河尻塚

2014年05月03日 19:03

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/03(土) 04:14:04.42 ID:ZwYI2HzU
河尻塚

天正10(1582)年6月、京で織田信長が明智光秀の謀反に斃れると旧武田領の甲斐と信濃のあちこちで一揆が起きた
伊賀越えで難を逃れた徳川家康は一揆の話と甲斐の河尻秀隆のかねてからの圧政を不安視し、家臣の
本多信俊を甲斐へと派遣した

本多信俊「信長公は亡く、信濃の森殿も美濃へ引こうとされているとの由、河尻様が尾張に戻られる様ならば
主家康は東海道をお使いくださいとの事です」

秀隆は信長に恩義の厚い実務主義者だったために
信長の死に乗じて家康が秀隆の命と甲斐を狙っているものと勘繰った

秀隆は殺されるよりは先に信俊を片付け様と、光秀討伐と甲斐の統治の話を信俊に持ち掛け積翠寺を
信俊の宿とした

その夜信俊の下に密かに武田の浪人が訪ねて来た

某「河尻秀隆が使者殿を殺そうとしております。府中城内にも武田の旧臣仲間がおり、この申し出に
  間違いはございません」

本多信俊「…」

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/03(土) 04:29:18.56 ID:ZwYI2HzU
明朝本多信俊は同じく河尻宛ての使者であった名倉信光を予備のために寺に残すと、従者を連れて
河尻の待つ城へと向かった

秀隆は「では早速だが明智討伐と甲斐についての案件を話すとしよう」と信俊の注意を他に引き付け、
細かな評定を行い、夜寝所で休んでいた信俊の寝首を欠いた

翌日寺には武田の手の者が来たが、信俊は戻って来ていない

山県昌景の旧臣だった三井弥一郎昌武といった者が手勢を連れ河尻の城へと押し寄せた

三井「徳川様の使者が来ているはずだ。織田に用は無い。甲斐は徳川様に与する由本多信俊殿に話をさせよ」

河尻秀隆「甲斐の国主は私である。織田と徳川には同盟がある由、浪人風情といち使者に話をさせる
     言われはない」

三井「明日再度返事を聞きに来る。それまでに覚悟を決められよ」

三井は知らなかったが、すでに信俊はこの時点で殺されていた

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/03(土) 04:48:32.35 ID:ZwYI2HzU
次の日の朝、二千はいた河尻軍の城の守備兵の大半が秀隆に愛想を尽かし、夜の内に密かに城中から
退散していた

ガランとした城に残る兵は百人足らず

黒母呂衆「殿(河尻秀隆)、もはやこれまでにござれば潔く腹を召されませ。我らは死出の供を務めまする」

秀隆「たわけ!何故ワシが腹を切らねばならぬ?
一揆勢は烏合の衆ぞ。代表者を城内に招き、片付ければ残った奴輩は退散するであろう」

この言葉に城内に残っていた兵らはおおいに失望した

守備兵組頭「門を開け。大勢は決した…」

秀隆「貴様、なにを?」

河尻を見限った兵らは三井らを城に入れると
武器を手放し、地に投げ捨てた

秀隆に最期まで従った者わずか二十人余り

内八人が討死し、残りも一揆勢に降伏した

川尻秀隆は三井の言に従い、切腹
享年56

遺骸は無造作に掘られた穴にさかさまに投げこまれ埋められた

「河尻肥後守之墓碑」

これが信長の黒母呂衆筆頭から一国の主となった
河尻「肥前守」秀隆の墓に刻まれた碑文である





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