自身の大水牛の立物にも

2017年02月18日 10:20

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/18(土) 00:47:16.67 ID:whq5Nrg7
黒田長政が言った。
「立物、指物でも海老はねにして指すだけでは、
働く時や馬に乗り立てる時には抜け落ちる者である。
立物には穴をあけ、受筒にも穴をあけ、皮で結びつけるべきである。」

 したがって自身の大水牛の立物にも、ふすべ革で結びつけていたという。

(甲子夜話)


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福岡侯の軍鐘を銅鑼に代る起り

2017年01月28日 09:19

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/28(土) 00:43:19.86 ID:fICDsbzp
福岡侯の軍鐘を銅鑼に代る起り

 黒田長政が朝鮮で明兵の銅鑼を分捕った。
銅鑼の音が行軍にはちょうどよく、
従来の鐘はわざわざ一人に持たせていたが銅鑼はその人自らが持つもののため、
持つ人、打つ人の二人を兼ね便利というので、
これから長政の軍はみな二器〔鐘鼓〕を鐘に代えた。
よって今でも福岡侯は軍用の二器にはすべて銅鑼を用いるという。

市川一学の話である。

(甲子夜話)

逆になぜ他では銅鑼が流行らなかったのだろう?



548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/29(日) 21:54:09.34 ID:0gRhgwwT
>>546
ジャーンジャーンジャーン
三成「げぇっ内府!」

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/29(日) 22:21:07.78 ID:n0T35VGg
銅鑼と言えば朝鮮戦争で義勇軍という名の共産党軍は、
銅鑼鳴らしながら攻撃してきてアメリカ軍を恐れさせたとかw

三国志かよw

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/29(日) 23:26:14.26 ID:GDrmIVte
阿片戦争で女性用のおまる使って
砲弾の軌道をそらせようとした清軍よりはマシだな

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/29(日) 23:42:59.96 ID:1xKiVCOY
>>549
銅鑼に加えて死兵なら恐れるのは当然だな、天皇万歳w突撃を想起させる

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 00:06:47.70 ID:E/grpkJH
しかし義勇軍とは、よく名乗ったものだ

日光一文字刀之拵注文

2017年01月13日 11:32

507 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/01/12(木) 23:27:05.87 ID:n7OaOJHp
 日光一文字刀之拵注文

一、はゝき(鎺)上下 印字   むく(無垢)上はゝき(鎺)柏のすか(透)し
一、せつは(切羽) 印字   こきさ(小刻)ミ
一、しととめ(下留) 印字
一、ふち(縁) 赤銅二めんふち(面縁)
一、さや(鞘) ちい(小)さめ
一、目貫 かうかい(笄)  小刀のつか(柄)・つは(鍔) 此方より遣ス
一、くりかた(栗形)かへ(返)り  つか(柄)頭 角
一、こしり(鐺)  しんちう(真鍮)  くさら(腐)かし
        以上
 右ハへし(圧)切之刀ニ少もちか(違)ひ不申様ニ可被仕候、以上、
   閏八月八日(元和九年)      忠之(黒印)
                      埋忠明寿(重吉)老
(黒田家文書)

黒田忠之が父である長政の死後(元和九年八月四日(1623年8月29日))すぐ、日光一文字の拵えを圧切長谷部と
瓜二つに作って欲しいと埋忠明寿に依頼した話。
(なぜ、そろいの拵えにしようとしたのかは不明)

・日光一文字は忠之誕生時に、如水から忠之に贈られている。
・圧切長谷部は長政の遺言で四男高政へ贈られている。
・日光一文字の拵えは19世紀頃には行方不明となり、圧切長谷部の現在の拵えは江戸末期の物
(安宅切とお揃いで、安宅切の拵えの方が先に出来ている。このため福岡市博物館のTwitterに「へし切長谷部と
ペアルック」と安宅切展示公開時に書かれる)

黒田家の刀の拵えはお揃いにしないといけないのだろうか・・・

国宝圧切長谷部一月五日から二月五日まで福岡市博物館で展示中なので
書いてみた。連日沢山の人がきているそうな。




旗奉行は武功の者を撰ぶ

2016年11月23日 14:05

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/22(火) 21:06:11.66 ID:90REVHuF
旗奉行は武功の者を撰ぶ


 旗奉行は武辺功者の人を選ぶものだという。
黒田長政の臣、竹森石見(次貞)という旗奉行が豊前紀伊谷という所の合戦で、
黒田の先手が乱れて逃げ帰るのを、石見自身が旗竿を横に持って士卒をせき留め、
『かかれ!、かかれ!』と言ったので、その軍も盛り返してついに勝利したという。
(甲子夜話)



341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 10:32:50.87 ID:TQklu1C2
>>339
実際は負け戦だったろ

我が先、朝鮮在陣の笑談

2016年10月29日 12:30

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/29(土) 00:42:43.87 ID:lvkvkyyI
我が先、朝鮮在陣の笑談

 雨の中聴く者は外に一人もいないまま、宗耕〔軍講者〕としばらくの間話をしていた中で
朝鮮攻めのことに及んだ。
 耕がその話を言い出した。
「御家にはさぞかしかの国の御獲物があるのでしょう。」
そこで予は言った。


「なるほど、いろいろな所にその時の物もあるでしょうが、
どうにも私の家には一品といえる物が無いといえます。
しかし法印(鎮信)がその役に用いた兜は伝わっているが、
甚だしく粗末な物でなかなか大将が着るべき物ではない。」


予の話を聞いて耕は以下の話をした。


「ごもっともだと承ります。
黒田家でかの役に〔長政であろう〕着られたという御具足を見ましたが、
胴着にしても、俗間に鳶や仕事師が裸に着ている腹懸というもののようで、
前後に革を合わせて首の所に襷にように何か黒く粗末な塗りをし、
破れた所には何か革でふせをして綴りつけていました。
しかし、父公の具足として御子の右衛門佐(忠之)の時に、
その内を金梨子地で塗られて、表は往時のままにされていました。」


 予は思うに、内を新しくしたのは惜しいことである。
それを聞いて、法印公の御兜は昔の時のままなので、
当時の有様を思い知ることができる。


(甲子夜話三篇)


当時はまだ実用品だったと思われるので、
忠之が後に文化財改悪といわれるようなことをしたのも致し方ないようにも思える



黒田長政の勧め

2015年11月04日 06:06

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/03(火) 21:05:31.92 ID:nVddd3NE
関ヶ原について記した一書に曰く、福島正則が小山会議で最初に「御見方せん!」と申したのは、
黒田長政の勧めに依ったのだという。

その内容は、上方に軍が起こった事、小山の御陣に注進があった。この時黒田や福島の先陣は
宇都宮にあった。まず家康は、黒田長政を召した。長政は家康からの使いの旨を察して、
小山に行かず、福島正則の陣に行って「上方に与するのか、または関東に従うのか?」と
問うた。正則は母と妻が大阪に人質としており、その心、定まっていなかった。
ここで長政は

「秀頼公は未だ幼い。それがどうして、内府殿を滅ぼすべしと命ぜられるでしょうか?
これが石田たちの計略であること、明らかです。
またあなたの子である形部少輔は小山の陣におられる。これを捨てて上方に参るのか?
母を捨てるのも子を捨てるのも、人質を捨てるのは一緒である。

また、今の勢いを見るに、内府殿の勢いは弱い、上方の勢いは強い。

であれば、正しきを捨てて邪に従い、強きに付いて弱きを避けるというのは、武士の本意ではないと
私は思う。あなたはどう考えるか!?」
このように言われ、正則の心は決した。

その後長政は小山に参り、この事を家康に伝えた。すると家康は
「そなたを召したのは余の儀に非ず、その事を計るためであった!何と素早く察したものか!」
そう大変に喜んだ。ここにおいて家康は諸大名を小山に集め、人々の心の程を尋ねた時、
福島正則は真っ先に味方する旨を宣言したという。

(藩翰譜)



黒田長政が筑前を望んだ理由

2015年10月04日 12:02

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/03(土) 21:41:24.88 ID:VQ5niA2W
関ヶ原の戦いが終わり、徳川家康は東軍諸大名への論功を進める中、
黒田長政に対してはその功を賞し、豊前を改め他国を与えると決めたが、
そこで家康は本多中務大補(忠勝)にこのように言った

「甲斐守(長政)についてだが、彼には中国筋に2ヶ国も与えるべきか、また筑前は
九州都府の地であり、殊に異国からの防御のため大切の所であり、私は甲斐守をそこに
置きたいと思っている。汝に甲斐守の所存を尋ねて来てほしい。」

そこで忠勝は長政の元に行き、その内意を問うと、長政

「豊前を改め大国を御恩賜あるとの事、誠にかたじけない事です。殊に、都に近い
中国にて2ヶ国は、最も望むべきことです。

ですが、おおよそ今後、天下は泰平となるでしょうから、日本において、御恩を謝し奉る
弓矢の沙汰も起こらないでしょう。一方筑前の守護は、古来よりの都府の地、殊に
異国からの防御のため、先鋒の場所でありますから、武門の大望、これ以上のものは有りません。

であれば、筑前は中国にて2ヶ国拝領することに優っており、我が願うところです。」

これを忠勝より聞いた家康は大いに喜び、長政に筑前を与えた。

(黒田家譜)

黒田長政が筑前を望んだ理由、である。



788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/03(土) 23:07:35.57 ID:22KAeO00
忠勝が使者なのか

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/04(日) 00:19:40.05 ID:v1ZN6V03
忠勝は外交官として、いろいろなところに出向いてるよ

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/04(日) 15:13:47.59 ID:9UrTgLAK
さすが長政さま(棒

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/04(日) 23:04:38.34 ID:1C/BfZUU
長政って名前の人は皆根拠のない自信にあふれてる気がする

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/05(月) 01:00:10.54 ID:6q+ElVn1
浅井と浅野、黒田に山田か
確かに自信家が多そうだ

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/05(月) 01:12:52.51 ID:C1KVxYYq
葉を見て樹を知ったつもりになる
それも大事なことです

795 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/10/05(月) 01:49:06.68 ID:ANXBzaWf
葉を見れば木の状態はおおよそ分かる

黒田長政、晒されている三成に(黒田家譜ver)

2015年10月03日 17:30

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/02(金) 22:44:11.53 ID:PRxEyR6X
石田治部少輔(三成)、小西摂津守(行長)、安国寺(恵瓊)、この3人は
今度の大乱(関ヶ原の戦い)を起こした張本人であるが、戦場にても死なず、
猶も命を免れんと、ここかしこに隠れ居たのを、皆搦め捕られ、先に大阪に遣わされ、
諸大名途上の途中に晒された。

この時治部少輔が搦め捕られている所を、諸大名は何の会釈もなく通り過ぎた。
だが、黒田長政ただ一人、治部少輔の側に来て

「今度の不慮の儀が出来、貴殿の成り行き斯くの如くにて、無念千万な事でしょう。
ですが武士は古よりかかる例も多くあります。これが恥辱であるとは全く思いません。」

この言葉に、さすがの治部少輔もその情けに感じ入り、

「このように成り果ててしまっては、哀れだと言ってくれる人すらいないというのに、
真に情け深く感じています。」

そう言って涙を落とした。

その後この3人は、町中を引き回し、また京都に送られ、10月朔日、あやしげなる荷車にので、
天下の大敵なれば、先例に従って大路を渡された。京中の貴賎男女、これを見物した。
一番は石田、二番は安国寺、三番は小西であった。
彼らは六条河原にて皆首をはねられ、三上の橋の側に獄門にかけられた。

(黒田家譜)

黒田家譜での、三成が晒されている時の模様である




781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/03(土) 05:32:57.65 ID:hb7d9bWS
長政さまかっこいい(棒

782 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/10/03(土) 05:57:08.16 ID:DdaBQTFa
黒田長政「カッコいいとは、こういう事だ」

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/03(土) 07:21:43.81 ID:zYdG7KXx
衣は着せなかったのか

784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/03(土) 07:36:34.24 ID:RBN1Zk/h
長政「衣は歯に着せました」

785 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/10/03(土) 08:37:41.27 ID:L15PhrqJ
この男、ドヤ顔である

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/03(土) 11:31:21.00 ID:dUzku7m+
さすが長政様(棒

これは黒田長政一人の謀を以って

2015年09月26日 17:29

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/25(金) 21:22:32.02 ID:96dtYwcU
おおよそ関ヶ原の軍は、天下分け目の大合戦にて、徳川家の存亡、天下の安危、ただこの一挙にあった。

東方は良将兵を掌り、属する所の猛将多しといえども少勢であった。
西方は総大将無くして、治部少輔が兵権を司るといえども大勢にて、その上太閤の薨去近ければ、秀頼のために
忠を成さんと思う者も多く、殊に、もろこしまで武名を顕した島津、小西、その他猛将また多し。
その上筑前中納言(小早川秀秋)は大軍にて、その家臣たちは皆、小早川隆景が平生教練した屈強の
兵達であった。

この小早川秀秋がいまだ裏切り無いうちに、戦いは既に半ばに及ばんとした時、
敵の旗色良く、勇み進んでいた。この時、もし秀秋が裏切らず松尾山より素早く下りて、敵とともに
味方を防げば、おそらくは勝負がどうなったかわからない。また、もし敵がこの一戦に負けたとしても、
秀秋の裏切りがなければあれほどの惨敗はせず、敵の諸大将暫く弾き退いて、宇治、瀬田の橋を引いて
防ぎ戦えば、敵は大軍であったから、寿永、承久で東兵が利を得たようにはならず、勝敗もまた
心もとない。

また、南宮山の敵、吉川らが内応無く、素早く攻撃にでて、関ヶ原で横合いにかかってくれば、
両方の敵を防ぐことは難しかったであろう。

であれば、筑前中納言、並びに毛利家の返り忠は、内府公天下万世を保たれた枢機であり、
これは黒田長政一人の謀を以って、敵の大群を味方に引き入れ、返り忠をさせて、斯くの如く
莫大の忠功を立てられたのだ。

また、長政が竹中丹波守と言い合わせ、間道を経て敵陣の横合いに出、奇兵を以って
島左近の堅陣を破り直に石田の本陣に攻め入られた故に、一戦に東兵勝利を得た。
これらは真に希代の勤労と言うべきである。

司馬相如が『世必有非常之人而後有非常之功』(世には必ず非常の人があり、後に非常の功有り)と
言ったのは、まさに黒田長政のような人を語ったのだ!

(黒田家譜)

「徳川の天下は全部黒田長政のおかげだったんだよ!」という黒田家譜の熱い主張である。



743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/26(土) 00:16:51.90 ID:QGYiI3d0
長政もあの世で苦笑い

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/26(土) 00:39:15.74 ID:KAo1MPtx
毛利吉川小早川のサボり&寝返りでテル涙目

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/26(土) 09:44:28.11 ID:NvEji9+i
黒田家譜はブレないな

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/26(土) 10:05:10.60 ID:T9zYNIIf
九州でお怒りになられてる方がおります

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/26(土) 20:35:32.56 ID:eZHYdQhF
さっすが長政さんだぜ
孝高超えたな

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/26(土) 21:02:24.34 ID:pGj6ICXj
あたぼーよ52万石(笑)だぜ
だてに逃散させてねーぞ

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/27(日) 09:25:39.55 ID:yZR+BSu7
他の関ヶ原参戦諸侯の検地打出しで石高2~3割増程度だったのに
黒田は7割増だもん、そりゃ色々と問題も出ますわな

筑前守長政は、親の半分なり

2015年09月03日 18:25

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/03(木) 14:00:18.74 ID:20Shf9vm
黒田家三代目の筑前守長政は、自身の功名覚えの数は、親の半分なり。
武勇が父祖に劣っていたわけではないが、大名の生まれ立ちであるので、小事にもまれず、
匹夫の働きを仕るべき様も無いため、自身で手を砕いたことも、父祖ほどは無かった。

日向において薩摩者と合戦の時は、16歳でひ弱であった。薩摩の野郎は、三尺あまりの刀にて
筑前守の刀を打ち落としたため、中脇差しで斬り合いをされ、既に危うい時、大小姓の
井上伝次と申す者、彼も他の敵と渡り合い、鑓で突き伏せ、首を取ろうとしていたのであるが、
筑前守が危ういのを見つけ、倒した敵を打ち捨て横合いに駆けつけ、向かってくる敵を突き倒し、
その頸を筑前守に取らせた。これが初めての功名であった。

その後朝鮮において自身の手柄が3度あるとの事であるが、私はそれを聞き覚えていない。

治部少輔の乱の時、美濃合渡川を一番に渡り敵を追い崩し、我も我もと首を取った。
この時、敵の中に、引き退いていた朱の鑓を持った武者が立ち戻ってきて筑前守に
追い掛かって来た。彼は鑓を繰り出し一歩も引かず、相掛かりに掛かって来、筑前守は
大いに苦戦した。その上彼は馬上一人に徒歩のもの二人を引き連れており、
筑前守は敵い難く思ったが、ここで逃げては大いなる恥である、是非に及ばずと思い
乗り掛かった

ここで、筑前守は龍若という草履取りに兜を持たせていたのだが、この時は兜を着けており、
龍若は兜立てだけを持って供をしていた。ところが、そんな龍若が筑前守の馬の左から
走り出て打って掛かり、彼の朱の柄の鑓を打ち落としたのだ。
ここに筑前守も攻め掛かり、徒歩のもの一人を突きふせ、鑓にて突き詰めながら龍若に頸を打たせた。
ちなみに朱槍を打ち落とされた敵は、行方が知れず、つまり逃げたのだという。

さて、合渡川を渡る時、逃げる敵を追いかけたが、どういうことか、泥の深い堀に馬ともども落ち、
筑前守は兜の、水牛の角の前立ての先端だけが見える有り様であった。
この時、堀平右衛門、林五助と申す者達が駆けつけ、堀に飛び入り、漸く目で見れるところまで引き上げ、
その後筑前守は堀平右衛門の馬に乗せ、堀は林五助の馬に乗ってそれに続いた。林五助は堀に落ちた馬を
引き上げこれに乗ったため、他の者達から殊の外後れ、大事の場を徒に流してしまう結果となり、
彼は豊前において二百石取っていたが、筑前に転封しても、漸く四百石取りに留まった。

合渡川・関ヶ原の合戦で甲斐甲斐しく働いたと見られた者達の内、知行二百石、三百石あたりの
者達は、二千石、三千石取りとなし、俄に勇者と呼ばれ鼻を高くしていたが、林五助は
悪しきことをしたわけではないのに、堀平右衛門に馬を取られたことを甲斐なく思ったそうだ。

(古郷物語)

これが有名な古郷物語の長政disりの一端である。



258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/03(木) 15:01:31.89 ID:0SOmuC4G
甲斐守なら甲斐甲斐しく働くのは当たり前?

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/03(木) 16:23:02.66 ID:3V430k5x
えっ、そうなの甲斐?

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/03(木) 16:49:10.15 ID:48vmJeF2
水から角だけ出てるとはシュールなシーンやな

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/03(木) 21:12:46.08 ID:X32l0URV
角付き兜の愛用者にはよくある事

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/03(木) 21:15:30.35 ID:mIPyY6AR
潜望鏡ですね、ペロペロ

【ニュース】黒田長政の銀色兜、実は金色だった

2015年08月29日 18:51

616 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/08/28(金) 15:08:37.93 ID:MeO/QaIv
黒田長政の銀色兜、実は金色だった 修復中に確認 福岡】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150828-00000030-asahi-ent
20150828-00000030-asahi-000-1-view[1]

液晶テレビ、実は金色だった



617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/28(金) 16:22:05.04 ID:+Ndy3hTn
正則「金の兜をあいつにやるのは癪だから、銀色にしとけや」

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/28(金) 21:59:55.26 ID:4C+tbux8
>>616
あの兜をかぶった有名な肖像画でも銀色なわけだから、やっぱ正則の時が金色で、長政が銀箔塗らせたんだろうな

君主の徳

2015年07月29日 13:08

456 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/07/28(火) 19:59:24.16 ID:hrig4mSX
黒田長政の家臣である林田左門という人は、剣術の大名人として、西国では隠れなき人物であった。

ある時、黒田家中の者達5,6人が寄り合いをした時、このおり林田左門なども来て話をしていたが、
兵術の話になり、その中で若年の者が、彼は力量も強かったため、己が血気に任せて所持強きことのみを
好んでおり、このように語った

「兵法は武士の勤道とは言うが、あながちこれを学ばなくても、武道が成らない、というわけではない。
心さえ臆さなければたとえ兵術は知らなくても、高名を遂げることは出来る。」

そう居丈高に言い放った。
林田左門はこれを聞くと、
「其方の申されること、一理はあるように聞こえる。しかしながら、心剛なる上に
兵法優れていれば鬼に金棒というものではないか?」

しかしかの若侍は血気の者ゆえ
「いや、一心さえ動かずば、たとえ木刀の試合であっても無下に劣るとは思わない!
ちと試合してみたいものだ。」

左門、これを聞くや
「それは良い志である。いざ参らん!」
若侍も「心得たり!」と即座に座を立ち庭に飛び降りると、漆の木に結びつけてあった
長さ一間ばかりの丸太があったのを、「これにて仕らん」と引き抜き、土のついた所を拭い
2つ3つ打ちふるって左門を待った。

左門も座敷を立って縁側を見ると、小さな木刀があるのを見つけ、これを取ると庭に降り
「随分心の及ぶほど精を出し、出来る限りの大力を入れてみられよ。」と声をかける。
「言われるまでもなし!」若侍は丸太を打ち振りかかった。
左門は小太刀を引き上げ、そろそろと寄り、太刀の届く間合いになったと見えた時、若侍が
一打ちにと打ってきた所を、左門は一体どうやったのか、引き外し、飛び違いざまに、太刀の先で
彼の者の額を少し打って「参りたり!」と声をかけた。

若侍「どうやら木刀が当たったようだ。思ったよりも太刀が早い。なかなかあのようには出来ない」と、
持っていた丸太を投げ捨てた。しかし左門は「いや、残念なこと多い試合であった。今一度試合すべし」と
誘ったが、若侍は「いやいや、出来ない」と断った。

457 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/07/28(火) 20:00:02.89 ID:hrig4mSX
双方座に戻り、左門が「今後は私を祈られよ」と言うと、「なるほど心得たり」と答え、
これに一座の人々も笑った。しかしそれから、彼の者の額はみるみる腫れ上がり血も滲んだ。
彼は表には素知らぬ体で居たものの、内心にはよほど面目なく無念にも思っていた。
しかしどうすることも出来ず、その場を立ち退いた。

この次第を黒田長政が聞いて、その若侍を呼び出し
「お前はこの前、左門と試合をし負けたそうだが、そのとおりか?」と尋ねた。
「御意のごとくです。」と答えると、長政

「若者には似合いの良い心ばせである。林田左門であっても打つべし、と思うのは、勇気の
優れた所であり、若年にてその志無ければ物の役には立ち難い。

さて、お前が試合に負けたことは、少しも恥ではない。
何故なら、あの林田左門は兵法の名人としての名を世に許された者である。
その方は素人であれば、どうやっても勝つことは出来ない。負けるのは道理である。

であるが、あの左門に武辺で負けてはならぬ。
剣術が上手だからといって、合戦の時必ず勝つわけではない。兵法不得手であっても、高名は
出来るものだ。こういったことは格別の詮議である。
しかし、だからといって、武芸を修行しないのは、武士の家に生まれた道理に背く。

その方が左門に試合で負けた事を、何時までも心に掛ける必要はない。
上手が勝ち下手が負けるのは定まったことだ。
私も昔、柳生但馬、疋田文五郎などに兵法を習った時、我意を立てて打たれたこと度々であった。
おまえも、今後左門の弟子になって兵法を学べ。習い得れば、かならず人に勝つ。勤めて稽古を
怠ってはならぬぞ。」

これを聞いて若侍は落涙し、そこから直に左門に家に参り、この次第を語り、師弟の契約をなした。
それ故に、後年この若侍は剣術の上手となった。

そしてこの話を聞いた人々は、黒田長政が君主の徳を持っていることを賞賛したのである。
(明良洪範)




458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/28(火) 20:15:13.32 ID:QYbT+Hsr
>>456
同じものを呼ぶ時は同じ名称で書いてね、木刀・小太刀・太刀・丸太
若者は丸太のみで、もう一人は短い木刀だけに読めたが
途中で新しい呼び方が出てくると、もう一回それが登場しているか最初の方を読んで、また戻るの繰り返しになるから
俺の理解が違ったら謝るが、真面目に読んでいるからちょっと気になった

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/28(火) 20:17:54.95 ID:hrig4mSX
>>458
二人の得物に関する名詞がバラバラなのは原文のままなんだよ

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/28(火) 20:58:24.73 ID:IHKs+A9Y
原文左衛門はかく語りき

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/28(火) 21:12:31.49 ID:D5y49FXO
面白く拝読した。お疲れ様。
ただ私も>>458氏に賛成で、これくらいの量になると、
原文尊重もよいが、それなりに読みやすさも配慮して欲しいかなあ。
「所持」は「諸事」の誤変換?
「今度は私を祈られよ」のあたりは意味がよくわからないが…

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/28(火) 21:18:33.82 ID:upKQN8/x
>>461
>今度は私を祈られよ
俺は「これからは私に倣って武芸に励め」みたいな意味にとった


入道辨切

2015年06月26日 11:57

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/25(木) 19:40:52.60 ID:k5vFKm05
入道辨切

ある時黒田長政が、酒井讃岐守忠勝の許を訪ねて
「これは家に秘蔵する、『入道辨切』と名付ける刀ですが、あなたに進上致す。」
と、これを酒井忠勝に贈った。しかし忠勝は差料にもせず、そのまま保存していた。

さて、忠勝の孫の遠江守忠隆の時に、この刀の格好甚だ良しとして、差し替えの刀に拵え、
一つ試してみよと役人に語った所、役人は

「この刀は左文字ということです。しかも『辨切』という異名がありますから、斬れぬはずはありません。」
と答えた。しかし忠隆

「いやいや、黒田家にて切れたというのみで、我家にて試さぬ刀は差料にならず」と
罪人に試してみると、一の胴を見事に斬って土壇を払ったという。

(刀剣談)

黒田で斬れる刀は酒井でも斬れるのだ。



城井鎮房誅殺

2015年05月22日 13:03

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/21(木) 20:24:22.54 ID:3lySmnB7
城井中務(鎮房)は中津城に登城して、黒田長政の前に出た。長政は床の間の方に座していた。
城井は二間ほど隔てて、腰障子の側に着座していた。

城井中務は優れて大力の剛の者で、六尺あまりの大男であった。
二尺あまりの打刀を腰に挿し、二尺八寸ある重代の刀を後ろに立ちかけていた。
彼の表情からは野心が表れていて、長政を敬い慎む礼式もなく、いささかも降参した者の法ではなかった。
長政はこれに甚だしく憤ったが、色を和らげ挨拶し、「酒を出すように」と言うと、吉田又助が酌に立った。

長政は先に酒を飲んで、その盃を城井に与えた。城井は長政、又助の方に油断なく目を配りながら、
盃を取って頂き、左の手にて酒を受け、右の手は脇差の柄の上に置いていた。

又助は酒を酌する時、わざと盃に余るほど酒を注いでこぼした。そして長政が刀を取り良いようにと思い、
城井より上座に立ち退き、長政と城井の間に立ちふさがり、城井の方に近い形で座して、銚子を下に置いた。

長政は、かねて決めていたとおり「肴を!」と呼んだが、長政の声が次の間に聞こえなかったのか、何も返事がない。
少しして再び「太郎兵衛、肴を!」と声高に叫んだ。

その時、野村太郎兵衛「あっ!」と答えて肴を持ち出し、直に城井の前に出て、三方を投げつけると、
つっと寄って一太刀、打った。

城井は左の額から目の下まで斬り付けられた。城井は「心得たり!」と盃を捨てて脇差を半分抜きかけ、
立ち上がろうとした、そこに長政が側においていた刀を抜いて即座に打ち付けた。
利剣によって強く斬られたため、左の肩から胸部の真ん中を割り、後ろの大骨にかけて、左の横腹まで
斬り付けられた。

このため、さしもの猛き城井中務も、たちまちうつ伏せに倒れた。

この時、次の間に控えていた黒田家の侍達が一度に来た。野村太郎兵衛は刀を横たえ、片手をついて長政に
「日頃の御本望にて候。いま一太刀を遊ばせ候へ。」と申し上げると、長政立ち上がり、声をかけて斬りつけると、
後ろから胴と腰を両断した。

(黒田家譜)


城井鎮房誅殺の模様である。




820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/21(木) 23:06:00.73 ID:+/y6zspf
城井は本領に固執さえしなければ
勝ち組で終われたかもしれないのにな

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/21(木) 23:08:41.51 ID:OC5yiJ3B
後藤太郎助ってこの城井鎮房謀殺事件の時の失敗で小姓を罷免されてんだな

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/21(木) 23:13:53.55 ID:b+gF+i9v
家宝の色紙取り上げようとしたんだと思ってた

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/22(金) 01:30:44.72 ID:OBBjjFeo
胴と腰両断ってすごくね?

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/22(金) 11:17:30.32 ID:EzunKgln
伊予の宇都宮が没落してたから城井が移って宇都宮姓に戻ればよかったのにねえ

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/22(金) 11:31:21.72 ID:Ah1heSJm
>>826
シロイチンボウさんはそれをお断りして…

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/22(金) 12:41:57.02 ID:nWgigd4P
「軍師官兵衛」の城井鎮房さんは人間味溢れる様に表現されてたのかしらん?過去の大河でスルーに近かったモブ九戸さんよりは出番があったみたいだけど

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/22(金) 14:36:26.61 ID:qMZR4l5S
>>828殺される回しか見てないがこんな感じ
猪武者の長政を見え見えの罠に引っ掛けたはいいが、結局そのあと孤立してしまい
官兵衛が出した鶴姫の輿入れ案で和議を受諾
「官兵衛のおかげで命拾いした」
とかのほほんしてたら長政に宴会に呼ばれる
実は和議に怒った秀吉が城井を殺せと長政に命じ
渋る長政に清正正則が謀殺案を出して宴会に呼んだのだ
明らかに挙動がおかしい長政を見て酒に毒でも入ってるんじゃないかといぶかしんでると
長政「さ、酒に毒は入っておらぬ」
直後に刀が抜かれいろいろあって謀殺される

やっぱり官兵衛のせいにはできなかったか

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/22(金) 14:48:15.37 ID:nWgigd4P
綺麗な大河にしようとすると、どうしても齟齬が出て来るという訳ですか

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/22(金) 15:25:26.66 ID:9T6wPBzH
>>830
長政の演技よかった。途中で家臣が酒をこぼして村田さんがやべえって顔するところも。このぐらいのクオリティ欲しいよ。

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/22(金) 15:28:03.92 ID:9T6wPBzH
>>831
そのあと、官兵衛は城井息子を首のあたりをひとつきして血を流さず暗殺したよ。恐るべし手練れだった。

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/22(金) 16:06:38.65 ID:ougRKbZY
>>834
生涯で二人しか斬ってないのに随分手慣れてるのな

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/22(金) 19:17:45.20 ID:ogXNSOgp
そりゃあ殿は若年のころ武では蒙武を超えてましたからね

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/22(金) 22:47:19.93 ID:XKOnRrdR
>>830
つる姫は別に輿入れはしてなくて、
侍女たちと一緒に人質として黒田の奥勤めをしてただけじゃなかったっけ?
『黒田家譜』でも「別に長政の側室とかにしたわけじゃないから(震え声」
みたいな言い訳がましい記述があったようなw 
ま、鶴姫関係は実際どうだったかはようわからんがw

>>826
伊予の宇都宮って結局どうなったんだっけか

838 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/22(金) 23:31:06.81 ID:aMlSHOBk
そういや、鶴瓶に乾杯に長政役やった役者が出てたんだけど、
城井家皆殺しとかやったせいか、子どもに怖がられてたのには笑ったw

今日の酌に

2015年05月21日 18:24

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 20:41:53.01 ID:n4nOaZ3m
天正16年正月20日、黒田孝高(官兵衛)は、豊臣秀吉より浅野長政、加藤清正、小西行長ら2万の兵と共に、
肥後国人一揆に苦しむ佐々成政の元へ援軍として向かうことを命ぜられ、2月に肥後へと向かった。

この時、城井中務(鎮房)は、最前まで敵となっており、その上所々に放火し、乱暴狼藉をした存在で
あったため、そのままに差し置き難い存在であった。
彼は一旦の難を逃れるために降参したと言っても、城井谷の城から澤田の邸宅まで、猶も要害を構え
野心を秘めているとの噂も聞こえていた。必ず国の仇と成るべき者であった。
黒田孝高は出陣にあたり、城井に対して必ず油断無いよう言い置いて出発した。

ところが、孝高が出発したあと、城井中務は案内もなく、手勢200ばかり連れて、黒田長政への一礼の為と
言って、不意に中津城へとやって来たのである。

長政はこれを聞いて「誠に一礼のためなら、父子同じく在城の時、日限をうかがった上で、
小勢にて参上すべきであるのに、案内もなく俄に押しかけ来ること、ますます無礼の至である!

もし見目の時に至って、猶も無礼の体であれば即座に誅殺すべし!」そう決定した。

その時、中津城内に居合わせていたのは、武士17人、足軽中元もようやく100人程度であった。

さて、この日の城井への酌をするのに、吉田又助が出ることを命ぜられた。
「いよいよ城井を誅する時は、盃をさした時、肴を乞う。その時に、後藤太郎助(後藤又兵衛長男)が
肴を持ち出て、一の太刀を打つ。私(長政)は二の太刀を打つ」と定められた。

吉田又助はこの時17歳であったが、長政に申し上げた
「今日の酌を仰せ付けられたこと、誠に身の面目と存じます。しかし私は今年、日向での合戦の折
左の膝口を斬られ、命はようやく助かりましたが、陣中でもあったので血を止める暇もなく、
多量に出血したため、体力が弱ってしまいました。

いまは少々歩行が出来るほどに回復しましたが、なおも足腰弱く、手の力も未だに戻っていません。
大事のご奉公を辞退するのは残念ですが、もし御用に立たなければ御為悪しき事になります。
ですので、体の達者なものに仰せ付けられるのが然るべきかと存じます。」

長政はこれを聞いたが
「お前が未だ、体力が戻っていないこと、良くわかっている。しかし今日の酌に、手足のつよきことは
さほど要らぬ。ただ、冷静で動揺しないことが必要なのだ。
酌はお前がするように。」

そう仰せ下したため、又助も重ねて辞退には及ばなかった。
(黒田家譜)


黒田長政による、城井鎮房謀殺に至るまでの記事である。



813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 21:24:42.94 ID:3cTIxd0j
史記の「刺客列伝」中の専諸と荊軻の話の対比を思わせるな
決行の時まで平常通り冷静で居た専諸は暗殺に成功したけど
介添え人が動揺して不審がられた荊軻は暗殺に失敗したんだよね

怪我をした人を採用したのも相手を油断させるためなのかも

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 22:46:44.53 ID:IH69DQB2
荊軻は相棒が高漸離とかだったら結果も変わったかねぇ

黒田長政、若侍に申し聞かせる

2015年04月24日 18:37

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/24(金) 00:34:05.82 ID:rWM40yR+
黒田長政が筑前に在国していた折、猪狩りを催した時のこと。
手負った巨大な猪が疾走して来たため、近くに居た者達は我も我もと弓鉄砲で仕留めようとしたが
当たらず、いよいよ猛り狂って駆け回っていた。そんな中、長政の居る場所から4,50間離れた場所に
若侍が一人、刀を抜いてその猪に向かって進んでいるのを、長政は見つけ、叫んだ

「今猪に向かっているのは侍と見えたが、甚だ無分別である!
側にある松の木を盾にとって待ちかけ、猪が向かってくるのをやり過ごしてから切り留めよと
申し聞かすのだ!」

これに近習の者達、その若侍に向かって一斉に呼びかけたが、聞こえなかったものか、そのまま
居た場所に猪が突進してきたのを、とっさに飛び違えて斬りつけ、同から腹にかけて半分が斬り付けられた。
これにより猪が倒れたところを、押さえつけ一刀で突き貫き、難なく仕留めることが出来、そこで声高に
「仕留めたり!」と叫んだ。

長政は彼を呼び、
「只今の働き、早業と言い見事なる振る舞いと言い、若者には似合わぬものであった。
さりながら、無分別千万のことであった。

その方は、猪を相手にして高名したからとしても、さほどの功になるわけではない。万一斬り損じて
猪に体当りされれば、所によっては死ぬこともあり、死なずとも大怪我をして一生難儀に及び、
武道も成りかねるようになってしまっては、侍一人を獣に代えてしまったようなもので、
大いなる損ではないか!

最前も申したように、猪が怒って駆け回っているときは、あたりに木か石などがあれば、それを盾にとって
待ちかけてから、仕留めるのが良い。もし盾にすべきものがなく、どうしても逃げることが出来ないのなら、
その時は待ち受けて斬り殺すしか無い。しかし今回は盾にできる木もあるのに用いなかった。これは
いらざる汝の無分別である。

お前は合戦に及ぶ時は、弓鉄砲で打ち合わせ血に染まり、あるいは武士同士槍を合わせ突き伏せて、高名を
するべき者なのだぞ。それがどうして、畜類と戦うのか。もし斬り仕留める事ができず負傷させられたら、
見苦しき恥をかいた上の損ではないか。

今後は、その心得を持つように。」

そう申し聞かせた。これに若侍だけでなく、その場に居た者達も感じ入ったという。

(明良洪範)



856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/24(金) 02:23:10.87 ID:jFdn3rY8
さすが朝鮮虎を仕止めた長政さまや!

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/24(金) 09:12:53.27 ID:lwWEPCLz
総大将の心得もお聞きしたいものだ

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/24(金) 10:03:18.29 ID:08uxtKLl
親父殿が生暖かい眼差しで見ておられます

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/24(金) 10:26:07.61 ID:K3SubiTt
その場の全員が良い言葉だけどあんたが言うなよって思ってそう

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/24(金) 10:38:38.98 ID:EAoAIPbX
筑前にいた頃だからこの逸話の長政は爺くさい年齢だったんじゃないのか

黒田長政には、日頃秘蔵の刀があった

2015年03月18日 18:29

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/17(火) 19:34:21.54 ID:8FfE6wwi
黒田長政には、日頃秘蔵の刀があった。誰の作かわからぬが、『命なりけり』と名付けていた。
「小夜の中山」という意味を込めているのであろうか。
(西行法師の歌『年たけて また越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山』)

ある時のことである、長政が江戸城に登城した折。供の者がこの刀を持って供部屋に控えていたのであるが、
どうしたことかこれを打ち倒し、切っ先の部分を少し折ってしまった。

長政の秘蔵第一の刀であったので、もはや運の尽きと覚悟し、家老の栗山大膳(利章)まで訴え
「私は切腹してお詫び仕ります。」と言上した。
大膳はこれを聞くと
「勿論の事である。追って沙汰するまで控えていよ。」と命じて直ぐに長政の前に出、斯様斯様の不調法
仕り候と報告すると、長政は大いに機嫌を損じたが、何とも言わず、奥に入っていった。
そこで大膳は急いで江戸に出てきていた研師の本阿弥を呼んで言った。

「この切っ先を直して、今夜中に仕上げるように。帽子(刀の先端部分)が少し長過ぎる。」

本阿弥は「ご尤もです」と、その夜一晩かかって帽子を直し翌日持参すると、大膳は長政の前に
本阿弥を招いた。本阿弥はここで

「御刀の先が少々折れたのは、むしろ目出度き事です。私はこの刀が前から、帽子が少し
尖りすぎて、形が少々醜いと思っていましたが、昨夜直した所、天下一の御道具と相成りました。」

そう申し上げると長政も大いに喜んで機嫌も治った。
そこで大膳は「本阿弥に遣わす謝礼金は、不調法を仕った者に差し出させましょうか?」
とお伺いを立てると、

「それには及ばぬ。道具が良くなった以上、むしろその男に加増をしてやるのが至当である。」

そう言って、本阿弥には金三枚、不調法をした侍には二百石が加増された。

(刀剣談)




748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/17(火) 19:48:02.88 ID:ES3wbf2c
加藤嘉明なんかも器物を壊した家臣に寛容だね

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/17(火) 20:00:32.17 ID:Ipdt4G74
>「それには及ばぬ。道具が良くなった以上、むしろその男に加増をしてやるのが至当である。」

>そう言って、本阿弥には金三枚、不調法をした侍には二百石が加増された。

いい話過ぎて気持ち悪いw

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/17(火) 20:08:02.16 ID:V2WXvaHB
>>749
大膳「俺には何も無しかよ…覚えてろ」

後の黒田騒動の、隠れた遠因である。

(民明書房「刀剣余談」)

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/18(水) 01:06:00.59 ID:Fr5lGkE2
加増する必要が見当たらないけど、責任とる態度が良かったのかなぁ

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/18(水) 10:21:19.03 ID:kmjs6lpE
また長政が青筋立てながら家来を誉めてしまったのか

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/18(水) 14:55:49.93 ID:k1WFkLmo
本阿弥さんの話術にかかれば武辺者などいちころよ

小介より先立って

2014年08月10日 19:11

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/09(土) 23:38:50.70 ID:Qzute8E0
合渡川の戦いの時、黒田長政の家中・神谷小介は先駆けして
川を渡り、待ち受けている敵の中へ叫び声を上げて攻め入った。

そのために小介は槍玉に挙げられ、まさに危ういという時、
長政の軍兵が進んで攻め寄せ、敵を追い立てた。

小介は流れる血のために朱色に染まっているので、戸板に
乗せられて長政の前にやって来た。この時に小介は、

今日、自分と先を争うような者は、長政以外ありえない、

と思ったので、長政をきっと見て、

「小介より先立って槍を合わせた者は一人もいません!」

と言った。これに長政は、

「お前でなければ誰が先駆けをすることだろうか。手負い致した
者が、気を張って物を言うのは、(体に障るから)よくない」

と言った。後に小介は有馬の温泉に浴し、傷は癒えた。

――『常山紀談』




黒田長政は納得できなかった

2014年07月31日 18:54

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/31(木) 00:21:08.21 ID:jq6ueLWV
(宣教師ヴァリニャーノの)室での滞留により大いに利益を被った二番目の人物は、官兵衛殿の一人息子で後継者であるカイノカミ(=黒田長政)であった。
彼は関白の了承を得、すでに父から豊後国を渡されており、これを所有し統治している。
洗礼名をダミアンと称し、当時二十二歳、または二十三歳であった。
だが極めて優れた理解力と知識の持ち主で、その秀でた勇気と勤勉と相まって、日本で彼に優る者はごく僅かしかなく、したがって関白殿から気に入られ寵遇されていた。
五年前に父の官兵衛が関白の軍勢の武将として、一軍を率いて秋月を襲撃した時に、この息子は関白の命令により、戦場へ父に会いに来た。
当時、彼は十七歳であった。
その折、彼の父は彼がすぐにキリシタンになるように説得し、彼はその地で幾つかの説教を聞き、多くの家臣とともに受洗した。
だがこのたび関白の迫害が襲った時には、まだキリシタンとしては日が浅く、若輩で、我らの教えについてはほとんどなにも知ってはいなかった。
つねに自分がキリシタンであるとは公言していたものの、彼は聴聞したことに大いなる疑問を抱いていた。
特に人間が救われるためには、洗礼を受けてキリシタンになる必要があるということが納得できなかった。
彼には、人間は道理にしたがって正しく生きさえすれば、いかなる宗教によっても救われると思えたからである。


「フロイス日本史」より、1590~1591年頃の黒田長政についての話




411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/31(木) 00:29:46.71 ID:ApMjhh46
なぜダミヤンにしてしまったのだろうか。ネタキャラすぎる。

黒田長政、残された城を

2014年06月29日 18:52

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/29(日) 04:51:10.55 ID:IN8XrTCj
朝鮮の役の時、

小西行長は一番に朝鮮の都に入り高名をしようとして、その道筋の城には手をかけず、直に入ろうとしている、
という情報が聞こえてきた。

そのため黒田長政は小西が通りすぎた道に残された城を攻め落とし、後続の味方が安心して通過できるようにしようと
大道筋に進軍した。中でも昌原の城には大勢が籠城していたのを、長政は昼夜これを攻め、数度の戦いの後ついに乗っ取り、
500余人を討ち取った。

長政が道筋の城々を攻略した事により、後続の軍勢は難なく都の攻め入ることが出来たのである。
(黒田家譜)

黒田長政、小西の進軍の後で後続勢のためのフォローをしていたんだよ、というお話。




224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/29(日) 09:43:42.52 ID:dXKwuvBU
黒田勢がついた頃には都は陥落してたよね?