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その家業を失うべからず

2021年10月01日 17:01

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/30(木) 21:06:20.18 ID:ZsYDNCAX
飯沼五郎兵衛(常政。香西氏の家臣)は代々武勇の家である。また自身も
阿州重清合戦で場中の高名をあらわし三好存保(十河存保)の感状を賜る。

讃州伊勢馬場合戦で予州衆の鉄砲に膝の口を撃たれ、不具の身となり隠士
となった。彼が子弟に教示して曰く、「汝らは必ず主君を求めて奉公せよ。
三代に渡り仕を求めなければ、姓氏を絶やして凡民となるのだぞ」。

実に然り。天正の乱後、家産ある者は田野に交わって身を隠し、蓄積なき
者は主君を求めて四方に走った。君主を頼った者は姓氏を継いで武士とな
り、君主を頼まざる者は姓氏を絶やして凡民となった。

人としては必ず、その家業を失うべからず。

――『南海通記老父夜話記)』



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松永「だから言ったのに…」

2018年09月27日 18:55

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 22:51:21.90 ID:iu+zB/OK
永禄三年十二月、十河民部大輔一存と松永久秀はその仲悪しく、常に不快を現していた。
その頃、十河は病を煩い有馬温泉へと湯治に向かったが、この時松永は意見申した
「有馬温泉の権現は葦毛馬を御咎めある神であり、その馬は用いるべきではない。」
しかし十河は松永の申すことを用いず、また松永も十河の言うことを背ける間柄であり、
この時も十河はこれを聞かず、葦毛の馬に乗り湯治のため山を登ったが、案の如く落馬して
たちまち死去したのは不思議な事である。命運尽きるとは言いながら、あえなき事である。

(足利季世記)

松永「だから言ったのに…」



211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 13:10:37.85 ID:DY2JVs++
>>206
警告したから暗殺してもばれないな!ってことじゃあるまいなw

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/28(金) 22:29:03.73 ID:pcpbQ0P5
>>206
上杉定正「落馬して命を落とすとは…」
鬼義重「武士の名折れよ」

源義朝・太田道灌「温泉いいよね!」

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/28(金) 23:50:11.14 ID:nWlOr0St
>>227
源頼朝「呼んだ?」

篠原長房と十河一存の対決の顛末

2015年07月20日 13:17

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/20(月) 02:31:08.71 ID:e5AVgIyj
三好実休が事実上の国主として阿波を治めていた頃のこと。
実休やその弟・十河一存をはじめ多くの家臣が新当流の内藤
太郎兵衛という武士から武芸を習っていたが、篠原孫四郎は上方
からきた式部なる者から指南を受けていた。

ところがあるとき式部が「新当流は実践の役に立たない」と批判したことが
実休の耳に入り、それならばと、それぞれから教えを受ける一存と孫四郎に
立ち会いをさせ、それが事実かどうか確かめようということになった。
試合の結果は、孫四郎があっさりと勝利し面目を施したが、悔しいのは
敗れた一存である。

その後、御番として一存が妙永寺に勤めていた時に式部が見廻りに来た
ときのこと。一存は悔しさから「なんとかならんか」と家臣の十河新左衛門に
ささやいたが、これを聞いた新左衛門は式部を殺すように命じられたものと
合点し、式部を不意打ちして斬り殺してしまった。

武芸の師範を殺された孫四郎は激怒し、「一存を討つ」と息巻いて、2日のうちに
五十騎が孫四郎のもとに参上する事態となった。
この状況に実休は「一存のことについては、長房の納得の行くように処置する
ので、今回のことは堪忍してほしい」と長房をなだめるとともに、彼を惣侍頭に
取り立てて事態の解決をはかった。

すると、一存の配下にあった者達が軒並み一存の元を離れて孫四郎の配下に
なることを望んでしまったため、やむを得ず実休は侍衆を二分し、半分を孫四郎配下に、
もう半分を叔父の三好康長の配下にしたのだった。
なお、この孫四郎こそ、後に三好実休・長治父子のもとで手腕を発揮し、畿内で活躍することに
なる、篠原長房の若き日の姿である。

『昔阿波物語』より、篠原長房十河一存の対決の顛末。それにしても、鬼十河さん、カッコ悪いっす・・・



84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/20(月) 23:21:36.49 ID:adbEZRuN
>>80
なんかこう、何とも言いがたい微妙に悪い話…
鬼十河にはとても悪い話なんだろうけど。

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/21(火) 02:12:14.56 ID:GULIsTHj
さすが篠原さんは若い頃から人望あるな

『鬼十河』と呼ばれた逸話が

2013年01月28日 19:53

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/27(日) 23:21:03.26 ID:dVcawtOG
良い話とかと関係ないけど、まあ記録が間違ってたかなんかだろうけど
十河一存の逸話にある寒川氏を攻めた時の
神内左門という侍に左腕を槍で貫かれ傷口に塩すりこんで
そのまま神内左門を討ち取って悠々と帰り『鬼十河』と呼ばれた逸話ね
これ1532年って事になってるけど鬼十河が生まれたのは1532年なんだな
つまり寒川氏を攻めた時の十河一存は0歳児の赤さん
そりゃ人間離れした行動で鬼十河と呼ばれる訳だ。




204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/27(日) 23:26:50.12 ID:dVcawtOG
1532年だと三好氏は元長が死んでテンヤワンヤだしまあ単純に年間違えただけだろうけどw
実際は状況的に考えると1550年前後だろうけど

「帰ってきた」兵士たち

2010年05月21日 00:01

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/19(水) 23:34:50 ID:NBTd3EST
もう一つ 一応は十河存保になるのかな、悲しい話

九州征伐の命を受けた四国勢は仙石・十河・長宗我部の軍勢で編成される事になる
そして三好氏の生き残りである(十河)三好存保(御存じ実休の次男)と十河存之(一存の次男で家老・存保より年上)は
破竹の勢いで九州統一を推し進める島津氏と戦う為に九州へ・・・
旅立つ前に存保は『まだ千松丸は豊臣秀吉に謁見してない。
自分が亡くなったら必ず秀吉に謁見させ、十河家を存続させるように」と家臣に伝えて旅立った

その後、12月12日の十河城
農民『おお、十河城に兵士が帰って行くだ、お殿様が帰って来たのか?』
十河の町で田んぼを耕していた人達は、300人ほどの兵士が旗を持ちお城に入っていくのを見た

農民『これはもうすぐしたら十河殿が帰って来るのだろう、早速城へ行くだ』
農民たちはお殿様が帰ってくる知らせかとお城に行くと

家臣『いえ?殿はまだお帰りにはなっておらぬ、それに兵達はまだ帰って居らぬぞ?』
農民『可笑しいのぅ・・・儂はちゃんとこの目で見た筈なんじゃが・・・』
城の中には誰もそんなことは知らず農民の言葉を不思議に思っていた
その数日後、十河存保達が全滅した十河城に伝えられ家臣は悲しみにくれる
存保氏が亡くなった日も、兵士達が現れた日も12月12日でした。

家臣『じゃが、まだ我々には千松丸様がおられる、秀吉殿に謁見を急ぐのじゃ』

千松丸は秀吉に謁見し、存保に劣らないと誉められて讃岐へと帰郷
だが十河氏は改易され生駒氏が治める事になるが
家臣『千松丸様が生きているだけで儂らは何ら不幸な事はない』
十河氏は生駒親正から『鼻紙代』と称し3000石を与えられ、千松丸は生駒親正が養育する事になる

「命すつるも子ゆえにすたれ けなげなれとよ 千松丸」




863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/20(木) 01:05:52 ID:qwgOWHBJ
>>860
なんか太平洋戦争であった不思議な話で出てきそうな話だな
昔からこんな話ってあったってことかな?

十河一存が寒川元政を攻めた時のこと

2009年09月14日 00:26

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 02:51:28 ID:JoUvlw6g
十河一存が讃岐国池内城の寒川元政を攻めた時のこと。
ある日、一存は近習の鴨部源次が落ち着かない様子でいるのに気づいた。

「そうか…お前の兄は、寒川の家臣だったな。かつての主君や家族に弓は引けまい。
よし、ここで暇乞いをくれてやる。兄と馬を並べて戦場に立て。」
「お言葉ですが殿、私は二心など持っておりません。疑われるのは心外にござる!」
「お前の忠義は知っておる。が、あえて言う。実家に戻り遠慮なく、わしに掛かって参れ。」

感激した源次は、「一存様に太刀打ちするは、必ずや我ら兄弟なり。」と誓いを立て、
一存もこれを喜んで、別れの盃を与えて名残を惜しみつつ、源次を去らせた。

数日後、果たして源次とその兄・神内左衛門が士卒五十人ばかりを従え、一存の本隊へ
真一文字に襲い掛かり、左衛門の槍が一存の左腕を貫いた。
「殿!!」
家臣団の悲痛な叫びもどこへやら、一存は太刀で左衛門の槍を切り折り、返す刀で
左衛門を討ち果たした。
鴨部源次は三人を切り倒し、七、八人に手傷を負わせる活躍を見せ、討ち死にした。

一存は普段と変わらぬ挙動で帰陣した。
「はて、深手を負われたと聞いたが、ご無事だったようだな。」
家臣たちは胸を撫で下ろしたが、しばらく後、一存と湯治に行った家臣は仰天した。
一存の左腕に、生々しく槍の貫通した傷跡が残っていたからだ。
「と、殿!その傷はいったい……」
「ああ、これか?戦の最中に騒ぐわけにもいかんので、塩をすり込んで消毒し、藤ヅルを
巻いて血止めしておいたのよ。」

敵に優位を与え、重傷に平然とする豪胆さに、人は彼を「鬼十河」と呼ぶようになった。





349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 03:33:28 ID:wwdkFitz
鬼だけど普通にいい主君だしかっこいい…

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 03:52:17 ID:jM56fVvM
近習使って、近習兄をこっちに引き込もうと考えないのは鬼の鬼たる所以か。


382 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/09/13(日) 17:11:03 ID:rM/O4ano
>>348
久ちゃん「おや、その腕の治療には温泉がよろしいでしょうな。あ、馬は葦毛はやめなされ」


十河一存の「十河額」

2009年06月25日 00:11

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/24(水) 21:24:50 ID:aBW2x/PC
>>720 泰平の時代の若者のお話をばひとつ

十河一存は、「鬼十河」または「夜叉十河」といわれた讃岐の猛将で、
その武勇から家臣たちからも信望厚かった。
一存の髪型は前髪をぜんぶ引き抜き、
さらに月代を大きく広げて剃り上げる「十河額」と呼ばれるもので、
家臣の中には「十河額」を真似する者も多かったという。

家光の頃、旗本小普請組の二男・三男の若者たちに、「十河額」が流行した。
前額から頭の中央にかけて月代を四角に大きく剃り込むもので、
十河一存の武勇にあやかろうと真似をし始めたといわれています。

一存が「十河額」にした理由は、肌が弱く、長時間兜をかぶっていると、
汗で蒸れて湿疹になってしまうので、それを防ぐための実用的な髪型だったようである。





725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/24(水) 21:30:06 ID:mPf4hIIK
>>724
肌の弱さを克服すべく?
有馬温泉に湯治に出掛けたのが……(´;ω;`)ウッッ..

726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/24(水) 21:36:19 ID:rj2QQT/X
頭剃らずに兜を被ってると蒸れて逆上せるらしいね
尚文の民族、漢人、朝鮮人は頭を剃る習慣がなくて
尚武のモンゴル、満州、日本に頭を剃る習慣があるのはそのためだと聞いてなるほどと思った
眉唾かもしれないけど

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/24(水) 21:51:40 ID:/WJyT9UD
前髪を引き抜くってのはそれだけで痛そうだなぁ…

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/24(水) 22:49:33 ID:6bpcY2ok
>>726
眉唾だと思うぞ。
ヨーロッパでも中東でも頭髪を剃る習慣は無かったよね?

732 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/24(水) 23:01:32 ID:J3U3/59Y
月代ってただのハゲ救済策だろ
頭髪史に残る革命だったと思う
蒸れ云々はただのこじつけ

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/24(水) 23:09:35 ID:tF5aaT40
いや、源平の昔から月代は、元々兜がずれたりしないよう、しっかりと固定するため剃っていたもの。
なので合戦の時は剃っていたが、普段は伸ばしていた。
そして武士以外が剃る事は無かった。

月代が「国民的」ファッショになったのは、実は平和になった江戸時代から。
「安定した強力な統一武家政権」という、実は日本史上初めての物が成立したため、
武士以外も武家風にあこがれたためらしい。

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/24(水) 23:38:16 ID:rj2QQT/X
>>731
ヨーロッパでも丸坊主にしてたと思ったが
アラブ判らないな
環境的に兜付けたんだろうか?

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/24(水) 23:43:41 ID:tF5aaT40
>>741
ヨーロッパ貴族がカツラつける風習って、元々は兜かぶるために毛を剃ったためだと
聞いたことがあるな。

743 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/24(水) 23:54:24 ID:lzhZxEtK
>>724
戦国期までは髪の毛を、手でひっこ抜いたりして、若者は苦痛だった。
かと言って剃刀とか使うのは「縁起が悪い。」て言われてて、禁忌だったらしい。
これが嫌で元服を拒む者もいたし、頭皮が痛んで戦や仕事にならない者もいた。
そこで織田信長が「織田家の者は、剃刀で髪を剃って良い。」
と許可したので、その後は剃刀で剃るのが一般的になったらしい。
合理的な信長らしい逸話だ。


十河一存と鴨部兄弟・いい話

2008年10月15日 14:40

175 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/02/25(月) 07:17:02 ID:sCEZDaA0
十河一存が寒川氏の居城池内城を攻めた際、鴨部兄弟の兄が十河側、弟が寒川側にいた。
一存は兄弟が争うものではないと兄を城に送り出した。鴨部兄はいたく感激し、「今度会うときは戦場ぞ」と誓いあった。
そして鴨部兄弟は戦場で一存と戦い傷を負わしたが兄弟共々、一存みずからの手により討ちとられた。