谷地城の下美作

2014年11月05日 18:52

下美作   
691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 13:25:35.46 ID:bsemGf33
谷地城の下美作

以前の話と異なるものがあったので投下

長谷堂合戦の後に谷地伯耆・寒河江広俊の率いる兵3000と、長谷堂城主志村光安の援軍兵1000が上杉軍下吉忠の篭る谷地城を取り囲んだ

志村光安が下吉忠に降伏を求め一人谷地城に入ったが、吉忠は光安に時間を貰い席を外すと、城奥で一族老臣を集めて最上軍に降るか抗戦を続けるかの軍議を開いた

内談は皆渋り顔で結論が中々纏まらなかったが、吉忠の一族の下美作が進み出て申し出るは

美作「敵の重臣の志村光安がのこのこ一人で谷地城内に来たのですから、これを幸いに人質にとって庄内に帰るべきです!
志村ほどの人質ならば最上軍もまさか追撃しにくいでしょう」と発言した

吉忠はこれを聞くと「…人質といっても伊達政宗が二本松に父を人質に取られて敵と共に射殺した事もあったよな。
志村光安は一人で身を捨て我等に道理を説き、敵を助けるために降伏を勧めてきたのだ。光安は人質にせず、ましてや殺さずに陣に帰すべきである。
武士の体面を大切にするならあとは潔く一同城を打って出て討ち死にするくらいしかないよ」と答えた

すると列座の者から
「志村光安は敵に対してもけして嘘いつわりを申さずと聞き及んでおります
その志村が我等が篭城・継戦を無駄と申すなら、一度は捨てた命を生まれ変わった気で新しき主のために使ってみてはどうでしょう?」との声が上がった

この声に我もそう思うと評議は一決し
「志村光安に身を任せて降伏しよう」と慌ただしく谷地城の開城降伏が決まった

『奥羽永慶軍記』

下美作が志村光安を人質にしようとしていた異聞




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下美作の帰還

2014年02月27日 19:09

下美作   
584 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/02/26(水) 20:08:54.92 ID:QLVrXwlQ
下美作(しも みまさか)の帰還

下美作は下吉忠の一族で、慶長出羽合戦では上杉軍の別動隊として庄内大山城を出陣し、六十里越道から最上方の白岩・谷地を攻めた武士であった。

しかし1600年晩秋、直江兼続は下吉忠の軍に上方での西軍の敗戦を知らせる事なく長谷堂城から米沢に退陣。下軍は谷地城で長谷堂城攻防戦を終えた最上方の志村・鮭延軍に城を包囲され、最上家に降伏する事になった。

下一族は最上軍の庄内攻めの先兵となり
下吉忠はその功により田川領主・大山城主2万石、下美作も知行1000石を最上義光から賜った。

庄内に取り残された上杉の将兵でも兼続に不満を抱く者はあり、原美濃、斎藤筑後などが米沢へ帰る道を捨て最上家に知行を願い出た。

時は流れ最上義光の子義康暗殺事件により長谷堂合戦では旧上杉の士であった土肥半左衛門が誅殺

1614年、一栗の乱・清水城攻めでも庄内に残った旧上杉の士分が少なからずこの世を去った。

元和八(1622)年、最上家改易。

その後の寛永(1630年)期頃の上杉家の分限帳には次の記述が残る

下美作 三百石
長井内とどろき鴨生田百五十石
信夫内泉原田百五十石

慶長出羽合戦の後に最上家に仕え
紆余曲折を経て数十年を掛けて上杉家に戻った下美作や他の将士の記録は
他に余り見つかっていない

585 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/02/26(水) 20:15:16.46 ID:QLVrXwlQ
下美作の知行
1600年上杉家内庄内320石
1601年最上家内田川1000石
最上家改易
1630年頃上杉家内300石




586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 15:13:03.07 ID:la622CsZ
あんまり変わってないのは経緯が経緯だからかねえ

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 15:43:36.69 ID:cerd5JNT
比較
1600年上杉家120万石
1601年最上家57万石
1630年頃上杉家30万石

微妙?

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 15:55:04.06 ID:la622CsZ
あ、上杉に出戻った時の知行ね

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 16:10:53.77 ID:8D7+6ECq
敵のど真ん中に味方を放置したまま撤退って相変わらず直江はクズだな
桶狭間の戦いの時、権現様が同じ目にあってたけど

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 18:26:10.49 ID:rpnBvWl8
寝返ったのを誰かのせいにしたかったんだろう