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毘沙門天の縁結び

2014年06月15日 18:52

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/15(日) 00:16:25.01 ID:59CefDBr
毘沙門天の縁結び

安芸武田家の9代当主、光和。安芸守であり安芸国内における反大内派の筆頭でもある。
その武勇で近隣に恐れられ、陰徳太平記では死後魔王になったとも伝承される人物であるが、
彼はある時一人の女性に恋をしていた。
相手は配下である熊谷信直の妹であった。余談であるが後年、吉川元春に嫁いだ熊谷信直の娘は陰徳太平記によると醜女と
言われているが、この妹は大層な美人(息子で毛利元就の影武者を勤めた、武田宗慶も容姿端麗と伝う)であったという。
熊谷信直にアタックを掛ける光和であったのだが・・・

(*^◯^*)「妹さんを嫁にくーださい!」
(●▲●)「殿には吉川殿から嫁いだ正室が居るからあーげない」
:(*゙゚'◯゚'): 「」

と、断られたのであった。何度も何度もお願いする光和であるが、その都度熊谷信直は
頑として断るのであった。

どうしても諦めきれない光和であったがある日の晩のこと、彼の居城・武田山近くの緑井岩谷にある毘沙門天が、
光和の夢枕に立ったのである。

|´」`|「汝の恋が叶うか叶わぬか、我が境内の奇岩に石を投げて占うが良い。」

不思議な夢を見た光和は、早速お告げのあった毘沙門天の境内にこの奇岩を尋ね、
夢に従い石を投げつけた。光和が投げた石は見事奇岩の穴に嵌ったのであった。
この後、信直の舅に当たる武田家家老の品川右京亮が説得したことで、信直も妹が
光和に嫁ぐことを渋々承知し、晴れて二人は夫婦となり、光和も大変喜び正室よりも
仲睦まじい夫婦となったと言う。

この後、この毘沙門天の奇岩は「縁結びの石」として近隣の若者が恋の成就を占う為、
好いた女性の名を心に浮かべ、石を投げてその成否を占う様になり、今に伝わる事となったのである。

めでたしめでたし・・・・

と、言いたい所であるが残念ながらそうは終わらないのであった。

この後、二人の間には男児が一人生まれ、その子は後に毛利元就の影武者として仕える事になるのであるが、
その子がまだ幼い内に熊谷夫人はある日、何を恨みに思ったか側仕え1人を連れて武田山を退去し、光和と離縁する事になる。

実家の熊谷家に戻った夫人は兄・信直に叱られた後、三須房靖という者の所へ再嫁することになる。
夫人を返すよう迫る光和であったが時既に遅し。また、同じころ信直が敵方の大内・毛利と密約を
結んだことが発覚。更に信直は武田家の領地を掠め取り、完全にキレた光和は1533年、配下の国人衆1000を動員し
信直の居城・三入高松城へ侵攻。横川表の戦いが勃発し、以後熊谷氏は完全に大内・毛利方となるのであった。

この戦いで敗れた安芸武田氏は、以後徐々に衰退していくこととなるのであった。
結果が残念な縁結びのお話である。





515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/15(日) 07:04:13.71 ID:5gHeMh5m
勝手に帰ってきてそんな状態でさらに別のところに嫁げるのか
受け入れる方も受け入れる方だし戦国時代の婚姻はよく分からん



517 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/06/15(日) 08:55:23.44 ID:59CefDBr
>>515
妹の嫁ぎ先の武田光和と兄・熊谷信直は2人とも父を毛利元就に討たれたりした縁もあってか
水魚の交りと言われる程仲が良かったそうです。
とはいえ父の死後、妹を大事に育ててきた信直は可愛い妹が主君の側室になるのは否定的でした。

また、1524年に大内義興が武田山に攻めて来た時、当時はまだ尼子側だった毛利元就が
援軍に来て、大内方は夜襲を受け、撤退。その戦い振りを見た熊谷信直は元就を仇としてではなく、
1人の大将として評価する様になったそうです。武田光和は父の仇としてずっと恨んでいたみたいですが。

その3年後の1527年位に同じ武田配下の山中氏が独断で熊谷信直を討とうとして失敗。1530年頃山中氏は熊谷氏に討たれ、
その領地は熊谷氏の物となります。
その頃既に熊谷信直は毛利家を通じて大内義隆から山中氏を討ってその領地を得る密約を取り付けていたと言われます。
武田家を離反するのは信直の既定路線であり、妹の離縁と再嫁は渡りに船または信直の指示だった可能性も有るのではないかと言う話です。

陰徳太平記には年代はハッキリしないものの、武田光和と熊谷信直が不仲になる過程の話も
書かれているそうなので、また探してみたいと思います。



519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/15(日) 21:37:09.72 ID:7JvTsUuV
安芸熊谷氏は鎌倉レジェンド熊谷直実の子孫です
豆知識

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魔王になった戦国大名

2014年05月06日 18:58

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 22:49:58.31 ID:wO4E1laa
魔王になった戦国大名 陰徳太平記と広島市安佐南区祇園町誌より

戦国時代の高名な大名や武将には人外に擬えた異名を持つ者が数多いる。
「大六天魔王」「雷神」「軍神」「毘沙門天」「竜」「虎」「鬼」「熊」「古狸」「鮭」などなど
しかしそれは生前に自称した物や後世にあだ名された物であって、当然ながら本当に神や竜だった訳ではない。鮭様などは
ただの鮭好きな気のいいおじさんのちょっと食い意地の張った所から来た異名である。
だが、その死後に本当に魔王になったと伝わる戦国大名が居た。

安芸武田氏 9代当主の光和である。
父はその武勇をして今項羽と周辺に恐れられた8代元繁。
光和はその嫡子として1501年(02、03、07年説あり)に生まれる。
光和は生まれた時から33本の歯が生えており、また生後3日目になっても産声を上げないので心配して厳島の神主を招いて
お払いをしたらやっと泣いたと言う。長じては身長7尺余り(2.1メートル)に育ち、眼は逆さに裂け、顔にはたくさんの毛が生えており、
きわめて大力で、鉄の弓を用いていた。
また居城銀山城(武田山)へ登る道に大きな岩が出ていて馬が通るのに不便であったが、6、70人の人夫の力でなくては
とても動かすことができないので、大昔からそのままになっていたが光和は自分の力試しにといって、この大岩を
軽々と谷底に転がしたと伝えられている。

光和が投げた岩は山麓の安佐南区祇園帆立に「いぼ地蔵」「投石地蔵」として残っており、この岩の側にある松の葉で
人の体に出来たいぼをつつくとそれが落ちると伝わる。
(つづく)

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 22:52:15.93 ID:wO4E1laa
魔王になった戦国大名 武田光和 佐東銀山城の戦いにて奮戦す

1523年、尼子経久が安芸中部の鏡山城(東広島市西条)を落とした事で安芸の大半は大内から尼子の勢力下となった。
翌1524年、大内義興は安芸を取り戻すべく、経久が伯耆に出兵した隙に安芸西部の桜尾城、そして武田光和の居城、佐東銀山城に出兵する。

佐東銀山城を囲むは大内家の柱石たる陶興房と初陣の大内義隆率いる1万5千。光和率いる篭城軍は3千。
6月25日の緒戦では援兵として来た熊谷・香川の兵千余りが敵の抜け駆けを察知して大内方の杉・問田氏率いる千5百余りを撃退。
それから7月に入り光和率いる篭城軍3千は何度か大内側と合戦しているのだが、その中先陣に立って奮戦したのが城主光和その人である。

自らの武勇を頼みに大内方の兵を斃す光和であるが、当然その話は大内方にも知られ、ならば何とか討ち捕ってしまえと作戦が立てられる。
中国地方で敵無しと評判の豪傑・若杉四郎三郎とやはり大力で知られたその弟、また大黒新允と言う大力の者や大内義隆の近習で
打物達者と言われた者を加えて、彼ら4人が囲んで光和を斃す作戦が立てられた。

あくる日、光和はまたも先陣に立ち大内方の兵を薙ぎ倒していたが、大内方は偽りの退却で光和をおびき寄せんとする。
武田勢が追撃したところ、大内方は踵を返し逆に武田勢を包囲せんとする。これは不味いと撤収を開始する武田勢であったが、
一人突出していた光和は最後尾、そうこうしていると先の若杉ら、大内方の精鋭どもに挑発され、光和はそれに「何を抜かす」とばかりに引き返す。
先ず若杉の弟が一番に光和に襲い掛かる。しかし、光和が3尺程の大太刀(備前一文字と伝う)で胃の辺りを強打すると一たまりもなく死んでしまった。
続く若杉の兄は組み付こうとして光和に捕まると、後方から押し寄せる大黒に向かってまるで鞠か何かの如くブン投げられる。ぶつかった二人はそのまま死んでしまい、
最後に残った一人もそれを見て怯んだ所を光和の大太刀の一閃で死んでしまい、かくして大内の作戦は失敗に終わり光和は悠々と城に引き返すのであった。

その後、牛尾・亀井・毛利元就らの5千の援軍が到着し、8月5日の夜に毛利ら安芸国人衆の夜襲で決着がつくのだが、結局大内は光和を討ち取ることは出来なかった。
(つづく)

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 22:57:33.37 ID:wO4E1laa
魔王になった戦国大名 武田光和 化け狸を退治す

当時安芸佐東郡(現広島市安佐南区)には一つの古い文殊堂があり、そこに化け物がおり人を化かすとの噂があった。それを聞きつけた光和が誰か行って退治せよやと
近習の者に言うと、青木某というものが承り化け物退治に出かけたが、散々に化かされ這う這うの態で帰ってきた。

それを見た光和はならば俺がやってやると一人、文殊堂に出かけていった。夜も更け、静かな夜空の元で何とはなしに不吉な予感がした光和が辺りを見渡すと、一人の6-70絡みの盲人が荷物を
持ち、杖を突きながら文殊堂に歩み寄ってきた。これが例の化け物か?と、警戒していると

(*^◯^*)「誰か居るんだ!?誰なんだ!?」
(●▲●)「おう、おるでー。坊さんはどこのモンじゃ?(怪しいなコイツ・・・)」

(*^◯^*)「厳島に住んでるんだけど、最近暑いからここで寝泊りして里の人に歌を聞かせて生活してるんだ。貴方はお侍さんか?態度が偉そうなんだ」
(●▲●)「ほーん、じゃあ平家を一曲頼む。」

(*^◯^*)「ほげー、おげー、はげー、いえー(ベンベケベンベケ)カテル、カテルンダ!ナカネカラグラブヲウケトリ、グラウンドヘゼンリョクシッソウスルウチカワ、ソノメニヒカルナミダハクヤシサトハムエンノモノダッタ、ヨクジツ、ベンチデツメタクナッテイルウチカワガハッテンサレ、ヨシムラトムラタハビョウインナイデシズカニイキヲヒキトッタ」
(;●▲●)(あ、上手い・・・こりゃ本物の人間かな?)

(●▲●)(いや待て待て、人を騙す化け物なら油断できん、でも斬った後でやっぱ人間じゃったー!だったら俺の名に傷がつく)
( ●▲●)(とりあえず縄でふんじばって捕まえてやろう)ジリジリガバッ!

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 22:58:20.61 ID:wO4E1laa
一気に盲人に組み付いた光和であったが、盲人は悲しい声で

(*^○^*)「ああ^〜、何をするんだ!別に命は惜しくないんだ!でも立派なお侍が目の見えない私にこんなことして恥ずかしくないのか!?」
(;●▲●)(あ、こりゃやっぱ本物の人間ですわ。しくったのう・・・皆に知れたら笑いモンになること違いないわ)

(●▲●)(よし、一思いに絞め殺してやろう)

慌てた光和は証拠隠滅を図るのであったが・・・

(*^○^*)「立派なお侍が何と情けないことを考えるんだ!」
(;●▲●)「こ、心を読んだ!?わりゃやっぱ妖怪じゃろが!往生せぇや!」キュッ
(*^●^*)「ぐぇあ

(;●▲●)=3「ハァハァ、やっぱ化け物じゃねーか」
(●●●●●●●●●●)

光和が力任せに首を絞めると、老人は血を吐いて死んでしまった。翌朝、老人と思われた者はやはり化け狸で、背中には一本の毛もなく、
二歳の子牛ほどもある大きさであったと言う。

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 23:33:49.11 ID:wO4E1laa
魔王になった戦国大名 武田光和 魔王になる

1540年、毛利元就を通じて大内家についた熊谷信直の討伐を準備する武田光和であったが、その最中に光和は急死してしまう。
光和が死ぬ時、黒雲が空中にたなびき、屋敷の上をおおい、雲の中によろいのすれ合う音、刀と刀のかち合う音、馬のくつわの金具の鳴る音がしたといわれ、
その後の銀山城(武田山)は大魔所となって奇怪なことがたびたび起こったという。
1541年、毛利元就に攻略され銀山城は落城。光和の後を継いだ若狭武田氏の信実は逃亡し、ここに安芸武田氏の嫡流は滅亡す。
数年後、元就は山県筑後守に命じて武田光和の居館を破却させんとするも、力者3人を連れ館に入った山県筑後守りはアッー!と叫ぶと卒倒。力者3人も倒れ、
庭でその様子を見ていた従者が筑後守を手当てすると、彼は息を吹き返したものの、後の3人はそのまま死んでしまったと言う。山県筑後はその後この時の事を
尋ねられても、何も語らなかったと言う。

その後、念仏の僧が一人武田山のふもとを通った折にこの山の怪異のうわさを聞き、それは亡き光和の霊が成仏せずに修羅道をさ迷っているのであろう、しかして
仏の力で救われぬことはないと、山頂に庵を結び、光和の供養に念仏を唱える日々を始めた。すると、光和はある時は老翁となって現われ、あるとき美女や童子になって
現われ、夜な夜な僧を悩まし、
「上に貴ぶべき諸仏もなく、下に救うべき人々もない。念仏など唱えていったいだれを救おうとしているのか」
と、僧に尋ねた。一瞬答えに窮した僧を見た光和は「念仏不問、私の声が汚れる、早く下山せよ」と迫ったので、この僧は山を下り、このことは深く隠していたが、
その弟子の一人が還俗して皆に話したので、一般に知れたということである。

この後、日蓮宗の僧がひとりこの山に登り、法華経一千部を読誦し、その菩提を弔ったが、ある時、光和は、あし毛の馬に乗り、空中から現われ、かの僧に向かい、
「一切のお経はくそを拭う紙、三世の仏はくその中の虫である。そのきたない紙の中の字を読んでなにになる、そんなことやめて、歌でも一つ歌え」といったのでかの僧は、
自分は三十年余りお経を読み、いろいろの功績を積んでいる者だ。もしこの功力が空しくないものであるならば、一魔性のものを退けたまえ、と諸仏に念んじていると、
その験であろうか、化生の者は雲路をさしてのぼったという。だがこの後も武田山はたびたび怪しい事が起り、木こりも炭焼きも山に近づかないようになったということである。

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 23:34:38.45 ID:wO4E1laa
しばらく後、こんどは禅宗の僧が道に迷ってこの山に通りかかり、この山で寝食し、夜は座禅などしていると、突然空が曇り雨が一しきりに降った後、
大きな松風が吹くと、やがて山が崩れるかの様な音がした。僧は恐ろしくなり「魔界仏界同一如」と念じていると、年のころ三十余りの大の男が、
鎧を着、鉄の弓を持ち、鉄の矢を負い、あし毛の馬に乗って飛んできて、その後に同じく四十ばかりの男が八尺ばかりの金棒と大まさかりを左右に持ってついてきた。

二人が物をいうのを見ていると口から火を吐いており、主と思われる男が「小河内」と呼ぶと、「はい」と、六十ばかりの頬にひげの沢山生えた老人が大地から湧き出てきた。
(安佐南区に隣接する安佐北区安佐町を支配した、武田配下の小河内氏の者か?)

主人らしい男は、
「これにお客のお坊さんがおられる。おもてなしを。」というと、「承りました」と、湯玉の湧きかえる熱鉄をちょうしに入れ、鉄の杯を添えて持って来た。
そして、僧に向かい、
「宗門には熱鉄を飲むの句がある。貴僧に一杯おすすめしょう。」
先ず試しに、自分が飲んでみせようと、三度杯を傾け、その後また言葉をつづけた。

「われは、生きていたときは、武田判官光和といっていた。最後の一念によって修羅道に入り、魔軍八万四千を率いて天下の争乱を起し、仏法をあだとなし、
猛火をもってすべての寺を焼き尽くそうとしている。達磨大師九年の修行ですらどうもすることはできない。ましてこのごろの一僧においてなにができるか。
形は僧に似ているが、心は鬼の如く、身に法衣をつけているが、心は俗塵に染んでいるではないか、仏は太平の世の中のかん賊であり、釈迦は乱世の英雄である
このような不都合なものがどうしてわれを降伏させることができるか」

言葉も終らず、光和は一口に僧を食おうと飛びかかったが、忽ち大かつ一声して、「通心無影像」と叫んだその一瞬、光和は合掌して、なにか唱えつつ、跡かたもなく消え去った。
この僧は、これはまことに不思議なことであるといい、ここしばらくとう留し、光和の霊を弔った。
その後このことを武田のゆかりの人たちに語ったので、これらの人々はやがてこの僧と供養をし、千部の径を書写しこの地に埋め、千本そとばを造って追福を祈ったので、
光和の怨霊も、ようやく静まったと伝えられている。

231 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/05/05(月) 23:53:13.92 ID:5v2KAvvZ
>>228
読み辛くてあいすみませぬ、武田光和伝説でググると
歴史情報(広島市祇園西公民館Web情報ステーション)
と言うのが出てきますのでそちらの方が読み易いかもです