天正18年(1590)、6月23日のことである。
北条氏照の居城であった武蔵八王子城は、城主不在の所を豊臣方の大軍に攻撃され、
今まさに落城せんとしていた。
中山家範や狩野一庵ら、城方の武将が次々と自害・討死していく中、城の裏手から一人、西方へと脱出していく武将がいた。
その人こそ、八王子城の城代で本丸の守将である横地監物景信(吉信)であった。
城を枕に討死するわけでもなく、また開城降伏するわけでもないこの行動を、景信がなぜ取ったかは不明であり、
一説には北条家再興の為に再起を図ったものとも、ただ己が命を惜しんだものとも言われているが、
景信の目的やその後の行方については後の世の人々から様々に憶測され、多くの伝説を生むことになった。
その中からいくつかの伝説を紹介してみよう。
無念の景信
落城の際、横地景信はわずか五人の家臣を連れ、大天守の裏山から落ち延びていった。
しかし、豊臣方は既に要所要所に陣を構え、厳しく落ち武者を取り締まろうと待ち構えていた。
そこで景信は、五人の家臣をそれぞれ影武者に仕立て、五方向へ道を分けて落ちのびさせた。
彼ら影武者五人のうち、四人の行方は伝わっていないが、その中で一人の行方だけは言い伝えが残されている。
落城の後、城の北にある五日市村の北寒寺という所で、景信の影武者一人が豊臣方に捕えられた。
豊臣方の武将はその影武者を引き出させ、本物の景信かどうか検分しようとしたが、
引っ立てられてきたのは、もはや年の頃七十歳程かと思われる老武者であった。
「なんじゃ、よぼよぼではないか。」
と、呆れ顔で武将がこぼすと、件の老武者は鋭い目をかっと開き、
「わしは、横地監物景信なり!」
と凛として名乗った。
この老武者の堂々とした態度を見て、武将も態度を変え、改まった態度で話しかけた。
「聞くところによれば、横地監物景信殿は、五十の賀を迎えられたが、なお勇壮であるとか。
ところが貴殿を見る限り、それより二十歳は老いておる。これぞ影武者に違いあるまい。」
しかし老武者は、
「いや、わしこそ横地監物景信なり!」
と、頑として言い張る。
これに武将が「この偽者め! ならば、本人である証を立ててみよ!」と叫ぶと、
老武者は歯を食いしばったのち、言った。
「こたびの敗北、まことに無念…。この思い、わし本人の他には、誰も計り知れまい。
その無念により、二十歳も老衰せり…。これぞ、景信である証拠なり。」
武将はこの言い分を聞くと、成程と大きくうなずき、
「ならば、貴殿を景信として処断する。」と言い渡した。
首を打たれる際、かの老武者の表情は、いかにも満足といった様子であった。
その間に、真の景信は小河内村の方へ落ち延びて行ったという。
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