勢大和口より押し詰め。国分、道明寺、松坂に陣した。五月六日、両公御出馬され合戦が始まり、
同七日朝五時前注進があった。肥後守はこれを聞くやいなや、尼崎で松平宮内少輔へ見廻りと申し断って、
花房助兵衛(職秀)と申し合わせて天王寺表へ馳せた。
しかしその途中にて早くも阪城に火が掛かり、御勝利となった。

そこで茶臼山の御本陣へ参上し、與庵法印の取次にて家康公に御目見え申し上げた。
肥後守はこの時直に「尼崎の御番を仰せ付けられましたが、御旗本について心もとなく思い、推参
仕りました。」と申し上げると、上意に「何の尼崎」と仰せになられ、御機嫌良かった。

さて、花房助兵衛(この時六十六歳)は駕籠より抱き下ろされて肥後守の側に在った。
「花房助兵衛も参上しています。」と肥後守が披露申し上げると、大御所はご覧になり

「汝、若き時より軍好故、その躰にても出陣、奇特である!」との御意があった。

両人平伏して御前を退くと、助兵衛は肥後守を拝んで

「今、この御言葉を被った事、偏に君のおかげであり、生々世々忘れない。
老後の面目、何事がこれに等しいだろうか!」

そう、大変に喜んだ。
それより大樹公(秀忠)の岳山本陣へ参上し御目見得仕り、尼崎へと帰った。

肥後守の弟である戸川主水は御旗本に在ったが、榊原太郎左衛門佐(後飛騨守)と一緒に大阪城へ乗り込み、
桜の御門まで至った所で、城内に火が満ちて入ること叶わず、この事を中山勘解由に確認してもらい、
後に御旗本御検議の時、中山が証人に立った。

戸川記



戸川達安と大阪冬の陣における茨木攻めについて

2022年08月13日 15:41

333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/13(土) 13:59:41.39 ID:CU8pX0Nu
慶長十九年、大阪御謀反にて御手切となり、片桐市正(且元)はその所領である茨木に立て籠もったが、
これを大阪の軍勢が打ち潰すとの風説が頻りであった。

その頃、肥後守(戸川達安)は駿府より御暇を賜り、在所へ帰る途中、京都に立ち寄り所司代の
板倉伊賀守(勝重)の許へ参向した所、伊賀守はこのように語った。

「片桐市正が茨木に在るのですが、大阪よりこれを攻めるようです。そこで只今、片桐への
加勢を専ら催しているところです。」

これを聞いた肥後守は取るものも取り敢えず
「私は通常の旅行故に一層人数も少ないのですが、ここから直に加勢に行きましょう。」

伊賀守は大いに感心して「流石は肥州殿、あなたが御援助を加えれば、茨木も潤色となるでしょう。」と
申したため、その場より直に肥後守は茨木へ向かった。そして片桐市正と対面し、これこれを経緯を
述べると、市正は大いに力を得て、城内の成大寺という場所に肥後守を置いた、

肥後守が宿陣し四,五日滞留する所に、大阪方では茨木攻めについて異論が出、その上肥後守が
加勢に来た事なども聞いて、茨木攻めは容易ならずとの評定があり、この事は中止とされ、この表は
無事となった。これ故にひとまず肥後守も在所へ帰った。

戸川記

戸川達安と大阪冬の陣における茨木攻めについて



中納言秀秋は隣邑の領主を蔑ろにし、

2022年08月12日 18:56

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/11(木) 20:20:05.19 ID:n/mKMT7Y
関ヶ原の戦いの結果、中納言(小早川)秀秋は備前美作拝領の後、岡山に在城して威を震い、
隣邑の領主を蔑ろにし、領境忘れたように振る舞った。そのため、同じく関ヶ原の後、
備中庭瀬三万石を領し小早川領と接した肥後守(戸川達安)との関係も宜しくは無かった。

そのような中、小早川秀秋とその重臣の間の関係が悪化し、二名が小早川家を立ち退いた。
この両人の内、稲葉内匠佐は、肥後守を頼ってひとまず庭瀬まで立ち退こうと欲した。

この事を肥後守も承諾して、小早川領と庭瀬の境に堀切して橋を掛け、柵木等を用意し、専ら
防戦の支度をした。その当時は、宇喜多浪人の名の有る者達が所々に散在しており、彼らに対し
肥後守は合力致し置いていたため、いざという時は彼らが庭瀬に馳集まるはずで、そうなれば
備作両国の人数で攻めかかっても容易には取り潰されることも無いと見えた。

さて、稲葉内匠が立ち退く日限に至り、肥後守より池田市右衛門、森三郎右衛門という物頭両人に、
足軽五十人を付けて、境目の少し先の川にある白石という橋まで出迎え稲葉内匠を守護し、庭瀬へと
帰った。内匠は使者を以て

「段々の御手当を忝なく存じます。これを忘れることはありません。美作表を何の問題もなく
引き払った上は、これより直に立ち退きます。」

と謝礼した。そして肥後守は町口まで出て面会し、互いに式礼して立ち別れた。
内匠は児島下津井より船に乗って上方へ登った。

その後、小早川秀秋も肥後守方へ手入れがあって、
「近隣の事でもあり、誠に宿老の事、よろず頼みこれを存ずる」旨を申し越した。
故に、以後は肥後守も小早川家に出入りするようになり、庭瀬に秀秋卿を招待した時、
秀秋より大左文字の刀を送られ、肥後守からは通天と号した駿馬を送った。これは関ヶ原の
槍場で用いた馬で、無類の駿足であったものを進上した。それよりはいよいよ懇意になり、
肥後守は弟の戸川主水を秀秋卿へ遣わし、彼は備前に居住した。

程なく、秀秋は逝去して家は断絶し、その後には池田輝政が入国された。池田家とは殊に従来より
懇意であったので、隣邑となって、いよいよよしみ、親しくなった。

戸川記



戸川記に見える関ヶ原合戦の模様

2022年08月10日 19:06

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/09(火) 21:33:24.95 ID:OpEL8oi0
関ヶ原の御陣は、(小早川)金吾秀秋の裏切りがあり、大谷刑部(吉継)がここで命果て、
その他の上方勢は総崩れとなって伊吹山の方へ敗走した。島津の一手のみは備えを崩さず海道を直に
引き退いた。他家の落人も、これを頼んで続いて行った者は、大阪まで無事に引いた者が多かったという。

肥後守(戸川達安)は加藤嘉明の先手に加わり、治部少輔(石田三成)陣に迫った。
すると石田家の者六、七十騎が柵を破り一同に突出した。これに嘉明勢は左右に開き押し包み、
一人も逃さず打ち殺した。
この手の惣衆はその側に備えて、抜け落ちの者があれば打とうと、先手にここは働かせて、その他は
後ろで見物していた。他家の衆はこれを見て、「さても見事なる討ち様かな」と称美した。

三成は軍評議のために他の備えに行ったままで、我が陣に帰ることも出来ず敗走した。
嘉明の先手と戦い斬死した大将は、島左近であるという。

関ヶ原の没落後、佐和山の城も屠られた。その時肥後守も諸勢と一同に乗り込んだ。
そして家臣の与右衛門が兜首一つを取って肥後守へ差し出した。この与右衛門は合渡川の戦いに於いても
働きがあった。故にこの兜は与右衛門に与えられた。
この兜は後々まで岸本家の家宝となった。

戸川記

戸川記に見える関ヶ原合戦の模様



331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/10(水) 10:50:59.00 ID:LosKS1LF
死に体の石田陣に詰め寄るヘタレ共でしたw

さても強勢なる背負い様かな

2022年07月23日 13:09

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/23(土) 08:12:27.03 ID:zz2id93h
天正十九年の頃は、宇喜多秀家も成長され、参議に任じられ、器量骨柄といい、公儀からも殊に
その覚えは諸人に異なり、天下の御婿(秀吉の養女・豪姫の婿)として威勢最も盛んであった。

その重臣はそれぞれ大阪に詰めたが、中でも岡豊前守(家利)は宇喜多家第一の宿老にて、
勇武才智人に超え、世に良臣との名があった。殿下(秀吉)の御前能く、よろす直に言上した。
故に宇喜多家中に、彼に異議を言う者はなかった。

戸川肥後守(達安)は、岡豊前守に続いて威勢が在った。
有る夏の夜、殿下の秀家邸への御成があった。涼取の茶屋にて饗応があり、この時小西摂津守(行長)が
御前に在って、明年の高麗御発進の軍議をした。この時戸川肥後守は茶屋の廊下に控えていた。
殿下は彼に御声をかけ、「これに出て軍議を聞くように」と仰っしゃられたため、縁側に畏まった。
小西摂津守は朝鮮のことを既に手に握るが如く申し述べ、殿下の御機嫌は斜めならずであった。

夜閑になり御座敷へ入られる時、茶屋と座敷の間に古堤がある場所で殿下は
「肥後、背負うように」と上意があり、そのため背負奉ってお座敷へ帰らせ給った。
このとき「さても強勢なる背負い様かな」と、お笑いながら褒められたという。

戸川記

秀吉の宇喜多秀家邸御成と時の事について。



戸川達安、朝鮮人を殺さず

2013年06月17日 19:56

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 19:35:04.01 ID:AHliUhZn
宇喜多秀家の重臣である戸川肥後守達安は、朝鮮の役にも秀家に従従軍したのであるが、
達安はここで朝鮮の人を、自身で一人も斬ることはなかった。それにはこのような理由がある。

達安が朝鮮に渡って、刀で初めて朝鮮人を斬ろうとした所、その者は手を合わせ、声を上げて泣き叫んで
命乞いをした。その有様は日本の婦人や童にも劣るみっともなさであった。

彼はこの有様に驚いて、「これは武人の斬るものに非ず。」と思い、その後敵を追い討ちするような時も、
自身は刀を持つことはなかったと云う。

この戸川達安は、普段は大変な驍勇(強く勇ましい)の人であり、家来を手討ちにするときや、
罪人を処刑するときも自ら行なっていたほどであったのに、それとは異なり、異邦においては
一人も人を殺さなかったのである。
(戸川記)

戸川達安、朝鮮人を殺さず、というお話




871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 20:34:46.86 ID:KhzSoy2o
あっちは文治の国だからねぇ

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 21:04:31.30 ID:+MsBt9f5
自ら殺す価値が無いと言ってるだけで文治とか無関係じゃないか

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 21:57:12.89 ID:E1i6Xco3
軍人の地位が低いからその分軍人が持つプライドも低いんじゃないかってことでないの

上に立つものが見苦しく命乞いするのはどうかと思うけど
下っ端も下っ端ならそりゃそうでしょって感じだし

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 22:39:47.51 ID:iXOxPba9
>>870
すごくイメージどおりの朝鮮人なのがなんとも言えんな

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 02:21:55.65 ID:4K12nAzm
太平洋戦争の時でも朝鮮兵は同様だったから、それが国民性ってこったね

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 07:16:24.97 ID:YbkXtjY1
武人の斬る者でないならまとめて押し込めて火掛けりゃいいって第六天魔王さんがゆってた