252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 06:04:23.93 ID:pXZRTHXC
加藤掃部左衛門(加藤清次)の話
山形西方の加藤家には加藤清次にまつわる言い伝えがいくつか残っている
慶長5(1600)年、直江軍の大軍に昵懇の仲であった江口道連篭る畑谷城が攻められている様を聞いた清次は、
すぐに従者らに武装をさせ、わずかな手勢だけで独自に救援へと赴いたが、援軍は間に合わずに落城の瞬間を
目撃してしまう
(直接道連の自害を見届けたといった話もあり)
悪戸には山形城から明け逃げをし、山形へ集合せよとの命令があり、清次は一族の子女を避難させ、
山形城へと向かった
清次は長谷堂城北方の戦いに出陣し、現在「掃部の碑」がある辺りで討死したと伝えられている
しかし、半月に渡る混戦で、悪戸から参陣した兵らも多くが還らず、清次の死の詳細は不明な事が多かった
上杉軍の撤兵後にわずかに生き残った悪戸衆の兵士らから加藤家に、概その戦死の際の話がもたらされた
加藤家では9月14日を加藤清次の命日としている
253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 06:10:42.29 ID:pXZRTHXC
※碑の位置から9月14日の討ち死にではなく
翌15日の清水義親・楯岡光直隊による夜襲や
9月16~29日の局地戦が可能性として上げられる
加藤掃部左衛門(加藤清次)の話
山形西方の加藤家には加藤清次にまつわる言い伝えがいくつか残っている
慶長5(1600)年、直江軍の大軍に昵懇の仲であった江口道連篭る畑谷城が攻められている様を聞いた清次は、
すぐに従者らに武装をさせ、わずかな手勢だけで独自に救援へと赴いたが、援軍は間に合わずに落城の瞬間を
目撃してしまう
(直接道連の自害を見届けたといった話もあり)
悪戸には山形城から明け逃げをし、山形へ集合せよとの命令があり、清次は一族の子女を避難させ、
山形城へと向かった
清次は長谷堂城北方の戦いに出陣し、現在「掃部の碑」がある辺りで討死したと伝えられている
しかし、半月に渡る混戦で、悪戸から参陣した兵らも多くが還らず、清次の死の詳細は不明な事が多かった
上杉軍の撤兵後にわずかに生き残った悪戸衆の兵士らから加藤家に、概その戦死の際の話がもたらされた
加藤家では9月14日を加藤清次の命日としている
253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 06:10:42.29 ID:pXZRTHXC
※碑の位置から9月14日の討ち死にではなく
翌15日の清水義親・楯岡光直隊による夜襲や
9月16~29日の局地戦が可能性として上げられる
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