fc2ブログ

尾張家はこのように、御入魂であったのである。

2021年05月03日 19:08

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/03(月) 16:53:05.12 ID:xtvZpTjR
池田輝政様の御逝去の時、武蔵様(池田利隆)は江戸に在った。
帰国のための御暇を得る時分であったため、武蔵様にはこの事を申し上げず、お聞き無きように、と
御老中の内意であったため、御暇が出た後にお聞きになり、これへの御愁傷は大方成らないものであった。

直ぐに帰国の途につき、成宮にて尾張大納言殿(徳川義直)より、成瀬隼人正が御使として出られ、
その他にも御家来衆が武蔵様を迎えるために御出になった。

武蔵様の御愁傷の様子を隼人正は見て
「左様に御愁傷されていては、幼少の御舎弟たちを、今後お取り立てなさることも出来ません。
御酒を参らせられますように。」
と、御酒を乞い、先ず自分が中椀にて二つばかり呑み、武蔵様へ進上した。武蔵様が無理に呑まれた時、

「そろそろ潮時が良いでしょう。早く御船に召してください。」

と言って、実は未だ潮時の前であったのだが、御船を召された。しかし潮時前であったので
船が出されぬままであったのを、隼人正は股立を高く取り自身海に飛び込み、武蔵様が召した船を
押し出した。隼人正がこのような体であったので、他の尾張家の諸士も各々海に飛び込み船を押した。
これにより船は浮き出た。

池田輝政公の御妹は浅野紀伊守(幸長)の室であり、また尾張殿は紀伊守の聟君であった。
然れば、尾張殿の御内室は武州様の姪子である。それ故に、尾張家はこのように、武蔵様に対して
御入魂であったのである。

烈公間話



スポンサーサイト



南部越後について

2021年04月27日 18:20

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/27(火) 14:20:54.68 ID:EBmutGnO
南部越後について、彼は滝川殿(一益)の侍であり、滝川縫殿(当家番頭家次)の父出雲(辰政)の
父である。武勇有る能人であった。

かつて信長公が「小田原その他の敵を押さえるように。」と仰せに成られたが、南部越後
滝川家に従っての初合戦に参加しなかった。その時滝川は、使者を以て「どうして合戦に参加
しないのか」と、厳しく尋ねた。南部は答えて曰く
「御家中の士、この戦で皆武功をなされており、私ごときがここで働いても目に立たないためです。」
と答えた。そして重ねての軍で大きな手柄をしたのだという。

またある時、敵の城を攻める時に、柵際へ味方が大勢付いたが、ここで南部越後は「この柵をくぐって
行き、敵城に乗ろう」と考え、兜をくぐらせて見た所で、敵は門を叩き鬨の声をあげた。
その大音に驚き、味方はどっと逃げた。ところが越後は、大きな前立てを打った兜を着け、
その前立てを傾けて柵を潜ろうとしていた時であったので、前立てが柵にひっかかり、味方の勢が
敗走した中、南部越後一人がこらえて留まっていると見えた。
これを見た味方の勢は引き返した。これも大いなる功名となった。

後で南部は云った「私は勇気があってこらえていたのではない。先に言った通り、やむを得ず
ああなったのだ。」

しかしこの言葉によって、猶々手柄と成った。日頃武功が多かった故である。

この越後は、武蔵様(池田利隆)御家に罷り在り、大阪御陣の時、片桐市正(且元)の
大阪よりの退き口において、大阪方がこれへの追尾を行った。
尼崎には建部内匠(政長)が居り(当時十二歳)、武蔵様よりその補佐として南部越後
遣わされ、彼も尼崎に居た。

この時、尼崎勢は市正を助けず、この事を市正は東照宮(徳川家康)へ
『武蔵守は大阪に内通しているのではないか』
と申し上げた。
そのため、これに対して番大膳が東照宮の元に罷り出て、申し訳を仕った。

東照宮の仰せに曰く
「武蔵守の手に南部有り。しかも彼は尼崎の城に在って、なにか理由も無く片桐且元
助けないということは有るまじきと思ったのだ。」と仰せになった。

烈公間話



141 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/04/27(火) 19:04:23.09 ID:fKzeA+2Y
南部越後は北勢四十八家の一つ、富田城主南部家の人物とされ
蒲生氏郷の配下の時代にキリシタンになったといいます
浪人後に輝政に三千石で召しだされたと

鳥取藩のキリシタン史で名前の出てくる医師森元交(もりげんこう)も南部越後の子だとか

雀部與作、先祖の領地で

2020年05月05日 16:54

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/04(月) 19:28:04.66 ID:l3w2F9Wf
雀部與作、先祖の領地で


雀部與作の祖父は三好長慶の家臣であった雀部伊豆であり、父の代から池田家に仕えるようになった。
大坂の陣では池田利隆にお供したが、摂津の大島で焼き働きをすることになった。

しかし大島は先祖の在所知行であったため、住民たちが與作のところに詰めてきて
「何とぞお焼き捨てなさらぬように」
と申し続けていたが、既に決まったことなので與作は許容しないでいた。
與作は香西縫殿の姪婿であったので、そのことを聞いた縫殿が利隆へ申し上げた。

利隆は御前に與作を呼ばれて「大島はその方先祖の知行か」とお尋ねになられたあと
「御陣の障りにもなるまいし、そのままにしておくように」と縫殿に仰せ付けられた。
大島の住民たちはこのことを有り難く思って、御馬のぬかわらを世話したという。


――『吉備群書集成



145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/05(火) 00:56:32.61 ID:Enea/5dy
領地の任官は絶対させないし僭称も許さないと公式にした江戸幕府の意味不明さはなんなんだろうな

御両君の御心合し候

2020年02月11日 12:36

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/11(火) 01:15:59.58 ID:AgX5X1rx
御両君の御心合し候


興国公(池田利隆)が備前にいらっしゃったとき、黒母衣の指番が一人欠けてしまったので
このことを姫路に窺うことが二度あった。
国清公(池田輝政)の仰せは、武州(利隆)の旗本の士でその器に当たる者であればこの職を命じて
構わないので、予の指図には及ばないとのことであった。

このとき興国公は津田将監を呼ばれて
「此度汝を姫路に遣わす。指番母衣の事を予ではなく大殿の御指図を承って帰ってくるように。
 弓矢のことは重きことなので、若輩のそれがしの愚眼の証とはしたくない」
と仰せられた。
津田は仰せの通り慎んで命を承ったが
「されども大殿の御前で、君の御底意はどうなのかと仰せがあったら誰と申し上げるべきでしょう」
と申したところ、興国公は
「もしそうであるなら、我が旗本の沼市蔵がこの役を勤めるべきである」
と仰せられた。

津田は御前で料紙を乞い沼の姓名を書き記して懐に仕舞い、姫路に参り国清公の御前に出た。
件の指番のことを申し上げると、国清公は
「武州は性質律儀第一、念の入った弓矢の沙汰をするので、そうであるなら沼市蔵を命じるべきだろう」
と仰せられたので、津田は頭を畳に付けて「御両君の御心合し候」と言って、件の書き記した沼の姓名を
扇に据えて差し上げたので、国清公は大いに津田の御用意の程に感心され
「汝の岐阜での働きは今でも覚えている。若き武州によく仕えよ」
と仰せられた。


――『池田家履歴略記



640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/11(火) 02:06:41.23 ID:H65jIjyD
>>639
三河野郎並みに面倒くさい

みだりに人数を殺すのみを武と思うのは、

2019年01月02日 19:07

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/01(火) 21:20:45.80 ID:mQpvXqZI
大坂落城の日、興国公(池田利隆)の家臣である斉藤織部は黒母衣をかけて、西国道に落ち行く敵を
追撃し、既に討ち取らんとした時、この敵は振り返って叫んだ「落武者の頸取られたりとも、さばかりの
武功とも言うべからず。どうか助けてくれ!」

これを聞いて斉藤は、従者に指させていた相印の腰指を彼に与え
「さあ、落ちられよ。もし見咎める者が居れば、池田の家中、斉藤織部という武士の従者であると言われよ。」
そう教えると、彼は忝ないと謝して落ちていった。

斉藤が帰陣した後、彼の友が来てこう語った
「大坂の落ち武者の中に、私にゆかりのある者が居たのだが、貴殿に助けられ、相印まで与えられたため
逃れることが出来た。その後、彼は密かに私の所に参って、この事を申したのだ。」

斉藤はこの事について、後に人にこう語った。
「私がその時、あの武者を討つのは容易かったであろう。されども落武者が降参するのを斬ったとしても、
母衣武者である私にとっていかほどの功名となっただろうか。今は却って奥深く覚える。みだりに人数を
殺すのみを武と思うのは、大いなる僻事である。」

(常山紀談)



613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/02(水) 06:33:39.94 ID:GWdJevgd
最終戦争だもんな

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/03(木) 21:41:43.99 ID:jxPNPj0i
クリンゴン人「戦う気の無い者を討ったところで何の名誉が得られようか」

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/03(木) 22:07:18.62 ID:MThnkwH5
>>612
戦場と比べて落ち武者の首は評価低いのか、まあ勝ち確定の状況だしそりゃそうか。

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/06(日) 22:22:52.84 ID:GFepOi2A
>>615
落ち武者刈りなんて百姓の仕事だしなぁ

斎藤織部落武者を助くる事

2018年07月06日 19:09

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/05(木) 18:30:59.94 ID:/LwZ2lnk
斎藤織部落武者を助くる事

大坂落城の日、興国公(池田利隆)の士斎藤織部、黒母衣かけて西国道に落行く敵に追付
き、すでに討取らんとせしに、彼敵ふり顧りて、落武者の首取られたりとも、さばかりの
武功とも言うべからず。如何に助けられんや、という。斎藤、従者に差せたる相印の腰指
を与えて、疾く落ちられよ。見咎むる者有らば、池田が内の斎藤織部という士の従者ぞと
言われよ、と教えければ、忝き由謝して落ち行きけり。帰陣の後斎藤が友来たりて、大坂
にて落武者の中に我縁の者が候が、救け給い相印まで与えられし故、遁れ出でて密に参り
て斯く申せし、と言いけり。斎藤後人に語りて、我其時此武者を討たんは易し。されども
落武者の降参するを斬りたりとも、母衣懸けたる我に如何許の功名とかすべき。今は却っ
て奥深く覚ゆ。猥に人数を殺すのみを武と思えるは、大きなる僻事にてこそあれ、と言い
しとぞ。

(常山紀談)

 ずいぶん親切な。


我が孫に似合いたる申し付け様なり

2018年05月25日 20:08

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/25(金) 14:41:32.99 ID:xEuNUbXd
我が孫に似合いたる申し付け様なり


尼崎城は池田家の縁者で幼少の建部三十郎(政長)が城主だったため
慶長19年5月21日、家康は池田利隆の家臣池田重利を摂津尼崎代官とした。

10月27日、家康は池田利隆を呼んで
「尼崎は西国往来の要路で兵糧運送の喉である。これを大坂に取らせては
 ならないので、早く播州に帰り多くの士卒を尼崎城に入れて守るように」
と指示したので、利隆は家臣の田宮対馬(長勝)*らを送っていた。

ところが大坂の陣が始まると、尼崎城では進軍用の小舟を借りにきた
片桐且元を疑い取り合わなかったので、城の周りの片桐の兵が大野修理亮に
多数討ち取られて、茨木城に帰っていく事態となった。

大いに怒った片桐は使者を板倉伊賀守に送り、板倉が関東に伝えると
大君(家康)も大いにお怒りになり
「武蔵守(利隆)の者共が尼崎にありながら
 どうして片桐の兵を見殺しにしたのか糺明せよ」
と板倉に仰せ付けた。

板倉が西宮に陣取っていた利隆公のところに来てそのことを申したので
利隆公も大いに驚いて
「私はそのことを知りませんでした。尼崎の者共に訳を聞きます」
と言って尼崎に使者をやり穿鑿させた。

尼崎の者共が"そもそも片桐を助けたくても無勢なので助けられなかった"と
返答しようとしたので、田宮が進み出て
「その返答はよくない。ここは要路なので多勢をもって固めるようにとの
 直接の上意だったのに、城中が無勢だったとは申すべきではないだろう。
 それがしが申し分を考えよう」
と言ったので、使者には田宮が考えた以下の申し分を返答した。

片桐の兵が討たれているとき、尼崎城中では助けようとしたが田宮対馬と
申す者が出てきて"お助け無用"と止めてきた。田宮に理由を聞くと
「城をよく固めよとの上意で武蔵守殿が我々を配置したのだし、尼崎は
 海陸に道があるので一方より誘き出され、搦手の納戸のような所から
 攻め落とされたらひとたまりもない。天下の大事に比べれば片桐の者共を
 助けないことは落ち度ではない。この西国咽頭の要害を敵に取られる方が
 主君の弓矢の落ち度になり、天下の大事になってしまうのだ。」

「迂闊に城を出て、敵に足元を掬われたらどうする。ここの難波口木津表で
 中入りによって原田備中(塙直政)は討死し、それで信長公は災難に遭われた。
 勝入公が長久手で敗軍したのも、中入りの手立てが不調に終わったからだ。
 一人も助けに出てはいけない。大体片桐の兵のようではあるが、万が一つ
 我々を誘き寄せる為の大坂の偽兵かもしれないのだぞ」
と田宮が申したので、城兵で相談して片桐勢をわざと見殺しにしました。

使者からこの返答を聞いた利隆公は、この趣を一書にしたためて板倉方に渡した。
大君がこの一書を御覧になって
「輝政は日頃矢に念を入れていたから、下の者もその風を忘れずにいたのだな。
 今度の仕方は、我が孫に似合いたる申し付け様なり。
 尼崎城外で何があろうと出合いはせずよく城を守るように」
と仰せになり事が済んだという。


――『池田氏家譜集成』

* 池田利隆の家臣。のちに家康の命により徳川頼宣の家臣として800石で仕える。
 居合を主とした剣術「田宮流」の2代目とされる。



951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/25(金) 18:29:45.98 ID:4ko1/ESr
抜刀田宮か
修羅の刻で見たような記憶が

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/25(金) 20:21:58.17 ID:Lm1qhWqo
充分に兵力を入れていなかったのを、いい抜けた話か。

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/25(金) 23:54:44.12 ID:cMVWVWaf
片桐の兵共々鉄砲で追い払えば良かったのに

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/26(土) 18:48:06.81 ID:HOWgnCDb
そんなことできるのは伊達さんだけ

池田利隆、生母との逢瀬

2017年12月07日 18:58

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/06(水) 19:44:01.42 ID:wehhV3dI
池田利隆、生母との逢瀬


池田輝政の正室絲姫(中川清秀の娘)は、天正12年に利隆を出産し
その後病気になり実家の中川家に帰ったとされる。
『池田家履歴略記』では、絲姫は利隆の出産後に出血が収まらず
物狂いのようになってしまい、遂に治らなかったという。
真偽はともかく、輝政が督姫を継室に迎えた後も池田家と中川家には交際があり
関ヶ原前には絲姫の弟・秀成が輝政の仲介によって家康に忠誠を誓ったりするなど
池田家側からの一方的な離縁でなかったことだけは確かである。

『中川氏御年譜』でも、慶長13年に
中川家の大坂屋敷に住んでいた性寿院様(清秀の正室で絲姫の母)が
岐阜様(絲姫。輝政と共に岐阜城に住んでいたことがあった為そう呼ばれた)と
小長様(秀成の兄秀政の娘)と一緒に中川家の領地の岡へ向かう前に
"松平武蔵守利隆様"が三人の送別の為に饗応をしたとの記録が残っている。

利隆は絲姫のことを引き取りたいと、中川家の家老にまで書き送ったものの
大阪の陣前後の騒がしい時期であったため、遂に叶うことのないまま
絲姫は元和元年岡城において五十歳で亡くなり、西光寺に葬られた。



何宗であっても松を立てよ

2017年07月07日 17:33

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/07(金) 10:57:24.12 ID:18PP1XD/
何宗であっても松を立てよ


ある年の十二月晦日に興国公(池田利隆)が櫓に上り
家臣の高木内記の家をご覧になったが門松がなかった。
「どうして門松を立てないのか」
と(利隆が)尋ねたので、内記は
「それがしの宗旨は一向宗であるので、いつも松かざりもいたしません」
と答えたが、興国公は
「何宗であっても松を立てよ」
と仰せられたので、すぐに御厨から人が来て門松を立てたという。


――『池田家履歴略記』

浄土真宗の門徒が神道由来の門松を避けていたというお話。



937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/07(金) 15:29:45.75 ID:uVcwbxIo
浄土真宗の人が自分のこと一向宗っていうんです???

池田利隆の乳母

2013年10月31日 19:19

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/31(木) 17:35:45.16 ID:sbzUBMtC
池田利隆の乳母は古田甚内の妻である。ある日、利隆が門外で
遊び戯れていると、狂った僧が来て利隆を奪い、空室に入った。

衆人はただそこを取り囲むばかりであったところ、乳母は衣を持って
静かに落ち着いて僧に近づいた。

「とても寒いですから、どうぞしばらくその子を私に貸してください。
あなたがこの衣を着た後に、お返しします」と、乳母は僧に言った。

すると僧は利隆を放したので、乳母は利隆を抱いて離れた。

――『皇朝金鑑(日本智嚢)』




461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/31(木) 21:12:53.66 ID:6wUnyXdP
乳母の機転は素晴らしいが、狂った僧って怖いな

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/01(金) 14:10:14.69 ID:wzWHPK96
>>461
私、錯乱坊

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/01(金) 18:36:20.41 ID:5XK1ent5
本願寺だ!

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/01(金) 21:28:04.52 ID:KlJ4x1QH
>>462
運命(さだめ)じゃ

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/01(金) 21:44:20.57 ID:VlTXoGo4
そのうち、うる星やつらのネタも通用しなくなるのだろうか…

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/01(金) 23:47:33.83 ID:amd12zl7
うる星って、もう30年過ぎたのか

高木内記の殉死

2013年08月27日 19:50

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/27(火) 18:20:53.14 ID:y6/AsSPv
元和二年、池田利隆が亡くなった。高木内記は起臥の愛を受けたというわけではないが、
無双の寵臣であった。これ故に高木は「かねてより覚悟したことなので殉死する」と言った。

これを番大膳と芳賀内蔵助は「内記が殉死するならば、私達も莫大な御恩を蒙った以上は
存命しがたい。しかし、一国の政事を執ってゆく二人が殉死することは、

幼君に対してこの上ない不忠だ。だから私達は他の人口などに拘らずに幼君を守り立てる所存だ。
どうか内記も殉死は止めてくれ」と理を尽くして留めた。

高木はひとまず二人に対して殉死を留まったのだが、かねてより思い詰めたことであったので、
利隆の死後、四十九日に当たる日より食を絶ち、その年の八月二十日に餓死した。

当時、高木の死は「世上の殉死よりもひときわ困難な死を遂げた」と評された。

――『埋礼水』




979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 06:33:01.12 ID:Rf3PPeou
切腹より餓死の方が評価されるとは

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 07:48:09.50 ID:Xe/O/6xA
平盛国辺りに倣ったんだろか

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 11:09:46.68 ID:raFkBi0C
切腹はしないと約束しちゃったので餓死しました!

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 12:52:14.73 ID:PRTuB8UT
まぁ切腹の方が辛くはないだろからな・・・

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 13:49:38.83 ID:P2Log87N
番さんと芳賀さんの止め方も微妙だな
死なれるとおれたちの面目が立たなくなる
みたいな言い方はどーなんだろ

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 15:10:28.41 ID:mvRMVnsr
正直でいいやん

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 15:17:14.22 ID:P2Log87N
まあそれ言ったら高木さんが一番正直だろ

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 21:02:36.98 ID:S0YR5kHe
ごくごく個人的な印象に過ぎないんだが、大膳を名乗る武将は多いけど、なぜかあんまり
いい場面で登場する記憶がない。

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 21:13:00.78 ID:PkBgnFPb
悪いスレで大膳が二人続けてでたからとか

988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 21:27:11.51 ID:3DKrPWwb
んじゃ弾正で

994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/29(木) 11:01:33.74 ID:0AvAjFMu
>>986
既出の逸話でなら谷川大膳が居るじゃない。

稀にみる女体化戦国もので描かれたら一途なドジっ娘にされそうだが。