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龍造寺の鍋島がしたようなこと

2021年02月11日 17:34

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/11(木) 15:23:52.39 ID:YM5HVdd6
龍造寺の鍋島がしたようなこと ―毛利秀元


関ヶ原合戦後の吉川広家は、家康・秀忠から当主親族の証人(人質)を置かないことを許されていた。
ところが元和三年の人質改めの際、当主・毛利秀就は吉川家に対して急に人質を出すように迫った。
秀就は同じく証人を免除されている重臣の福原から、事前に証人のことについて知らされていたものの
「福原が何か騒いでいる」(『吉川家文書 一三一九号』)と思って聞いておらず、仰天したらしい。
一方、そういう事情を知らない広家は、この命令が毛利秀元の陰謀によるものだと思ったらしい。
息子の広正へどう心がければいいか、書状を送っている。以下長いので要点だけ意訳。

申しにくいことですがあなたのために書きます。返事のときにこちらへ返して下さい。

一、むこう(秀元)は、私達や福原・児玉・益田の一類に対し、公儀や長門様(秀就)に申し妨げて
  公界に出づらくさせて、後々どうにでもなるように図っています。
一、吉見広長の帰参は、私が数年榎本元吉に申し上げても成らなかったのに、秀元が申したら
  (輝元は)対面して、扶持米をやられたそうです。
一、御家の家臣の面目を潰して、公儀のことを自分一人でやって肩を並べる者がいないようにして
  公儀や内儀のことを自分のしたいようにするつもりです。
一、人々は「龍造寺の鍋島がしたようなこと」で、よそではありえないことだと囁いています。
一、あの人(秀元)は黒田長政のことをどう申し妨げたのか、近年は不通になっているそうです。
  (長政は)殿様(輝元)や私にこのことを申されました。
一、あなたが直接公儀にすがれないようにしてくるでしょう。そうなればいくら殿様が頑丈で
  いらっしゃっても明日を知らぬ身なのですから、ゆくゆくは大事になります。
  大夫殿(福島正則)が隣国なので、何かがあれば讒言してくることもあるかもしれません。
  このことをこれから破滅のもとだと思って、油断なく心遣いして下さい。
一、あの人は人質を出させることで、あなたを宍戸殿や山城殿同然にしようとしているのです。
一、私は若いときから病み疲れて正体をなくし、くたびれてしまいました。あなたが御家や身上のため
  外聞を失わないように気遣ってくれれば、どんな孝行をされるよりずっとありがたいことなのです。
一、右のことはあなたの心に合わず思うこともあるでしょうから、ちゃんと話しましょう。
一、そちらでは乳母をはじめどんな人にも、このことを話さないように。用心して下さい。

これは大事の書物なので、そう心得て扱うこと。
      以上
(元和三年)九月三日    廣家(花押)
左介殿(広正)    参

――『吉川家文書 一三一三号』

結局吉川家は、広正を秀就付きにして江戸で奉公させることで対処した。



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豊臣秀長、吉川経言(広家)を気遣う

2021年01月03日 17:31

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/03(日) 11:30:14.77 ID:/Zw9/wbf
豊臣秀長、吉川経言(広家)を気遣う

吉川経言(のちの広家)の兄・元長は秀吉の九州征伐に従軍し天正15年6月5日に病没した。
このことに関連する二つの書状を抜粋して意訳。

6月4日 秀長から経言への書状 『吉川家文書 八六五号』

一、元長が病気で奉公していないとのことですが、(病気は)おろそかにするべきではありません。
  公儀のことは私が引き受けます。第一元長は若年なのですから油断なく養生するべきです。
  早々に都郡(とのこおり)に連れて行って、その方もそこへ退がり用心するべきです。
一、都郡では元長の陣屋を探すのに難渋していると疋田(秀長家臣)から聞きました。是非もないので
  どこの寺でも家でもいいので良きところに、この書面を見せ押し入って下さい。
  元長の家中まで陣取ることが大切です。

6月7日 秀長から蜂須賀家政への書状 『吉川家文書 八六七号』

書状を見ました。最近便りがなかったので嬉しいです。雨が止まないと下々は迷惑しますね。
島津中務(家久)の不慮(死去)は是非もありません。又七(豊久)に心づけをするのは尤もだと思います。
次に元長のことですが、ずっと患ってはいましたがこんなにすぐ亡くなってしまうとは思いませんでした。
元長は親父(元春)以来、関白殿(秀吉)のために奔走してくれていたのですから、私もあの蔵人(経言)に
対して少しも気を利かせないということはありません。とりわけ蔵(経言)はこのごろ細やかに
罷り越してくれるものですから、知音になったのです。その方も(経言と)入魂になって下さい。
輝元と隆景の心中は察入します。あとは(疋田)九兵衛が語ります。
____

二つ目の書状が吉川家文書にあるのは、恐らく家政が広家に渡したのだろう。



岩国の白蛇

2016年12月29日 16:19

472 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/29(木) 05:25:12.47 ID:apC56xYr
吉川広家の姫様が城の近くで遊んでいると、一匹の白蛇が姿を現した。
白蛇の澄んだ瞳に惹かれた姫様は白蛇を大層可愛がっていたが、父広家の岩国転封の為共に米子を去って行った。
この時、姫様が可愛がっていた白蛇も引っ越して行く吉川様の一行に見え隠れしながら岩国へついて行き、錦川のほとりに住みついた。
その子孫は今も岩国の地に生きており、現在では国の天然記念物となっている。

(米子の伝説)

ただし、岩国の白蛇の最も古い文献記録は岩邑年代記によると1738年のことであると言う。

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/29(木) 07:27:09.50 ID:wiFOOTs2
ちなみに、岩国の伝説では、
吉川藩の米蔵の米を食べたネズミを食べた蛇が、米の白さで白くなったのが白蛇です。

474 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/29(木) 07:44:31.86 ID:apC56xYr
>>473
補足ありがとうございます



吉川広家(中村一忠)と人柱 人柱久米と河童の怪

2016年12月17日 21:16

432 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/17(土) 13:08:32.96 ID:edoflzSk
吉川広家(中村一忠)と人柱 人柱久米と河童の怪

1591年に太閤秀吉の命で叔父、末次元康の代わりに出雲伯耆隠岐の支配を任された吉川広家は、城下町を作るのに不便な月山富田城に代わる本拠地として米子の飯山城に目を付けた。
隣接する湊山に天守閣を建てる計画を立て、米子城の築城が始まり二の丸三の丸の建造は順調だったものの、天守閣の石垣を組もうとすると、その度豪雨に見舞われ石垣は崩れてしまい工事は進まなかった。

この事態に人夫達から人柱を立てねば祟りが続いて工事はままならないと声が上がり、吉川広家は普請奉行の祖式九右衛門らと相談して人柱を立てて地鎮を行う事にした。

そして、町で開かれていた盆踊りの場から久米という名前の美しい娘を無理やり、または口車に乗せ連れ去り人柱にしてしまった。
この後、吉川広家は関ヶ原の敗戦で岩国へ転封となり後に入った中村一忠の代に米子城は完成したものの、天守の石垣付近では人柱にされた久米の幽霊が度々現れ人々を恐れさせたと言う。
また、米子の人々は人柱にされた久米を偲んで米子城の事を久米城と呼ぶとともに、盆踊りを開くと人攫いが現れ人柱にされてしまうと噂し、近世まで米子では盆踊りが開かれる事がなくなった。

久米が人柱として埋められてから暫くして、米子の町では夜に厠へ入ると毛むくじゃらの腕が現れ尻を撫でられると言う事件が多発した。
そこで一人の力自慢の侍が退治してやろうと夜に厠へ入るとやはり毛むくじゃらの手がにゅっと出て来て侍の尻を撫で回す。
侍は手を掴むと一刀の元にその腕を切り落とし、家に持ち帰った。
すると、河童が侍の前に姿を現しもう悪戯しないから腕を返してくれと頼むので、腕を返すと河童はそのお礼として侍にどんな傷も治すと言う薬を渡して米子を去り、日野町の黒坂へ移りそこで悪戯をする様になったと言う。

米子の人々はこの河童を久米の生まれ変わりではないかと噂したそうな。




433 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/17(土) 13:45:45.24 ID:gUr9WE8G
美少女に生まれたけど人柱にされて河童に生まれ変わっておっさんのケツ撫で回す人生とかどんな罰ゲームだよ

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/17(土) 13:50:28.31 ID:FgX/RKrK
人柱にされた美少女は実は痴女で、イケメン侍の尻を撫で回していたと思おう。

435 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/17(土) 14:12:34.44 ID:edoflzSk
http://i.imgur.com/YcHQjVX.jpg
YcHQjVX.jpg

黄桜河童なら…

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/17(土) 16:56:51.14 ID:LFsLigeo
>>432
話が混じりすぎてカオスw

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/17(土) 23:40:02.02 ID:FQR9CdkD
>>432
松江城のコノシロの話と似てるね
河童の前までだけど

黒田家と吉川家の関係について

2014年05月24日 20:30

11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/23(金) 20:06:29.37 ID:bY0iimsq
黒田如水は元来、吉川元春、その嫡子元長に厚意があった。
その吉川家では、元春が天正15年(1587)に死去し、元長もその翌年に卒した。
家老たちは、元春の次男である元氏を立てようと協議していたが、この時、黒田如水が考えたことには、

『元氏は病弱であり、現在の戦国の時代に家を継ぐべき器量ではない。元氏の弟である広家は、
その家督となるべき器量がある。これに家を継がせるのが然るべきである。』

そして広家の家臣、香川又左衛門と相談し、豊臣秀吉へと言上して、終に広家は吉川毛の家督を
継承した。このころ広家の年齢は二十歳より下であった。

このように、吉川家が黒田家の恩意を被ったのは、関ヶ原で東軍への内通の頼みとしただけでなく、
以上のような由緒もあったのである。

吉川広家は寛永2年(1625)9月21日に死去したが、この時以下のように遺言した。

『私は如水・長政と多年約束をし、一生の間、互いに裏切ったことはなかった。私の没後、
子孫に至るまで親懇の筋目を忘れないようにと思う。
紫野大徳寺龍光院は、如水・長政の菩提寺である。両公の塔の傍に、我が遺骨を葬り、
収めるように。』

そして遺言のとおりに葬られ、石塔を建て、金光院中厳如兼と称した。
それ以後、代々の吉川家は黒田家対し心の入った篤心であること、その先祖の言葉を虚しくしていない、
と言うべきであろう。

(黒田家譜)

黒田家譜より、黒田家と吉川家の関係についての記述である。




12 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/23(金) 20:17:49.12 ID:+AyOeJaT
そんな元氏さんは広家さんより長生きしてたりするからわからんものよね~

13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/23(金) 23:41:32.17 ID:6NDjPT4e
元氏は他家を継いじゃったからな

防長二州安堵顛末

2014年02月15日 19:00

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/14(金) 21:06:30.66 ID:7BjaOQEG
関ヶ原合戦の戦後処理において、毛利輝元については、今回石田三成に与し、奉行衆もこれに一味して
西の丸に移り、諸方に内通を勧める回状に判形し、あまつさえ四国へ派兵し、その罪は莫大である。
しかしながら一族の吉川広家が、東軍に志を通じたその功績により、輝元は死罪・流刑を相赦し、
広家には中国地方のうち1,2ヶ国を与えるべきである、と議定した。

これにより広家を兵部少輔(井伊直政)宅に召し寄せ、『広家の今度の忠義に感じ入った故に、
中国の押さえとして周防長門の両国を与える』という徳川家康の内意を伝え、毛利家よりの人質であった
粟屋十郎兵衛も差し返した。
しかしこれを聞いた吉川広家

「思いもよらない、身に余る有難き仰せではありますが、もとより今回のことは、自分の身上を考えて
行ったのではありません。あくまで本家である毛利輝元の家を御立て下さるようにと存じ、先にも私は、
私に対しての報奨はお断り申し上げました。

今度のことは、決して輝元の心底より出たものではなく、ひとえに安国寺が策略をめぐらし、
奉行衆の言うに任せて、秀頼様のご命令であると信じてしまったために、是非に及ばず
ああなったのです。輝元に思慮がないことは、内府様も良くご存知のことです。

勿論、輝元のこれまでの分国を相違無きように、などということは申し上げるべきもない話ですが、
私に拝領される予定の国を、輝元に下されますように、どうか取り持ちをお願い致します。
もしこれをお聞き届けないのであれば、私についても、輝元同様に申し付けて下さるように、
幾度でもこれを申し上げ続ける覚悟を決めました。」

この返答に、黒田長政は福島左衛門大夫(正則)、井伊兵部少輔(直政)と相談した上で、
書状を広家に送った。その詞には

『尚々、今回のことは兎にも角にも井兵少(井伊直政)、福左大(福島正則)、そして私の
3人に任せ置いて下さるようにして下さい。さらにこの他に頼るような事は、決して無いようにして下さい。

さてもさても、中国についての事は、今日明日にも決定されます。あなたのご分別次第なのです。
井兵少に仰せになったあなたの御覚悟は、とても不可能なことだと思いますが、必ず、私と福左大が
家康公にお目にかかり、あなたの心底を残らず申し上げます。

しかし、中国の内、せめてあなただけでも大名として残ることは、家祖である毛利元就公に対し
報告するのにこれに過ぎた事は無いでしょう。中納言殿(輝元)と同じ処分を望まれるというのは、
一応二応まではご尤もにも思います。ですがそれで、あなたご自身も滅ぼしてしまえば、元就公に
どのように報告されるのでしょうか?どうか、分別のない考えはしないで下さい。

10月7日     長政 判
     吉殿様参       』

しかし広家はこれでも承知せず、返書に、長政および福島正則に宛てて、起請文を付けて、心底の趣きは
変わらないということを申し越した。この事はついに家康の聞き及ぶこととなり、広家の誠実さを、
律儀至極であると感じ入り、「輝元の今回の罪は莫大であるが、安国寺の策略によってああなったというのは
紛れも無いと、輝元も誓紙を以って釈明したのであるから、この上は広家に与えるはずだった防長二国を
輝元親子に仰せ付ける」と決まった。

(黒田家譜)

毛利家が防長二州を安堵されるまでの顛末である。




366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/14(金) 22:23:17.97 ID:Nf6SSgKt
とある作品では輝元を減封で留めるために
家康と広家で一芝居うったって事にしてたな

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/15(土) 16:33:15.67 ID:kB1KU6h5
>>366
黒田家譜読んだら恵瓊も
輝元の泥を被らされただけなんじゃないかと思えたり。

吉川広家漁火をみて敗兆を知る

2013年05月08日 19:51

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/08(水) 13:10:00.33 ID:97/v4Lob
吉川広家漁火をみて敗兆を知る

広家は石田三成に与力していたが、ある日美濃路をさして来る
敗軍の士卒があった。戦いも始まらないのになんびとだと尋ね
させると水口城主長束正家であった。

正家は「あれを見てくれ、海上に雲霞の如く兵船が押し寄せて
敵に取り囲まれたらどうしようかと存じ、あなたと合流してから
戦おうと人数を引き取ってきた」と言う。

広家が水上を見るとそれは漁火の影であった。「これは兵船に
あらず漁火の光です」と告げると正家は言葉も無かった。

広家はこれは衰運のなすところこそと思い、たちまち心を翻し
徳永法印も諭したのを幸いとして遂に関東に味方した。

このたび広家がもし関東に味方せずば、いかに毛利家に西国を
賜うことが出来たであろうか。

知勇兼備よく機変を考え禄を本家へ譲り周防長門の主となったが
自身は退いて陪臣となった。

(近古武談)




223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/08(水) 13:46:11.03 ID:SeK/Wbwr
美濃路で海上も糞もないだろうに
漁火って木曽川とか長良川の鵜飼の篝火かね?

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/08(水) 13:51:33.49 ID:GqUWQBhZ
>>223
多分伊勢路と間違えているんだと思う

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/08(水) 14:46:59.92 ID:HDRoXa+z
琵琶湖じゃね?淡海ってことで

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/08(水) 15:17:29.21 ID:cV3DKTfK
伊勢の安濃津城攻めの後だろう

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/08(水) 15:38:53.99 ID:97/v4Lob
家康と誤認して正家が動揺したと言われるのは、一般的には阿野津攻めの前かな。

史実では8月5日頃に正家と恵瓊が伊勢へ向かい。
広家もその頃までは瀬田で普請をしてて、同じ時期に伊勢に陣替えになった筈。

横道権之丞、交戦中の敵へ使いする心得

2012年09月17日 20:31

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/16(日) 19:58:27.10 ID:OaS8+f8c
吉川広家の家臣に、横道権之丞と言う者があった。

さて、天正15年(1587)の、肥後国人一揆において吉川広家は黒田孝高・長政親子らと共に、
城井鎮房の籠る城井谷城を攻めていたが、城井方のゲリラ攻撃に長政が不覚を取るなど、
大いに苦戦していた。

そこで広家、孝高・長政親子は相談をし、城井鎮房に対し和議を提案することとし、
その使者を吉川広家より出すことと決めた。

広家はこの使いを、横道権之丞に命じ、城井鎮房に対し

『あなたが黒田に対して何の遺恨もないのに防戦に及ぶことは、秀吉公の意に逆らう行為です。
早々に和睦を受け入れ、黒田親子の下知に従うのが、最も良い選択です。
過去の戦闘の罪は、この広家が善きように処理します。
秀吉公より御赦免いただき、またあなたの本領が相違無く黒田親子より渡されるように私から
言っておきます。』

そう言い伝えるよう命じた。

ところが権之丞はこの使いに直ぐに向かおうとせず、日が暮れ夜に入ってから、大松明に火を付けさせ、
少しの忍ぶ景色もなくテクテクと歩いて行き、城の近くまで来ると

「吉川蔵人頭広家の使いである!!」

と、頻りに呼びかけたので、これを聞いた城中の者たちはすぐに城井鎮房に知らせた。
城井鎮房は人を出して権之丞に目的を尋ねると、彼は広家に言われた内容を伝えた。
これを聞いた城井鎮房は広家の提案した和議条件に同意し、直ぐ様降伏して黒田親子の手に属した。
まあ、この和議が後にどす黒い事態を起こすのだが…
ともかくも横道権之丞は見事大事の使者に成功したのである。

その後、ある人が横道権之丞にこの時のことを聞いてきた
「あなたはどうして、日が暮れてから城に向かったのですが?」

これに権之丞答えて
「こういう使いに、白昼うかうかと行っては、もし伏兵などに取り巻かれた場合、自分は
和平の使者だ、なんて自分の説明をしても、雄に逸った若者なんかは『そう言って騙す気だな!』なんて
言ってきて、確認も無しに討たれる事もあるんだよ。
だからわざと夜になって、松明を燃やし、何も隠さない形で行ったのさ。

そういうふうに行くとね、敵も『あれはなんの用がある使いだろう?』と考えて、うかつに
討ち取ったりはしないものなのさ。
俺はそういうふうに考えて、日が暮れてから城に向かったんだよ。」

と、その様に語ったそうだ。
(陰徳太平記)

横道権之丞の、交戦中の敵へ使いする心得についての逸話である。




496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/17(月) 08:20:13.27 ID:ggqP0q70
城井戦での広家の活躍もちゃんと記録されてるんだな
広家の逸話はもっと発掘されて欲しい

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/17(月) 10:34:00.46 ID:IUG41wpy
和議の使者なら白昼堂々とやってくるものだが・・・怪しい!!!!とはならないんだな~

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/17(月) 10:47:43.78 ID:9G+wQdsj
横道さんて、昔尼子にいた横道兄弟かな

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/17(月) 11:36:33.59 ID:rT5UwMWz
尼子十勇士の横道兵庫介?

豊臣秀吉は吉川広家について曰く

2012年07月30日 20:56

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/30(月) 17:05:11.63 ID:m2Ls1l1C
豊臣秀吉吉川広家について曰く

「広家は尋常の者ではない。五万、三万の大将となっても不足はあるまい。
元春が最近、武威を振るっているのは当然であろう。

毛利元就は吉川元春、小早川隆景を先鋒として西国に武威を震わし、
また元春は元長、広家を先陣として敵を破った。

わしは弓箭においては元就、元春の十倍であるが、良将の器ある子を
持つという点では劣っておる。

ああ、もし男子が三人おれば一人に天下を譲り、二人は関東と関西の
鎮として置くのだがなあ」

世の人もまた、たとえ隆景死すとも広家がいる限り、毛利の政道に
邪法なく、弓箭も前代に劣ることはない、と語った。




748 名前:たかとら・かずとよ[sage] 投稿日:2012/07/30(月) 18:07:22.20 ID:PHP5Wd49
>>747
然り気無く太閤様が元春様disってる気もするが、最後に広家のみにしか触れてないの
が元春、元長死後の評かな?

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/30(月) 19:00:41.98 ID:7Ci8/Lj3
毛利一族はみんなすごいんだお!天下一だお!バカなんていないお!

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/30(月) 19:41:07.13 ID:qrNaWWrX
>>749
まあTERUは天然なのか策士なのか、野心家なのかそうでないのかよくわからんところがあるしなあ。
つかみどころがない点では元就以上。

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/30(月) 19:46:48.06 ID:Aa25Wzxv
まあTERUさんも馬鹿ではないんだよ。勇み足しちゃっただけで。
関ヶ原は一門や重臣の、当初の反対意見ばかり取り上げられるが、どうも輝元の近習たちは
積極的に参戦に賛成していたっぽいのね。野心あふれる当主近習と保守的な一門重臣という、よくある対立が
毛利家でも起こっていたっぽい。

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/30(月) 22:48:43.14 ID:Sv9YTkEF
TERU「鳴かぬなら 部下が鳴かして 俺そうせい」

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/30(月) 23:43:46.70 ID:JcTh/gHK
TERUはふつーに東西対立してる間に毛利家の勢力拡大して漁夫の利を得る作戦だったっぽいからなー
上杉と狙いは一緒なんだよね

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/31(火) 00:58:44.02 ID:PqUseq/E
誤算は三成があまりに役に立たないかったwってことか。まーくんとクロカンとかもそう思ってそうだけど

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/31(火) 01:03:03.14 ID:mgl8fCwQ
一日で負けただと…!?状態だったんだろうな

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/31(火) 01:06:55.47 ID:BrrjkW2h
押したり引いたり
城を取ったり取られたりが続くと思ったんだろうね

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/31(火) 01:27:27.24 ID:UeWVt17J
そこんとこは家康すごいけど、
あっさり大阪城明け渡したのがマイナスかも。

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/31(火) 02:04:41.66 ID:ZLNmB6t4
そもそもどこぞのAKに
「輝元様ご謀反の風聞が立っておりますぞ!至急上阪なさいませ!」
なんてだまされて大阪に引っ張ってこられたあの人に
やる気なんてあるわけがない

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/31(火) 11:44:08.72 ID:yrIAWaaI
>>751
負けてから俺には負けるのがわかってた上がバカだから~とか言い出す人は
古今東西よくいるからねえ
酷いのになると戦前は戦煽りまくってといてとかさ・・・

吉川広家は自らの判断で

2012年04月08日 21:30

557 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/04/08(日) 14:18:09.65 ID:9PU9FJyJ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5710.html このエピソードと関係がある逸話(だと思う。)

天下統一を果たした豊臣秀吉による慶長の役で朝鮮半島に渡った吉川広家は、加藤清正の籠る
蔚山城が約7万の明・朝鮮連合軍に包囲された際、毛利秀元や黒田長政らとともに救援に駆け付けた。そして、軍議で
総攻撃は翌日と定められていたにも拘らず、敵陣の動揺している様子を見て好機と捉え、自らの判断で出撃しようと考えた。
これを、元は毛利家の外交僧で、秀吉に取り立てられ大名となった安国寺恵瓊から

「勝手に出撃するなど軍法違反ですぞ!」

と制止されると、広家は

「兵法は武士のもの。坊主の指南は無用!」

と言い捨て、兵を進めて敵を撃退するきっかけを作ったという。



吉川家・関ヶ原の因縁

2011年09月14日 22:43

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/14(水) 02:56:21.41 ID:qysaLTQZ
岩国吉川と聞いて飛んできましたw
やっぱ益田元祥さんの手腕は幕府がほしがるだけのことはあったのか。

思い出しついでに関ヶ原決戦の日も近いので、関ヶ原の因縁を思い起こさせる話を一つ。
岩国の藩祖吉川広家は、関ヶ原で兵を動かさなかった。
結果、毛利家は改易こそ免れたものの、大減封に苦しんだ。
広家はそのうちの周防岩国を領したが、
本藩の主戦派から裏切りを恨まれたのか、支藩ではなく陪臣扱いされ続け、
毛利宗家・岩国吉川家は次第に疎遠になっていく。
吉川家は、江戸時代を通じてその名誉回復が悲願となっていた。

さて幕末の動乱期、長州藩主毛利敬親と岩国領主吉川経幹との間で
ようやく両家の関係修復、協調融和が図られていた。
京都の政局で重要な位置を占めていた長州藩は、8・18政変で失脚、
池田屋事件にも触発されて禁門事変を起こし敗退、幕府より長州征討の号令がかかる。
このとき、幕府軍参謀の西郷隆盛と長州藩庁の間を取り持ったのが吉川経幹、その人だった。
第一次長征は禁門事変首謀者の処断などで手打ちとなり、
長州藩の不戦敗に終わったが、藩主父子の命は助けられた。
なにやら既視感を覚える流れである。だが続きがある。

幕府はこの処分に満足せず、第二次長征を企てた。
幕府側につくそぶりを見せながら回答を引き延ばしていた経幹は、
宗家敬親の使節が幕府に捕縛されるに及んで、「幕府への信義もこれまでか」と決戦を表明、
開戦すると、岩国兵は国境の芸州口で幕府軍を相手に奮戦した。
将軍徳川家茂の薨去により休戦となるが、事実上は長州勢の大勝利。
長州側は引き伸ばし工作の間に薩長同盟を通じて武備を整え、迎撃の用意を固めていたのだった。
関ヶ原の「空弁当」を思い出されたい。吉川は時間稼ぎにも定評がある。

その翌年、経幹は病に倒れ、天下の行く末を見届けられぬまま、ついに帰らぬ人となる。
しかし毛利敬親の厳命によって、その死は堅く秘された。
新政府が樹立し、倒幕戦争が激化する裏で、敬親は動いた。
吉川家を末家にする許しを得、吉川経幹叙任のために奔走した。
ここに至ってようやく岩国は「藩」として認められ、
永くわだかまりのあった宗家の手によって、吉川家積年の悲願が叶えられた。

吉川経幹は生きているものとして初代藩主の栄誉に浴し、死の二年後に喪が公表された。
経幹の代にしてようやく、吉川の長く苦しい関ヶ原の戦いが幕を閉じたかのようである。

時代的にスレチなうえに長文ゴメンネ。




606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/14(水) 06:11:52.62 ID:k/3N0HH4
逆に幕末に戦場で主家を裏切った井伊や藤堂との違いを考えてしまう

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/14(水) 07:15:42.26 ID:AoIFB3Nu
江戸200年を超えてお家の名誉回復かぁすごいね
200年も平和な時代が続けばボケてしまいそうなのにね

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/14(水) 07:36:45.28 ID:7X7GyN5m
長州藩は毎年正月に藩主と跡継ぎが関が原の恨みを忘れないように儀式がなんちゃらかんちゃらって
風雲児たちで読んだなぁ。

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/14(水) 07:59:49.18 ID:kNTD8Sfz
まだ時期尚早

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/14(水) 08:03:45.97 ID:HOGNww7X
ほんとにあった儀式なのかね
幕末のどさくさで捏造したようにも思えるわ
江戸時代はヘタレ藩として評価されていたからさ
本当はヘタレじゃないもん(´・ω・`)の後付っぽい

勇将の馬印

2011年08月20日 23:01

141 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/08/19(金) 22:49:11.39 ID:l/VpIR0q
もし既出だったらゴメン。初カキコです。
慶長の役、蔚山城の戦いにおける一幕。

完成間近の蔚山城は明・朝鮮による5万7千もの大軍に囲まれた。
篭城側は加藤清正をはじめとしたわずか2千、
兵糧も尽き水の手も押さえられ、落城寸前のところに現れた援軍は
毛利秀元、黒田長政らからなる2万だった。

いよいよ明・朝鮮軍による蔚山城への総攻撃が始まると、
援軍も敵軍の背後を衝くべく動き出した。
そのとき、毛利秀元の軍勢より二引両の馬印を掲げた一軍が躍り出し、
颯爽と、縦横無尽に敵を蹴散らしてゆく。
後続の軍勢もこれに続き、ついには、約三倍もいた敵軍を敗走せしめた。

この様子を蔚山城から見ていた加藤清正は、
鬼神のごとき働きをした、あの二引両の馬印の大将を招いて曰く。

清正「貴殿の馬印は遠目には目立たないし、勇将には似合わない。
   変えたほうがいいのではないか?」
大将「そっすか。では主計頭(清正)殿の馬印を賜りたい」
清正「それは嬉しいお申し出! ぜひ使ってくだされ!」

二引両の大将は、吉川広家
広家は以降、清正から贈られた銀の九本馬簾の意匠をアレンジし、
赤の十三馬簾(婆々羅)として用いることになる。
関ヶ原でやきもきする毛利秀元たちの前に立ちはだかったのも
このド派手な馬印だった。



参考・赤の十三馬簾(婆々羅)
118b5ce71d8bd413affff6606401f596.jpg
http://blog.goo.ne.jp/kazutoyo_1974/e/f3c295f2ef545b9f15feb194e1631a3b

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/19(金) 22:57:56.57 ID:vSpXtfY8
ググってみたけど、やはり赤は派手だねぇ

清正 絶体絶命のピンチなのに、そこ気になるとか、結構余裕じゃね?

143 名前:141[sage] 投稿日:2011/08/19(金) 23:27:52.48 ID:l/VpIR0q
>>141ですが書き忘れです。
これじゃ清正がケチつけたような話になっちまう。
清正は広家を招いたときにちゃんと援軍のお礼言ってます。
話の流れで馬印のことに話題が及んだだけ。
たぶん清正も感心するほど勇猛だったから、
もっとカッコイイ馬印使えばいいのに、てことだと思う。

>>142
俺も画像見たときつい赤面したw

あと、うっかりageてスンマセンした。


145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/20(土) 03:43:48.08 ID:KoKBEFF1
>>141
携帯ヤシの木という言葉が頭に浮かぶアレですか

秀吉の形見分と吉川広家

2010年10月27日 00:00

59 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/10/26(火) 12:36:42 ID:WE56mGZR
秀吉の死後、いわゆる形見分けがおこなわれた。
品定めは前田利家の伏見邸において石田三成を初めとする五奉行によってなされた。
当時の記録によると、徳川家康には「遠浦帰帆」の絵と金子三百枚
前田利家には政宗の刀と金子三百枚
石田三成には吉光の刀と金子五十枚
加藤清正には金子三十枚 などとある。

このほか広く大名、旗本に加え直江兼継のような陪臣、山名禅高のような御伽衆まで遺品を賜った。
しかしそんな中、意外な人物が形見分けの選から除外されていた。
黒田如水と吉川広家である。

如水に関しては息子の長政が賜っている事を隠居の如水を除外した理由にしたのかもしれないが、
播州以来の長年の秀吉との関係、その働きを思えばどうにも腑に落ちないことでもある。
如水としてはいよいよ奉行たちに豊臣家から遠ざけられたと思ってもおかしくはない。

一方広家はすぐさま三成たちに問い詰めた。慌てた三成達は「たまたま形見分けに入れ忘れた」と
後日刀が送られる事になったが、仮にも毛利家の重鎮を入れ忘れるだろうか?
少なくとも誇りを傷つけられたとは思っただろう。

後の関ヶ原でこの二人は三成に背を向ける事になる。これとの因果関係は不明であるが、一因にはなったかもしれない。
モノの恨みは恐ろしいかもしれない話




61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/26(火) 12:57:16 ID:F5oYoIMq
広家さんは当時は、陪臣なのかね?
それとも、愛の人みたいに特別ラスボスの覚えがいいとも思えないんだけど~

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/26(火) 13:14:30 ID:LhkNVY4I
遺産相続ってのは揉めるのはお約束だよな

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/26(火) 13:15:51 ID:ChCmZnZe
俺の家も揉めてるしな、遺書のおかげでなんとかなりそうだけど

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/26(火) 13:18:40 ID:DvEEGwcP
家康は秀吉に形見分けとしてもらった金を(おそらく)天下取りに使ったわけか、皮肉だねえ

65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/26(火) 13:51:55 ID:CaIkRIOE
家康「天下を形見として頂きました^^」

某戦国架空戦記に出ていた吉川広家に関するお話

2010年10月18日 00:00

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/16(土) 21:29:32 ID:fA4Jl4hE
某戦国架空戦記に出ていた吉川広家に関するお話

ソースがアレで幾らか史実に基づいた逸話なのか
全くの創作なのか見当もつかないため話半分で

大事に育てた娘を、側女にしていいよ前提で大阪に人質に出した広家に
石田三成から呼び出しが!行ってみるとそこには手も付けられずに差し戻された愛娘が・・・

ラスボスさんは「吉川の小僧め、ワシは女なら誰でもかまわないと思っていやがるのか!」
とお怒りのご様子

恐怖のラスボスを大っぴらに恨む訳にもいかない広家は代わりに
返却事務を担当しただけの三成を憎みましたとさ
こいつが響いて後々天下分け目の決戦時に、という楽し気なお話

娘の祖母はあの有名な元春正妻だから、遺伝的にあり得る話なんだろうけどさ

事実関係だけはwikiにすらちょこっと載ってるんだが
当然こんなもんに子細の記載など無くぐぐってもダメだし
詳しく知ってる人誰かいないかね?




774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/16(土) 21:41:09 ID:bSXqVZk4
ロリコンお嬢面食いの秀吉さんでした

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/16(土) 21:59:36 ID:YGAtepTY
広家さんって脇腹?

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/16(土) 23:20:16 ID:lkzqe9yV
>>776
吉川元春さんは他の兄弟同様、側室を置いてないから確実に嫡出。
3男で家が継げそうにないから、グレてみたり、養子先で我侭言ったりして親に心配かけてたら
上二人が死んで、家督を継いだのはいいけど、TERUのお守りをする羽目になった悪い話。

783 名前:sage[] 投稿日:2010/10/16(土) 23:49:00 ID:o3yvd1kH
>>772
文禄元年の12月にラスボスが「朝鮮の役」で広家が不在でも妻子を上洛させる事を命じているよ。
吉川家に通達したのは浅野長政、寺沢広高、長塚正家、木下某(すまん失念)、石田正澄。
ソースは「吉川文書」と書いてあるサイトを見た。

広家は泳いで参った中納言様の姉上と結婚してたが、わずか2年で死別している。
だから、ここにある「妻子」は側室と、その娘ってことになるんだが、
ラスボスの養女に遠慮したのと、側室の身分が低かったらしくって詳細が分からない。
石田三成がラスボスに拝謁させなかったと言われている「広家の娘」のその後も分からない。

自分が知ってるのは、この程度だなぁ。
後は郷土史研究で新たな資料が出ないと無理かもだ。

『吉川氏法度』より、旦那さんが浮気をしたら

2010年07月17日 00:00

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/15(木) 22:44:46 ID:ZcDtTMh9
戦国時代といえば男の時代!女なんて取っかえ引っかえだぜヒャッハー!
…と、世間的にそんなイメージも未だに多い気がします。

ではあの時代、例えば旦那さんが浮気をしたらどんな事に成るのでしょう?
吉川広家が定めた『吉川氏法度』より、それを見てみましょう


『年久しく夫に仕えてきた妻が、夫に浮気させられた挙句、あること無いことを言い立て
離別させられる。そんな事が起こった場合、次のようにする。

妻は自分が持参した財産に関しては当然のこと、その家の財産の内、いかなる物であっても、
思うがままに持ち出して、退出することが出来る。

また、妻が子供の出来ない内に死去した場合、その妻の財産は、尽く親元に返さなければ
ならない。』


すなわち、浮気をして妻を捨てるようなことをすれば全財産を持って行かれても
文句は言えないのです。
迂闊なことをすれば恐ろしく高く付くのがこの時代だったわけですね。

さらに、良くこの時代の女性は、子を生むことが出来ないと価値がなかった、なんてことを
言われますが、夫の方も妻に子を産んでもらわないと、妻を実質的に家に入れることは
出来なかった、すなわち夫こそ、子を産ませる能力がなけれな価値が無かった、とも言えるのです。

そんな、この時代の女性の権利についてのお話。




902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/15(木) 23:09:10 ID:C+w5h41G
日本の女性についてはフロイスが
『日本の女はやけに処女を捨てたがる。(略)男さえも捨てる。夫や親に内緒で旅にでる』
って残してたような。
普通に女性の権利も強かったんか

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/15(木) 23:23:29 ID:Ld9FDuxs
>>901
宗茂は価値の無い男だったのか・・・

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/15(木) 23:29:20 ID:Pw1gRtUY
>>902
やたらと現代日本のネット風にニュアンスが変わってるなw
正確にはこうだ。

「日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても名誉も失わなければ、結婚もできる。
 日本ではしばしば妻が夫を離別する。
 日本では娘たちは両親に断りもしないで一日でも数日でも、一人で好きなところへ出かける。
 日本の女性は夫に知らせず、好きなところに行く自由を持っている。」

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/15(木) 23:29:36 ID:ZcDtTMh9
>>904
今でも婿養子で子供が出来ないと、その家的にも婿養子的にも困った状況になっちゃうよね。
毛利家の場合婿養子が離婚要求したら、認める代わりに領地没収だったらしいよ。

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/16(金) 00:16:18 ID:luSBzc3+
>>901
現代以上に義務と演技が要求されてたのか
こわっ

吉川広家、輝元を弁明する

2009年11月18日 00:21

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/16(月) 23:05:08 ID:myy6Pbeg
吉川広家、関ヶ原での輝元を弁明する。

『この度毛利家が内府様に弓を引いた事、これは輝元が心底からやったことではありません。
輝元は、皆様ご承知のようにバカなので、安国寺恵瓊や石田三成に騙されたんです。
だから、内府様に本心から楯突こうなんて思ったわけじゃないんです。

これからは内府様に御忠誠をつくします。ですから、領地はどれだけ削られてもかまいません。
どうか「毛利」と言う苗字だけでも残してください。

もし輝元が処罰され、私だけ取り立てられては(この時、広家には中国で二カ国と言う内示があった)
面目が立ちません。
輝元が処罰されるの言うのであれば、どうか私にも同じ罰を与えていただけるよう、幾度も
お願いいたします。

今回、もしお恵みを以って毛利家を許していただけたなら、今後毛利の家が
徳川に弓を引くようなこと絶対にありません。
もし、輝元のバカが、千万分の一ほどでも、再び内府様に対して不届きな考えを起こしたら、
その時は私が一人で、輝元のやつをぬっ殺し、あいつの首を取って差し出し、
内府様への忠節をつくします。

ですからどうか、毛利家を残してください。』

以上、吉川家文書より。


この必死の嘆願により、毛利輝元は西軍総大将の責任を問われること無く、周防長門二ヶ国を
拝領した。

しかし

>輝元は、皆様ご承知のようにバカなので、

こんな話がさらっと通用しちゃうのが、なんとも困った輝元さんなのであった。




231 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/11/16(月) 23:15:57 ID:NJkU9RYF
それを真に受けて倒幕の芽を残した内府もやっぱりドタワケだと。

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/16(月) 23:21:15 ID:gmDXNtiu
さすがに200年先まで想定は無理だろw
大体TERUはアレでも毛利家自体の血筋はチートなんだぜ?
それで200年抑えつけた幕府はすげえよ

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/16(月) 23:22:58 ID:f6PSVH5c
いつも思うんだが、>>231みたいなのがたまにいるが、この手の人は
この時家康が毛利家を残した事と、250年後の倒幕の中心に長州がいたことが繋がっていると、
本当に信じているんだろうか?

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/16(月) 23:31:35 ID:PORADLK7
あの、倒幕の準備は整ったか?いえまだにございます。つう逸話を真に受けてんじゃねw


241 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/11/17(火) 01:17:53 ID:cWrq5Dd7
>>230
その広家さんだけど家督を継ぐ前に無断で中国地方の小笠原家に養子で入ろうとして
それに気づいたTERUがやめさせるために父の元春に説得するよう手紙を出してるんだよな
結果的に説得のかいがあり話は無しになったけど、昔から広家はこういったことをやるような
人間だったんじゃないか

話が変わるけど毛利家の交渉をした福島・黒田・本多・井伊の四人はいずれもTERUより
早く死んでいるんだよな
それから黒田家は後に黒田騒動を起こし、子孫も途中で血縁でない養子が後を継ぎ
福島家は改易をくらっており、本多家は子孫が領地問題でいざこざを起こしている
これってTERUの呪いか

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 01:20:11 ID:AWdnqoNb
そう来るとは思わなかった

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 01:29:22 ID:2CXzq1MA
輝元は「西軍総大将」に就任した以上、何があっても責任を取らされるのは確実だったそうな。

それを、吉川広家が「輝元は騙されただけ。それに関ヶ原では手を出さなかった」と
奔走し、それを黒田親子や福島正則、本多、井伊といった連中がフォローしまくって、とにかく
「毛利家存続」を勝ち取った、と言うのが実際のところらしい。

書状なんか見ると、広家は相当早い段階で「西軍が勝てるわけが無い」と、見切りをつけている。
で、勝てるわけが無い以上、毛利の損害を最小限にするべき、と行動したと考えられるそうな。

毛利家は西軍の中枢そのものだった以上、広家はかなりの確信があって
そう言う決断をしたんだろうね。

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 01:58:13 ID:N0S7Z0lZ
うちの御当主が総大将って時点で詰んでるってか

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 03:06:01 ID:3NEAi7Wz
当の関ヶ原のあの布陣になっても広家は勝てるはずないと思ったんだろうか

246 名前:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM [sage] 投稿日:2009/11/17(火) 03:12:44 ID:YwmJn59Z
鮭は吉川に何か恨みでもあるのだろうか。

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 03:23:00 ID:+65huZEI
>>245
関ヶ原の布陣については、小早川が最近言われているように、その前日の時点から
明確に東軍であったとすれば、逆に西軍が死地の中にいるな。


250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 08:03:00 ID:nnI8juP7
毛利・小早川・吉川の三家は関ヶ原に連れてこない方が、西軍が勝てたんじゃないか
関ヶ原後の闘いもボロ負けで、元就・隆景・元春もさぞ無念であろう

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 08:06:29 ID:bc5Hlibq
そうするともれなく毛利・吉川らの押さえの面々が西軍本隊に振り分けられます。
居ても足手まとい、居なくても足手まとい。


253 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/11/17(火) 09:49:36 ID:C7oliXZF
>>247
明確にはなってないだろ。
それなら西軍が小早川排除をしようとしないのがおかしいし
小早川は最後まで悩みながら毛利本隊の動きをみてから旗色を鮮明にしようとしてたんだろう。
ただ大谷は小早川が裏切った場合は自分の軍が危機に陥るので将としては当然、
裏切り警戒はしていただけの話だろう。
三成としては小早川が西軍として参加してきてる以上は小早川の背後から攻撃できないし。
吉川らは伊勢方面を攻撃してるし、毛利は四国や豊後にも手を出してるのに、
うちの池沼輝元くんは騙されただけとか言い訳出来ねーってのw

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 10:11:53 ID:bViUwO1V
ごめんなさいごめんなさい家の輝元ちゃんは馬鹿なので巧言に騙されて舞い上がって
近隣にちょっかいかけちゃっただけなんです!

われわれも決戦まで疑われないようにアリバイ作らなきゃいけなかったんです!
ごめんなさいごめんなさい、馬鹿の不始末でご迷惑おかけしましたが
あの馬鹿の影響最小限にしようとしてたんです!



255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 10:34:46 ID:GVGJjj12
まあ、毛利全体が東軍に付いたとしても、あんなでかい家をそのまま残しておけるはずもないしなあ。


256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 12:07:52 ID:S4GMnQ+M
例え広家が直接家康に許可を取ってたとしても所領安堵されたか怪しいもんだしなぁ

吉川広家の言い分

2009年11月09日 00:08

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/08(日) 14:10:36 ID:01dUalmp
関ヶ原の合戦の後、西軍が敗北したのは、或いは小早川秀秋の裏切りのため、
或いは吉川広家、福原広俊が動かなかったため、と、その頃の人々は言い合った。

吉川広家はこれを聞いて、その日の事について語った事があったそうだ。
それに曰く

「あの時は前日の時点で、誓紙血判し、人質を出し合って内通を固めておいた。
だから我等は当然兵を出すわけも無いし、兵を出すのを要求してきた長束正家や
安国寺恵瓊と言った連中をあれこれいなして、時間を稼いだものさ。

それに、例え我々が石田や宇喜田と一味していたとしても、あの9月15日の朝は
霧が深く、15,6間(約10メートル)先すら見えない有様だった。
そんな状況の中、南宮山の麓には2万ほどの押さえの軍勢が合った。
これを排除して、さらに4,50町(約5キロ)も離れている関ヶ原に駆けつけて
戦闘するなんて、そんな事が出来るわけが無い。

ただし、長束や安国寺が、どうしても西軍と共に戦いたかったのなら、我々に相談せずに
関ヶ原に行けばよかったんだよ。
長束なんて、その前の伊勢安濃津城攻めの時は、評議で8月14日に城際まで近づき、
15日に士寄をつけて、16日に攻め入ろうと決めたのに、
それを無視して誰にも相談なしに、自分一人の判断で勝手に町口に攻めかけた事、
これは誰も知っていることだ。

それを、9月15日の合戦に限って、『あの時は我らが動かなかったから西軍に合力出来なかった』
などと言うのは、片腹痛い話だ。

まあ、そういう浮説は、あの時の我々の事情もそれまでの過程も、知らない人間達が
言っている事さ。」

一方的な批判を受けがちな関ヶ原での吉川広家の、数少ない反論である。





吉川広家と森勝信

2009年10月09日 00:42

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/08(木) 02:19:02 ID:j52pZbWG
そういえば元就の毛利さんも鬼武蔵の森さんも、名字の元は同じ神奈川県の毛利(森)庄からだな。



272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/08(木) 22:14:34 ID:C9lY8piw
>>256
じゃあ森氏と毛利氏は元は同じなんだ。

時々広島出身と間違われてしまう毛利勝永は、元の姓は森で、尾張出身だった。
父親の森勝信は秀吉古参の家臣だったが、豊前に入って後毛利に改姓したのだ。
北九州では毛利家の威光が強く、領民を懐けるのに便利であるため改姓したとも
言われる。
これにはきちんと毛利輝元の許可をとっており、その取り成しをしたのが吉川広家
だったらしい。
してもらうばかりでは悪いと思ったのか、勝信はお返しをしたいと言い出した。
広家の家臣に香川兵部大輔という者がいたのだが、よければこの名乗りを自分が
契約して改名しようと言うのだ。
その理由はというと、秀吉のお気に入りで非常に親しくしている細川藤孝。
彼が同じ兵部大輔なので、それをはばかった方がいいだろうとのことだった。
広家は、実は前から考えてはいたが私の家臣程度の者がはばかるというのも却って
人がましいようなのでそのままにしていました、せっかくおっしゃって下さることなので
お任せしましょうと答えた。
そこで勝信は喜んで、香川を呼び出し盃をかわして名を又左衛門と改めた。
そして祝儀として秀吉に賜った駿馬を香川に贈ったということである。

…邪推かもしれんが有難迷惑のにおいを感じたのでこっちに書いてみた。
まあ実際は秀吉周辺に詳しい人間からの忠告で素直に有り難かったかもしれんけどね。




273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/08(木) 22:26:16 ID:tfzMqEzc
>>272
> じゃあ森氏と毛利氏は元は同じなんだ。

いや違う。鬼武蔵の森氏は、平安時代源義家の六男陸奥六郎義隆が、相模国愛甲郡森(毛利)庄を
領して「森の冠者」と称したところから。
なので清和源氏。

んで、輝さんとかの毛利は、鎌倉幕府草創期に、頼朝の側近として活躍した、元朝廷官僚の
大江広元が、その功績からやはり相模国愛甲郡森(毛利)庄を与えられ、広元の子孫が
「毛利」を名乗った。
なので毛利さんは藤原氏。

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/08(木) 22:36:38 ID:sUvfbanE
>>273
大江は藤原姓じゃないと思うが。
大江は源、平、藤、橘と同等の姓。
だから、毛利元就は、除目では、大江元就で、官位をもらってるんじゃないか。

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/08(木) 22:39:53 ID:C9lY8piw
>>273-274
そうなんだThx
そういやこないだスレで森武蔵も先祖は清和源氏、清和源氏の遺伝子コエー
みたいな話したばっかだったねw

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/08(木) 22:45:03 ID:Vql6hr1J
姓と氏と苗字の区別って難しいよね

徳川家康だと姓は源なのはわかるけど
松平と徳川はどうなるの?

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/08(木) 22:51:55 ID:lcR9hSz9
>>276
どっちも苗字

蠣崎と松前あるいは、木下と羽柴みたいなもん

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/08(木) 23:08:36 ID:Vql6hr1J
>>277
レスサンクス


吉川岩国藩、槍倒し松(やりこかしのまつ)・いい話

2009年03月20日 00:18

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/19(木) 10:37:08 ID:/neXkuAa
槍倒し松(やりこかしのまつ)

徳川幕府体制が出来て後、TERU元の失策により
大幅な減封をくらった萩の毛利家は
家康の「一国一城令」により宗家の主権確立のため
萩城以外の城をぶっ潰したのはまとめで既出の通りです

それはさておき、作ったばかりの岩国城をたった7年で
潰さないといけなかった可哀相な吉川岩国藩

よその大名が他藩の城下を通るときには槍を倒して
横切るのが礼儀であった
しかし大藩が小藩を横切るときは礼儀を守らず
そのままスルーしていた
6万石の小藩である岩国武士はこれを見るたび
憤慨していた

そこで岩国武士はひらめいた!
槍を倒さないと通れないようにすりゃいいんじゃね?
岩国武士はかなり横枝の伸びきった松を橋の頭に植えた

今でも錦帯橋の頭に植わっています




945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/19(木) 11:04:18 ID:JFSWc9Uv
>>943
その槍倒し松の説明書き看板に
「負けず嫌いな岩国武士のシンボルです」みたいに書いてあってほほえましかった

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/19(木) 12:18:23 ID:my9SzPo2
他でも国堺の関所の門高さを低くして
頭を下げないと入国できない様にした話があったな

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/19(木) 12:52:20 ID:cpGotbvA
松は切り倒せ
関所は叩き壊せ
邪魔する役人はことごとく斬れ

あの人が存命で権勢振るってたら出来なかったな、きっと

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/19(木) 13:16:33 ID:nZ19FHfG
流石に家康の元では無理と思いたい・・・


949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/19(木) 15:27:57 ID:UoI2l/im
しかし、これ考えた人頭いいな。茶室のにじり口でも参考にしたんだろうか。

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/19(木) 16:21:38 ID:8zkSaYcw
>>949
中国の故事にもあった気がしないでもなくもないかもしれなくもない
ので意外と希によく見る事なのかも
利休の逸話にもなかったっけ?像の下をくぐらせる形にしたら秀吉が「踏む気?♯」みたいなの

954 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/03/19(木) 18:24:48 ID:LBoIUWVr
>>943
TERU元の失策というか広家の失策じゃないか

吉川広家の待遇・悪い話

2008年10月30日 01:32

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/29(水) 22:20:22 ID:Rxd0sbES

ってわけで吉川広家の(待遇が)悪い話

戦後毛利は家康との密約を反故にされ長門・周防に減封された
この辺は有名なんで割愛するが吉川広家は毛利宗家が改易されぬように働き続けた上での減封処分となった

が、毛利家は大幅な減封を吉川広家のせいにして岩国藩初代藩主と言ってもいい広家を
毛利家家臣で岩国領初代当主。正式な大名でなく、あくまで毛利家の家老という陪臣という立場に押し留め
幕末までその恨みを消すことは無かった



223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/29(水) 22:33:00 ID:H31Aixsz
>>221
広家は関ヶ原のあとも毛利家の中枢で働いてるし、毛利家の中で重要なポジションを
しめ続けているから、恨み云々は違うと思うよ。

本家との関係が悪くなったのは関ヶ原よりむしろ、輝元のあとの秀就の時代に、
長府藩の毛利秀元が独立騒動を起こして、それに岩国藩も巻き込まれたことが大きい。