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新発田重家の乱の始まりとその母について

2021年07月11日 16:53

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/11(日) 10:45:58.82 ID:TuqsCJpE
井地峰(五十公)勘五郎といって、上杉謙信公の御座を直すほど寵愛された者があった。
三条城(新潟県三条市)主であった山吉玄蕃が死去し、後継も絶えていたため、三条城代に
植田坂戸山城主・甘糟近江守(景持)を差し置かれた。
ではあったが、謙信公御逝去の時、その御遺言に、山吉の跡を井地峰勘五郎に下さると有った。
謙信公が御逝去なされると、そのまま勘五郎は剃髪して、道誉斎と改めた。

三条城には城付の、六十二騎の与力が有った。
謙信公が御逝去されて直ぐに起こった御館の乱の騒動故に、勘五郎に山吉の跡を継がせるという話は
遅々として進まなかったが、その間に、かの勘五郎に対して新発田因幡守(重家)が恋慕し、密通した。

この事を上杉景勝公が聞かれ、両人共に不義であると思し召されたが、国の安定のためだとして、御怒りを
抑え仰せ出されなかった。しかし山吉の後を継がせるという話も、いよいよ引き延べとなった。

そのような中、新発田因幡守はかの勘五郎に申した
「山吉の跡職程度のものは、私の手柄を以て、其の方に取らせてやる。」
そう、(景勝への謀反を)語らったが、因幡守は春日山に人質に置いた自分の母を盗み出す方法が
見つからなかったため、母を捨てて夜中に春日山を立ち退き、自分の領地である蒲原郡新発田城に
立て籠もった。

そして井地峰勘五郎を井地峰城に籠め、池の端城には因幡守被官の池端鴨之助を入れ置き、
新潟、沼垂にも城を取り立て、新潟には伯父の新発田刑部左衛門、沼垂には武者善兵衛を籠め、
謀反の色を立てた。

この時、景勝公は春日山に残された新発田の母を御成敗なされなかったが。翌天正十年の秋、
信州より御帰陣し、直ぐに新発田に御発向されるために、越府御逗留の時に、新発田の母が
舌を喰い切って死んだ。
彼女は『幾程もなき命を永らえても、どんな憂き目に遭うだろうか。それに子の因幡も、母の苦しみを
見れば、猛心も弱まり、勇気の障にもなるだろう。』と考え、自害したのだという。

この事について、鉄上野守(原文ママ・上野介)は密かに景勝公の義を得て、彼女が死んだことを隠し、
「諸人への見せしめのために生首を挽くのだ」として、越府の往還の枝道において、そのように
首を切り落とした。(口伝)

管窺武鑑

新発田重家の乱の始まりとその母について。



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「かかる手配りならば、必ず味方敗軍すべし。」

2021年03月22日 17:08

2 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/22(月) 13:05:37.09 ID:LAECT/y2
上杉謙信が小田原城の蓮池まで攻め入り、明日は鎌倉に赴くべしとして、軍評定を行った時、
新発田因幡守治長(新発田重家)、その時十五歳であったが、進み出て申した
「かかる手配りならば、必ず味方敗軍すべし。」

これを聞いた謙信は怒って「舌のやわらかなるままに物を言う!」と怒鳴ると、治長は居直り謹んで
「今日より君臣の義を絶えさせ給わるという事であれば、私は小田原に馳せ参り、北条家の先陣をして
君を追い打ち参らすべし。酒匂川のこなたにて容易く討ち取り奉らんものを」と申した。
謙信はその時色を和らげ、「天晴剛の者よ、神妙にも申したるかな。明日の殿をせよ。」
と命じた。
治長は「軍立てしかじかすべき」とて、やがて事無く小田原を引き取った。

治長は後に景勝の世に及んで二心ありければ、景勝これを討とうとしたが、新発田・五十野両城を
守って、三年を経て城が落ちると、治長は染月毛という馬に乗り、三尺五寸ある光重の刀を
抜き持って、大軍の中に駆け入り討ち死にした。

この馬は極めて色の白い尾であったので、茜の汁を刷毛にて染めると、年月を重ねた後、まるで真紅の糸を
乱し駆けるようであったとか。井筒女之介(尼子十勇士の一人)が、この馬を得て乗ったという。

常山紀談

新発田重家についての常山紀談の記事



高橋掃部介(池端鴨之助)の事

2014年03月29日 18:40

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/28(金) 21:09:29.90 ID:lNP5DXHi
新潟県新発田市で伝わる話しです。
高橋掃部介(池端鴨之助)の事

高橋掃部介は池の端城400貫の知行を領していました。
新発田勢の先方として各地の戦いで勇敢に働きました。
新発田重家の乱にて放生川合戦の前に小坂に陣を布いた景勝は新発田城と池の端城の連絡遮断を狙い竹の花を攻めてきました。
高橋掃部はこれと戦いましたが左乳の下に傷を負い新発田城への退去に遅れてしまいました。
やがて新発田城にこのことが聞こえ父の身を案じた14になる倅が猿橋口に迎えに出ると親の掃部介が太刀を杖につき一人帰ってきました。
親子は手を取り合い喜びあいました

その時掃部介が申すに
掃『この深傷じゃ本城つくまえに俺死んじゃうと思う。今から言うことよくきくんだよ?(・ω+)』
倅『(`・ω・;)ゴクリ』

掃『お前は明日から一族郎党を扶持して一旦軍を解散させなさい。
また、母ちゃんと10才の妹は池の端に立ち帰らせなさい。
来年景勝がまた来て新発田城が落ちるようなら中間の一人や二人つけ中条越前のもとに母妹の二人を落し、お前は重家殿の死後までお供しなさい。
池の端城は明年焼いちゃえ。あ、それからお前の太刀小さいから取り替えてやる。ちょっとまってろ…』

しかし城に入り間もなく傷が重く掃部介は息を引き取りました。
つづく

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/28(金) 21:29:59.31 ID:lNP5DXHi
つづき

掃部介は息を引き取りましたが宝刀は倅にしっかりと渡されました。
倅はそれから親の名を襲名し掃部介と名乗り翌年の新発田城籠城に際し、15歳にして兜首1つ母袋武者2騎を討ち取る手柄を挙げました。
その内三人目の母袋武者は先年の戦いで父に槍をつけた男で、因縁とは不思議であると人々は申したといいます。

しかし天正15年10月28日ついに新発田城は落城の朝を迎えてしまいます。
重家と別れた掃部介は太斉口にいる中条越前は叔父であれば備えも乗り切れると思い、また搦め手で討ち死にしようものなら末代までの恥と思い、堂々と表門から出ました。
寄せ手や落ちのこりの者は大将首が落ちるのをみて一斉にかかってきましたが、難なく打ち払い宮内の八幡林を目指し落ちていきました。

そして池の端城に入って母と妹を中条越前のもとへ落ち延びさせ、翌29日手勢30騎あまりを率い城門よりドッと突いて出て寄せ手を蹴散らしそのまま行方不明になりました。
あとで聞いた人々は天晴れ剛強の大将と褒め称えたとのこと です

つづく

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/28(金) 22:07:11.87 ID:lNP5DXHi
つづき

こうして池の端城は落城しましたが、戦が終わり世の中が穏やかになったころ、掃部介は宮内に住んでいました。18歳になっていた掃部介は40余年間宮内に住んで寛永の末ころ亡くなりました。
八幡林に柴垣をめぐらし、常々言っていたことは
『因州(重家)の供をしていたならば、身上も稼ぎ、損もしなかったものを、主の後先を見離したので周囲の人の目が恥ずかしい』
と、いつ襲い来るかわからない敵を注意して生活していました。

また、宮内の神主に折々神事の頼み事があったので協力していたとのことです。
そのうち宮内八幡の神主の跡が絶え、加治佐々木の一族で佐々木右京、後に相模と名乗る者を後継に迎えました。この者は元和年間に宮内へやって来て54歳で亡くなります。
その二十歳くらいまでは掃部介も生きており『爺様爺様』となついていたようです。
波乱に満ちた掃部介にとり最も穏やかな日々であったことでしょう。

というのが言い伝えであります。
ですが文禄三年の定納員数目録によると色部氏平林在番衆に池端鴨之助で20石5斗、2人3分5厘役と記されており、高橋掃部介(池端鴨之助)は実在の人物であり宮内に住んでいたのはあくまで逸話のようです。

ちなみに掃部介は美濃の出身。斎藤道三の一族であるとされています
終わり

地元には他にも新発田重家の遺児のその後など伝承があります。粗末な長文失礼しました