880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/23(木) 02:54:12.79 ID:/cWLiVkI
土屋昌続は平八郎、右衛門と称した。武田信玄に仕え、使番となってしばしば戦功が
あったので武田家の長臣・土屋の称号を許され、侍大将となり兵士5千騎を預かった。
元亀2年、信玄が三河国加茂郡に出張った時、昌続は抜群の働きがあったので、
徳川家康および織田信長は伝え聞いてその武勇に感心した。同3年12月22日の
三方ヶ原の戦いの時には鳥居四郎左衛門忠広を討ち取り、功名をあらわした。
天正3年5月21日、長篠の戦いに武田勝頼に従って発向した。以前に信玄が死去
した時、昌続は殉死しようとしたが、高坂弾正昌信に、「今死ぬことは容易いが、
生きながらえて主君のために戦死することは難しいことであろう」と言われて強いて
止められ、その通りだと思って殉死を止めた。
今、この戦いに及んで昌続は、「今日の討死は高坂がかつて諌めたところだ」として、
織田家の陣に向かい、柵際に攻め寄せて自ら柵木を引き破り、なおも進んで奮戦して、
鉄砲の玉に当たって討死した。享年31歳。法名は道官。
――『寛政重修諸家譜』
881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/23(木) 07:44:59.38 ID:03GZzFDX
兵5千騎か…ふう。
土屋昌続は平八郎、右衛門と称した。武田信玄に仕え、使番となってしばしば戦功が
あったので武田家の長臣・土屋の称号を許され、侍大将となり兵士5千騎を預かった。
元亀2年、信玄が三河国加茂郡に出張った時、昌続は抜群の働きがあったので、
徳川家康および織田信長は伝え聞いてその武勇に感心した。同3年12月22日の
三方ヶ原の戦いの時には鳥居四郎左衛門忠広を討ち取り、功名をあらわした。
天正3年5月21日、長篠の戦いに武田勝頼に従って発向した。以前に信玄が死去
した時、昌続は殉死しようとしたが、高坂弾正昌信に、「今死ぬことは容易いが、
生きながらえて主君のために戦死することは難しいことであろう」と言われて強いて
止められ、その通りだと思って殉死を止めた。
今、この戦いに及んで昌続は、「今日の討死は高坂がかつて諌めたところだ」として、
織田家の陣に向かい、柵際に攻め寄せて自ら柵木を引き破り、なおも進んで奮戦して、
鉄砲の玉に当たって討死した。享年31歳。法名は道官。
――『寛政重修諸家譜』
881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/23(木) 07:44:59.38 ID:03GZzFDX
兵5千騎か…ふう。
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