553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/11(木) 15:23:52.39 ID:YM5HVdd6
龍造寺の鍋島がしたようなこと ―毛利秀元―
関ヶ原合戦後の吉川広家は、家康・秀忠から当主親族の証人(人質)を置かないことを許されていた。
ところが元和三年の人質改めの際、当主・毛利秀就は吉川家に対して急に人質を出すように迫った。
秀就は同じく証人を免除されている重臣の福原から、事前に証人のことについて知らされていたものの
「福原が何か騒いでいる」(『吉川家文書 一三一九号』)と思って聞いておらず、仰天したらしい。
一方、そういう事情を知らない広家は、この命令が毛利秀元の陰謀によるものだと思ったらしい。
息子の広正へどう心がければいいか、書状を送っている。以下長いので要点だけ意訳。
申しにくいことですがあなたのために書きます。返事のときにこちらへ返して下さい。
一、むこう(秀元)は、私達や福原・児玉・益田の一類に対し、公儀や長門様(秀就)に申し妨げて
公界に出づらくさせて、後々どうにでもなるように図っています。
一、吉見広長の帰参は、私が数年榎本元吉に申し上げても成らなかったのに、秀元が申したら
(輝元は)対面して、扶持米をやられたそうです。
一、御家の家臣の面目を潰して、公儀のことを自分一人でやって肩を並べる者がいないようにして
公儀や内儀のことを自分のしたいようにするつもりです。
一、人々は「龍造寺の鍋島がしたようなこと」で、よそではありえないことだと囁いています。
一、あの人(秀元)は黒田長政のことをどう申し妨げたのか、近年は不通になっているそうです。
(長政は)殿様(輝元)や私にこのことを申されました。
一、あなたが直接公儀にすがれないようにしてくるでしょう。そうなればいくら殿様が頑丈で
いらっしゃっても明日を知らぬ身なのですから、ゆくゆくは大事になります。
大夫殿(福島正則)が隣国なので、何かがあれば讒言してくることもあるかもしれません。
このことをこれから破滅のもとだと思って、油断なく心遣いして下さい。
一、あの人は人質を出させることで、あなたを宍戸殿や山城殿同然にしようとしているのです。
一、私は若いときから病み疲れて正体をなくし、くたびれてしまいました。あなたが御家や身上のため
外聞を失わないように気遣ってくれれば、どんな孝行をされるよりずっとありがたいことなのです。
一、右のことはあなたの心に合わず思うこともあるでしょうから、ちゃんと話しましょう。
一、そちらでは乳母をはじめどんな人にも、このことを話さないように。用心して下さい。
これは大事の書物なので、そう心得て扱うこと。
以上
(元和三年)九月三日 廣家(花押)
左介殿(広正) 参
――『吉川家文書 一三一三号』
結局吉川家は、広正を秀就付きにして江戸で奉公させることで対処した。
龍造寺の鍋島がしたようなこと ―毛利秀元―
関ヶ原合戦後の吉川広家は、家康・秀忠から当主親族の証人(人質)を置かないことを許されていた。
ところが元和三年の人質改めの際、当主・毛利秀就は吉川家に対して急に人質を出すように迫った。
秀就は同じく証人を免除されている重臣の福原から、事前に証人のことについて知らされていたものの
「福原が何か騒いでいる」(『吉川家文書 一三一九号』)と思って聞いておらず、仰天したらしい。
一方、そういう事情を知らない広家は、この命令が毛利秀元の陰謀によるものだと思ったらしい。
息子の広正へどう心がければいいか、書状を送っている。以下長いので要点だけ意訳。
申しにくいことですがあなたのために書きます。返事のときにこちらへ返して下さい。
一、むこう(秀元)は、私達や福原・児玉・益田の一類に対し、公儀や長門様(秀就)に申し妨げて
公界に出づらくさせて、後々どうにでもなるように図っています。
一、吉見広長の帰参は、私が数年榎本元吉に申し上げても成らなかったのに、秀元が申したら
(輝元は)対面して、扶持米をやられたそうです。
一、御家の家臣の面目を潰して、公儀のことを自分一人でやって肩を並べる者がいないようにして
公儀や内儀のことを自分のしたいようにするつもりです。
一、人々は「龍造寺の鍋島がしたようなこと」で、よそではありえないことだと囁いています。
一、あの人(秀元)は黒田長政のことをどう申し妨げたのか、近年は不通になっているそうです。
(長政は)殿様(輝元)や私にこのことを申されました。
一、あなたが直接公儀にすがれないようにしてくるでしょう。そうなればいくら殿様が頑丈で
いらっしゃっても明日を知らぬ身なのですから、ゆくゆくは大事になります。
大夫殿(福島正則)が隣国なので、何かがあれば讒言してくることもあるかもしれません。
このことをこれから破滅のもとだと思って、油断なく心遣いして下さい。
一、あの人は人質を出させることで、あなたを宍戸殿や山城殿同然にしようとしているのです。
一、私は若いときから病み疲れて正体をなくし、くたびれてしまいました。あなたが御家や身上のため
外聞を失わないように気遣ってくれれば、どんな孝行をされるよりずっとありがたいことなのです。
一、右のことはあなたの心に合わず思うこともあるでしょうから、ちゃんと話しましょう。
一、そちらでは乳母をはじめどんな人にも、このことを話さないように。用心して下さい。
これは大事の書物なので、そう心得て扱うこと。
以上
(元和三年)九月三日 廣家(花押)
左介殿(広正) 参
――『吉川家文書 一三一三号』
結局吉川家は、広正を秀就付きにして江戸で奉公させることで対処した。
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