文明十一年、臼井城の戦い

2014年03月22日 19:00

790 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/03/22(土) 13:41:30.74 ID:EFmaNP9T
千葉介孝胤は、先年、父の陸奥守入道常輝と共に胤直兄弟に腹を切らせて足利成氏に奉公した人で、
足利成氏から千葉の名跡をたまわった人である。

その後、上杉から、胤直の名跡として実胤を千葉介に任じて下総に遣わしたが、足利成氏は千葉孝胤を贔屓にして
これを千葉に置かれたため、実胤は千葉城に入れず、武州石浜葛西のあたりを知行した。
やがて、実胤は世をはかなみ遁世し、濃州に上って閑居したため、上杉はその兄の自胤を取り立てて実胤の跡を
継がせ、千葉介に任じた。
これを武蔵千葉氏という。

その後、千葉孝胤は長尾景春に味方してあちこちで合戦し、足利成氏が上杉と御和談されるのをしきりに妨げた。
千葉孝胤は、上杉の御敵の一人であった。

そこで、千葉自胤を取り立てて南総州の侍を千葉自胤に付け、千葉の名跡を相続させようと、足利成氏の内意を
得て両上杉から加勢し、太田道灌が下総国府台に陣を取り、仮の城を構えた。

文明十年十二月十日(1478年1月2日)、千葉孝胤は原二郎と木内を先手として下総国境根原に出陣した。
太田道灌がこれに馳せ向かって合戦を始めた。
一日中戦った末、千葉孝胤は敗れ、木内、原をはじめことごとく討死した。
その残党は臼井城に立て籠もった。

文明十一年(1479)正月十八日、軍勢は臼井城を攻めた。

太田道灌は帰陣して、太田図書助資忠(道灌の弟or甥)と千葉自胤が両大将として攻め戦ったが、寄せ手は
小勢だったため、攻め落とすことができなかった。
管領の出馬を願ったが、これもすぐにはかなわなかった。
臼井城は総構えの要害堅固で、力攻めで落とすのは難しい様子であった。

そこで軍を割き、上総国長南の城主である武田三河入道を攻めたところ、七月五日に降参して千葉自胤に
帰順した。丸ヶ谷の上総介も、同じく千葉自胤に降参した。
また、下総国飯沼も落ち、海上備中守師胤も、千葉自胤に降参した。

千葉自胤は千葉へ入らなかったが、両総州の大半が千葉自胤に帰順し、長陣となったためひとまず帰陣しようと
七月十五日に陣払いをすると、その様子を見た城方が城から討って出た。太田図書助資忠も取って返して戦い、
敵に付け入って攻め込んで、ついに城を攻め落とした。
しかし、太田図書助資忠をはじめ、僧中納言、佐藤五郎兵衛、桂縫殿助以下五十三人が討死した。

千葉孝胤が敗れたものの、味方も長陣に疲れたため、それ以上は攻め入らず、千葉自胤は陣払いして
武州石浜に戻った。
しかし、臼井城は千葉自胤の領するところとなり、臼井城には城代が置かれた。

(鎌倉大草紙)

臼井城の合戦というと上杉謙信がボロ負けした事で有名ですが、そのさらに前にも、太田道灌の軍勢が
攻めあぐねた挙げ句、大将の一人を失ってしまった戦いの様子です。
臼井城跡には現在もなお太田資忠の墓が残っています。
ちなみにこの時臼井城主臼井教胤と千葉孝胤が逃亡しており、臼井城は千葉孝胤の支援により臼井教胤が
奪還したようです。




791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/22(土) 15:31:11.27 ID:1KpOvJNW
やっぱ鎌倉大草紙はいいわあ
この教科書っぽい叙述が特に

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/22(土) 16:22:40.14 ID:CtuidhWK
フロイスの後だから余計にそう思うのだろう

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/22(土) 20:00:45.56 ID:WUhJXsOs
>>790
江戸時代にお家再興を嘆願する千葉氏は自胤を祖にすることが多かったらしいけど血統的な問題かな?

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