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笹ヶ峠の合戦

2014年06月04日 18:51

440 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/06/03(火) 21:37:05.61 ID:qswNWPmO
河野家の家来、大除城主大野直昌の弟に大野直之という者がいた。

直之は菅田城を守っていたが、長曽我部元親と通じ河野家に叛いた。
しかし謀叛は失敗し、降参。直之は小田町で具足5両分(300石)の地を与えられ、兄直昌に厳しく監視されることとなった。
しかし直之はこの処置を不服として、妻子を連れ長曽我部を頼って逐電した。

あくる年(天正2年)長曽我部元親から大除城に西村左近という使者がやってきた。

元親「先年、我らを頼ってきた直之ですが謀叛を悔やんでおり、貴殿を頼って詫び言を申したいそうです。どうか私に河野家へ帰還の仲介をさせてください。」

この申し出に直昌は大変喜び、元親の計らいに感謝した。
そして使者は往復し、再度大除城にやってきた。

元親「このたび兄弟が和睦したのは大変喜ばしいことです。今月下旬に直之をつれて行きますので、国境で引き合わせます。隣国同士の申し合わせなどもしたく思いますので、私も伺います。」

と申し出があり、国境の笹ヶ峠で会見することとなった。
しかし、これは罠だった。

天正2年甲戌8月25日、両方共に御出馬有り。
長宗我部元親は直之を伴って三ツ石の峠に、大野直昌はそれより50町ばかり離れた秋望田まで出向き、互いに礼儀の使者を向かわせた後に会見の場まで進んだ。
元親はこの時、童子ヶ成の茂みに伏兵を置いていた。伏兵は大野勢が間近くなると、どっと鬨の声をあげて襲いかかった。
思いもよらぬ奇襲に大野勢は混乱したが、大野直昌は士卒を制し

直昌「きたなし元親!尋常の合戦では勝ち目がないと思い、だまし討ちとは愚か者め!」

と、秋望田の軍勢と合流し戦ったが、大野勢は素肌に裃という出で立ちだったため立ち直すことは難しく、瞬く間に300人も討ち取られ手負いも多数。
中でも直昌の弟、大野九郎兵衛、東筑前守城戸六郎、土居下野守をはじめとして嘉土・樋口・林・安持・荒川・近沢などの侍大将や物頭70余人は乱戦の中で悉く討死を遂げた。直昌の秘蔵の少姓船草民丸、梅木弥九郎丸も討死した。
長宗我部勢は家老の長野信濃ノ守兄弟が前備えで討死。 寺町右近をはじめ70余人討死、元親の長男弥三郎信親、三男津野弥次郎が手傷を負うなど激戦だった。
大野勢の尾首掃部、尾崎丹後守、土居式部、日野九郎左衛門の四人が敵を食い止めたため、直昌らは妙見ヶ森まで退却することができた。

その夜、大野勢が戦に疲れ果て休んでいると、近江守直好に北極星が語りかけてきた。

北極星「私は国常立尊なり。今から夜襲したら勝てるぞ。」

夢か現か。直好は驚いて直昌に告げると、直昌は大いに喜んで、すぐさま夜襲を仕掛けた。
一方そのころ、長曽我部の陣では、夜明けと共に大野勢に攻めかかろうと軍議をしていた所、大野勢が襲いかかってきたため大混乱に陥った。
まともな応戦もできず、討ち取られる者数知れず。
しかし元親は心剛の大将だったので、ひしひしと物具をかため、士卒を励まし戦ったが、ついに甫見江坂の東まで五十町ばかり退却し、勝敗は決した。
大野勢は小勢だったため、深追いは避け引き返した。
勝ったとはいえ、大野勢の被害は甚大で散々の体だった。

この戦いを笹ヶ峠の合戦といい、以後この地を大野ヶ原と呼ぶようになった。


442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/03(火) 23:07:38.94 ID:ujeKQBOe
長宗我部の西伊予攻めの被害は凄まじいな
わざわざ攻める必要があったの?黒瀬を抑えるだけでよかったのでは

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/03(火) 23:35:59.73 ID:hHdCeLBU
長宗我部滅亡の遠因だもんな
久武さんさえ生きてれば…

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/03(火) 23:57:21.60 ID:TcYRoZn5
出典何これ
伊予でこんな戦いあったなんて知らないんだけど

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/04(水) 00:09:45.84 ID:suBP2CaS
家譜かなんかに記述あるだけで一次資料がないから
未だに実在したと確定されてない戦いじゃなかったか

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/04(水) 00:20:22.81 ID:MGbcUGbX
戦国無双4でまんまと色仕掛けに騙された兄弟>大野兄弟
にもこんな勇壮な話が、と思ったら確定してないのか

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/04(水) 00:26:49.72 ID:Ko1WAuGx
出典は知らんが家紋のサイトには載ってるな

448 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/06/04(水) 11:38:42.48 ID:K/FU7+o2
笹が峠の合戦のことは
大野家四十八家次第、伊豫温故禄、予陽河野家譜などに載ってます

史実かどうかは・・・

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大除城(おおよけじょう)

2014年05月25日 18:53

17 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/24(土) 22:54:38.61 ID:jcM12/GD
河野家の旗下にあった伊予の南部、久万山の辺りは仲の悪い小豪族が割拠している状態だったため、しばしば
土佐の一条家が乱入し、悩まされていた。
そのため河野氏は久万山に築城し「大いに敵を払い除く」という願いを込めて大除城(おおよけじょう)と
名付けた。
また、大除城を中心に30もの支城を築き、城主として重臣の大野直家を置き、守りを固めた。

この大野直家の孫にあたる大野直昌のころ、大除城は長曽我部の軍勢に城を囲まれ落城の危機に瀕した。

大野直昌は信仰する山神に加護を求め、小姓衆に山神(ダイバ)の面を付けさせ、太鼓や樽を打ち鳴らし
山神に奉納した。
すると俄かに大雨となり、大野勢は大雨に乗じて打って出て長曽我部勢を破った。
これ以来、大野直昌は山神への信仰を厚くし、山神への感謝と共に、仮面をつけ太鼓を打ち鳴らし
奉納したという。


この大野直昌の故事に着想を得て、昭和59年に創作したものが久万山五神太鼓らしいです。




18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/24(土) 23:15:08.50 ID:vaqFf0dC
山神はたいてい姫をよこせと要求して断られて大暴れするけど、奉納されるものにたいしては機嫌が良くなるんだな