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河尻秀隆の最期5撰

2019年05月03日 15:09

961 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/03(金) 12:59:03.48 ID:r3toUv4n
河尻秀隆の最期5撰

本能寺の変後の混乱の中で散った秀隆の最後を語る同時代史料は皆無ですが、後世の書物には細部の異なる形でいくつものパターンが記録されているのでご紹介。

①当代記

6月10日頃、本多百助、家康の命により甲斐国に派遣される。

彼の国は織田信長により河尻与兵衛が置かれていたが、信長が他界したことが伝わると人々は河尻に服従せず、百助に従う様子を見せた。

やがて一揆が起こり、河尻の居所に押し寄せた。百助はこれをなだめ、河尻に事態収拾のために上方へ帰ることを求めた。

河尻はこれに応じず百助を生害し、その後自害して果てた。家来等は上方へ退いたので、家康が甲斐を横領なされた。

②三河物語

本多百助は河尻与兵衛とは知り合いだったので急いでやって来て、「一揆が起こったら援軍を差し向ける」と言った。河尻も「ありがたい」と言った。

しかし実際は百助が一揆を煽動し自分たちを討とうとしていると思っていた。河尻は百助を馳走すると、蚊帳を吊って寝かせた。

その後長刀を持って来ると、釣り手を斬って落として突き殺した。一揆の者はこれを聞くとただちに押し寄せて河尻を殺した。

③落穂集

信長は甲斐半国を河尻与兵衛に下されたとき、甲斐は領地並であるのでいろいろと面倒を見てやってください、と家康に申された。

その後、家康は百助を甲斐に派遣したが、河尻はこれを自分を討つ計略があるものと考え違いを起こしてしまった。

ある夜、河尻は稚小姓を用いて百助を殺した。百助の家来はこれを知ると怒り、武田の浪人に訴えて一揆を起こした。

河尻は家を襲撃され、従者も全員が殺害された。討手は武川衆の三井十右衛門という。

報告を受けた家康は大変喜び、岡部・成瀬・芦田を派遣し、甲州経営を始められた。

④岩淵夜話

本能寺の変後、家康は度々、手紙や使者を送り河尻の様子をうかがってあげていた。ところが河尻は全くこれをありがたいとは思っていなかった。

むしろ、名のある武田の浪人は河尻に仕えようとせず、家康に奉公しようとする者が多いことから、家康には何か裏があると考えていた。またそのために国からつれてきた僅かな家臣のみを頼みとしていた。

やがて家康は河尻が甲州に嫌気が差しているとの噂を耳にし、百助を派遣して「百助を案内として私の領内を通れば安全に上方へ帰らせる」と伝えた。

河尻はこれを聞くと怪しみ、6月14日に小姓を用いて百助を殺した。

武田の浪人はこれを聞くと「家康公にこのようなことをするやつに遠慮はいらない」などと言い、一揆を結んで河尻を攻め殺した。

家康は百助の死を知ると、河尻の事を思って色々してやったのに、相談役として付けた百助を殺すとはなんたる不義理だ、それにしても惜しい男を河尻などのために殺されてしまったと涙を流した。

家老らは軍勢を派遣して河尻を打ちましょうと言ったが、そのようなことはこの家康がすることではない、しばらくこのままにして様子を見ようと言われた。

⑤武田三代記

信長親子は明智光秀に殺された。河尻は国を捨てて逃げようとしたが、道路の害を恐れて進退窮まり、如何ともしがたい状況に陥った。

源君はこれを知って不憫に思われ、上方へおくり届けてあげようとした。

しかし間に合わず甲州の土民が蜂起し河尻を打ち殺してしまった。浅ましいことである。

首は三井が取り、勝頼の墳墓に供えた。諸人、これを感ぜずことなしと言う。



962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 13:24:12.63 ID:GQfzXxkN
家康は悪くないってことにしてるのは全て共通なのね

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 16:04:02.93 ID:xjWKeatT
>>962
そもそも家康の甲斐侵攻は「織田政権」の承認のもとに行われているんだから悪く書きようがないだろ。
織田家臣なのに政権中央の意向に反した行動をした河尻のほうが悪い

965 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/03(金) 16:25:31.63 ID:TISqcbEJ
家康が織田政権の承認を得たのはあくまで織田家臣退去後の上野・信濃・甲斐を敵方に渡さないために軍勢を出して確保することだろ

河尻が健在の甲斐に侵攻する許可を得た訳ではないし河尻が政権中央の意向に反した行動を取ったわけでもない

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 16:39:13.93 ID:xjWKeatT
>>965
それを家康は織田政権から委任された以上、家康の指揮命令に従わなかったらそれは織田政権への謀反と
解釈されても仕方ないと思うぞ。

967 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/03(金) 16:57:24.06 ID:TISqcbEJ
>>966

もう一回整理してほしいんだが、織田政権は河尻・滝川・森・毛利などの織田家臣が退去したあと、敵方にその知行地の3か国(上野・甲斐・信濃)を渡さないために家康に軍勢派遣を認めてるんだよ

当然、それ以前の家康に河尻等の織田家臣に指揮命令する権利は認められていないし、河尻が家康の命令に従わなかったとしてもそれが織田政権への謀反とみなされる道理がない

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 17:42:08.71 ID:mGxBMjMX
帰国後即甲斐国人に調略開始、穴山旧領を押さえた上で
川尻に「美濃に帰ったらどうです?」って使者送ってんだよな、家康

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/07(火) 13:08:38.50 ID:0e5zpXHp
>>963
政権中央の意向に反した行動って何?
道中危険だから領地に留まったんでしょ。
それと家康に保護されて逃げ帰るっていうのもバツが悪いよねえ。
石田三成がいい例でしょ。武断派なら死んだ方がマシと思ったはず。

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/07(火) 16:36:53.95 ID:Js/5uKIb
>>981
当時の武士ならなんとか逃げ延びて屈辱をはらそうとするんじゃないかね
それが無理なら自害か玉砕か
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河尻塚

2014年05月03日 19:03

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/03(土) 04:14:04.42 ID:ZwYI2HzU
河尻塚

天正10(1582)年6月、京で織田信長が明智光秀の謀反に斃れると旧武田領の甲斐と信濃のあちこちで一揆が起きた
伊賀越えで難を逃れた徳川家康は一揆の話と甲斐の河尻秀隆のかねてからの圧政を不安視し、家臣の
本多信俊を甲斐へと派遣した

本多信俊「信長公は亡く、信濃の森殿も美濃へ引こうとされているとの由、河尻様が尾張に戻られる様ならば
主家康は東海道をお使いくださいとの事です」

秀隆は信長に恩義の厚い実務主義者だったために
信長の死に乗じて家康が秀隆の命と甲斐を狙っているものと勘繰った

秀隆は殺されるよりは先に信俊を片付け様と、光秀討伐と甲斐の統治の話を信俊に持ち掛け積翠寺を
信俊の宿とした

その夜信俊の下に密かに武田の浪人が訪ねて来た

某「河尻秀隆が使者殿を殺そうとしております。府中城内にも武田の旧臣仲間がおり、この申し出に
  間違いはございません」

本多信俊「…」

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/03(土) 04:29:18.56 ID:ZwYI2HzU
明朝本多信俊は同じく河尻宛ての使者であった名倉信光を予備のために寺に残すと、従者を連れて
河尻の待つ城へと向かった

秀隆は「では早速だが明智討伐と甲斐についての案件を話すとしよう」と信俊の注意を他に引き付け、
細かな評定を行い、夜寝所で休んでいた信俊の寝首を欠いた

翌日寺には武田の手の者が来たが、信俊は戻って来ていない

山県昌景の旧臣だった三井弥一郎昌武といった者が手勢を連れ河尻の城へと押し寄せた

三井「徳川様の使者が来ているはずだ。織田に用は無い。甲斐は徳川様に与する由本多信俊殿に話をさせよ」

河尻秀隆「甲斐の国主は私である。織田と徳川には同盟がある由、浪人風情といち使者に話をさせる
     言われはない」

三井「明日再度返事を聞きに来る。それまでに覚悟を決められよ」

三井は知らなかったが、すでに信俊はこの時点で殺されていた

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/03(土) 04:48:32.35 ID:ZwYI2HzU
次の日の朝、二千はいた河尻軍の城の守備兵の大半が秀隆に愛想を尽かし、夜の内に密かに城中から
退散していた

ガランとした城に残る兵は百人足らず

黒母呂衆「殿(河尻秀隆)、もはやこれまでにござれば潔く腹を召されませ。我らは死出の供を務めまする」

秀隆「たわけ!何故ワシが腹を切らねばならぬ?
一揆勢は烏合の衆ぞ。代表者を城内に招き、片付ければ残った奴輩は退散するであろう」

この言葉に城内に残っていた兵らはおおいに失望した

守備兵組頭「門を開け。大勢は決した…」

秀隆「貴様、なにを?」

河尻を見限った兵らは三井らを城に入れると
武器を手放し、地に投げ捨てた

秀隆に最期まで従った者わずか二十人余り

内八人が討死し、残りも一揆勢に降伏した

川尻秀隆は三井の言に従い、切腹
享年56

遺骸は無造作に掘られた穴にさかさまに投げこまれ埋められた

「河尻肥後守之墓碑」

これが信長の黒母呂衆筆頭から一国の主となった
河尻「肥前守」秀隆の墓に刻まれた碑文である