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小山会議の田丸直昌・いい話

2008年11月04日 00:08

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/03(月) 01:31:16 ID:RKVg9yMB
橋休めに有名な話を

1600年三成挙兵のほうが届くと小山にて軍議が開かれる
家康「三成が挙兵しました。この中には諸事情によってそっちに付きたいのもいるだろうから
遠慮なくどうぞ。恨んだりしないし」と一同ある程度予想はしていた事態ではあるものの
大阪には妻子もいるしちょとざわつくがすかさず福島正則が
「おれはナイフにつくぜ!お前らもそうだよな?」と言ったため一同和してそれに賛同
その中で一人だけ異論を唱えた男がいた。岩村4万石領主田丸直昌。
伊勢北畠庶流で蒲生の与力大名から蒲生宇都宮減封を気に石田らの推挙もあり独立大名になった男である
(もっとも現在の岩村城主になったのは実は家康の推挙なのだが)
叔父具教とともに塚原卜伝に学んだ剣豪とも知られるこの男は
「正直なところ三成たちでは家康殿に勝てるわけがないと思うが私は彼らにも恩はあるし
なにより秀頼君を奉じている以上敵対することはできない。よって今より引き払って大阪に向かわせてもらう」と宣言
あまたの大名の中で敵対宣言とは状況によってはこの場でぶった切られてもおかしくない(家康は許可してたけどね)
家康は許可した手前か別にこんな小大名どうでもよかったのか
「立派な態度。これは手向けに」と刀を一振あたえて送り出した
(真田さん親子は実はこの会議には参加していない。親父と弟が途中で挙兵を知って引き返した)

直昌は本戦には参加せず大阪城守備の任についていたがご存じのように西軍は敗北
戦後は所領を没収され越後へと流される数年後春日山で死去
子のたちはただちに放免され蒲生家→前田家などを経て旗本や水戸藩士になった
水戸天狗党の頭の一人の田丸稲之衛門は彼の子孫である




で、実は若いころ北畠に対してすごい怨敵になりそうなことしてるのは内緒w



104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/03(月) 04:05:44 ID:A6W5pPNM
森が陣営にいたら確実に田丸さんは斬られてるんだろうな
むしゃくしゃしてやった
反省はしていない
むしろ敵を減らしてやったんだから感謝してほしいくらいだ

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/03(月) 10:33:06 ID:LegjlQz7
当時、川中島13万7千石の忠政は上田攻めに参加してました。よかったね!田丸さん!!

労基法違反

海津城(松代城)の修築、相次ぐ出陣等、出費の続いた森家は家臣への俸禄が充分に払えなかった。
そのためついに上田の陣で、足軽たちが暇を請い帰郷をすると言い出してきた。

すると家老・林為忠が自分の具足櫃から黄金を三枚取り出し、
「相次ぐ物入りで、殿も不自由なさっているのだ。わずかだが、これを分けて堪忍してくれい」
と足軽頭たちに渡し、その後もさんざんなだめたので足軽たちは納得して支障なく働いた。(先代実録)

殿様の苦難を家臣が機転で救ったいい話・・・?

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/03(月) 11:34:49 ID:JGU1GAUq
森家の家老が林さんなのかw
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