”八幡大菩薩”の大旗を差しかざし

2017年01月21日 10:29

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/20(金) 22:32:00.52 ID:KtL+lcuT
天正10(1582)年、伊豆方面で武田氏に対していた北条方では、戸倉城主・笠原政堯の寝返りや
笠原平左衛門(照重)の討ち死にもあって士気の低下が著しく
小田原での評定により、最前線である大平城の守備を玉縄城主・北条氏勝と交替させる事になった。


氏勝の軍勢が箱根を越えた頃、大平城から使者が来て
「おのおの方が城番としてやってくる事を敵が聞きつけ、三島の辺りに伏兵を潜ませたとの風聞があります
ここは軍勢を迂回させて城に入るのがよろしいでしょう。このまま進んでもし不意の合戦になっては交替もできなくなってしまいます」
と伝えた。

それを聞いた氏勝は
「もっともではあるが、敵をも見ずに迂回して城に入るようでは、戦う前からすでに相手は弱いと敵に知らせるようなものだ。
たとえ武田方が軍勢を配して待ち伏せしていたとしても、蹴散らして通るまでだ」
と答えて、”八幡大菩薩”と書いた大旗を差しかざしてまっすぐ大平城に向かい、やすやすと城兵の交替を済ませてしまった。

(小田原北条記)より


実際に伏兵がいたのかはさておき、兵書に言うところの
「正々の旗は邀(むか)うることなく、堂々の陣を撃つことなし」という感じの話



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北条氏勝の書状

2014年04月26日 18:48

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 13:49:01.22 ID:zKQ+OnJX
秀吉の小田原侵攻が目前に迫った、天正18年2月。伊豆・山中城へ加勢として入った北条氏勝(綱成の孫)は
自身の本拠である相模・玉縄城の留守を守る家臣の堀内勝光に書状を送った。以下は意訳。


……秀吉が近日京都を出陣する事を現地に派遣している者が報告してきました。
正確な日時は不明ですが、兵力は20万人だそうです。その他にも北陸や奥羽の連中も関東に攻めて来るとの事です。

我ら山中城の軍勢は僅か5千人で、こんな大軍を防げるはずがありません。
ですから小田原へ「もっと加勢を寄越してくれ」とお願いしていますが、未だに承諾されず送ってきません。
そんな状態ですので山中城を1日保たせるのも難しいでしょう、討死は確定です。

落城の報せを聞きましたら、以前内々に話し合ったように玉縄城の事はあなたに任せるので
留守の者達を集めて籠城し、最後の一戦を挑んでください。
そして惣曲輪・二ノ丸まで破られたなら本丸に籠り、私の母(氏康の娘)を刺し殺して城に火を放ち、勿論あなたも切腹して下さい。
詳しい事は(書状を持っていった)西原越前が話します…(以下略)

『丹波堀内文書』


さて、この後どうなったかというと、御存知の通り1ヶ月半後に山中城は半日足らずで落城。
北条氏勝は城を脱出して玉縄に帰って籠城するも、本多忠勝の説得をうけて4月21日に開城し
戦後、下総弥冨で1万石を領している。


討ち死に覚悟で大層な手紙を寄越しておきながら
生きて帰って来てしまったという、ちょっとばつが悪い話。