686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/30(日) 14:22:53.03 ID:DIHxGh2+
熊沢半右衛門高久(守久)は初めは喜三郎といって、その父は平三郎という。
平三郎は尾張の人で、三河へ行って徳川家康に仕え、三方ヶ原で討死した。
その半右衛門は福島正則に仕えた。正則が領国を召し上げられて信濃へ流される時、
江戸屋敷をも受取の人数が取り囲み、もし上意に背く者がいれば討ち捨てるとの
ことだったので、
家士は大方が落ち去り、七、八人が屋敷に残った。半右衛門も残った一人だったが、
主人正則が流される途中で殺されるであろうとの風聞があったので、
江戸屋敷を立ち出て正則の後ろ辺りに付き、信濃までやって来た。
その時、正則は平生の愛が深くなかったことを悔やみ、
懇ろに至忠の情を感謝したということである。半右衛門は後に水府公に仕えた。
――『明良洪範』
熊沢半右衛門高久(守久)は初めは喜三郎といって、その父は平三郎という。
平三郎は尾張の人で、三河へ行って徳川家康に仕え、三方ヶ原で討死した。
その半右衛門は福島正則に仕えた。正則が領国を召し上げられて信濃へ流される時、
江戸屋敷をも受取の人数が取り囲み、もし上意に背く者がいれば討ち捨てるとの
ことだったので、
家士は大方が落ち去り、七、八人が屋敷に残った。半右衛門も残った一人だったが、
主人正則が流される途中で殺されるであろうとの風聞があったので、
江戸屋敷を立ち出て正則の後ろ辺りに付き、信濃までやって来た。
その時、正則は平生の愛が深くなかったことを悔やみ、
懇ろに至忠の情を感謝したということである。半右衛門は後に水府公に仕えた。
――『明良洪範』
スポンサーサイト