fc2ブログ

塩冶興久の化け物退治

2016年12月10日 17:17

393 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/09(金) 17:31:50.90 ID:GsXykw4v
塩冶興久の化け物退治

尼子経久の三男で塩冶氏に養子入りした塩冶宮内太輔興久は不孝・不義の人ではあったが、心栄えは大変勇敢で、
戦えば勝ち、攻めれば落ちないことはなかった。その勇猛さを示すエピソードにこの様な話がある。
月山富田城の甲の丸には桜の間、柳の間という部屋があり、そこは狩野小法眼による柳桜の絵で埋め尽くされていた。
鬼神もその絵に深く魅せられたようで、その部屋はいつしか魔物の出る部屋となった。
何百人もの人が、そこで化け物にたぶらかされ、あるいは気違いになりまたは行方知れずとなってしまい、次第にそこに近づく者はいなくなった。
興久はこの話を聞くと、
「なに、そんなことがあるものか。見る人間が怯えるからこそ、見えるはずのないものが見えたり視界を遮るような気がするのだろう。
一翳眼に在れば空華乱墜す(そうかもしれないと思ってしまえば、眼の中の翳りのように妄想が次から次へとわいてくる)と言うではないか。
吹毛剣について珊瑚枝上の月光を愛でるような心持ちであれば、化け物などどうして現れることがあろうか。
吹毛剣は怜悧な霊光を放って外道天魔といえども手出しができないのではなかったか。私がその変化の者をこらしめてやろう。きっと古狐か古狸が化けているのだろうよ」
と、たった一人でその部屋に向かった。

上座に胡坐をかいてあかあかと明かりを灯して待ち受けたが、宵のうちはとりたてておかしなことも起こらず、
ようやく午前三時くらい(丑三つ時)になって、風がそよそよと吹いた。風は気持ちの悪い冷たさで、しきりに胸騒ぎがするので興久が「これは不思議なことだ」と思っていると、
庭に散り積もった木の葉をハラハラと踏みしだく足音がした。垂木の上にドスンと上がった音がしたと思うと、すぐに妻戸がキリキリと押し開かれる。
「さあ、例の古狸めが、人をたぶらかしに来おったな。ほかの者はどうあれ、この興久は化かされないぞ」
と、外のほうをじっと睨みつけていると、歳は八十を越すかと思われる老婆が二人の童子を伴い姿を現した。
老婆は曲がりくねった茨が雪に埋まっているかのような頭髪を上のほうで結ってカッと乱し、
目は一つだけ鏡を額にかけたようにあって、太陽や月よりもなお明るく光っていた。
鼻は長く垂れ、歯は黄色く上下に長く生え違い、ことさらに両脇の牙は鋭く、剣樹のようであった。
唇は血の池のような赤であり、口は左右の耳まで裂けて、息をするたびにすさまじい煙が風にほとばしる。
両腕に猪のような毛がびっしりと生え、爪は鷹のように長く曲がっている。
破れた衣を着て、大きな竹の杖をつき、十一、二歳くらいの童子二人に手を引かれて、
興久に近寄ってくるのだ。

「ああ苦しい。老いて衰えることほどつらいものはない。これでも十六歳になるまでは、華のかんばせと評判で、
楊貴妃の眉よりも西大后の紅顔よりも美しかったというのに。朝には鏡に向かい眉を書いて容貌を磨き、暮には鳳のかんざしを取って
蝉翼(蝉の羽のように美しく曲げ整えた髪)に仕上げて優美な容色に整えたものじゃ。
いつのころからか老いが日々重なってゆき、容貌が衰え体がだるくなっていくばかりでなく、
孤独で貧しい身の上じゃ。肌を隠す衣もなく、朝晩食べるものにも事欠く有様で、
砂を噛んで水をあおるほかに、飢えを紛らわす方法もありはしない。ああ苦しい。めまいがする。胸も苦しいぞえ」と、
しわがれ声を震わせて「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と老婆が呟く声が聞こえた。

さしものつわもの興久も、身の毛もよだつほど恐ろしく感じたが、少しも騒がずにいた。
この老婆は興久をキッと見て、「おやおや、こんなところに殿御がいらっしゃる」と、かしずいた。
「さてさて、お若い御大将、ようこそここにいらっしゃいました。ここにはこの老婆が折りにつけて参っておりますので、人は皆、
『老いさらばえた老女の顔の醜いことよ、聞き苦しい言葉つきよ』などと言って、私を怒らせたものです。
それだけでなく、このごろは一人としてこの座敷に近づきません。この老婆も、年老いて心細くなってまいりましたので、いっそう人恋しく、
昔話の一つも誰かに語って聞かせたいと思っておりました。よくここにいらっしゃいましたなぁ。昔の迦葉仏のときのことまでよく知っている老婆でございますよ。朝まで昔語りをして差し上げましょう」と
老女が言っても、興久は返事もせず、大きく開いた目でじっと老女を睨みつけていた。

394 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/09(金) 17:47:35.87 ID:GsXykw4v
老女は「この殿御もこの老婆の面相が醜いと思っているのじゃろう。声をかけても返事すら返さぬとは。おまえたち、行ってあの方の御足を揉んで差し上げなさい」と、傍らにいた童子に命じた。
一人の童子が「かしこまりました」と老女のそばを離れ、興久の足元に座った。
興久はこの童子を斬ろうと思ったが、「待てよ、どんな化生の者といっても、
私の力なら、殴るだけでも眩暈がすることだろう」と思いとどまり、
拳を堅く握って童子の頭をしたたかに打った。
すると童子は老女の元に走り帰って、「ばばさま、あの方が殴ってきました」と泣きつく。
老女はもう一方の童子に「ならばおまえが行ってまいれ」と命じ、この童子も興久に近寄ってくる。
興久は少しも怯えていないところを見せてやろうと思ったのか、「童よ、ここに来い」と声をかけた。
ソロソロと寄ってくる童子を引き寄せ、膝の上に抱きかかえると、大きな石のように重い。
たまらず童子の頭を続けざまに二度打って、乱暴につかむと「えいやっ」と放り投げた。

老女はこれを見て「こんなにいたいけな子供たちに、なんと思いやりのないことをするのですか。お恨みいたしますぞえ」と怒ってつかみかかってくる。
「これはかの有名な三途の川の脱衣婆か、安達が原の黒塚に棲むという鬼が現れたのに違いない。そうでなければ山姥というものだろう」と、興久は魂が抜けそうなほど仰天した。
真っ黒な手を伸ばして頭をつかもうと飛び掛ってくるところを、それでも少しも声を上げずに、腰に挿していた初桜という刀を抜いて、
眉間と思しきところを、二度続けて斬りつける。
「アッー!」という声がしたと思うと、辺りが雷のように光って、老女と童子たちは虚空へと姿を消した。

「どんな妖狐や古狸の類であろうと、あれだけ思う存分斬りつけてやれば、
そう遠くには逃げられまい。早く夜が明けぬものか」と興久が待っていると、
東の空が白々と明るくなってきた。
早速若党たちを招集して、「昨夜、妖怪変化を斬ったぞ。跡をつけてみろ」と命じるが、
目印など何もないので、若党たちもどこを探していいかわからない。
興久が言うには、縁の下に入ったように思うとのことだったので、
縁の下にもぐってみると、大きな穴が見つかった。
そこでその穴を広げ、三間(5.4メートル)ほど掘り進むと、
底から高さ九尺(2.7m)くらいの五輪塔と、二つの三尺(90cm)程度の五輪塔が掘り出された。
その三尺の五輪の頭には血がついている。
これは、興久が拳で殴った際に、指の皮が破れて出た血が付いたものだろう。
また、九尺の五輪には頭に刀傷が二つあった。

395 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/09(金) 17:47:50.04 ID:GsXykw4v
塩冶は言う。

「その昔、唐の国に王伯通という人があった。屋敷を一軒建てたが、そこに泊まった人は必ず死んだという。
伯通はしかたなく門戸を閉ざして誰も泊まらせないようにしていた。
嵆康という人がやってきて、どうしてもそこに泊まらせてくれというので屋敷の中に入れたところ、
嵆康は夜になってもずっと琴を掻き鳴らしていて、
真夜中(午後十一時ごろ)になると嵆康の前に八人の鬼が現れたそうな。
嵆康は最初こそ怯えて乾元亨利貞(法呪のようなもの)を唱えていたが、数度唱えた後で鬼に問いかけた。
『王伯通がこの屋敷を建て、人が泊まることがあると必ずその人は死んでしまうという。おまえたちが殺したのか』

すると鬼は、『まさか、私が人を殺すなんて、とんでもない。
我らは舜(中国神話に登場する賢帝)の時代に、楽をつかさどる官吏だった。
兄弟が八人いて、伶倫という者だ。
舜は、邪な佞臣の注進を受けて、我ら兄弟を無実の罪で殺してここに埋めたのだ。
王伯通が我らの塚の上に屋敷を建てたので、重くてかなわない。
だから、人が来て泊まってゆくのを見ると、その人にこのことを伝えようとしたのだが、
人は皆我らを見て肝を潰して死んでしまう。殺そうと思って殺したわけではないのだ。

先生にお願いしたいのは、伯通にこのことを伝えて我らの骸骨を掘り起こし、
よそに葬りなおしてほしい。そうすれば、半年後に伯通は本国の太守となるだろう。
先生には、広陵の一曲を教えて進ぜよう。訴えを聞いてくれたお礼だ』と言った。
嵆康は大変喜んで、持っていた琴を鬼に与えた。鬼が一度弾いただけで嵆康はすっかり覚えてしまったという。

さて、夜が深まり、心配になった伯通が屋敷に様子を見に行くと、
嵆康が掻き鳴らしている美しい琴の音を聞いて、どうしたことかと嵆康に尋ねた。
嵆康から先ほど起こったことを詳細に聞き出すと、伯通は翌日すぐに人夫を手配して地中を掘らせる。
果たして、ついに骸骨を見つけた。
別に棺を作らせて、清浄な場所に葬ったそうだ。
後晋の文帝が即位すると、伯通は鬼の予言の通りに太守となり、嵆康は中散大夫に昇進したとな。

私が思うに、この骸骨も伶倫と同じようにこの家に押し潰されて、苦しくなって姿を現したのだろう。
よそに移して手厚く葬れば、私も末は一国の守護ともなろうよ」
興久はそう決めて、通安寺の墓所に埋葬した。
その五輪塔の下に埋められていた者は、生前の宿業が深く四生六道に迷うだろうと、
如形の供養までしてやったという。

(陰徳記より)

長文スマソ

396 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/09(金) 18:36:01.08 ID:GsXykw4v
追記
本堂平四郎、東雅夫著・怪談と名刀/1の富田城怪異の間、初桜 光忠の話として、同じ話が載っています。
そちらによると柳桜の絵の作者は狩野小(古?)法眼ではなく、雪舟ともただの貧僧とも
また、興久が退治する以前の妖怪の為した祟りが生々しく描かれています。



397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/09(金) 19:00:50.99 ID:4pniS/q8
>>393-396
そのまま日本昔話で放送してもおかしくないクォリティ

399 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/09(金) 23:07:39.78 ID:rmBYu3Ob
>>393-395
結局このババアと童の正体は何だ?
城の人柱にしちゃあ、迦葉仏のときまでよく知っているって言うし、神代の人間か国津神の類かよ

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/10(土) 11:27:41.74 ID:EzzOhga2
西太后て清末以外にもいたのか

404 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/10(土) 12:20:56.46 ID:gEo18Caq
>>403
西王母の事ちゃうか

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/10(土) 12:53:25.64 ID:EzzOhga2
時代的におかしいから東と西でいろいろいるのかとおもいきや
西王母のこととは思わなかった
スポンサーサイト



尼子経久・興久親子不和の事

2014年06月23日 18:54

567 名前:1/2[sage] 投稿日:2014/06/22(日) 19:25:46.77 ID:ze51xFkb
去る天文元年、出雲では尼子経久が三男・興久と不慮の事態によって親子確執に及んだ。
その理由は以下の様なことである。

尼子興久は亀井能登守を通して経久に訴え、同国原手郡700貫の所領を望んだ。しかし経久は、
『原手郡が本拠である月山富田城の近辺であるので、与えることは出来ない、であるので別の場所において
千貫の所領を与える』という旨の返答をした。これに興久は納得できず

「私は思う仔細があって原手郡を望んだのだ。別の場所であれば何満貫であっても望むことはない。
きっと今度の所望が叶わなかったのは、偏に亀井能登守が讒言して妨げたに違いない!この上は
能登守を討って我が本望を達するべし!」

激怒してそのように言った。その頃、尼子経久は杵築(出雲大社)において法華経一万部を読誦させられ、
亀井能登守はその奉行として杵築に滞在していた中、興久は3000騎を擁して杵築に押し寄せる、という
風聞が広まった。これを聞いた経久は

「興久に訴えたいことがあるのなら、先ず私に言って来るべきなのに、亀井を討とうとするとは心得られぬ。
これは偏に、能登守を討つという口実で、私に弓を引こうという企てなのだ!」

そう考え、牛尾当遠江守、同三河守、卯山飛騨守に2000人余をさし添えて杵築に遣わし、能登守を伴い
道中の警護をさせて、無事、富田城に引き取った。

興久はこれを聞いて大いに憤った
「たとえ私に非分があったとしても、親として子の事を思わず、逆に郎党を助けるとは有っていいことか!」
そこで乳人の米原平内、亀井新次郎を呼び

「私は今、親子不快という状況になったが、これは偏に亀井能登守の所業のためである。この上は、
あやつはいよいよ父上に対し私を讒言し、罪に陥れようとするだろう。よって、今より一心に思い切り、
富田城に押し寄せ晴久を討ち経久を押し込め、亀井能登守は鋸挽きにしてこの無念を晴らそうと思うが、
いかがか!?」

両名はあまりのことに、暫くは目と目を合わせ閉口していたが、「正しき父に弓を引き甥に対して
剣を振るうなど、冥王の照覧も恐ろしく、不義不孝の名も末代まで朽ちないような所業です。たとえ一旦の
憤りによって経久様が仰せ付けられたのだとしても、興久様はどうかそのお考えを改めてください!

能登守はこの亀井新次郎の兄ですが、だからと言ってこのように申し上げているわけではありません。
彼に関しては、私がその宿舎に行って、兄弟で刺し違えましょう。ですので、これによって憤りを鎮められ、
父子御不快の事は是非にも止めていただけますよう。」

このように諫止したが、興久は

「私は経久を討つべしと思っているわけではないのだ。ただ富田城を乗っ取り晴久を討って、私がこの
尼子家を相続し、亀井能登守の首を刎ねた後は、父子和解して考順なすであろう。
しかし、父に盾をつくのは不孝だからといって、首を延べて軍門に下ってしまえば、能登守はたちまち私を
討つであろう。父を敬うからといって。家人に頭を刎ねられる者があるだろうか!

私は経久の軍の先陣にあって、伯耆において山名との合戦4度、その他各地の城を落とし敵を打ち倒したことは、
何度あったか数が知られぬほどだ。その私の戦果故に、いま近国は経久になびき、従っているのである。
いま私が生命を惜しまず思い切って富田城に攻め入れば、軍勢の多少によらず、ただ一時に揉み破ることが出来る
だろう。もし運が尽きて合戦の勝利を失ったのなら、富田城を枕として討ち死にし、仏とも神とも成って、怨霊として
亀井に復讐するだろう。

であるが、お前たちは経久の譜代重恩であり、特に新次郎は能登守と兄弟であり、私に与するような事は些かも
ありえないだろう。お前たち両人が急ぎ経久のもとに参りこの事を知らせるというのなら、その時私は検使を
申し請い、涼しく切腹するであろう。さあお前たちは、早々に富田に帰るが良い!」
そう、声を唸らし畳を打ちながら叫んだ。

568 名前:2/2[sage] 投稿日:2014/06/22(日) 19:26:36.26 ID:ze51xFkb
これを聞いた両名は俯いていた頭を少し上げ
「お言葉を返すのは恐れ多いことですが、仰せのように興久様が近国に武威を振るわれた事に関して、それを
知らぬものは居りません。しかしそれゆえに驕慢となり天魔の心が入り込み、このような悪逆を思し召しに
なられたのだと見て取りました。

興久様が尼子家を相続するといいますが、貴方様は騎将の器には当たりますが、数カ国を収める
数万の軍勢の大将の器には当たりません!何故かといえば、強剛勇猛のみで、五常の道をご存じないからです!
父君に対して弓を引き楯突くような御仁ではありませんか!

鳥類であっても、梟は不孝の鳥であると、諸鳥はこれを憎むと言われています。とにかく、この事は思い留まる
べきです!」

この諫言も、忠言却って耳に逆らい、おおいに立腹し
「私が一度思い立って、生きている以上、杵築大明神も智見あれ!この弓矢を思いとどまることはない!
しかし面々の異見の趣を背くのも如何なれば、私はここで自害する!
であれば、父に対して弓を引く事にはならず、各々の異見を用いざるにも非ず!」

そう言って刀の柄に手をかけた所を、両人は急ぎ腕を抑えこれを押しとどめた。そして
「この上は力なし。兎にも角にも、仰せの旨に従って共に忠戦を励みましょう。
ただし我等両名は若年の頃より経久様のご厚恩を蒙り、その上一族ことごとく富田に罷りある以上、
御疑心もお有りでしょうが、多年の興久様からの御好みを捨てがたく思いますので、たとえ骨を粉にさせられ、
肉を膾にさせられたとしても、全く恐るべきことではありません」と、両人共に妻子を人質に出し
杵築大明神の牛王の誓紙を書いて、灰にし酒に入れてこれを飲み、一筋に思い定めることを表明すると、
興久も快く、金作の太刀を両人に与えた。

(芸侯三家誌)

尼子経久・興久親子不和についての逸話である。