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一正は孝の道を失い給わなかった

2021年09月28日 18:20

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/27(月) 19:43:46.74 ID:xV8PlI/W
文禄年中に高麗陣が起こると、生駒雅楽頭(親正)は老年にして遠陣相合わず、
令嗣讃岐守一正に世を譲り、自身は東方6万石を隠居領とした。一正は西讃岐
12万石をもって丸亀山の城に居住した。

そんなところに慶長5年の兵役が起こり讃岐守一正は関東の命に従い、会津陣
に赴いた。その後で石田治部少輔三成、毛利家、宇喜多家を始めとして反逆を
企て濃州大垣へ赴いたが、その時に秀頼公の命として在国の諸将を誘引した。

生駒正規(親正)は秀吉公の御取り立てなので、秀頼公の御催促を今更否とは
言わずして西方の軍に加わった。そのようなところで関ヶ原の戦に西方の師は
敗れたため、正規は周章狼狽した。

讃岐守一正は忠勤の御恩賞に東讃岐6万石を合わせ賜り、一国の主と仰せ付け
られた。正規は生害なさる旨を仰せ出されたが、一正は今度の忠勤に代わって
父の命を申し受けたいとのことだったので正規の一命を一正に下された。一正
は孝の道を失い給わなかったのである。

――『南海通記』



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「いぬ~いぬ~」

2014年04月15日 18:40

983 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/15(火) 15:26:55.42 ID:ahg1863w
四国霊場八十番札所、国分寺は聖武天皇の勅願により、行基が開基したと伝わる古刹である。

空海が堂宇を増設したとか、律令制度と共に衰退したとか、鎌倉時代に再興したとか・・・まぁ、
歴史が古いだけに色々あったが、天正のころには度重なる兵火で廃れ果てていた。しかし慶長のころに
生駒一正により再建された。

この寺には開基より伝わる梵鐘があり、古くより音色の良さで知られた名物だった。一正はこれに目をつけ、
高松城の時鐘にしようと田1町と無理やり交換した。
しかし予想よりもはるかに重く、運ぶのに難儀したうえ、城についた途端、音色がよいどころか
「いぬ~いぬ~(帰る帰る)」
とヘンテコな音がでた。
おまけに城下で悪疫が大流行し、ついに一正も病に臥してしまった。
そして毎夜、一正の夢枕に梵鐘が出てきては
「いぬ~いぬ~」
と、しくしく泣いたという。
これには堪らず、一正はついに鐘を国分寺に返すことにした。
不思議なことに、城へ運ぶ時とはうって変わり、軽々と運べた上、寺についた途端に再び美しい音色を響かせた。
いつの間にか疫病も収まったという。

この梵鐘は国の重要文化財として今でも国分寺に伝わっています。

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「いや~ん、いや~ん」


984 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/15(火) 16:14:32.09 ID:ahg1863w
寺を修復して、代価を払って鐘をもらったのに祟られた一正さんが報われない気がします。

988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/15(火) 21:53:19.28 ID:sUrxygr0
>>984
修築に金出したとはいえ、その代価ともいえ無理矢理金受け取らせて嫌がる相手から奪うように
取得しておいてそれはちょっとねぇ・・・
生駒さん家は親父の親正が丸亀城の石垣の件で石垣づくりの名人殺したり、
無実の豆腐売りを人柱に(親正指示じゃないかもだが)して埋めたりして軽く祟られてるからなぁ。