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三人目は事の外きらひ申事の由

2020年08月02日 18:15

千姫   
239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/01(土) 18:43:07.48 ID:M3sPawsy
三人目は事の外きらひ申事の由


豊臣秀頼の正室であった千姫徳川秀忠の長女)は、大坂の陣の後本多忠刻に再嫁した。
しかし寛永3年(1626年)に忠刻も亡くして、また寡婦となってしまった。
ところが三年後の寛永6年(1629年)、前田利常との縁談の噂が持ち上がった。【細川忠興文書 七五一号】
利常は千姫の妹の珠姫と結婚し嫡男もいたが、元和8年(1622年)に死別していた。
実際は千姫本人や利常の母である寿福院が嫌がって再婚することはなかったが
その理由について細川忠利が忠興あての書状に書き留めている。【細川家史料 細川忠利文書 三三一号】

一、加賀筑州(前田利常)へ播磨の御姫様(千姫)がおましになる話(縁談)は、筑前殿御母儀(寿福院)が
  事の外迷惑がっています。子細は秀頼様・中書殿(本多忠刻)が亡くなられてしまったので
  三人目になってしまうのをとりわけ嫌がっていて[原文:三人目は事の外きらひ申事の由]
  それが並大抵ではないためまだ済んでいません。その上御姫様も迷惑がっています。

忠興は「迷惑がるのはしょうがないが、嫌と申すような事ではない。もっとも筑州の母だから申し上げた
のかなと嘲笑されるようなことだ」と返書で反応している。【細川忠興文書 七六七号】
千姫は翌年にもいとこの松平忠昌と再婚する噂が出たが、続報はなかった。
この二つの縁談は恐らく、寛永9年(1632年)に亡くなる父・秀忠の意向だったのだろう。



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千姫とふたつの縁切寺

2014年03月18日 18:57

千姫   
766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/17(月) 21:56:00.65 ID:aXhP+HHT
千姫とふたつの縁切寺

神奈川県にある東慶寺には豊臣秀頼と千姫を離縁させる際秀頼の娘・天秀尼が入寺したと言われており
もう一方の徳川(新田氏)に所縁の深い群馬の満徳寺は千姫自身が実際に入寺し、御仏に仕えたのち
無事に離縁が成ったと幕府公式では伝えられています
が、実際のところは満徳寺の方も千姫の身代わりが立てられ俊澄上人という方が入寺したようです
千姫の再婚が成ったのち、東慶寺は伽藍の再建、満徳寺は三代続けて大奥から住職が専任されるなど
彼女が二つの寺を手厚く保護していた事が窺い知れます

しかし、千姫が再婚後もあまり幸せとは云えない人生を歩んだところを見ると
神仏に頼るなら代理など立てずに足かけ三年しっかりと自ら仏門に入り禊を済ませてから再出発した方が
よかったのではと思わずにはいられません

何はともあれ徳川家康が可愛い孫娘を豊臣秀頼から離縁させるために普通の尼寺から縁切寺に
仕立て上げられた二つの寺は、江戸時代を通してその役割を果たし続けました

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/17(月) 21:58:04.90 ID:aXhP+HHT
余談ですが徳川(得川)義季開祖と伝わる満徳寺には檀家が無く、徳川家歴代将軍の位牌所という事で
徳川郷450石中100石が与えられ、歴代将軍の庇護のもとに手厚く置かれましたが徳川の世の終焉と
共に廃寺となりました
世良田東照宮といい徳川家の新田の系譜に対する執着・・・もとい所縁の深さを感じるばかりです