532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/07(土) 22:26:59 ID:3X9vIQXg
先日NHK歴史秘話で三成を扱ってたので、その関連で。
関ヶ原における大谷隊の胸にしみる話。
「関ヶ原 大谷家中の奮戦と散り際」
関ヶ原合戦の幕が開ける。東軍より総兵力が勝っている西軍ではあるが
積極的に戦ってるのは、石田・大谷・小西・宇喜田隊のみという有り様で
ありながら、それでも各軍奮闘著しく互角異常の戦いをしていた。
特に石田・大谷の働きは寡兵ながらも凄まじかったという。
吉継はこのとき病のために盲目であり、甲冑も着られない体であったが
「あのような木偶大将の元で働く者共の哀れよ」と、敵方に家臣が恥ずかしめを受けぬように
遠目からはさも豪壮な甲冑を着込んでいるものと見えるように、
紙に墨で書いた紙甲冑を身につけ、輿にのって軍勢を鼓舞していたという。
大谷勢に加わっていた平塚為広や戸田重政らの奮戦も手伝い、
寺沢・藤堂・京極・織田勢を次々と押し返す様は
秀吉曰く「吉継に百万の軍勢を預けてみたい」と言わしめたのを納得させる鬼神の働きであった。
家康も「死に損ないのなんたる戦ぶりよ」と罵声を浴びせたという。
しかし吉継ぐには不安があった。南方の松尾山に布陣する小早川秀秋である。
合戦前の軍議後、小早川本営に内通疑いあるを苦言したが、いまいち信が置けない様子であったため
裏切りの動き有りと踏んでいた吉継は、あらかじめ小早川に備えた布陣を敷いていた。
激戦を繰り広げる間も、何度も出陣の催促を出すが、小早川に動きは見られない。
小早川の裏切りに確信を持った平塚は「金吾殿に二心あるは疑い無し」と忠言し、
吉継は「貴殿と戸田と我等で奴を討ち取り、無念を晴らそう」と返したという。
奮戦するも数的不利な西軍が徐々に押され始めた頃、吉継等の読み通り小早川は
裏切り、眼下の大谷隊へと突撃してきた。
精鋭を持ってこれを2.3回小早川隊を麓に押し返し、家康から秀秋のもとへ
派遣されていた奥平貞治に重傷を負わせなど奮戦するも、
小早川に呼応した朽木・赤座・脇坂・小川も裏切り、そこに藤堂勢も
再度攻撃を仕掛け、大谷隊は大軍をもって包囲された。
その中で、島左近から大谷隊に遣わされた島清正(左近四男)が、藤堂家家臣の
藤堂玄蕃を組み打ちで討ち取り、大いに志気を上げたりもしたが
衆寡敵せず多くの家臣が次々打ち取られ、戸田や平塚もついには息絶え、
少数の兵と共に息子の大谷吉勝、木ノ下頼継等が防戦するのみとなった。
~続く~
533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/07(土) 22:28:01 ID:3X9vIQXg
~続き~
合戦中、目の見えない吉継は、側近の湯浅五助に何度も「負けたか」と問い
五助は「未だ」と返す調子であったが、ついに五助から「御合戦御負、無念でござる」と
告げられた。
敵は本陣まで入り込み、吉継の輿をかつぐものが斬られ出すと、バランスが崩れ主君が転げ落ちないように
側にいた他の家臣が「それがしが!それがしが!」とかつぎ人に入れ代わり加わっていく様を
不憫に思った吉継は「もはやこれまで。儂のようなものに最期まで付き従ってくれて大儀であった。
あとは離脱するなり降伏するなり、好きにいたせ」と命じた。
だが家臣達は「我が身惜しさに病身の主人を置いて逃げたと言わるは我屈辱の極み!
それよりも憎っくき金吾めに一太刀浴びせて死にとうござります!」と口々に答えた。
家臣達の忠義に感じ入った吉継は「皆も知っての通り、わしは目が見えぬでな。
お前達の最期の手柄奉公を見、あの世で手を取り誉めてやる事も叶わぬでは、死んでも死に切れぬ。
一人一人わしの目の前で名乗ってから行くがいい。」と返した。
家臣達は涙ながらに「○山○兵衛、最期の御奉公仕る、!御免!」と大声で名乗った者から、
次々と敵の群れに斬り込んで行った。
最期の家臣を見送った後、吉継は輿の上で腹を十文字にかっさばき、五助に介錯をさせて
大谷隊は壊滅した。和泉守という人物も馬上で追腹を切ったという。
裏切りに加えて、家臣達の悲壮極まる最期を見て「三年ヲ出デズシテ吾此恨ヲ報ゼン」と怨呪の念を
呟いたと言われるが、それも無理からぬ事である。
後に大谷隊の奮戦の凄まじさを目撃した島津家臣 曽木弥次郎が
「比類なき様子に候つ」と語っており、『関原合戦図志』にも『大谷等死憤ノ兵』と
記されている。
対外的には賛否両論、好き嫌いの別れた三成も、その家中内は裏切りや離脱はなく最期まで主君三成を
守りながら戦い抜いたと言われているので、家臣を愛し愛される様は親友だけあって同類である。
悲しくも心を掴んで離さない壮絶な大谷隊、最期の散花。
534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/07(土) 23:48:39 ID:Y5cN5xp9
大谷さんはどの史料を読んでも悪く書かれていたためしがない
535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/07(土) 23:52:20 ID:ebGHXIi8
らい病を治すためにやった百人斬りの伝承くらいか?
536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/07(土) 23:59:37 ID:vglXdCsi
と言うかいいも悪いも、大谷吉継の記録や逸話自体が、ものすごく数が少ない。
どう言う人間だったかすら実は判断できない。
537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/08(日) 02:15:45 ID:LBz5ambr
記録や逸話が少ないにしても、西軍所属でやむにやまれずの消極的参加でもなく、戦場では主導的な一人として
東軍とやりあったんだから、勝者史観や報復で悪い話のひとつやふたつあってもおかしくない。
それがまったくないってのは、叩いても綻びが出ない様な人格者だって事じゃないかね。
538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/08(日) 02:48:10 ID:qmLRMKKA
よく考えれば奥平信昌の叔父である奥平貞治が小早川勢の軍監に付いているのを
知った多くの人は、既に小早川は徳川に靡いていると考えていたんだろうな。
539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/08(日) 08:13:45 ID:rxMGAPfO
人との繋がりや行動から生まれるエピソードで
500年前の戦国武将がどういう人間か推察してるところに
逸話はすげー少ないけど勝者史観で貶められてないし完璧な人格者に違いないよ!
っていうのはすげー不幸だよね
540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/08(日) 09:07:54 ID:DXT0NW1F
日本人は判官贔屓なとこがあるから、西軍で極端に悪く言われているのは三成くらいで、
他の人はむしろ立派みたいに言われてないか。
541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/08(日) 09:18:13 ID:jBpz1bPB
と言うか三成すら、江戸時代であっても「むやみに敵を作るし陰謀癖もある性格だったけど
あれだけの大軍を組織して戦ったのは立派だよね」みたいな評価が主流だと思う。
542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/08(日) 09:21:47 ID:mP4yKhQ9
江戸時代になると、天下分け目の合戦で、
実質的に一方の総大将をやり遂げたというのは、
それだけで充分に評価されてしかるべきなんだろうな。
543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/08(日) 09:53:01 ID:C5yLLY8B
天下分け目の戦いで総大将になったのにボロクソ言われてる輝元って一体…
544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/08(日) 11:49:29 ID:LAZravhj
戦傷によるのが大半だけどか○わとか、ち○ばとか当たり前な時代に
それでも人からエンガチョされてた癩病持なのに
これだけ頑張って生きてたんだから秀吉が信頼して
100万もの軍勢を預けてみたいと思うのも判るような気がする。
545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/08(日) 12:00:01 ID:rxMGAPfO
むなしいね
546 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/08/08(日) 17:25:02 ID:KAPns9DG
>>542
この時の西軍の総大将は宇喜多さんなのだが
むしろ総大将でもないくせに総大将のように思われていること事態
西軍が負けた最大の敗因じゃね
547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/08(日) 17:44:28 ID:on7S05wr
>>543
戦ってないのだから
548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/08(日) 17:48:40 ID:2EwEywpm
輝の代わりに爺様が大坂城にいたらすごい展開になってたのに・・・
549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/08(日) 17:49:36 ID:7B8DhBaW
>>546
逆じゃね?
実質総大将の差配を振るっていたのに、
正式に総大将をやる器がなかったのが敗因でしょ。
550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/08(日) 17:53:10 ID:C8qf5jv/
>>548
何年頑張らせるつもりだよw
551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/08(日) 18:08:53 ID:2EwEywpm
>>550
輝が死ぬまで
552 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/08/08(日) 18:50:59 ID:KAPns9DG
>>549
それも敗因のひとつだと思うけど
もっと問題なのが実質総大将とか言われていること
そもそも自ら輝元を総大将、宇喜多を副大将にしておきながら
こんな事を言われるような対応をしている事がだめなんだと思う
それに三成の事を総大将と思っているのは三成自身だけじゃね
他の武将たちからは騒乱を招いた元凶くらいにしか思ってないんじゃないか
553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/08(日) 21:31:13 ID:UbdSGSOX
総大将が毛利グランパ、副将が宇喜多パパンなら調略コンボで東軍はどえらいことに
なりそう。
西軍圧勝の陰で三成も暗殺されてそうだがw
554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/08(日) 21:35:24 ID:aPhRbUrp
三成総大将については吉継も懸念してたよね
まあ徳川は内大臣、毛利・宇喜多は中納言で、石田は治部少だし、官位の面から見ても微妙だったし
555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/08(日) 21:35:57 ID:wGOGrnOy
そんな総大将と副将相手なら、
家康も無理して開戦しないんじゃないか?w
556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/08(日) 23:22:22 ID:XKMXh1YL
戦争やってどさくさで実権ものにするのが目的だから、ダメな敵こそ望ましいだろ。
557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/08(日) 23:52:41 ID:on7S05wr
>>553
>>555
毛利元就と宇喜多直家だったら、味方同士で謀略戦をして
西軍は自滅する
558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/09(月) 00:08:04 ID:Do1waz1S
毛利元就「宇喜多直家こそ獅子身中の虫。」
宇喜多直家「毛利元就こそ獅子身中の虫。」
元就・直家「決戦の前にあ奴を滅ぼしておかねば!」
こんな感じかw
562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/09(月) 09:58:44 ID:5LhaVIom
>>552
江戸時代においては、毛利がお家存続のために、
「実質的な総大将は石田でした。私たちは騙されてお飾りでした」
みたいな喧伝やっている事も忘れちゃいけない。
563 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/08/09(月) 11:55:34 ID:Dkie7cfw
>>562
>実質的な総大将は石田でした。
別にそんな事は言ってないだろう
あくまで担ぎだされたと言ってるだけであって
つーかなんで三成を実質的な総大将という表現で表したいんだ?
別に首謀者とか決起人でもよくないか
これが三成の評価を高めるつもりなら、むしろ逆効果だと思う
564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/09(月) 12:03:51 ID:+9yK0bE3
実際の戦いで頑張ったからじゃない?>三成
>>558
宴会で乾杯した後に全員が死体になってるんですね
565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/09(月) 13:43:58 ID:oX8M0LqW
会津藩が降伏したとき萱野とかいう末席の家老が
首謀者として斬首されたのと同じケースだな。三成首謀者は。
両者和解の妥協の産物。
566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/09(月) 14:26:59 ID:hc/yTi4E
三成がスケープゴートってことで
567 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/08/09(月) 14:54:02 ID:2HQZz1Ed
叩き上げの軍人(徳川家康) 対 エリート官僚(石田三成)だと小説的にデフォルメしやすい
568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/09(月) 15:35:35 ID:wY83pr9g
勝てば日本中の家臣の妻をつまみ食いし放題だったのに…全部石田のせいだお!
領地減らされたのは広家のせいな。
皆使えないお…
569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/09(月) 15:40:02 ID:Ta52jpsx
>>568
叔父様方がぶん殴りたそうな目で見ておいでです