不吉な一致

2015年04月30日 18:18

渡辺糺   
716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/29(水) 19:01:25.62 ID:ACFKJ219
大阪の陣以前のことである。

豊臣秀頼の小姓たち10人ばかり、その他近臣の津田出雲守、渡辺内蔵助(糺)と同道して、野田村に
藤の花を見物しようと罷り出て、その辺りにて終日、芝居や酒盛りをした。その後、酔いに乗じて5人3人づつ
小舟に乗って福島の海老江村のほうに遊行した。この時、彼らの家来たちも様々な場所に行っていて、
津田出雲守の側には林斎という盲人一人だけが在った。

この時、ここに薩摩の野郎組という6人ほどの連中が、同じく藤の花を見に来ていた。彼らの太刀は
四尺あまりで、先に小さな車がついているものを差しており、甚だ厳つい体であったが、
津田の休んでいる場所に来て慮外なことをしたので口論となり、薩摩者達は6人共に刀を抜いて
斬りかかってきた。
津田は十文字槍で戦い、6人を野田の浜まで追い立てたが、彼らも浜から取って返し必死に戦い、
津田は9ヶ所まで深手を負い、今にも敗北、という所に先の盲人の林斎が、浜に積み上げてあった
割木を取って6人の方に隙間なく投げつけた。これが薩摩の者達に当たり少し怯んだ所に、渡辺内蔵助が
この様子を知って駆けつけ、6人の打ち3人を討ち取り、残り3人は負傷してほうほうの体で逃げ出した。

そのうちに家来たちも駆け戻り、津田を介抱して大阪に帰ったが、津田はその傷が元で相果ててしまった。

その後、大阪籠城の時、博労淵の砦を一番に、西国の蜂須賀家に乗っ取られたため、かつて野田で、
同じく西国の薩摩の者達に津田出雲守が討たれた事、またその方角といい、不吉な一致であると、
城内において噂し合った。

また津田の事件の在った頃、渡辺内蔵助が所要があって天王寺の方まで出かけた時、関東より参ったという
荻原という人物と出会い、口論に成ったが、荻原の引き連れていた関東者達は大勢であったので、
渡辺はようやく斬り払ってほうほうの体で大阪に帰ったそうである。
又その頃、内藤新十郎その他小身の者たちが生玉に参ったところ、先の荻原率いる関東者の悪党たちと出会い、
大阪者達は多く負傷して大阪城へと逃げ帰った。

この二度の出来事は、方角は天王寺表にて、殊に相手は関東者にやられてしまったため、籠城の時も、
臆病者共は寄り合って不吉の沙汰であると申していたという。
その時、内藤新十郎は、自分の槍の柄に切り込みが所々あるのを証拠に差し出し、手柄のように
言いふらしていたが、その切り込みは内藤が自分でつけたものだと証言する者が出たため、大いに面目を
失った。

渡辺内蔵助については当時、鬼神のように言われていたが、籠城に入ってからは散々の様子であったそうだ。

(明良洪範)



717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/29(水) 19:36:37.42 ID:AucwV4mj
口論からの斬り合いそのものはなんてことないんだな

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/29(水) 19:49:44.17 ID:C5hakzy0
>>716
「福島の海老江村」って、当時は福島が島だったのかな?

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/29(水) 21:09:24.09 ID:dfVmytw0
今でもあの辺は淀川の河口じゃないか

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/29(水) 22:11:45.60 ID:cAcNPfvK
>>718
島だったのは三好三人衆の頃。大坂の陣の頃には埋め立てられて繋がってる。

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/30(木) 14:28:27.40 ID:wUEyJdhf
ちょっとした事で殺し合い・・・ほんと、殺伐とした時代だったんだなぁ
あの時代に生まれてたら、無難に生きていける気がしない

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「お前はどうして死に遅れたのだ」

2013年11月08日 19:08

渡辺糺   
664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/08(金) 18:50:51.72 ID:FpxL1naL
渡辺尚(糺)とその母である正永(正栄尼)は豊臣秀頼に仕えた。

大坂の陣の時、戦いに敗れて諸将は皆死んだが、
尚は重傷を負って戻り、正永と会った。

この時、正永が「お前はどうして死に遅れたのだ」と問うと、
尚は「もう一度、阿母にお会いしたかったのです」と答えた。

これを聞いて正永は「女子が死ぬことができないとしても害は無いが、
海よりも深い国恩を蒙ったお前が死ぬことができなければ、
これ以上の大きな恥は無い」と、言った。

そこで尚はようやくその三人の子を殺し、自ら腹を切って死んだ。
正永はこれを喝采すると首をのばし、手助けする人の刃を受けて死んだ。

――『皇朝金鑑(大坂物語、難波戦記)』