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「野村の乱」と祟りの顛末

2013年09月06日 19:50

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/05(木) 20:23:36.48 ID:U/JkuELF
文明18年(1486)、日向伊東氏の一族である伊東二郎佑邑は日知屋の城主であったが、
豊後の大友家に遣いを出して隣国のよしみを通じた。これは、現在伊東家が戦っている
島津家が大敵であるために、大友家と有効を深めれば国家(伊東家)の強みになるとの
趣旨からであった。

ところが佑邑のこの行為に対し、『国家のためではなく我が身のためにやっているのだ』との
流言が言われた。

これは伊東佑邑の舅が、伊東家重臣の野村右衛門佐であり、彼の一族は伊東領内11箇所の
城主に任じられ、野村の威勢は、当時並ぶものが無く、また自らも恣なる挙動が多かった。
其の上先代の光照公(伊東祐国)が楠原の戦いで戦死(文明17年(1485))した時、それは
指揮をとった野村右衛門佐の作戦が悪かったためだと、国中の者達が爪弾きにして彼を憎んだ。

そのように野村に悪評が集中していた時期だったため、この事も、伊東宗家には
光照公の正しき嫡男である伊東尹祐が居るにもかかわらず、それを差し置いて、婿である
佑邑を家督に据えようとしているのだ、と疑われたのである。

同年、4月9日の事である。
その日伊東佑邑は日知屋の屋敷で早く起き、発句を考えていた。そして

『露はおき 萩はまだぬる朝哉』

と、発句を吟じた、その時、
その声を合図にしたように刺客が現れ、たちまちに佑邑の首を獲った。
同時に野村右衛門佐父子を始めとした野村一族の11箇所の城に伊東家の軍勢が押し寄せ、
尽く腹を切らせた。
伊東宗家による野村一門への粛清であった。
この事は、後に「野村の乱」と呼ばれた。

ところでこの時殺された伊東佑邑は、この後、伊東家に祟りをなしたらしい。
そこで享禄4年(1531)12月13日、都於郡一乗院にて、この佑邑を祭り八幡大菩薩と崇めたが、
しかしその霊魂が祟りをなすことを止めることは出来なかった。
そのため、遂には天文5年(1536)重ねて佑邑の霊を国富荘本郷に移して神とし、
さらに、朝廷に奏聞を経て、加護八幡の勅号を賜ったのである。
(日向纂記)

戦国初期の日向伊東家における「野村の乱」と、その後の祟りについての逸話である。




282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/06(金) 22:12:05.30 ID:RdyeBw4w
鶴岡監督や浅香光代が激怒しそうな乱だな


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