応仁の乱の和議と武田国信

2014年02月07日 19:13

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/06(木) 22:21:57.55 ID:qLoFSH4V
室町時代初期、若狭国は一色氏が四代に亘って守護職を務めていた。
しかし、永享12年(1440年)、一色義貫の時、将軍足利義教の忌諱に触れ、
出陣先の大和国で謀殺されてしまう。将軍の命を受け、義貫を殺害した
のは安芸分郡守護の武田信栄である。信栄はこの功により、若狭守護職
を賜ったが、義貫謀殺の際に受けた傷がもとでまもなく死亡した。
弟の信賢がその後を継ぎ、逸見、粟屋、内藤、山県といった家臣団を
引き連れて本格的な若狭統治を開始する。家臣団の中、逸見氏は若狭国
西部に当たる大飯郡の郡司を務め、仇敵一色氏が守護を保持した丹後国
からの侵入に備えることとなった。

武田氏の若狭入部から四半世紀が過ぎた応仁元年(1467年)、応仁の大乱
が勃発する。武田氏は東軍、一色氏は西軍に属し、それぞれその中核と
して戦うこととなった。この頃、逸見氏は逸見真正(入道宗見)が惣領
を務め、武田軍の中心となって活躍している。洛中の戦闘に参加すると
共に、細川氏と協力して一色氏の領国丹後への侵攻作戦を指揮している。
一色・山名連合軍との戦いは、幾度かの敗戦を交えながらも、真正の
指揮下、おおむね順調に推移し、文明元年(1469年)の頃には丹後全土
をほぼ制圧するに至った。この年、一色氏に代わり武田信賢が丹後守護職
に任命されている。この方面では武田軍の大勝利である。

一方、京都の戦線では武田軍の苦戦が続いた。文明2年の勧修寺合戦で
逸見真正の弟(嫡男とも言われる)逸見繁経が討ち死にするなど、多くの
家臣を失い、翌年早々、信賢の弟元綱が独立を図り、西軍へ寝返っている。
心労が祟ったせいか同年6月、信賢は急逝し、急遽その弟国信が後を継ぐ
という有様であった。細川勝元・山名宗全の両軍の大将も没し、両陣営
とも厭戦気分が漂い始めた。(つづく)

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/06(木) 22:24:16.21 ID:qLoFSH4V
文明6年(1474年)4月、細川政元・山名政豊の間で和議が成立する。大内氏
のように和議を認めず、戦闘を継続するものもいたが、多くの大名は和議
に参加した。一説によると、和議の仲介役となったのは、武田国信であった
と言う。実弟が敵陣営に寝返るなど、領国経営が深刻な状況に陥っていた
のを認識して進んで仲介役となったのであろうか。ともかくも和議は成立、
国信は一息つくことができた。

しかし、

和議には次の条件がつけられていた。


「武田国信は丹後守護職を一色義春へ返付する」


多くの家臣の血を流して獲得した丹後の地である。失いたくはなかった。
しかし、家中建て直しのためには和議が必要である。これ以上、戦闘を
継続する力は無かった。加えて仲介役となった以上、言いだしっぺが
ごねる事も許されまい。国信は過酷な条件を呑んだ。


おさまらないのは、現場指揮官である逸見真正である。大乱では大事な
後継者を喪い、命がけで働き勝利して制圧した丹後も、戦に負けても
いないのに敵にくれてやる、そんな馬鹿な話はない。おのれの働きは
何一つ報いられないのか。

真正ら丹後戦線の部将たちは、国信の撤兵命令を拒否し、丹後に留まった。
一方、和議成立により大義名分を得た一色勢は勢力を盛り返し、未だ
国内に留まり続ける若狭勢に攻撃を仕掛けてきた。名分のない真正ら
は次第に追い込まれていく。だが、主君国信はこの状況を見ながら援軍
を出すことは出来なかった。既に和議は成立したのだ―


半年後―文明6年9月、丹後戦線主将逸見真正は丹後において自害した。


国信は出家し「宗勲」と称した。せめてもの償いであったのだろう。




486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/06(木) 23:18:59.35 ID:mKEDwHO3
>>484>>485
意識としてはあれだね、ほら

第一次世界大戦敗北時のドイツ

背後からのあいくち←なぜか変換できない

全く同じというのじゃないけど

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