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これに信之は、偽って

2021年11月16日 18:16

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/16(火) 17:21:56.14 ID:pClttnhG
或る記に、上方で石田三成らが挙兵した時、真田安房守(昌幸)は息子の伊豆守(信之)を呼び寄せ、
「豊臣家に従わん」と申し聞かせたが、信之は一向に同心しなかったために昌幸は不興の顔色にて

「私は既に老年であり、立身の望みは毛頭無い。然れども海野家(真田は海野小太郎幸常の裔である)の
再興を思い、次には其の方や左衛門佐(信繁)を世にあらしめんが為ばかりに存じ立った事であるのに、
汝は内府(徳川家康)の家来である本多中務(忠勝)の縁者であることを以て、親の命に背き
不届きである!」と申した。

これに信之は、偽って答えた
「近年内府の御懇志について、一旦は私の考えも申し述べました。しかし父上が是非にも上方と
御一味するとの思し召しであるのならば、御意に従うより他はありません。」

この言葉に安房守は大いに喜び、
「其の方同心の上はいよいよ相談を遂げ、秀頼公へ一忠節無くては叶うべからず。それについて
一層熟考致すべし!」
と申すと、伊豆守も
「なるほど、心得ました。」
と言ってその座を立ち、勝手の方より密かに外に出ると、直ちに馬に打ち乗って陣所を出、
関東の味方をしたという。

新東鑑

信之が昌幸を欺いて徳川に味方したという、「犬伏の別れ」の別バージョン?のお話。



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紀州大納言 vs 尾張大納言 with 真田のお兄ちゃん

2021年09月25日 15:55

573 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/24(金) 23:51:44.97 ID:AIMjDuGE
紀州大納言 vs 尾張大納言 with 真田のお兄ちゃん

南紀徳川史』より、島原の乱が起きた時のこと。

将軍・徳川家光のお召で徳川御三家の三人に大名旗本巧者の面々が登城した。

その席で尾張大納言・徳川義直は島原蜂起の一報に対し

「何物ぞや百姓どもの分際にて何程のこと有るや。踏みつぶすに手間取るまじき」

と述べた。これに対して紀州大納言・徳川頼宣曰く

「左様にては無之候。古の諺にも外の百人を以て内の一人を難窮と申候に万斗の凶徒ら必死に立て籠もり候を手軽にはなり兼申候
 殊に天草富岡城攻、本渡合戦の仕方聤兒志桓にての勢配り唐子表より陣払いの躰嶋原にては瀬野合戦三江杉谷表の兵糧論の体百姓計の
 仕方と不存候如何様御手間入可候」

要するに天草の一揆軍を愚民の反乱(プゲラ)ザーコザーコと完全に侮る尾張大納言と、伝え聞く一揆軍の戦いぶりは舐めたらアッカッンー(舐めたらアッカッンー)と
諫める?(反論する?)紀州大納言の構図である。

これを近くで聞いていた人物がいた。

信州松代藩主・真田信之(71)であった。二人の言い分を聞いていた信之は

「軍の儀は左様にては無御座ものにて候。むかし亡父の安房守・昌之御意違ひ権現様より御譜代歴々一万五千にて信州上田城へ御取懸被成候我等二十三歳にて
 父安房守昌幸か先手致し候一戦に打勝候御人数を加賀川迄追討に四百計首を取申候御譜代歴々の鎧の推付を見申候其時の様子尾張さま御家老成瀬隼人可存候。
 我等了簡には紀州さま御意御尤と奉存候」

このように述べた。

意訳するとお前らの親父の譜代の兵一万五千に攻められたとき俺二十三歳で親父の先手務めたけど、勝って首400取ったわ。尾張大納言の家老・成瀬隼人がその時のことよく知ってんよ。
あ、俺たちの考えとしては紀州大納言の意見が尤もだと思いますよ。

尾張大納言はこれを聞いて咳をした。

お兄ちゃん、成瀬隼人正正成は12年前に死んだでしょ。と思ったけど知らなかったのかもしれないし名将言行録由来の話のようだし、あからさまに南龍公贔屓な内容だと
思うのでその辺も考慮する必要はあるかと思うが、島原の蜂起に対して楽観視する尾張大納言・徳川義直とそれに異を唱えて慎重論を唱える紀州大納言・徳川頼宣に、それに加勢しつつ
自家の武功をガッツリアピールする信濃のお兄ちゃんであった。

自らを慕ってくれる南龍公をアシストしつつお家自慢も交える真田信之の要領のいい?お話。




576 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/25(土) 11:30:43.08 ID:X1yrL8my
>>573
これ作り話で、真田ごときがこんな事言ったら取り潰しです

577 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/25(土) 12:24:03.58 ID:J4tl1FN+
>>576
逸話スレでそんな野暮天言いなさんな

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 14:30:19.10 ID:rYrwbmjl
>>576
こういうのは「じゃあ何でこういう話が伝わったのか」を考えるのが大切

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 14:48:59.86 ID:aHWiSKfx
なんで?>南龍公をageたい
問題点>碌に実戦経験が無いのは南龍公もだから反論の説得力に欠けるな
解決策>ベテランの戦国武将に同意させれば説得力が生まれるな
対象者>南龍公と関係があって徳川とも戦った真田信之が適任であろう

こんな感じで産まれたんだろうか

581 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/25(土) 15:04:37.24 ID:yrJbFXGK
>>579
南紀徳川史自体が明治に紀州徳川当主によって編纂されたものだし、この逸話も本編末くらいにある様に名将言行録ベースの逸話なので紀州徳川ageのためそう言う風に書かれているとは思う。

尾張徳川義直の発言も実際はニュアンスが違ってたかも知れないけど、恣意的に思うし。

真田信之は自家が権現様の大軍相手に大勝した例を出して、一揆を侮ってはいけないと言う風に諭してるのだと思う。

でも、事実を言ってるだけなのでこの程度では>>576の言う風にお取りつぶしにはならない気もする

これは皆、其の方のためではないか

2020年02月27日 17:01

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/27(木) 01:13:44.70 ID:CSksC/7s
豊臣秀吉公が御他界された時、その嫡子である秀頼公は幼少であったため、御遺言に寄って天下に
四奉行(原文ママ)を定め置かれた。そして東国表に事が起これば家康公鎮め給えと有った。

さて、石田治部少輔(三成)は天下を奪うべき邪念を持っていたが、家康公を先に滅ぼさねばそれは
成り難しと考え、上杉景勝と申し合わせて景勝に反逆の色を立てさせた。これに対して家康公御父子は
軍勢五万八千にて御発向された。そして家康公は下野国宇都宮まで御下向され、秀忠公は同国小山に
御陣を据えられた。

この時、真田安房守(昌幸)も家康公に相従い下野国佐野の天明(現在の佐野市天明町)まで出馬していた。
天明より宇都宮まで上道九里、宇都宮から小山へは天明の方向に向かって四里という場所であった。
ここに於いて、石田治部少輔方より真田へ書状を以てこのように伝えてきた。

『今度景勝反逆の事は、某が申し含めた、家康を討ち取る企てである。其の方もこれに与し、家康を
討ち取るのだ。さすれば、其の方の本国である信州は申すに及ばず、甲州も其の方の故主である信玄の
国であるから、この両州に駿州も加えて与えるであろう。』

そう熊野の牛王に誓紙血判して遣わされた。
これを見て真田は俄に心変わりをし、家康公を討とうと考え、幸いにも子息の伊豆守(信之)が家康の
御旗本に在ったため急使を遣わし『談合すべきことあり、急ぎ天明へ来たれ』と伝えた。
そして伊豆守が天明に到着すると、安房守はこのように言った

「其の方を呼んだのは他でもない、今度の上杉景勝の反逆の事、彼一身の企みではない。石田治部少輔と
牒を合せて、家康を討つという謀計なのだ。景勝の反逆として家康が関東に向かえばその跡より軍兵を
起こして家康を討ち取るという。然ればこの安房守には、景勝と牒を合せて味方すれば信甲駿の
三州を宛行うとの盟誓の状を石田方より差し越した。であれば、其の方のため、又子々孫々のためであるから、
其の方が家康を討ち取るのだ!」

これを聞いた伊豆守は
「最もな仰せであります。ですが其の事は是非に及びません。何故ならば、家康公はその威儀を見るに、
中々謀にて打てるような人物ではありません。逆に石田に与すれば、幾程もなく滅びてしまう事明らかです。
家康公に与し給われば、子孫長く永福となるでしょう。」

これに安房守は
「其の方には分別が無い!どうして三ヶ国を領すると思っているのか。私には既に余命がない。これは皆、
其の方のためではないか!」

そう強く翻意を促したが、伊豆守は頑なに同意しなかった。安房守は仰天し、立腹して
「其の方は妻子に心が残っているのか!これは勇士の業ではない!」と色々の悪口に及んだため、
伊豆守はその座を立ち破り、馬に乗り鞭を揚げて宇都宮に帰り、家康公にこの趣をありのままに申し上げた。
家康公はこれを聞いて

「伊豆守が忠義の程、山よりも高く海よりも深い。これはそれを忘れまじき証拠である。」
として、差されていた脇差の下緒の先を切って伊豆守に与えた。

眞田記

いわゆる「犬伏の別れ」についての内容ですね。この場合は天明という場所ですが。



真田が尤もである。家康の誤りである

2020年02月26日 17:03

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/26(水) 03:13:31.93 ID:ZNrPeW1P
羽柴秀吉公が天下一統に治められた時、真田(昌幸)は秀吉に従った。これに対し徳川家康公は、
彼が後の禍を成すべき者と思われたのか、秀吉公にこのように仰せられた
「真田が息を本多中務(忠勝)の聟にしたいのです。」
秀吉公は「尤も然るべし」と仰せに成り、これによって家康公は真田方へ使節を以て
「その方の御息を本多中務の聟にしたい」
と仰せ遣わされた。ところが真田は使節に向かい
「そんな使いであるはずがない!使いの聞き誤りであろう。急ぎ帰ってこの旨を申されよ!」
と伝えた。これに対し使節はいよいよ「伝える内容はこの通りです。」と云ったのだが、
「いやそうではない」と受け付けようとせず、仕方なく使節は帰り、この事を報告した。

家康公は合点に及ばなかったので、これを秀吉公に御物語された。すると秀吉公の仰せには
「それは真田が尤もである。家康の誤りである。『中務が娘を養い置いているので(養女にしているので)、
某の聟に』とあらば承知するであろう。」と仰せになった。家康公も「御尤である。」として、この趣にて
再び仰せ遣わされた所、真田安房守も同心して、子息伊豆守信幸との祝言があった。
この時伊豆守は十八歳であった。

眞田記

実際には真田信之小松姫の婚姻は、信幸二十三歳頃(天正十七年)だったようですね。



689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/26(水) 09:23:02.04 ID:2mY1Il8v
真田系の作品には必ずと行っていいほど出てくる有名なエピソードやね。

大名の嫡男の正室が他家の陪臣の娘ってなんじゃそりゃというのは、そのとおりだし。

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/26(水) 15:23:12.51 ID:sue4eaxm
東国無双の娘なのにな

土呑み裁判

2017年02月04日 17:39

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/04(土) 13:09:23.79 ID:eUvcYzR0
土呑み裁判

戦国時代から少し時代は下った寛永15(1638)年、真田信之治世の信州にて村の間で山境の争いが生じた。
役人が双方に事情を聞いたが、双方明確な証拠を出すことができず、水掛け論になった。

そこ真田家では、争いとなっている山境の土を呑み、起請文を書いて自らが正しいといった方に山を与えることとした。

そうしたところ、片方の村の百姓が本当に山境の土を呑んだため、その山や山中の切り開かれた田畠はその村のものとされたとか。

鉄火起請についてはよく知られるところであるが、土を呑んで判決を下すのは珍しいこととか。

太平の世になっても、百姓は大変というお話。



平山優「真田信之


勝者の百姓のガッツのいい話ということで、こちらに。



信幸は武勇の大将であり

2016年03月09日 18:20

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/08(火) 19:07:16.92 ID:lZNfxQ9T
織田信長による甲州征伐が進行する中、武田勝頼は新府城に到着すると、武田から寝返った
不忠の者達の人質は、あるいはハタモノ、あるいは獄門と、三族ともに成敗し、忠信の人々の人質は、
それぞれに形見として返還し、杯など下して本国へと送った。
そして真田昌幸の嫡男、源三郎信幸を召し出して言った

「お前の父、安房守の今度の忠信は、草葉の陰までも忘れがたいものである。私が小山田の申す所を用い、
このように成り果てたのは神慮にも放たれたということなのだろう。昌幸は私を、不甲斐ないものと
思うことだろう。
どうか、お前の母と弟、その他一族の人質をつつがなく引き取って帰り、末まで繁盛せよ。」

そして御杯を下し甲州黒と名づけられた名馬一匹、金作りの太刀を与え涙にむせびつつ「これまでである」と、
忝なくも広縁まで見送り、「若年の者、落人として生け捕りにされることがあるかもしれない。」と、
自身の人数から数十人を付け、5,6里の間彼らを送るよう命じた。誠に昌幸の忠義に感じ入ったため
致したことであった。誰もがこのようであるべきなのに、相伝の主君に弓を引き逆心を企てるような
心意は、神慮もきっと憎む事だろう。心ある輩はこれを感じて、みな涙を流した。

真田家の人々は3月5日に新府城を引き払い信濃との国境へと向かうと、ここかしこより甲州の落人を
剥ぎ取ろうと、盗人共が寄り合い同類を集め、百人二百人ずつ待ち伏せし、鬨の声を上げて討ってかかってきた。

真田信幸、この時17歳。弟藤蔵15歳、源五郎7歳、信幸の姉18歳、矢沢殿の娘、祢津殿の娘、
室賀殿の娘も同行して下っていた。
信幸は先陣に進み、続いて御母堂の乗物と続き、山田文右衛門が殿をしてその勢男女二百余人、
信幸は一揆共を追い払い、鳥居峠につくと人馬の息を休ませた。しかしこの事はすぐに盗人共に知られ
「よき物取りが出来る」と、信州のスッパと上州・武州のワッパ共集まり、一千余人、峠の麓の
小松原に潜み、坂中にて鬨の声を上げると、百千の雷もこれには過ぎぬと、恐ろしさのあまり
母親は信幸に訴えた

「敵は多勢、この方は無勢。そして京まで3日の間の道中にての、昼夜度々の戦にて手負いも多くあり、
多くは疲れ果てています、なまじ戦って雑人の手にかかるよりは、私は自害しましょう。それから
あなたもお腹を召しなさい。」
そう涙に咽んで語ったが、信幸は武勇の大将であり、謹んで母親に言った

「あの程度の一揆、たとえ百万騎あろうとも物の数ではありません。お心やすく思って下さい。
只今彼らを追い払い、安々と国元までお供いたします。」

そして鎧の上帯を締め直し十文字槍を持つと、勝頼より賜った甲州黒に打ち乗り、さも勇々とした態度で
控えた。母親も鎧を着、白綾を畳んで鉢巻にし、志津三郎の打った薙刀を小脇に手挟み床几に座った。
真田信為(信繁のことか?)も緋縅の鎧に鍬形を打った兜の緒を締め、弓を引き、敵がかかれば討ち懸からんと
母親の脇に控えた。

信幸は五反斗乗り出し一揆の様子を観察し、真田の男女200人の一行を3手に分け、先陣を山の并びに
50人、母親の所を旗本として100人、手回りに50人を従え、信幸は言った
「この山陰から麓に廻り貝を吹きたて、50人を二手に分け、喚きながら峠に駆け上れば、敵は盗賊の
奴原であるから、我々を尾張勢と勘違いして散々に逃げ去る事間違いない。ただし、もしこの作戦を
敵が悟り、戻ってきて戦うことになれば、この山上の岩窟に母上を引き上げた上で戦うべし。」

こう評定し山陰に廻ると、そこには鎧武者10騎ばかり、人数7,80人が忍びやかに細道を登っていた。
信幸は、これは敵が後ろより来たのだと思い、配下の50人のうち1人を農民の出で立ちにして物見に
行かせたところ、それは信州より信幸たちを迎えに来た人々であった。
「これはなんということか!」相互に大喜びし、一行はすぐに信幸の元に向かった
「この峠に差し掛かり、遠見を出したところ鬨の声が頻りに起こり、その軍勢は雲霞の如くでありましたので、
この山陰を廻ってきたのですが、これこそ天の与えた幸運でした。」

こうして彼らも信幸の共に属し、麓に下り貝を吹き、鬨の声を上げると、案の定一揆勢は四方八方に
逃げ散り一人も残らなかった。

それから母親らの人数と合流したが、信濃国は信長の尾張勢がここかしこの城要害に押し寄せ兵乱の
最中であり、通行も難しいということで、ここより輿を捨て、母親をはじめとした女性も男の出で立ちにて
通るべしと、皆甲冑姿と成った。
(加沢記)

参考
真田信之の脱出


444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/09(水) 09:57:20.30 ID:JZptPlK9
>>441
大泉洋と堺雅人が浮かんで来てコメディーになってしまう

役者共に守らせて済ませるべきである

2016年02月29日 22:05

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/28(日) 21:45:38.54 ID:O8pFZG4m
真田信之曰く
「農民、商人の人質を取り置くところには、焼草を置き頭(かしら)一人を差し置き、
能役者などを付け置いて、変あらば火を掛けさせるようにするべし。
その程度のことは長袖にても出来ることだ。

今の大名は、役者を抱えるのにその芸ばかりを吟味している。
尤も、役者を持ち抱えるのは大名役ではあるのだが、雑人の人質の番に
能き士5人10人を付け置くなど不本意なことだ。頭さえしっかりとした武士一人を置いておけば、
役者共に守らせて済ませるべきである。

しかしながら役者にも、例えば保生太夫は大阪夏の役に、小笠原秀政の手に属し出陣し、
比類なき働きが有った。之などは掘り出し物である。」

(名将言行録)



392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/28(日) 23:21:03.92 ID:4pDtWCD/
>>389
金春安照と北七太夫は真田隊にくっついていたらしいけどたいして働きなかったのかね

真田信之は倹約の人であった

2016年02月28日 19:14

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/27(土) 18:18:01.46 ID:8Qb5qlMK
真田信之は倹約の人であった。そのため、人々から彼は金を集めていると称されていた。

彼が家老の宅に臨むとした時、家老より、何を支度すべきか尋ねると、信之は用意すべき品物
一つ一つを大積りに値段を書き取り、
「本来そちらに行くべきなのだが、難しい事情があり訪問できないので、必要な経費を
金納せよ。そうすれば、殿中にて慰みにいたすであろう。」

こうして信之は毎年このように金にて差し出させた。しかしこれは、その邸宅に訪問することより
物入りが少なかったため、下々喜び、金はますます増殖した。

ある日、信之が近臣たちに「どうして私が吝き沙汰をすると思うか?」と尋ねたところ、
何れも「お金を集めるためでしょう。」と申し上げた。これに信之は

「私は関ヶ原陣や大阪の両陣も勤め、そこで覚えたのは、士卒を励まそうとしても、
下知ばかりではなかなか励まない、という事だ。
金銀を快く遣わしたうえで下知しなくては、合戦は出来るものではない。
だからこそ、武士は金銀を大切にすべきなのだ。」

(名将言行録)



388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/27(土) 22:32:16.67 ID:RHe8pw1e
大坂の両陣?
活躍したのは息子たちや義理の弟や実の弟のような

一度後れては3年失せぬ

2016年02月26日 17:14

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 14:59:51.90 ID:BOOoXAE2
島原の役の時、真田信之細川忠利にこう言った
「今回、板倉内膳正重昌が討ち死にした事で、敵を急ぎ踏み潰すためにあなた方を
遣わされるようですが、ただし、手間取って思ったようには成らないでしょう。
そのように心得ておくべきです。

私が昔、忍城の成田氏を攻めた時のことです、
軍勢は勇まず、下知を聞こうとしませんでした。帰陣した後、私は父の安房守(昌幸)に言いました
『あのような腰抜けばかりを選んで私に付けられたので、今度の合戦で勇まないのです。』
安房守は怒って申しました
『若輩者が!何を不智な事をいうか!?それはお前が、去年合戦で後れを取ったためだ。
一度後れては3年失せぬものである!』

今度の島原も、内膳正は討ち死にし、軍勢は損害を受け、みな恐怖心を持っているでしょうから、
軍勢は勇もうとしないでしょう。であれば、手間取ります。
その分別をして、ご出陣すべきです。」

(名将言行録)



239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 15:29:09.86 ID:wJbS32Th
そりゃあ総大将がアレですから

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 16:05:21.65 ID:linV+D2a
>>238
小童!ではないのか。

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 17:55:57.98 ID:DxkpIThN
去年合戦で遅れをとった、て名胡桃城取られたこと?
信幸に責任あったっけ

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 18:23:49.08 ID:rVEZlCrD
沼田の責任者だからだろ

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 18:34:42.29 ID:vERWSTmf
そのお陰で北条攻めの名分が出来たのに…

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/27(土) 12:16:09.29 ID:fqUtjaJs
>>242
その時沼田は小田原に割譲済だけど?

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/27(土) 12:27:16.72 ID:nDdVzJi9
つ名胡桃

【ニュース】信之公のご位牌が発見

2015年11月28日 17:21

42 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2015/11/27(金) 20:18:20.14 ID:kDnuCvlR
流れ読みません。信之公のご位牌が発見されたそうです。

<真田幸村>兄の位牌発見 長野・上田の正念寺
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151127-00000073-mai-soci


戦国武将・真田幸村(信繁)の兄で松代藩(長野市)初代藩主、信之の位牌(いはい)が、
長野県上田市の正念寺で見つかった。
167年前の資料に存在が記されていたが、所在不明となっていた。
奥寺浩司住職(37)が2月、本尊裏を掃除していると「隠し納戸」が偶然開き、位牌を発見。
上田市などの調査では数え年93歳で死去した1658年ごろの作で、
明治期の廃仏毀釈(きしゃく)で隠された可能性もあるという。
表面には真田の家紋「六文銭」が。折しも、来年の大河ドラマ「真田丸」に地元が沸く中での発見に、
奥寺住職は

「信之公に『そろそろ出せ』と言われたようだ」

と、手を合わせていた。


いくら、影が薄いからってそんなところにいらっしゃらなくても…・




43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/27(金) 20:24:49.11 ID:p13VVRHB
そういえば本屋行ったら真田幸村(信繁)関連の文庫本と信之関連の文庫本が平積み台に置かれてたけど
幸村関連のは普通に表紙が見えるように平積みされていて
信之関連のは背表紙だけが見えるように縦に置かれていた
まあ文庫本が置かれてるだけ上等だけど

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/28(土) 02:23:44.73 ID:IBZe3G5q
それでも扱いひどくないか

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/28(土) 05:25:10.29 ID:H/OUhG6h
みゆきちゃんの出身地だし

徳川頼宣は真田信之に尋ねた

2015年04月25日 15:59

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/25(土) 00:49:28.29 ID:ehskVbmA
紀伊大納言徳川頼宣が、真田伊豆守(信之)を自邸に招いて物語している時、ふとこのように聞いた

「あなたは神君(家康)の、平生の御行跡をよく覚えておられると思います。
それを話して聞かせてもらえませんか?」

伊豆守は答えた
「あなた様の所持お取廻しの様子、神君にも劣っていられるとは思いません。さりながら、
人をお使いなされる所は、なかなか神君には及ばれないと存じます。

私は御当家と比べ5分の1の分限ではありますが、明日にも何事かあった時には、我が馬前で
心よく討ち死にするであろう侍を、二百騎持っております。」

これには頼宣も感じ入ったということである。

(明良洪範)

細越中 いつ様 御報

2014年09月23日 18:23

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/22(月) 21:49:36.11 ID:hER1rlWx
細川忠興から真田信之への手紙と言えば
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6021.html
が既出だが、以下のようなものもある。

「細越中 いつ様 御報

猶々、貴様のかやうに御心入御座候ところは、我ら余の人の千度より忝なく候、以上
貴札拝見仕り候、新キ人ねん◇◇(不明)送り下され候、思し召しより御心さし浅からず候、
いまだにしかしかと御座なく候て、薬をたへ申し候。天キ故かしらいたく候て、ねてい申し候、恐々謹言、
(花押)」

(なおなお、あなた様のこのようなお心遣いは、私たち余人の千回よりもかたじけなく思います。
お手紙を拝見しました。新しい人ねん◇◇をお送り下さり、あなたのお思いになるより立派な贈り物です。
いまだに体調がしっかり致しませんで、薬を飲んでいます。天気ゆえか痛みがあり、寝ている次第です。)

(年次不明、真田家文書)

忠興、信之からの病気見舞いに対する礼状である。

(一行目は↑のタケノコの手紙の追伸と全く同じ文なので、その手紙の最後の一枚が
この手紙の一枚目と間違えられているのかもしれないが、原典のままとした)




861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/22(月) 22:15:54.99 ID:mld1qJgw
同年代長生き同士でいたわりの手紙を交換してたかと思うと感慨深い

鈴木右近の切腹

2014年07月06日 18:51

249 名前:鈴木右近の切腹[sage] 投稿日:2014/07/06(日) 14:33:08.50 ID:2nLgC1Uj
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3811.html
でもちょっと触れられてるけど出典があったので
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4040.html
の逸話で
「どんなに死出の山が険しくても、わたしが御手を引いて差し上げますよ」
真田信之と殉死の契約をした鈴木右近
木村縫殿に殉死の際の介錯を頼んでいたのだが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4806.html
の逸話のように縫殿が死んだためその息子の渡右衛門に改めて介錯を頼むことになる。

250 名前:右近の切腹[sage] 投稿日:2014/07/06(日) 14:34:10.32 ID:2nLgC1Uj
万治元年戊戌十月十七日、一当公(真田信之)九十三歳にて御卒去。
鈴木右近は十八日に殉死すると言ってたのにどうしたのか、自室に篭ったままであった。
嫡男の治部右衛門は江戸にいて不在であり、次男の弥左衛門は気が気でなかった。
家老以下、真田家家中に父の殉死の予定を伝えてきたのに、万一、長引くようなことがあれば
どうしたらいいのだ、と心配でしょうがなかったが、
右近の日頃の気性を思うと、たとえ天地がひっくりかえっても自分をまげない男なので、
意見もできないとあきれ果てていた。
右近は長年妻子にも触らせなかった箱を開けて書付をいちいちとりだしてことごとく
焼き捨て、残りを入納したそうだが、何が書かれているかを知る者はいなかった。
なんだかんだで十八日夜になって右近は正眼山法泉寺に移ったようだ。
隣家の竹内親兵衛、長谷川善兵衛が法泉寺に訪ねていくと、
右近「殉死の見届けをしてくださること、ありがたいことです。
私が焼かれる火葬場の様子をみたところ、山のようになって見苦しかったため
平らにならすよう指図をしてきたところです。」
ずいぶん念のいったことだと思っていると、同族の弥左衛門がやってきて、
切腹が遅れていることを問いただした。

251 名前:右近の切腹[sage] 投稿日:2014/07/06(日) 14:34:59.30 ID:2nLgC1Uj
右近は「用意はできました」と答え、
取り寄せた棺桶のできを見、内外の寸法も十分だと満足していた。
そうこうしているうちに、介錯人の羽田六右衛門を木村渡右衛門が召し連れて
右近と対面した。切腹前の儀式が終わった後、
右近「まことに申し上げにくいことですが、このようなことをしたことがなく、この歳になるまで
殉死を見たこともないため、作法を心得ません」
木村「わたしも心得ているわけではありませんが、近藤平之丞に聞いたところでは
主君の御位牌に拝礼するのはもちろんですが、拝礼の後、御位牌に背を向けて切腹するのが
作法だそうです」
右近「若いのにそこまで調べてくださったこと、言葉に尽くしがたいほど感謝しております。
ところで、どうせなら後世に残るように立ったまま切腹したいのですが、いかがでしょうか」
木村「冷淡なように聞こえるでしょうけど、ご老衰の身でそんなことをしてもしかたないでしょう」
右近「ともかくも指図通りいたしましょう」
右近は気色にも死の恐怖というものをいっさい見せなかった。

252 名前:右近の切腹[sage] 投稿日:2014/07/06(日) 14:37:46.29 ID:2nLgC1Uj
やるべき儀礼を終えたのち、右近は刀を腹に押し立て引き回した。
切り口を主君に見せようと思ったのか、霊前(位牌)の方へ振り返った所、介錯人の羽田六右衛門が
振り下ろした刀が肩骨に打ち込まれてしまったため、木村渡右衛門はすかさず右近の首を
自分の膝の上に引き寄せて、首を掻き切った。
木村は慌てた様子もなく手早くことをなしたものだ。

この物語はその時同席していた長谷川善兵衛から直接聞いて書き置いたものである。


「真武内伝 附録」より
用意周到にしたのに最後の最後できれいに運ばなかった気もしますが、全体的に考えていい話ってことで

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/06(日) 15:05:15.07 ID:2nLgC1Uj
よく考えたら渡右衛門に頼んだのは介錯ではなく見届けでした




254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/06(日) 17:58:09.47 ID:nhVGFlMZ
真田のお兄ちゃんの場合享年があの御年だけに
昔からの家臣で殉死するほどつきあい長い人って相当限られてたんだろうなあ

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/06(日) 20:08:27.89 ID:Umjsc1MS
結論:はじめての切腹は失敗するので経験をつんでからしよう

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/06(日) 20:57:10.07 ID:qSzwb+rS
経験を積むって、生涯に一度しか出来んでしょうにw

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/06(日) 21:16:24.09 ID:C7mlVC+m
殉死の作法はともかく切腹だけならやらなくても立ち合うだけで経験は積めるんじゃないか?

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/06(日) 21:57:49.48 ID:lkckB1fN
追い腹なんてよくやるよなあと思うが
新参で寵愛されていたとかならわかるけどさ

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/06(日) 22:03:27.39 ID:74f8CjY5
右近もだいぶ年なんじゃないか?

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/06(日) 22:07:04.57 ID:ceGbtxhr
数えで85らしい
主君より8歳も若いのに

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/07(月) 00:27:31.43 ID:0lSG9xVp
当時で85なんていったら今の120歳ぐらいの感覚なんじゃないか?

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/07(月) 01:15:23.93 ID:P0qED9OS
ないない

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/07(月) 09:05:19.07 ID:6KnR0Lkx
>>261
なんか90ぐらいで今の120歳ぐらいってどっかで見たことが…

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/07(月) 13:19:57.16 ID:9Bf/qtyn
>>244
一応用心してりゃ用意しとくだろ。天下泰平でも生水に当たってこてっと逝ったり赤穂浪士に討たれたりキチガイにタマ取られたりってアクシデントもあるわけだし

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/07(月) 13:24:33.27 ID:g8GLLUXD
えーと、最初の一年で成人して、あとは一年ごとに現代人にあてはめて大体4歳づつ位の感覚で…

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/08(火) 00:23:38.29 ID:Jof1AIYs
武者は犬ともいへ、畜生ともいへ云々

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/08(火) 00:40:10.81 ID:yNf5Xzp9
なるほど。20歳になれば大老というわけですね

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/08(火) 02:00:12.72 ID:CGapS9WN
又左衛門とかいう犬も初陣の頃は立派な中年犬

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/08(火) 02:30:32.26 ID:bKa214Jq
真田の当主に徐福がいますね・・・

真田信幸、杉菜を食べる

2013年07月27日 19:56

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 00:23:07.77 ID:QmOHOR/p
真田信幸、杉菜を食べる

真田信幸が上田に居た頃(関ヶ原合戦後の頃か)、家臣らと船に乗ることがあった。
そのとき岸辺に杉菜が多く生えているのを見た信幸は、杉菜を指して家臣に問うた。

「お前たちはあの杉菜を食べたことがあるか?」

家臣たちはこれに答えて、

「いえ、まだ試したことはありませんが・・・」

信幸はそれを聞いてこう言った。

「それこそ泰平の世の恩恵だ。
昔、勝頼没落の時(甲斐から落ちのびる際の)道すがらに
あれを取って食べたことがあるが、とても食えたものではなかった。
ほかに稗粥も度々食べたのだが、これもまた非常に不味かった。
それでも、昔あのような苦労をしたからこそ、今お前たちを扶持することができるのだ。」


悪い話スレでいかもの喰いの話を見たので、普段食べないようなものを食べた話。
出典は国会図書館の近代デジタルライブラリーで見られる「武人百話」という本から。




776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 01:30:39.75 ID:HfEb4Ibv
スギナって土筆が育ったやつか

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 07:45:05.90 ID:it/TbstR
意外と雑草もうまかったりするね
ばあちゃんがまえふきのとうとかつくしんぼとかの雑草を佃煮?のようなかんじで
調理してくれたことがあったけど普通に食べられたぞ

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 08:19:15.31 ID:3FcPthVw
ツクシとスギナは根っこがつながってるけど、別の部分。
ツクシが花でスギナが葉っぱと考えれば良い。
ちなみに、スギナは苦くて食えない(実体験)。
食える野草は限られてるのでチャレンジしないほうがいい。

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 10:39:34.89 ID:TK4sLSeM
スギナは毒あるから食っちゃいかんよw少量なら漢方薬として使われるけど
食べれる野草はこれも食べれるんかってくらい結構あるけど
毒草も身近にいっぱいあるから気をつけなあかん

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 14:34:01.08 ID:iVk54BOr
ベニテングタケですら美味しく食べる地方があるから、人間はおそろしい

784 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/07/27(土) 17:33:27.08 ID:vGyyOMM6
東北ではまさかのフグの肝を毒抜きして食う地域があるしな
舐めただけで死ぬレベルの物を食おうとするとか昔の人達の食欲は恐ろしい

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 17:51:50.34 ID:or5clOXr
ふぐの子糠漬けは石川県

786 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/07/27(土) 18:04:09.65 ID:vGyyOMM6
石川だったか
指摘サンクス

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 20:21:26.13 ID:5OIfLFkU
食べた事あるけど、塩抜きしても塩辛い位で正直微妙だったわ・・・

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/28(日) 02:07:28.15 ID:BtDg4Hdx
フグ食習慣ほど、先人の努力に感謝という言葉を思い出す事柄はないよな…
すげえよな歴代の死んでった人たち…
(武将の話関係ねえ)

[ 続きを読む ]

真田信之の脱出

2013年07月27日 19:56

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 01:50:38.12 ID:zYj6vKDj
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1055.htmlだと杉の葉、て解釈だ
ついでにその甲斐から落ちのびる時の様子を「加沢記」から
これも近代デジタルライブラリーで読める

(勝頼が昌幸ではなく小山田の策を用いて裏切られた後、なぜか新府で?)
信幸公が勝頼公に召しだされ、
勝頼「昌幸のこたびの忠心は忘れぬ。小山田の言葉を信じたためにこうなってしまうとは、
とうとう神にも見放されたようだ。昌幸は私を甲斐のないものだと思ってるだろう。
どうか、お前の母、弟、一族を無事に逃がしてやってくれ。お前たちの繁栄を祈る」
と杯を賜り、甲州黒という名馬、金作りの太刀を下賜された。
また、勝頼公は若年の落人であれば生け捕りになりかねない、と考え数十人をさいて5,6里送り届けさせた。
これも昌幸公の忠義に感じいったからである。
信幸一行は三月五日新府を引き払い、信濃境に向かっていると、甲州の落人狩りのため盗人百人から二百人が襲ってきた。
当時、信幸十七歳、御弟の藤蔵(信繁)十五歳、源五郎七歳、御姉十八歳、そのほか矢沢、根津、室賀の娘などが同道していた。
信幸公は先陣に進み、その勢男女二百余人で盗人を追い払い、鳥居峠で人馬を休ませた。
このことは盗人に知れ渡ってしまい、信州のスッパ、上州、武州のワッパ千人余りが集まって峠の麓で鬨をあげた。
信幸公の母は百千の雷鳴に勝る鬨を聞き
母「多勢に無勢、しかも度々の戦で我々は手傷を負ってます。潔く自決をしましょう」
と涙ながらにおっしゃったが、信幸公は武勇の大将であるため、怒ってその母親に申し上げた。
信幸「あの程度の烏合の衆、百万騎でも物の数ではありません。ご安心を」
と鎧の上帯を締め直し、十文字の槍を取り、勝頼公より賜りし甲州黒にまたがり、
手勢二百人を五十人、五十人、百人に分け、鬨の声をあげさせた。
盗賊たちは、さては落人ではなく尾張勢であったかと思い、逃げ去っていった。
(その後、無事味方と合流し、信幸一行は戸石城におちつく。)





足軽の妻にはどうしても聞いておきたいことがあった

2012年09月14日 20:31

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/14(金) 00:41:33.73 ID:QVL12HlA
大坂の陣の後…
信州真田家に仕える玉川伊予守の足軽が大病を患いった。
そしてこの足軽の妻には何十年と連れ添った夫に対してどうしても聞いておきたいことがあった。

「貴方は年毎に伊勢へ代参しましたが、出立の前夜には
 貴方は伊予守様と二人で一晩中話されていました。
 さらに同じように伊勢へ代参する人より七日や十日も遅れることが八回もありました。
 このわけを教えてください。」

この妻の問いに対し足軽は始め無言だった。
が、いよいよ危なくなった足軽は妻を呼び戻して語りだした。

ある時足軽は玉川伊予守の伴として二人で伊勢へ代参した。
二人は代参の後熊野へと向かう。民家民家がない山道を二日も行くと、岩屋へと着いた。
玉川伊予守は足軽を口元に残して岩屋へ入っていき、一夜そこで過ごして帰った。

その後は毎年正月になると足軽は一人で熊野の岩屋へ行くことになった。。
いつも『上』とだけ書かれて封じられた鳥目十疋ほどの重さの状箱を持たされて
正月の十五日から末の間に岩屋へ着き、一日か二日口元で待る。
すると中から帯まで真っ白な総髪を垂らした七十ほどの翁が出てきて、無言で封状箱を受け取る。
一夜過ぎると返礼らしく『参る』と書かれて封じられた状箱が返され
信州へ戻り状箱を玉川伊予守へ渡して足軽の役目は終わる。

これらのことをしてから一時ほどして足軽は死んだ。




458 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/09/14(金) 12:42:20.61 ID:aI7Dyn3B
岩屋に誰か隠れ住んでたってこか?

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/14(金) 13:44:13.20 ID:/riK4bBE
誰だろ?真田のパパンとかは九度山だしな・・・

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/14(金) 13:53:29.26 ID:fDVJvPNN
誰か、とはいわんや…

岩屋だけに

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/14(金) 14:07:17.34 ID:hIlXJNGm
>>458
信繁生存伝説とかじゃない? 鬼のような形相の信繁が、
姫のような秀頼を抱えて云々という伝説の続きみたいな感じの

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/14(金) 14:46:20.54 ID:9RdCluZd
小説からの抜き出しかと思ってしまうな

真田信之「一首吟ずれば金をくれようぞ」

2012年03月21日 21:51

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/21(水) 16:02:31.65 ID:KxEtJOQ+
ある時真田信之の近習児玉三助という者が紙子の服で出仕したことがあった。
信之がそれを咎めると、三助は小身ゆえに絹布を調えることもできないと答えた。

そこで信之が「一首吟ずれば金をくれようぞ」と言うと
三助は「いにしへの鎧にまさる紙子には、風のいる矢は通らざりけり」と高吟した。
「約束の金をくれよう」と小判五枚を遣わしたが三助は「約束と違いまする」と言う。
何が違うという信之に三助は「はじめには金を九両と有りしかど、その場になりて五両けんかな」とやり返した。
「くれよう(くりゃう)」と「九両(くりゃう)」を掛けたわけである。

「なるほどそうであった」と打ち興じた信之はさらに四両を遣わした。





355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/21(水) 16:23:18.56 ID:UDDredp/
>>353
五両じゃなかったらどう返してたのか気になるな

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/21(水) 16:24:37.38 ID:+HX7vOm6
>>353
まとめにあったのと同じかな

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/21(水) 16:27:54.93 ID:Z16l+VIV
>>353
あの・・・屁理屈で金たかってません?(笑)
しかもその歌、熊谷直実さんだよね?

若かりし頃の真田信幸と乳兄弟・祢津志摩

2012年01月20日 21:58

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/19(木) 23:50:48.25 ID:SAE7jyC7
若かりし頃の真田信幸と乳兄弟・祢津志摩

「若様、お話したいことがあるのですが」
「何?」
「実は徳川に仕官し……『あー却下」
「まだ最後まで言ってないんですけど」
「いやいや絶対駄目だし。何だようち(真田家)じゃ不満?」
「徳川には親類も仕えてますし」
「アーアー聞こえない」
「おい……」
「嫌だ嫌だ嫌だ、いいか?行くなよ?絶対だぞ。はいこの話終わり!」

とにかく信幸は祢津志摩の徳川行きをゴネて必死に止めたそうな。


関ヶ原・犬状の別れの際の二人

「親父から呼び出し来たからお前も早く準備して」
「お一人で来いとの御達しでは…?」
「ああいいから早く。てか俺が行くんだからお前も一緒に来て当然だと思う。常識的に考えて」
「ちょっと意味分かんないです」

『関が原乱起りて(以下略… 道筋より三丁計脇の野へ安房守併左衛門佐唯二人相越、
長子信幸を招きける、伊豆守ハ祢津志摩一人召れて其処へ行けり(以下略…』

出典は「長国寺殿御事蹟」か「真武内伝附録」←こっちが元祖かも

それなりに常識人に見られがちな兄も、戦場では無双モード発動しまくるわ、
普段は面倒臭がりなとこもあるわで、家臣からすれば立派に手のかかる人だったんですね。っていう悪い話?




775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/19(木) 23:53:16.18 ID:rHzT4aXy
甘えてるだけに見える

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/19(木) 23:57:14.48 ID:+u7F9AaD
そんだけ信頼してたんだろうな、って良い話だろコレw

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/20(金) 00:01:10.24 ID:PEg0mhXj
やる夫真田では乳兄弟いないっぽいこと書いてた気もするけど、いたんだ

さいつ殿へ。石田三成から真田信之への手紙

2011年11月19日 22:22

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/18(金) 22:25:27.39 ID:TGcc3cvX
まとめに載って無かったようなので有名な話ですが投下

さいつ殿へ。石田三成から真田信之への手紙

“さいつ”とは真田伊豆守信之の略称。
松代転封ではキレた信之だったが、必ず守り続けるようにと遺言を残した場所がある。
それは「真田の宝物館」
何でも寝ずの見張りを立てさせた程に厳重なものだったらしく、何が入っているのかと後になって
家の方が開けてみると…

そこには信之の主である徳川家康と敵対した石田三成からの手紙が13通も残っており、
いづれも、宛名はさいつ殿へと書かれかなり親しげだった様子。

他にも京都伏見の大名屋敷の地図を見てみると、
真田屋敷と石田屋敷は近隣にあり(三成屋敷の右斜め上に信之屋敷)
ここではご近所同士だったみたいです。

別冊宝島の本には、真田家の中で三成と一番仲が良かったのは信之では…?と記されていました。

しかし二人がどんな会話するのか想像出来ないw


関連
真田家の「吉光のお長持」・いい話?
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1486.html


石田三成「…つーか、ぶっちゃけ」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6022.html
細川忠興見事なタケノコを頂戴しまして』
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6021.html
655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/18(金) 22:27:24.19 ID:N2N00dER
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1486.html
完全に既出というわけではなかったけど、一応貼っとく

664 名前:653[sage] 投稿日:2011/11/19(土) 01:05:43.53 ID:TFopCPJD
>>655
あったのか!やっちまった…

調べたつもりだったのに手間かけさせちゃってすみません

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/19(土) 06:14:33.02 ID:RQV+BFM/
>>653
松平定信の子が真田家に養子にいってるけど、
本人は実際にその書状を見たのかが気になる。
まあ、その時代にもなると大昔の事だから別に問題ない事なんだろうけど。

信之と小松の眠る場所

2011年11月13日 22:02

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/13(日) 01:09:09.65 ID:gp55a6R6
信之と小松の眠る場所

小松姫の御霊屋のある大英寺(余談ですが真田家の中で一番大きく最も古い)
内部は極色彩の彫刻で彩られ、格式高く天上画はなんと天女。
元々は上田の芳泉寺にあったものを、信之が松代移封の際にこの大英寺を建てて移したとの事。
後に火災が起きると言う大事態になりますが、その時も当時の藩の方が必死に護り抜いたそうです。

ちなみに松代移封が告げられた帰り道、信之は小松の墓前に寄った形跡が残っていて
何を話したかは分かりませんが、当時の心境を亡き嫁の前で零したのかもしれない。

長国寺には生前の二人の仲睦まじさを表すかの様に、夫婦の位牌が寄り添って祀ってあります。
信之の御霊屋にはこっそりと目立たない所に派手で豪勢な彫刻があり、現地の方の憶測だと

「真田め…またこんなとこに金使いやがって!」
と思われるのが鬱陶しくて隠したんじゃないですかねーらしいw

それにしても長国寺、大英寺、勝願寺、芳泉寺、正覚寺(他にもあったらすみません)嫁関連の多すぎだぜ兄貴
どんだけ好きだったんだよと小一時間

あと最近は松代へ「信之公のファンです」と言って見学に来る人も増えたみたい。
やったねお兄ちゃん!

以上、旅行した時に聞いた真田夫婦の話でした。




527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/13(日) 11:55:10.54 ID:QYDARDmB
>>518
お兄ちゃんは本当に小松のこと大事にしてたんだなぁ
そりゃ我が家から陽が消えたと嘆くよね だからこの夫婦大好きだ
信之に関しては、殿いつの影響もあるのかな
殿いつで信之好きになったという意見もちらほら見る
やはりああいうモノの影響は凄いな 西の目立たないお兄ちゃんもぜひ出てほしいもんだ

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/13(日) 14:30:02.89 ID:sEFzUP4n
>>518
確か兄ちゃんのお霊屋の内装?が家康と同じなんじゃなかったっけ?
父と弟の事があったにせよ、幕府からの信之に対する信頼は凄く厚かったんだろうな

小松のお墓見に行った時、そこだけ空気が全然違う感じでびっくりしたよ
何か女性のお墓なのにキリッとしてて背筋が自然と伸びるみたいなw
兄ちゃん小松の事よく分かってんなーと思ったw


541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/13(日) 17:42:17.74 ID:9l3y1WRC
>>536
日光の眠り猫の人だっけ