後藤純明の生涯

2013年11月04日 19:02

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/04(月) 14:54:11.31 ID:mndIJySd
後藤純明は元々は日鼓城主渋江公勢と後藤職明の娘の間に生まれた長男で、幼くして職明の養子となり後藤家を継いでいた。
公勢は日鼓城に母違いの兄妹の次男公政、三男公親とともに暮らしており、三男公親を嗣子と考えていた。
ところが公政の乳母は、かねてから公親を暗殺して公親を後継者にしたいと企んでいたのである。

大永7(1527)年3月、公勢は公政、公親らとともに蹴鞠で遊んでいたところ、公親は水を求めた。
これを好機と見た乳母は、毒入りの葛水を公親に渡したのだが、なんとこの葛水を公勢が取って先に飲み、その飲み残しに公政が飲んでしまったのである。
乳母の思惑は見事に外れ、公勢公政の親子は急死、渋江の当主はまだ幼い13歳の公親が継ぐことになってしまった。
この事件を知った後藤純明は軍勢を率いて日鼓城を攻め、公親は母親の出身である波多氏の元へと逃亡し、ついに渋江氏の栄華も潰えてしまったのである。

その後純明は実父剃髪して月湖浄圓と名乗り、冥福を祈った。
また公親は十三年後に波多氏の支援で日鼓城を回復するものの、純明に再び追われ、肥後国山鹿へ逃れた。
後年純明の養子後藤貴明の招きにより旧領へ復活するが、有馬家に攻められ再び逃亡。
ついに慶長5(1600)年、波佐見の地で波乱の生涯を終えた。





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