謀聖、終生のライバルと夜襲

2014年05月02日 19:17

陶興房   
180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/02(金) 00:16:48.94 ID:w/ilQyvt
謀聖、終生のライバルと夜襲

大内家家老、陶興房。大内氏譜代の重臣陶家の陶弘護の3男であるが、父が暗殺された後に起きた長兄・武護と次兄興明の争いで次兄興明が死に、
後に長兄武護が主君大内義興に誅殺されたことにより陶家の家督を継ぎ、長じて大内家の家老として文武両面で主君義興を支える存在となる。
戦場で常に主君義興を補佐し、大内軍の副将として各地で戦ってきた興房は1511年、船岡山合戦で一人の戦国大名と出会う。
足利義稙を擁する大内義興、細川高国に従い上洛した山陰の尼子経久である。
敵方の足利義澄方が陣取る船岡山を囲んだ大内連合軍であるが、その直前に擁する足利義澄が病死したにも関わらず
戦意旺盛な敵方を攻略するために尼子経久は大内の副将たる陶興房に一つの提言をする。

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/02(金) 00:40:25.99 ID:w/ilQyvt
経久「敵方に夜襲を仕掛けてはいかがか?我が軍が先陣となれば敵兵全て葬って差し上げよう。」

これに対し、丹波で合流したばかりの西国の兵を信用できなかったのか、直前に赤松義村が裏切ったこともあってか興房は

興房「我が大内軍は夜襲が苦手でな・・・」

と、夜襲の提言を退けたと言う。なお、その船岡山合戦の結果は・・・

大 内 軍 が 先 陣 と な っ て 夜 襲 

した事で大内義興・細川高国連合軍が勝利。京は足利義稙側の手に戻っている。
興房が尼子経久の夜襲の提言を退けた後、自分達の手柄とする為に大内軍が夜襲を仕掛けたのか、それとも尼子経久が義興に直談判して
夜襲を決意させたのかは定かではない。
ただ、山口県文書館蔵の義興の手紙には大内軍大将の義興自身が先陣に立ち、夜襲軍を率いていることなどが伝わっていることから
義興は夜襲にノリノリで賛成したのではないかと思われる。

この数年後に尼子経久は中国地方へ覇を唱えんと、義興不在の山陽地方に手を出すのであるが、この時経久の提言を退けた陶興房が
何度となく彼の前に立ちはだかる事となるのである。

終生のライバル同士の初の出会いにして相手の手柄を横取りしたようなされたような、ちょっとだけバツの悪い話。

182 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/05/02(金) 00:58:07.28 ID:w/ilQyvt
>>180-181に追記。
この時、陶興房は尼子経久の夜襲の提言を
「大内軍は夜襲が苦手ゆえ・・・」

と断っているが、実際に1524年に安芸・佐東銀山城の戦いで援軍の尼子方・毛利元就連合軍の夜襲を受けて破れたりしている。
夜襲(されるの)は確かに、苦手だったのかもしれない。
しかし、この戦で毛利元就の存在とその武勇、安芸における重要性を知った陶興房は、先に毛利家で起こった、元就と
弟元綱の家督争いで尼子家と毛利家の関係の危うさを見抜き、翌1525年に調略により毛利家を大内側に寝返らせることに成功している。

名将は転んでもタダでは起きないのであった。




202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/04(日) 19:07:58.69 ID:I+S/6sjV
>>180-182
こういう逸話好きだなあ

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