薩摩における殉死の始まり

2013年09月12日 19:59

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/11(水) 23:35:59.56 ID:IpM7DaN0
島津家当主忠昌の治世中は争乱がほとんど絶えず、忠昌は自ら度々出征したが、
永正三年八月六日、大隅高山城の攻撃に大敗した。

このために、その後の忠昌は人生を悲観して怏々とし、楽しむことはなかった。
永正五年二月十五日、忠昌は夜半の月を仰ぎながら、

「願わくば花のもとにて春死なむその如月の望月のころ」と、西行法師の和歌を
口ずさみつつ、短刀を逆手に握り、

「よし、新納、肝付は今から必ず百年のうちに見事わしが取り潰してくれるぞ」
と言うと、えいっと一声を発し、自害してしまった。

この時、侍臣の奈良原助八も殉死して追い腹を切った。これが薩摩における
殉死の始まりであった。

――『市来町郷土史』




306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/11(水) 23:43:29.62 ID:krxyY9aw
俺も殉死したい

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