大谷吉継はこのことを聞いて思った

2016年02月06日 15:07

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/05(金) 18:59:38.80 ID:mLQrqOXT
大谷刑部少輔(吉継)は徳川家康に無二の忠節を申し上げ、大事の相談の在った時も、心底に残す所無く
家康の御為を大切にした人物であった。

ところが、宇喜多黄門(秀家)家中において不慮の紛争が起こった時(宇喜多騒動)、大谷はこれを取り持ち
榊原康政も引き加えて紛争を解決しようとしたが失敗、戸川肥前守、宇喜多左京、岡越前守、花房志摩守などは
宇喜多秀家から討ち手を向けられれば打って出る!」と、その時の相印として上下皆坊主にした。

これを家康は聞き及び、康政を叱りつけた
「関東よりお前と交代する平岩主計頭が既に上ってきているのに、式部(康政)はどうして関東に下らず、
要らぬ他家への取り持ちをしているのか?そのように欲にふけり、取り持ちに対する礼物を欲しがるような
者だったとは思わなかった!」

康政はこれを聞くやいなや、どこにも暇乞いすらせず早々と関東に下っていった。

大谷吉継はこのことを聞いて思った
「式部をそのようにお叱りなされたということは、私も同様に思われているということだ。
それにして言い方があるではないか。取り持ちをしたのを礼物目当ての汚らしい心中であると仰せになったことは、
草履で面を踏まれたのも同然だ!」

そう家康を怨み、腹を立てて泣いたという。

(玉露叢)



97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/05(金) 21:06:05.15 ID:dLnsTis+
康政を挑発して帰還させ、宇喜多家の騒動の泥沼化→弱体化させる魂胆ですか?

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さらに、大谷吉継に至っては

2016年02月04日 09:22

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/03(水) 20:57:26.92 ID:SFRxxhq/
慶長4年正月21日、加賀大納言(前田)利家、並びに奉行衆よりの使いとして、
元長老の生駒親正らが徳川家康の屋敷を訪れ、
「太閤御他界以後、数ヶ月も立っていないというのに、各大名と御縁組を行ってっている儀、
我儘である。」
との内容の抗議を申し上げたという。

奉行衆よりは、大崎少将(伊達)政宗、福島正則、蜂須賀家政の3将に使いがあった。
その内容は、各々が奉行衆に相談もなく徳川秀忠と縁組をしたことは、御掟を背き
不届きのことである、という物であった。

伊達政宗はこの返答に
「私は知らないことだ。今井宗薫とかいう堺の町人がこの才覚をしていると聞いている。」
と言うばかりであった。その後奉行衆は、宗薫を呼び出し詮議をした。

福島正則と蜂須賀家政の返答の内、蜂須賀は
「我ら阿波守護家は太閤の御爪の端にも連なる者です。そんな我々が家康公親子と婚姻を取り行えば、
万端その御意を得ていないといっても、これにより家康公が、猶以って秀頼公に御無沙汰することが
無くなると考え、この事は然るべしと判断し、婚姻を申し上げたのです。」
そう答えた。

この事により、諸大名は思い思いの行動をした。
内府公には、池田輝政とその一党、福島正則、黒田如水・長政父子、藤堂高虎、森忠政、
および新庄駿河守その他小身衆が集まり、また有馬法印則頼、金森法印、織田有楽という人々も、
何れも関東方であった。
大小身共に、毎夜内府公の御屋形に詰めていた。

さらに、大谷吉継に至っては
「もし家康公に敵が攻撃してくれば、私がいつでも先手を仕り、奉行共と一合戦いたします!」
そう宣言し、自身の屋敷に人数を集め奉行衆の軍勢を待ち受けていたという。

(玉露叢)



249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/03(水) 23:03:53.96 ID:sqK6NI4q
良い時代があったのだな

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/03(水) 23:09:51.66 ID:DsX79652
なぜここまであからさまに家康の味方をしていた大谷が関ヶ原では反家康を旗幟鮮明にしたのか
(脇坂みたいにこっそり通じて、秀秋+脇坂朽木赤座小川といっしょに寝返ってもよかったのでは)
そして関ヶ原後、大谷については賞賛こそされ、謗られることがほとんどなかったのか不思議

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/03(水) 23:11:49.05 ID:9jmumgSk
前田が嫌いなだけやん

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/03(水) 23:14:02.86 ID:DsX79652
なるほど丹羽長重と同じだったと

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/03(水) 23:37:13.58 ID:9jmumgSk
そう考えればしっくりこないか?

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/04(木) 00:57:58.65 ID:u32bMwyM
家康は上杉征伐の直前あたりでも景勝に縁談持ちかけたりして
(子供いないのに上杉家の誰に縁談したのか謎)
輝元が怒ったりしてるから

大谷刑部の異見

2015年07月28日 13:05

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/27(月) 21:14:05.27 ID:5zjdTLTt
石田三成は己の才知を誇り、常に人を見下していたが、大谷刑部(吉継)とは親しみ深く、
彼からは異見であっても聞いた。

大谷刑部は元より知謀深き者ゆえ、太閤秀吉にも取立てられ五奉行の列にも加わった。
そんな吉継がある時、三成にこのように言った

「貴殿は常に金銀を貴く思い、人に対しても、金銀を与えさえすれば何事も成るかのように思い、
自分の家人たちに対しても、そのようにしているように見える。
だが、それは心得違いである。

もちろん、金銀は世の宝の第一である。だが、用い方が悪ければ害にもなり、特に家来には
別して実意を以って接しなければ、心服することはない。実意によって服していなければ、大切の時の
用には立たない。であれば、人は使いようによるものなのだ。

主人が貧しい時は、利を与えることが出来ないため、おのずから家来に対しても礼儀が厚くなる。
そのため、家来も主人への思い入れが深くなる。

主人が富んでおり、禄も多く与え、その他の物も快く与える家では、家人も悪い顔はせず、主人も
それを見て心から仕えていると考えてしまうが、家人の方は仕えている以上この位のことはするものだと、
その待遇が過分などとは思わず、君臣共に実義薄くなり、初めはその家を望んで来た者でも、後には
見劣りするようになり、貧しき主人の礼儀厚き者ほどには、思い入れてもらえないものなのだ。

だが、一概にそう言えるわけではない。
貧しくて礼儀なければ心離れ、少しの困難でも家が滅びてしまう者も多い。
貧しくても、常に甘苦を分かち、家来の風雨寒暑をも自身が受けるように思う、志深き将であれば、
困窮の中にあっても、命を惜しまず主の先途を見届ける者も有る。
源義経の漂泊に従った者達の諸行を考えてみるべきであろう。

金銀で人を使おうと思うのは、人心の離れる元だ。何事であっても、実意には帰服するものなのだ。」

三成はこの吉継の異見を忝く思い、その誠意に起伏し心から謝礼した。

(明良洪範)




453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/28(火) 02:17:32.49 ID:elWaZyez
>>449
世間知らずな宗茂とかも浪々の折はみんなよく尽くしてくれてたもんなあ

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/28(火) 09:08:35.06 ID:IHKs+A9Y
宗茂「おっと、雨が落ちてきたか、干し飯を取り込まんと…いや、いかん、いかん、そんなことをしたらかえって家来共が悲しむ」

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/28(火) 09:50:16.81 ID:8FKcYLz6
高粱飯うめー

大谷吉継から真田昌幸に宛てた書状

2014年09月29日 18:51

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/28(日) 23:01:04.84 ID:Fkn7+NjH
真田家文書より、大谷吉継から真田昌幸に宛てた書状を二通紹介。


眞房州様 白以

貴札快然の至りに候、然る処久しく御意を得ず、御床しさにて候、御茶法御手前相極め候哉、
拙者式漸く相済み候条、御隙に於いては一夕おぼしめし□□(不明)候はば、本望たるべく候、
積欝御事、面上を以て申し承るべく候間、書中具にせず候、恐々謹言、

十二月九日 (花押)

(お手紙をいただき快然の至りです。このところ長い間お会いせず、お懐かしい気持ちです。
お茶の作法、お手前を極められたのでしょうか。私の用事はようやく済みましたから、
お暇な時には一晩思し召して□□くだされば本望です。
御心配のことはお会いして承りますので、手紙では詳しく書きません。)


眞房州様 白以

明朝、成らるべき旨忝く存じ候、尤も参を以て御礼申し入るべく候へども、
却って御六ヶ敷(むつかしく)思し召さるべくと其の儀なく候、常之御食時分に御出で成らるべく候、
何さま是より御左右申し入るべく候、恐々謹言、

十一月朔日 (花押)

(明朝、お出でになる旨嬉しく思います。もっともこちらが伺ってお礼を言うべきなのですが、
かえってわずらわしく思し召すと思いそれは致しません。いつものお食事時にお出でください。
いずれにせよこれよりこのお知らせを(注:家の者に?)伝えるつもりです。)


舅同士けっこう交流していたようだ。




901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 01:02:59.02 ID:ex4PbjiF
真房州ってかっこいいな

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 01:09:09.07 ID:24dHlvKC
>御心配のことはお会いして承りますので、手紙では詳しく書きません。
手紙は史料としての価値は高いけどこれが困る、後々の人の為にもっと詳しく書いて。

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 01:13:09.64 ID:RWi86YPV
吉継も兄ちゃんも短命だったのが惜しまれる

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 01:18:44.02 ID:vH8Rg91z
兄ちゃん充分長生きしただろ!

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 01:19:38.65 ID:hxlk00UX
兄ちゃんは色々ストレス抱えてたから仕方がないな

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 02:24:59.53 ID:dJvQXJbK
さる御仁曰く、人間の寿命は125歳らしいからな
93歳じゃ天寿を全うしたとは言えん

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 05:15:53.01 ID:hwXjMjDR
信之の母方の従兄弟の石田重家も103歳で死んだから
徳川に抗った親を持つと短命で死んでしまうんだな

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 15:32:39.08 ID:DQjemt6O
守光居士・成沢道忠「まだまだ若いのぉ」

五奉行異聞

2013年08月29日 19:52

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/29(木) 17:39:23.25 ID:rt3oW6BU
別記によると、今年、前田玄以、増田長盛、石田三成、長束正家、大谷吉継が五奉行と定められた。

しかし、大谷は癩病を煩って後年には病が眼中に入り、盲目となったので奉行職を辞退したが、
大谷は朝日御方の甥で政所の従弟であるうえに、才智があって節操があり、篤実な者なので、

豊臣秀吉は深く惜しんでしばらくはその願いを受け入れなかったが、病気は良くならず、
奉行職が欠けてしまったので、浅野長政を加えたのだという。

――『新東鑑』




243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/29(木) 18:14:07.55 ID:uERcNAWU
朝日姫の甥で北政所の従弟ってことなのだろうか
だとしたら世代があわないような
大政所の甥で朝日姫の従弟ならありえるけど

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/29(木) 18:48:02.57 ID:rt3oW6BU
>>243
たぶん北政所の母親の方ですね。
(大谷は政所殿の御母、朝日御方の甥にて、政所殿とは従弟といひ、)

『千人斬り』顛末

2013年07月08日 19:52

20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/07(日) 20:03:44.16 ID:xk/RjgvK
天正14年(1586)正月二十一日、この頃『千人斬り』と号して、大坂の町人の内、人夫風情の者を
数多討ち殺すという事について様々な風聞があった。

その内容は、大谷紀之介(吉継)という関白殿(秀吉)の小姓衆の一人が、悪瘡を気に病み、
千人殺してその血を舐ればその病は平癒する、と信じているため、そのような事をやっているのだと
云々されていた。これは全く、世上の風説である。

今日二十一日、この事が関白殿のお耳に入り、

「このような風説が広まっているのに、それを報告しなかったのは曲事である!
町奉行の者たちは殺すべきであるが、今回は、命だけは助けてやる。」

と、大坂の町奉行の3人を、追籠(自宅に閉じ籠めて謹慎させること)とした。
関白殿はこのことを仰せ付けになって、今日御上洛された。そして、

 盗人事 人ヲ切事 博奕事 酔狂事 徒者事

の五ヶ条を禁制とし、それを高札2枚にして掲げた。
この時高札には一つにつき金10枚が打ち付けられた。2枚の高札に、金20枚である。

そのような中、先の千人斬りの容疑者と思われる者が、大量に捕らえられたと
噂された。二月の二十七、八日にはこの真犯人とされるものが顕れ、
三月四日ごろに処刑された。
この者は、宇喜多次郎九郎という人物であったという。

この宇喜多次郎九郎が処刑されるまで、あれは大谷紀之介の所業であるという風聞は
一円に語られていた。
(宇野主水記)

本願寺顕如の右筆、宇野主水の記録した、大谷吉継の千人斬りの風聞についての顛末である。




21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/07(日) 20:21:14.07 ID:eehFXxPU
既出だけど、犯人が捕まった部分は新しいな

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/07(日) 20:31:24.27 ID:ujqMYHcb
犯人逮捕への圧力が冤罪を産むのです

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/07(日) 21:41:20.78 ID:m9lyyG8z
「大量に捕らえられた」と言う容疑者はどうなったのだろうか
ちょっと心配になる展開

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/07(日) 21:43:40.00 ID:m9lyyG8z
>>21
既出のも捕まってた。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5392.html


家康・前田利家対立の時の大谷吉継

2013年04月27日 19:50

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 09:51:14.26 ID:UjUwTEYi
良い話でも悪い話でもないが

秀吉死後の所謂家康の婚姻問題において、諸侯は家康派と前田利家派の2派に別れ一触即発の状態となった。

徳川家康には、池田輝政、福島正則、黒田如水・長政親子、藤堂高虎、森忠政、そして新庄駿河守などの小身衆、
また有馬法印、金森法印、織田有楽らが味方した。
大身小身共に、毎夜家康の屋敷に詰めていた。

中でも大谷刑部少輔吉継は、

「もし家康公に向かって敵が攻めてくれば、何時であっても先手を仕り、奉行衆共と一戦いたす!」
(若し家康公へ敵取かけ候はば、何時も先手を仕り、奉行共と一戦仕るべき)

と申され、自身の屋敷に人数を集め敵を待ち受けられていたそうである。
(玉露叢)

大谷吉継の、家康派としての活動が特筆されている記録である




424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 10:54:21.46 ID:3I0DzSas
その大谷吉継が最後の最後に家康を裏切ったという悪い話か
まあでもこの前発売された歴史街道では吉継の子孫が
「最後に武将として大きな存在である家康に挑みたかったのだろう」(ちょっとうろ覚え)とか言ってたね
子孫が親藩である越前松平家に仕えられたのも吉継が家康の信頼を得ていたからだとも

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 11:17:08.90 ID:Lo4acF+I
越前松平ってどちらかと言うとお上に睨まれていた人が集まっている感じだが

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 11:27:44.35 ID:2yI8hEp+
そうした人材の受け皿としてはよかったんだろうね>越前松平家

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 12:28:53.41 ID:KmFhVaoa
北陸関ケ原はちょっと前まで敵だった、前田が味方で、
味方だった大谷と丹羽が敵になってて面白い。

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 12:29:06.45 ID:Tfoo7lvo
制外というのを上手く使って放置しとくと徳川にとって危険だが使わないのも惜しいような連中を集めてた感はある

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 12:38:57.55 ID:gRbdHG7j
つくづく徳川パネェ

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 15:57:17.01 ID:NA5LBGAu
>416、タヌキさんの場合道理が通ってれば文句言ってもいきなり斬られることはないだろうし。平八郎に折檻されるか友に冷笑されるかはともかくとして。
これが末期のラスボスとかだと首がポーンしかねない

雑談・大谷吉継が親家康であったことについて

2013年03月22日 19:51

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 01:45:16.84 ID:xEkXs6hH
大谷さんは家康と利家が対立して諸将が二分されたときも、家康側についてるんだよね
この辺三成とはまったく政治的立場が違う
じゃあ何で西軍について奮戦したのさ?ってのが個人的には凄い不思議

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 06:06:14.36 ID:7g/vM0CI
>>799
その話自体がかなり誇張と創作が入ってて、公家の日記などでは
対立はあったものの、あっさり解決してる様子がうかがえる。

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 07:27:23.05 ID:VPUEcKcT
>>799
最近発表された論文では三成襲撃事件の時も輝元に三成へ援軍を出すなといい
武断派側の立場に立っていたよなんだよな
土壇場で西軍についた大谷も家康からみると裏切者になるのかね
母親から頼まれたというのが最も考えられるようだけど
案外、大坂の陣での幸村的考えで
病が進んで先のないことを悟って最後に華々しく散って武士としての本懐を遂げようとしたのかも

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 08:02:36.67 ID:7g/vM0CI
>>801
論文って「関ヶ原前夜における権力闘争(2007年)」かな?
あれなら「関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い」で一般書籍として出版されてるよ

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 11:43:15.15 ID:8e22FhqE
>>801
三成襲撃事件の時の吉継は調停に入ってるけど、スタンスはやや奉行寄りだと思うよ。
輝元もそういう認識だし。

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 11:44:56.18 ID:oWkwhgop
宇喜多騒動を大谷と榊原で解決しようとしたら榊原は家康に叱責されて召還
はしご外された形の大谷が家康に反発する契機になったのではと書いてたな

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 12:01:28.53 ID:8e22FhqE
宇喜多騒動は、各史料で相違が大きすぎて正体不明すぎる事件だな

原因や事件の経緯も不明点が多いが、調停の結果等も不明点が多すぎて
何が何やら。

確実なのって事件が起こった日と最終的に家康が調停に入ったこと、
戸川達安が比較的早い時期に宇喜多家から退散したくらいじゃなかろうか

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 12:40:53.06 ID:oQuRrj8S
日蓮とヤソとの宗教争いか

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 13:02:31.69 ID:8e22FhqE
宗教争いという説は、浮田左京亮がキリシタンと言うことで
既に否定されてたかと。

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 14:02:15.59 ID:SQQ2/5LA
>>802
『関ヶ原前夜』の間違て指摘した昨年の日本歴史9月号の論文だと

>>803
上の論文だと三成銃撃事件の時に毛利家文書では
三成に援軍を出すな、徳川に味方しろという書状を輝元に送ってる

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 14:42:55.46 ID:ATGhb18D
>>808
それって書状自体は関ヶ原前夜で紹介されてた
「厚狭毛利家文書」じゃないかな?

あれは毛利らしい主語や表現があいまいな書状だったから
違う解釈を出した研究者が出てきたんだろう。

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 14:56:44.34 ID:ibaYaBZg
まあ毛利さえ動かなきゃ蹶起は防げると考えれば
徳川寄りだった場合でも三成に勝算無しとみて止めようとしてた場合でもそこに工作するよなぁ

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 14:58:13.13 ID:ss+x3tS+
>>809
そのあたりを考証した石畑匡基氏の論文「秀吉死後の政局と大谷吉継の豊臣政権復帰」でも、やっぱり吉継は
ギリギリまで家康への味方を毛利に進めるなど親家康として行動していた、としているな

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 15:28:02.41 ID:XhjjwlmE
となるとなんで西軍についたのかが気になるな

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 15:34:27.68 ID:ATGhb18D
先に三成-恵瓊-輝元のラインが完成してたとか? 謎だな。

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 23:33:23.66 ID:xEkXs6hH
三成が挙兵する7月前後の三成の動きってのがイマイチはっきりしてないのもネックだよね
三成と恵瓊が連絡取り合っていたのは間違いないんだろうけど…
6月20日付けの兼続宛て三成書状についても真贋論争あるし、謀略の類はなんとも

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 00:03:19.49 ID:bv2YE936
利家死後、家康が前田征伐しようとした段階では意外にも家康支持の立場取ったりしたんだっけ?

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 07:31:48.76 ID:028GQTpY
>>814
兼続は、内府ちがひの条々が出まわってから、急に公儀がうんたらとか
書状に書いて元気になってるから事前通謀はなかったろうね。

吉継もそうだけど恵瓊、三奉行、輝元、秀家が加担したタイミングも謎なんだよなぁ

大谷吉継計策

2012年07月28日 20:58

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/28(土) 07:53:52.33 ID:1QLSuGI0
関ヶ原戦役の時のこと

中川宗伴(光重)は故前田利家の娘婿であり、当時上方にあったため、上方よりの情報を金沢の前田家に送った

『今度上方一面に蜂起して、内府(家康)の味方する輩を討ち果たすべき為に国々へ手遣いあり。
殊更丹波・丹後・若狭の軍勢数千人御領内宮腰へ兵船を進め、大谷刑部少輔(吉継)、諸将を帥いて、此の口より
加州へ発向の用意夥し。御用心あるべし。』

そのうちに金沢の安否をおぼつかなく思い、直接加賀まで向かったが、越前の今庄まできたところで大谷吉継によって
捕まってしまった。

吉継は宗伴に
「其の方、何の用があって加賀に下るのか?」
と尋ねると宗伴は、『あなた方に気をつけるよう警告するためだ』とは言えず

「は、はい。今回(前田)利長が、内府の味方をするという風聞があります。私ごときが言うのもどうかとは思いますが、
御幼君(秀頼)を見放される様でいかがなものかと思い、さればその考えを覆し、上方(西軍)の要求に従うべきだと、
強く諫言するために加賀に下ろうとしたのです!」

吉継、これを聞いて頷き
「いかにも御辺の言うとおり、利長卿がもし父の遺言に背いて御幼君の秀頼公を見捨てられるのなら、彼の行末、
どう考えても目出度い事にはならないだろう。願わくば先非を改められ、宇喜多秀家・毛利輝元と同じように、天下の
御為を成して頂きたいものだ。

もし御老母(まつ)を江戸においているため、一筋に御忠節を行うことが難しいというのなら、せめて金沢から
動かず天下が治まるのを待っていても、前田の御家は恙無いだろう。
それなのに利長卿は軍勢を率いて小松・大聖寺の城を攻め落とし、そこから当国に乱入するという声も聞こえてくる。
もし風聞のとおりなら、偏に前田家の滅亡を招くものとなるだろう。
例えその方があちらに行って、言葉を尽くして諫言しても、おそらくその甲斐はないだろう。
…そこで、だ」

吉継、声色を変えて
「其の方、ここで私のいう通りにはかりごとの書を書き、利長卿の陣所に送れば、彼が軍勢を金沢に
軍勢を引き返す事、疑いない。
その上で加賀に人を遣わし、其の方の誤り無き趣、又は御亡父の志を継ぎ御幼君を守り立つべしと
理を尽くして申し送れば、どうして承諾しないことがあるだろうか?これほど解りやすい理屈を、お主、
もしこの書を書くのを辞退するというのなら、最前に言ったことは我々を欺くためのものだと判断する!
そうでないのならさあ、今ここで筆を取れ!!」

そう言って硯と料紙を出した。そんな状況で宗伴も断ることが出来ず、吉継の言うままに書をしたため、
それを利長に送った。

前田利長はその書を見て驚いた。間違いなく宗伴の筆跡であり、また彼は利長を謀るような人間ではない。
それがどうしてこの様な内容の書状を送ってくるのか?
利長は判断がつかず、弟の能登守、その他老臣達を集めて評議をさせた。
そして、吉田保馬一人は反対したが、その他は全員、金沢に御帰陣あるべしと諌めたため、
利長もそれを受け入れその日、軍勢を大聖寺へと後退させた。

大谷吉継計策、という逸話である
(関原軍記大成)




760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/28(土) 08:27:51.12 ID:0eHGz4i8
さすが吉継、利長じゃこの程度だろうな

大谷吉継、改名の理由

2011年12月28日 22:00

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 18:30:27.45 ID:7PLXXa/q
慶長五年のことである。
東軍の動きに呼応して関ヶ原へと布陣した大谷吉継は、
迫る決戦の時を控えてある事を決意した。

「者ども、わしは今日この時より名を改め、吉隆を新たに名乗ろうと思う」
「はっ! しかし、それはまた急な仰せ。いかなる 御存念でしょう?」
「うむ。考えてもみよ、我が名の読み『よしつぐ』は、家を滅ぼした三好左京大夫に通じて如何にも縁起が悪い。
これより天下分け目の戦に乗り出すにあたって、悪縁を絶って措きたいのよ」






大崎義隆「えっ」
畠山義隆「えっ」
大内義隆「なにそれこわい」




515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 18:33:53.39 ID:P4z4jHLv
黒田孝高
九鬼嘉隆
遠藤慶隆
えーとほかには

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 18:54:38.48 ID:n8Qylz4F
畠山義継「成る程しくじったのは名前のせいであったか」

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 19:12:34.03 ID:mfFVSHu9
富田長繁を殺した小林吉隆がいたり
富田長繁に滅ぼされた前波吉継がいたり

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 19:58:59.09 ID:pkxiY3iV
>>514
た…確かに。

大内義隆はまだ家を滅ぼしてないし、畠山義隆は
諱自体が本当にそうだったのか微妙だけど
大崎義隆はなぁ…。

大谷は奥州仕置にも関わってるから、大崎義隆は
モロに知ってる筈だよなぁ…。


519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 21:35:39.72 ID:G5ztUR24
もう長政になっちゃいなよYou

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 21:39:08.47 ID:PAxZjI91
長政まだ増やすのかw

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 21:48:50.90 ID:pkxiY3iV
>>520
48人くらいになったら怖いな。

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/28(水) 21:55:22.62 ID:Y0IylJqu
NGMS48

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/29(木) 01:08:34.84 ID:D6MTJaHM
I hate you ~♪
I kill you ~♪

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/29(木) 01:23:21.74 ID:twUzW5Wu
浅井、浅野、黒田、早川、山田で長政四天王だっけ

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/29(木) 01:51:21.28 ID:WJdcp+jP
ナガマサ追放令

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/29(木) 12:11:23.47 ID:i1fgSAjI
浅野長政と浅井長政はもはや誤植レベル

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/29(木) 12:20:53.77 ID:ARqZPDfc
大内とかまで持ち出さなくても身近に木下吉隆がいるだろ

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/29(木) 16:25:18.51 ID:P40EF0Z+
織田有楽の四男に、織田長政ってのも居てだな

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/29(木) 16:57:38.05 ID:51ZYrfic
天下の迷惑男、木沢長政様をお忘れです

大谷吉継、石田三成に対し

2011年07月29日 23:01

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/29(金) 20:35:16.08 ID:CRDb1V4L
いい話とちょっと違うかもしれないが、本に載ってて気になったので。
大谷吉継石田三成に対して言った言葉

「必ず金銀にて人を使はんと思はるるは、人心の離るる本なり」
(金で人を動かすのを習慣化させると、だんだん金銀だけの繋がりになってしまい、
かえって人の心が離れていく原因になるから気をつけろよ)

関ヶ原のときも「お前は人望がないから裏方になれ」とか注意してたけど
これはいつどんな状況で言ったのか気になる。




911 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/07/29(金) 23:23:11.12 ID:B0lO/CyE
>>910
どういう文脈なのかわからないけど、お金で精算しちゃうと相手ももう済んだことってなるかもね
逆に僅かな金ならおごりにしちゃって恩着せたほうがかえって得な場面は今でもあるよね


912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/29(金) 23:28:49.83 ID:fGBQb4vB
「人を使はん」なんだから部下の扱い方の話でしょ

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 00:18:40.86 ID:wYYxCefJ
寄せ集めの石田勢が善戦したことを考えると部下への人望はあったのかな

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 00:24:07.55 ID:a15vGj++
寄せ集めではあるが島左近に舞兵庫にと諸家が羨む超一流だから。
そういう人材を集められる三成は相当の人物だったのだろう。

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 00:29:45.47 ID:AXS+99fY
部下の扱い方の話なのはわかるんだけど、
いつ頃のやりとりなのかなあと。
左近スカウトする前にこういうやりとりしてるんだったら面白いなと思ってさ。

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 00:33:21.87 ID:xn3MJGMk
>>910
島左近を2万石で雇ったことに対する話ではなかったっけ?
高給で雇ったって、人間関係がうまくいかなかったら元も子もない、みたいな。

勘違いだったらごめん。

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 00:33:33.30 ID:TVuk6+na
秀吉批判?

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 00:43:53.59 ID:Zjf9EnAm
左近と兵庫が有能な人物なのは納得だけど、他の大名が欲しがったなんて話ある?

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 10:23:38.66 ID:SdbJLH6S
高名な士を向かえたいというのは誰でも思う事だろうし、羨む者もいたんじゃないか。
話としてはとくにないと思うけれど。

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 10:25:31.23 ID:KWackV3J
上司と部下に好かれてるのに同僚に悉く嫌われるってなかなか無いパターンだよな

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 10:48:02.85 ID:j9t9/O/A
>>921
鬼武蔵とかはどうでしょう?

923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 10:53:12.80 ID:e+zN1sJw
>>922
部下は慕ってたんだろうか・・・?

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 11:32:45.89 ID:r+VBTW+J
逸話見る限りでは面倒見は意外といい

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 12:34:37.15 ID:izvS3ht+
鬼武蔵は基本自分の前に誰か(信長以外)が対面しているのが嫌なんであって後ろに付き従う人に優しい気がする

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 14:15:38.84 ID:Dly3sodQ
>>921
まさに俺

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 18:02:04.04 ID:xn3MJGMk
>>921
関羽とか?

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 21:14:19.22 ID:O+9uCVxO
>>933
げぇっ

936 名前:*[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 22:21:47.50 ID:MsxqXSXH
>>933

麋芳・士仁 「正直、呉に降ってホッとしてます」

劉元徳 「見殺しにしたのは内緒だぜ」

937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/31(日) 00:38:30.97 ID:EPi5f3lu
>>921
戦国大名の部下なんて大部分がそんな奴ばっかだろ
織田家で見ても、羽柴秀吉・柴田勝家・明智光秀のいずれも上司部下からの信頼は厚いが同僚同士では
ライバル心むき出し
三成だって孤立してたって言うけど実際は派閥を形成してたわけで珍しくもないな

938 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/07/31(日) 13:16:02.34 ID:rJT2nFqY
好きでもライバル心くらい持つだろw

大谷吉継「運命の矢は」

2011年02月08日 00:00

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 19:00:31 ID:0c1F5dkv
朝鮮陣の時のこと

ある城攻めにおいて、大谷吉継の部隊が仕寄り(城攻めのための足場)を構築していたときのこと。
この妨害のために城方から大いに攻撃を受けた。

吉継はそんな中でも前線で指揮をしており、これを心配した家臣のある者が、このように申し上げた

「ここは矢弾がたくさん来る場所です。どうか後方に退いてください。」

吉継はそれを聞くと、その場で立ち上がりこの者に言った

「運命の矢は、いつも一本だけだ」 (運の矢は一本のものよと被申候由)

そして、決して後方に下がろうとはしなかったと言う。


なんとなく大谷吉継の死生観が見えてくるようなお話。




633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 22:56:41 ID:bQxQ1j6d
>「運命の矢は、いつも一本だけだ」

        ___
       /     \     
.     / _ノ   ヽ、_\  
    /  (● ) (● ) \  え・・・いきなりそんなこと言われても・・・////
    | //////(__人__)/// | 
     \           /
     /           \
    |      ,― 、,―、   |
    \   ̄ ̄ (⌒⌒)  ̄/
        ̄ ̄\\//

634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 22:58:16 ID:y0jDoS8c
切り捨てよ

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/08(火) 01:16:32 ID:38LElsq7
御意

「関ヶ原 大谷家中の奮戦と散り際」

2010年08月09日 00:00

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/07(土) 22:26:59 ID:3X9vIQXg
先日NHK歴史秘話で三成を扱ってたので、その関連で。
関ヶ原における大谷隊の胸にしみる話。

「関ヶ原 大谷家中の奮戦と散り際」

関ヶ原合戦の幕が開ける。東軍より総兵力が勝っている西軍ではあるが
積極的に戦ってるのは、石田・大谷・小西・宇喜田隊のみという有り様で
ありながら、それでも各軍奮闘著しく互角異常の戦いをしていた。
特に石田・大谷の働きは寡兵ながらも凄まじかったという。
吉継はこのとき病のために盲目であり、甲冑も着られない体であったが
「あのような木偶大将の元で働く者共の哀れよ」と、敵方に家臣が恥ずかしめを受けぬように
遠目からはさも豪壮な甲冑を着込んでいるものと見えるように、
紙に墨で書いた紙甲冑を身につけ、輿にのって軍勢を鼓舞していたという。
大谷勢に加わっていた平塚為広や戸田重政らの奮戦も手伝い、
寺沢・藤堂・京極・織田勢を次々と押し返す様は
秀吉曰く「吉継に百万の軍勢を預けてみたい」と言わしめたのを納得させる鬼神の働きであった。
家康も「死に損ないのなんたる戦ぶりよ」と罵声を浴びせたという。

しかし吉継ぐには不安があった。南方の松尾山に布陣する小早川秀秋である。
合戦前の軍議後、小早川本営に内通疑いあるを苦言したが、いまいち信が置けない様子であったため
裏切りの動き有りと踏んでいた吉継は、あらかじめ小早川に備えた布陣を敷いていた。
激戦を繰り広げる間も、何度も出陣の催促を出すが、小早川に動きは見られない。
小早川の裏切りに確信を持った平塚は「金吾殿に二心あるは疑い無し」と忠言し、
吉継は「貴殿と戸田と我等で奴を討ち取り、無念を晴らそう」と返したという。

奮戦するも数的不利な西軍が徐々に押され始めた頃、吉継等の読み通り小早川は
裏切り、眼下の大谷隊へと突撃してきた。
精鋭を持ってこれを2.3回小早川隊を麓に押し返し、家康から秀秋のもとへ
派遣されていた奥平貞治に重傷を負わせなど奮戦するも、
小早川に呼応した朽木・赤座・脇坂・小川も裏切り、そこに藤堂勢も
再度攻撃を仕掛け、大谷隊は大軍をもって包囲された。
その中で、島左近から大谷隊に遣わされた島清正(左近四男)が、藤堂家家臣の
藤堂玄蕃を組み打ちで討ち取り、大いに志気を上げたりもしたが
衆寡敵せず多くの家臣が次々打ち取られ、戸田や平塚もついには息絶え、
少数の兵と共に息子の大谷吉勝、木ノ下頼継等が防戦するのみとなった。
~続く~

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/07(土) 22:28:01 ID:3X9vIQXg
~続き~
合戦中、目の見えない吉継は、側近の湯浅五助に何度も「負けたか」と問い
五助は「未だ」と返す調子であったが、ついに五助から「御合戦御負、無念でござる」と
告げられた。
敵は本陣まで入り込み、吉継の輿をかつぐものが斬られ出すと、バランスが崩れ主君が転げ落ちないように
側にいた他の家臣が「それがしが!それがしが!」とかつぎ人に入れ代わり加わっていく様を
不憫に思った吉継は「もはやこれまで。儂のようなものに最期まで付き従ってくれて大儀であった。
あとは離脱するなり降伏するなり、好きにいたせ」と命じた。
だが家臣達は「我が身惜しさに病身の主人を置いて逃げたと言わるは我屈辱の極み!
それよりも憎っくき金吾めに一太刀浴びせて死にとうござります!」と口々に答えた。
家臣達の忠義に感じ入った吉継は「皆も知っての通り、わしは目が見えぬでな。
お前達の最期の手柄奉公を見、あの世で手を取り誉めてやる事も叶わぬでは、死んでも死に切れぬ。
一人一人わしの目の前で名乗ってから行くがいい。」と返した。
家臣達は涙ながらに「○山○兵衛、最期の御奉公仕る、!御免!」と大声で名乗った者から、
次々と敵の群れに斬り込んで行った。
最期の家臣を見送った後、吉継は輿の上で腹を十文字にかっさばき、五助に介錯をさせて
大谷隊は壊滅した。和泉守という人物も馬上で追腹を切ったという。
裏切りに加えて、家臣達の悲壮極まる最期を見て「三年ヲ出デズシテ吾此恨ヲ報ゼン」と怨呪の念を
呟いたと言われるが、それも無理からぬ事である。

後に大谷隊の奮戦の凄まじさを目撃した島津家臣 曽木弥次郎が
「比類なき様子に候つ」と語っており、『関原合戦図志』にも『大谷等死憤ノ兵』と
記されている。

対外的には賛否両論、好き嫌いの別れた三成も、その家中内は裏切りや離脱はなく最期まで主君三成を
守りながら戦い抜いたと言われているので、家臣を愛し愛される様は親友だけあって同類である。
悲しくも心を掴んで離さない壮絶な大谷隊、最期の散花。




534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/07(土) 23:48:39 ID:Y5cN5xp9
大谷さんはどの史料を読んでも悪く書かれていたためしがない

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/07(土) 23:52:20 ID:ebGHXIi8
らい病を治すためにやった百人斬りの伝承くらいか?

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/07(土) 23:59:37 ID:vglXdCsi
と言うかいいも悪いも、大谷吉継の記録や逸話自体が、ものすごく数が少ない。
どう言う人間だったかすら実は判断できない。

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/08(日) 02:15:45 ID:LBz5ambr
記録や逸話が少ないにしても、西軍所属でやむにやまれずの消極的参加でもなく、戦場では主導的な一人として
東軍とやりあったんだから、勝者史観や報復で悪い話のひとつやふたつあってもおかしくない。
それがまったくないってのは、叩いても綻びが出ない様な人格者だって事じゃないかね。

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/08(日) 02:48:10 ID:qmLRMKKA
よく考えれば奥平信昌の叔父である奥平貞治が小早川勢の軍監に付いているのを
知った多くの人は、既に小早川は徳川に靡いていると考えていたんだろうな。

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/08(日) 08:13:45 ID:rxMGAPfO
人との繋がりや行動から生まれるエピソードで
500年前の戦国武将がどういう人間か推察してるところに
逸話はすげー少ないけど勝者史観で貶められてないし完璧な人格者に違いないよ!
っていうのはすげー不幸だよね

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/08(日) 09:07:54 ID:DXT0NW1F
日本人は判官贔屓なとこがあるから、西軍で極端に悪く言われているのは三成くらいで、
他の人はむしろ立派みたいに言われてないか。


541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/08(日) 09:18:13 ID:jBpz1bPB
と言うか三成すら、江戸時代であっても「むやみに敵を作るし陰謀癖もある性格だったけど
あれだけの大軍を組織して戦ったのは立派だよね」みたいな評価が主流だと思う。

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/08(日) 09:21:47 ID:mP4yKhQ9
江戸時代になると、天下分け目の合戦で、
実質的に一方の総大将をやり遂げたというのは、
それだけで充分に評価されてしかるべきなんだろうな。
[ 続きを読む ]

大谷吉継の懸念

2010年06月24日 00:00

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/23(水) 19:32:32 ID:DjEoIVR/
慶長五年(1600)6月21日、
徳川家康の上杉征伐に合流するため美濃、垂井の宿にあった大谷吉継。
それそ聞いた石田三成は家老樫原彦右衛門を吉継の元に差し向けた。

樫原より三成が挙兵を計画していると言う事、その相談のため佐和山に来て欲しいと言っていることを
聞いた吉継は、しばらく考え込んで、こう言った

「内府(家康)の政務に私が有ると言っても、それは世を覆すほどの邪にはなっていない。
わたしは心にそう思い、人にもそのように言ってきた。その事があるので、友人で有る三成のこ
のような申し出にどうするべきか迷っている。

今回上杉景勝殿はじめ多くの者達の謀により内府を引き出したこと、その智謀勇ましきところで有る。
そうは言ってもそれで事が成功するかといえば、いささか疑い無きにあらず。

お前もよく知っているように、治部少(三成)は器量のある人間ではあるが、憎む輩、世に大変多い。
これが治部の過ちのためか、それとも嫉妬であるのか、そこは判断しかねる。
が、いずれであったとしても、もし治部が今回味方の諸将に対して、人もなげなる行為をするような
事があれば、それまでのイメージから言っても間違いなく人々の神経を逆なですることになる。

願うなら、(宇喜多)秀家卿か(毛利)輝元卿を主将となし、景勝卿と良く申し合わせて東西より内府を挟み
勝負をつけるようにするべきだ。それならば内府の滅亡もありうるだろう。

が、もしこの言を用いず、治部少が表に出て主導しようとすれば、上杉がたとえ数ヶ月内府を足止めしたとしても、
その連携がスムーズには行かず、さらに内府が会津を捨てて上方に攻め上がってくるような事態になれば、
味方の軍も危ういことになるだろう。

良いか樫原彦右衛門、挙兵するにしても治部少は絶対に表に出てはならぬと、このむね石田家の重臣一同でよく相談し、
治部少に諫言するのだ。わしもこの事は後でちゃんと言っておく。」

そう言付け樫原彦右衛門を帰した。


このようなことがあったにも関わらず、三成は挙兵すると、宇喜多秀家、毛利輝元が大阪に着府するのを待たず
その身一人で、「したり顔」にて大阪に駆け上がったと言う。この事で少なくない大名、小名が家康に従うことを
決めたとも言われる。
ちなみに長束正家はこの日、共に大阪に上がることを三成から誘われたが、正家は
「秀家卿、輝元卿がまだ到着されていない以上遠慮する」
と断ったそうだ。

大谷吉継の懸念、現実になるというお話。

しかしそこの重臣と「お前もよく知っているように三成は嫌われ者だから」と言う会話が成立する
三成という人間もよっぽどのものだな、とも思ったw




539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/23(水) 19:44:43 ID:avbthBNd
前線を左近を筆頭に家臣に任せて、後方支援裏方兵帖作業を長束と一緒にやってれば、
治部の政務能力的に合致してできたと思うんだけどなぁ。

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/23(水) 22:56:51 ID:joZyG2yA
旗頭も名目上の総大将も誰も前線にいないんじゃダメだろ。


541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/23(水) 23:25:22 ID:MbvzIasE
采配面で誰もが納得する大将にすえれる奴がなぁ。

輝じゃな…

茶会での友情・刑部の涙

2010年06月12日 00:02

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/10(木) 22:46:13 ID:NfqAiUjE
既出の話だが、まとめにあるのは短すぎるので、補足、相違
点を交えてまとめ、再度紹介したいと思う。 この逸話は大好きなので
許して欲しい。
関ヶ原での挙兵相談を三成から聞かされ、勝算少なしと思いながらも、
義を選んだ吉継の頭にはきっとこの時の事がよぎっであろう。

「茶会での友情・刑部の涙」

石田三成と大谷吉継は幼少の頃から、秀吉に小姓として仕えていたため、
知己を交わし互いを「佐吉、紀之助」と幼名で呼び合う仲であった。
知勇兼備にて秀吉の覚えめでたい吉継の将来は、順風満帆に見えた。
しかし吉継は重いハンセン病に罹い、悪化するにつれ公務以外は内に
籠もる事が多くなった。 そんなある日、秀吉から諸侯を招いた茶会の
招待状が届いた。醜目を晒す事に気乗りしない吉継ではあったが、
主君から直々の招待とあっては断れじと重い腰をあげた。
さて、厳かに茶会は催され、気分を良くした秀吉が自ら茶をたてそれを
廻し飲む事になった。 吉継の病の事は衆知の事であったので、一座に
微妙な空気が流れた。吉継は脂汗をかきながらこの場をどう凌ぐか
思案してる間に、自分の順番が廻ってきた。 「それがしは結構」とは
言えず、吉継は飲むふりだけをして次の増田長盛に腕を渡そうとした所、
安心して気が緩んだのだろうか、茶の中に鼻水がポトリと落ちてしまった。
座席のものがそれを見、既に飲み終えたものは安堵し、未だの者には緊張が
走った。特に次に控える長盛は青くなり、吉継は恥ずかしさ惨めさに
真っ赤になった。 さりとて、中断する訳にもいかず長盛は口をつけないように
飲むふりをし次に廻したので、皆がそれに続いていくかと思われた。
しかし、このままだと問題が起きる。秀吉自らたてたありがたき茶が、
万座を廻したあとに波々と残っていたら大変無礼な話である。
そこへ一人立ち上がり、茶碗に向かって進みよる者がいた。三成である。
「其れがし喉が渇いて渇いて仕方ありませぬ。とても順番まで待てぬ、
失礼仕る」と、腕を奪い取りグビグビと飲み干した。 一同唖然と三成を仰ぐ中、
「やや!これは失念、あまりの渇きと茶の美味さにすべて飲み干してしまいました。
すぐに代わりを」と言い、側の者に代えを所望した。
その際、わざと茶碗を落とし「失礼いたした。皆々様に転げた茶碗では
恐れ多い、お取替えを。」
と腕も交換させ、恙無く茶会は終了した。
その際、わざと茶碗を落とし「失礼いたした。皆々様に転げた
茶碗では恐れ多い、お取替えを。」と腕も交換させ、恙無く茶会は終了した。
事の顛末に一同は安心顔、ご満悦なラスボスはニッコリであったが
一人だけ例外がいた。
吉継は茶会終了後、急ぎ屋敷に立ち戻り家人を下がらせ戸を塞ぎ、
寝所で男泣きに泣いた。そしてこの時に誓ったのである。
「左吉のためならば、この命如何様になりとて惜しくはない!」
これが後々三成との友情をさらに深め、関ヶ原での粉骨砕身の
働きに繋がるという、二人のいい話。





723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/10(木) 23:28:26 ID:lrOw3eY5
そこに居合わせた福島正則、加藤清正たち
「茶の湯の作法なんて知らねーぞ・・・そうだ、癪に障るが石田たちの真似しよう」
石田が鼻水ズズー
いやいやながら真似をして鼻水入れたり、それを飲んだり
後で細川忠興から笑われ、三成を逆恨みしたことがのちの七将襲撃につながるのであった

↓落語「荒大名の茶の湯」の改変
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2990.html

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/12(土) 02:51:58 ID:CS1JPUiD
>>720
泣けた。。。。

三成は反豊臣や不正・怠惰には容赦ないが、交友の
ある相手なんかには下手な武将より熱いから
ほんと好き嫌い別れる性格しとるよね。
実際こんな出来事あったら、吉継じゃなくても
心震わさずにはいられない。

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/12(土) 11:22:27 ID:5SlyQdyE
行政じゃないほうの殿中政治ができないからなー。
もう少し早く生まれて、秀吉のためには信長やその側近の機嫌を取るために道化演じなきゃいけないとか学んでいればな。

大谷吉継の見解

2010年06月01日 00:04

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/31(月) 18:08:35 ID:wP5ompo0
徳川家康が上杉征伐のため会津に下向した頃のこと

石田三成は大谷吉継に対し、徳川家康が会津征伐に向かう隙に反乱の兵を挙げる、と告白した。
「畿内で兵を挙げ会津の上杉景勝とともに東西で挟み撃ちにするのだ!」

これを聞いた大谷吉継は言う
「理屈では可能だろう。が、おぬしは、彼を知って己を知らぬ。

今武家のうち最も官位の高いものは誰か?家康である。
軍功を最も重ねた武将は誰か?家康である。
家臣を最も多く持っている大名は誰か?家康である。
家中が最もまとまっている家はどこか?家康である。
そして最大の所領を持っているのは誰か?家康である。

治部よ、この五つの内、一つとてそなたは及ばぬ。これが、そなたが勝利出来ぬ理由である。」

三成は反論する
「いやまて、天下の内秀頼公を尊崇しない者などいない。そして今家康には、臣として君を犯す不忠の名がある。
私は忠を守り、幼君の命をいただき義兵を挙げる!天下の諸士の内これに従わないものなどいようか!」

吉継は笑い出した
「忠も不忠も、徳に寄るものだ。良く考えてみろ、
昔、新田義貞は後醍醐帝の勅を賜り足利尊氏と戦った。忠も義も大義名分も全て義貞の側にあった。だがどうだ、
彼は勝利を得ることは出来なかった。何故か?人々は天下の英雄尊氏に懐き、帝の威すら恐れなかったからだ!
わしが考えるに、今度おぬしが義兵を挙げたとしても、未だ幼い秀頼公に付く者は、そう多くはないだろう。

だいたい、どうしてこの事をもっと早く知らせなかったのだ。もし最初から知っていれば、家康が伏見にいたときに
これを討つ手立てはいくらでもあっただろう。せめて石部に宿泊した時であったなら、不意をつくことも
出来たものを…。家康は関東に下ってしまった。行動の自由を許してしまった。
これは魚が水を得たようなものである。」

しかし吉継は結局、「そなたを見捨てるのは義に欠ける」と、三成に協力する事になる。

大谷吉継はこれほど状況を冷静に見ていた、と言うお話。




大谷吉継の怨霊に取り憑かれた小早川秀秋の図

2010年05月18日 00:00

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/17(月) 16:23:49 ID:zvn8/UNW
大谷吉継の怨霊に取り憑かれた小早川秀秋の図
ttp://livedoor.r.blogimg.jp/hamusoku/imgs/9/e/9e7a6e24.jpg
0517吉継秀秋9e7a6e24



幽霊&怨霊の浮世絵画像を貼ってみる
ttp://hamusoku.com/archives/3147899.html




809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/17(月) 16:35:31 ID:t/bGwGw5
>>808
小早川が裏切るに決まってるじゃんと思ってその対策をしったりして戦って
実際小早川相手には押してて他の隊が裏切ったから負けたのに
何故か秀秋を恨んだ事にされて怨霊の濡れ衣を着せられた大谷さん(´・ω・`)カワイソス

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/17(月) 18:00:27 ID:iCeOftcj
脇坂安治「怨霊とか怖いわ……」

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/17(月) 18:08:10 ID:MNzX+Pxz
吉良親実「同意するわ……」

大谷吉継と平塚為広の辞世の句

2009年10月29日 00:02

855 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/10/28(水) 15:36:52 ID:rvaCRA5t
出遅れたけど辞世の句なら。

平塚為広 名のために捨つる命は惜しからじ終にとまらぬ浮世と思へば

大谷吉継 契りあれば六つの辻にて待てしばし遅れ先立つことはあれども

どちらも原文ママじゃなくて若干現代風に読みやすくしてあるっぽい。

この二つセットになっていて、関ヶ原で大谷軍が最早これまで!
て、なったときに、平塚が主君の吉継に
「オレ、ちょっと戦死してくる!殿も潔くな!」
のメッセージと共に贈ったのが上の辞世の句、んで吉継も。
「その覚悟見事なり」
と誉めた上で平塚への返句の意味もある先ほどの歌でその覚悟に応えている。


ところで、野戦の最中に辞世の句とかどうやって書くんだろ?やっぱ敵をある程度凌いだ時に
「筆を持てい!」
とか?今回のやりとりだと事前に用意していたとは思えんのだけど。




856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/28(水) 20:13:06 ID:16yYRDMf
セットで
前もって用意したと考えるのが一番自然なんじゃないですか?


857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/28(水) 20:40:02 ID:YoTzf1UK
大身の者(万石以上とか高家とか)なら平素から辞世の句の1つや2つは用意してる
死亡直前に本人から、その余裕のない場合は死亡後に祐筆などから公表されるだけだぞ
当然、死ななければ公表することもされることもない
現代で言えば自衛官が任地に向かう前などに遺書書いて艦単位や部隊単位で
保管してるのと同じ


大谷吉継と平塚為広・いい話

2009年02月20日 00:09

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/19(木) 21:08:21 ID:P1F8qvO8

関ヶ原の合戦終盤
大谷吉継隊も周囲の裏切りにより戦線が維持できなくなった
大谷隊に属する平塚為広の支えた戦線も崩壊
もはやこれまでと悟った平塚は

君がため 捨つる命は 惜しからじ つひに止まらぬ 浮き世と思へば

と辞世を詠んで部下に自らの挙げた兜首と共に吉継の陣に届けさせた
この後、討ち取られたとも自害したとも
そして、この句を見た大谷吉継は

契りあらば 六つの衢に まてしばし おくれ先立つ たがひありとも

と返した(常山紀談)

六つの衢とは仏教における輪廻の地獄・餓鬼界・修羅界・畜生界・人界・天界の事
「先に逝くぜ、兄弟」「ああ、何処に堕ちても待ってな。必ず逝く」と詠み合ったのである
もちろんこの返歌は平塚には届かなかった
それどころか吉継の辞世とされるため三成宛との解釈もある
正確には平塚為広宛なのである


たぶん、まとめに無かったと思うので
あったら俺の検索不足です




59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/20(金) 00:18:22 ID:aie9YMRg
>>57

平塚、戸田コンビ、小大名だったけど
この善戦で裏切り当然のこの時代、歴史に良い名を残せましたよね。

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/20(金) 05:09:34 ID:GpgcbTRY
>>57
辞世は見たことあったが、そんな伏線があったんやね。
大谷刑部も平塚為広もカコイイ!! けど切ないのぅ……

大谷吉継と千人斬りの噂・悪い話

2008年11月12日 00:14

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/11(火) 23:04:29 ID:lJWcy4my
そういえば、百人ならぬ千人斬りをやったという噂が、意外にも大谷吉継にあったりするな。

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/11(火) 23:06:32 ID:VlPdtbnJ
>>929
病気で千人て強すぎ
この人は人格者であってほしいが

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/11(火) 23:07:54 ID:F0RZ76eb
>>929
kwsk

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/11(火) 23:10:21 ID:lJWcy4my
>>931
何でも吉継が発病した頃に、大阪で辻斬りが頻発して、
「大谷吉継が病気回復の願掛けのため、千人斬りをしている」って噂が立ったらしい。


934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/11(火) 23:13:04 ID:VlPdtbnJ
この噂知ってあのお茶飲んだ三成良い奴だな

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/11(火) 23:15:18 ID:F0RZ76eb
>>933
噂だよね? まあ当時は業病なんて言われていたし、
妙なこと言われちゃったんだろうなー

ガチで斬ってそれを刀に名付ける人とはとてもとても…


940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/11(火) 23:23:13 ID:VxenCe+V
大谷は人格者であってほしいけど、凄い噂だな。
千羽鶴にしといてほしいよ

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/11(火) 23:25:10 ID:Eu1mnTUi
業病って言うくらいだから
元々蔑視されてて、それに根も葉も無い噂話を付けられたんじゃね?

942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/11(火) 23:31:52 ID:VxenCe+V
まぁ、そう思いたいよ。

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/11(火) 23:31:56 ID:lJWcy4my
まあこの時代、癩発病→千人斬りってのは、結構噂のパターンだったりするしね。
確か結城秀康もそんな噂立てられた。

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/11(火) 23:36:06 ID:7pfyQJn/
千人斬りで業病が治るという迷信が元々あって、そこで大谷が発病+辻斬り頻発で嫌疑が掛けられた、って流れだね。

一方武田家の今福浄閑斎は罪人をバッサバッサと切る趣味があり40代にして千人切りを達成したと謳われた。
子供が次々病死して罪人のたたりだと噂されても、んなわけねーだろwガキが死ぬのは死に至る理由がちゃんとあんだよww
と笑い飛ばしたという。
願掛けとかと関係ない千人斬りのお話