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なごりをば つきる枝にや 残すらん

2021年05月23日 17:39

229 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/23(日) 12:45:12.50 ID:LB7x6Tpm
悪い話スレで本多重次の話題が出てたけど、仏高力が秀吉を歓待した際の話が出てなかった?ぽいので

小田原城を落とした秀吉はさらに宇都宮、会津と移動することで天下統一を完成させた。
小田原城の落城直前から東北への旅路の順路を決めた秀吉は自身が宿泊する御座所の設営や道の整備まで細かく指示し、
多少の遅れはありながらも鎌倉、江戸、岩槻、古河を通って宇都宮に入るとそこで天下の仕置をし、更に会津へ入ると再び京への旅路についた秀吉は途中、高力清長の岩槻城へ再び立ち寄りそこで歓待を受け、咲き誇る萩の花を見て一句詠んで高力清長に授けたと言う。

なごりをば つきる枝にや 残すらん

花の盛りを 捨つる都路

春から秋にかけて行われた秀吉の東征の旅の感慨の深さを表す歌とされている。
※管理人注・PDF
https://www.city.saitama.jp/004/005/006/013/001/p072668_d/fil/daigokaitenkabitohideyosi.pdf

太閤さま軍記のうち

しかしまぁ、急ピッチで河越城バラして帰り道の御在所整備をする様に指示された方はたまらんかったのではないかと思う今日この頃。



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「仏高力」名の由来

2013年07月17日 19:50

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/16(火) 20:12:45.83 ID:w1rOqJDb
有名な「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三郎兵衛」の三河三奉行の一人、
高力与左衛門清長について、これは三河一向一揆の時のことである。


高力の家の領地、高力郷は、一向一揆の本拠地といっていい土呂郷の隣であり、
一揆の脅威の正面に在り、領内の騒擾甚だしく、家康からは濫妨の禁止を命ぜられたものの、
一揆方よりの狼藉を止めることは難しかった。

そこで高力は思案し、高力郷中の仏像経巻を全て一ヶ所に集め、安全な場所に保管した。

一向一揆が静まると、高力はそれらの仏像経巻を取り出して元の寺々に返した。
これに寺僧はもちろん、郷民たちも大いに喜んだ。

これより後、人々は高力清長の事を「仏高力」と呼ぶようになったという。

(徳川武士銘々伝)

「仏高力」の名の由来について、こういう話もあったんですね、という逸話。




707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/16(火) 21:57:42.31 ID:Z2pSvH9S
>>706
どちへんなきの人は漫画になってたよね