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無念の景信

2014年06月23日 18:58

184 名前:1/5[sage] 投稿日:2014/06/22(日) 23:46:15.62 ID:tk9XLXfB
天正18年(1590)、6月23日のことである。
北条氏照の居城であった武蔵八王子城は、城主不在の所を豊臣方の大軍に攻撃され、
今まさに落城せんとしていた。
中山家範や狩野一庵ら、城方の武将が次々と自害・討死していく中、城の裏手から一人、西方へと脱出していく武将がいた。
その人こそ、八王子城の城代で本丸の守将である横地監物景信(吉信)であった。
城を枕に討死するわけでもなく、また開城降伏するわけでもないこの行動を、景信がなぜ取ったかは不明であり、
一説には北条家再興の為に再起を図ったものとも、ただ己が命を惜しんだものとも言われているが、
景信の目的やその後の行方については後の世の人々から様々に憶測され、多くの伝説を生むことになった。
その中からいくつかの伝説を紹介してみよう。


無念の景信

落城の際、横地景信はわずか五人の家臣を連れ、大天守の裏山から落ち延びていった。
しかし、豊臣方は既に要所要所に陣を構え、厳しく落ち武者を取り締まろうと待ち構えていた。
そこで景信は、五人の家臣をそれぞれ影武者に仕立て、五方向へ道を分けて落ちのびさせた。
彼ら影武者五人のうち、四人の行方は伝わっていないが、その中で一人の行方だけは言い伝えが残されている。

落城の後、城の北にある五日市村の北寒寺という所で、景信の影武者一人が豊臣方に捕えられた。
豊臣方の武将はその影武者を引き出させ、本物の景信かどうか検分しようとしたが、
引っ立てられてきたのは、もはや年の頃七十歳程かと思われる老武者であった。

「なんじゃ、よぼよぼではないか。」

と、呆れ顔で武将がこぼすと、件の老武者は鋭い目をかっと開き、

「わしは、横地監物景信なり!」

と凛として名乗った。
この老武者の堂々とした態度を見て、武将も態度を変え、改まった態度で話しかけた。

「聞くところによれば、横地監物景信殿は、五十の賀を迎えられたが、なお勇壮であるとか。
ところが貴殿を見る限り、それより二十歳は老いておる。これぞ影武者に違いあるまい。」

しかし老武者は、

「いや、わしこそ横地監物景信なり!」

と、頑として言い張る。
これに武将が「この偽者め! ならば、本人である証を立ててみよ!」と叫ぶと、

老武者は歯を食いしばったのち、言った。

「こたびの敗北、まことに無念…。この思い、わし本人の他には、誰も計り知れまい。
その無念により、二十歳も老衰せり…。これぞ、景信である証拠なり。」

武将はこの言い分を聞くと、成程と大きくうなずき、
「ならば、貴殿を景信として処断する。」と言い渡した。
首を打たれる際、かの老武者の表情は、いかにも満足といった様子であった。

その間に、真の景信は小河内村の方へ落ち延びて行ったという。





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埋蔵金と謎解き歌の謎

2014年06月23日 18:58

185 名前:2/5[sage] 投稿日:2014/06/22(日) 23:50:34.94 ID:tk9XLXfB
埋蔵金と謎解き歌の謎

八王子城が落城する時、大蔵奉行の職にあった横地監物景信は、北条家の再興を図って莫大な財宝を城から持ち出し、
いずこかの場所にそれを埋蔵したという。
秘密が露見することを恐れた景信は、腹心の家来五人にそれぞれ横地監物を名乗らせ、そのうち一人にだけ本物の財宝を託し、
他の四人には偽の財宝を持たせ、それぞれに兵を付けて城から脱出させた。
その本物の財宝を託された者は、篠村帯刀という者であったと言われ、無事にある場所に財宝を隠したと言われているが、
実際には、篠村帯刀は北条氏照に従って小田原で討死したとされており、名前が伝わっていたこと自体、
秘密を守るために流した偽情報であったともされる。

そのため正確な財宝の隠し場所は謎なのだが、その場所を教えるという謎解き歌というものが残されている。

「朝日さす 夕日輝く 由比の峰 漆千杯 朱千樽」

というもので、朝夕の陽が良く差し込む場所、八王子城の北東にある由比原の丘に、漆の杯にして千杯、朱の樽で千樽もある、
莫大な財宝が眠っているという意味である。
後に、この歌の事を聞きつけた人々が盛んにその辺りを探しまわり、ある江戸のお大尽などは、
金に糸目をつけず散々に丘の辺りを掘りまくったという。

ところが、そうこうするうちにその謎解き歌は偽りだと主張する者が現れた。
横地氏の末裔だと名乗る者で、その者が言う所によれば、正しい本物の謎解き歌は次のようなものだという。

「漆千杯 朱千杯 黄金千杯 朝日さす 夕日輝く 楠の下」

このことが知れ渡ると、財宝を求める人々により、今度は北条家の旧領にある目立つ楠の木が掘り返され、
めぼしい楠の古木がなくなると、しまいには鎮守の森にある楠の神木までが狙われた。
そうするうちに、また新たな謎解き歌が見つかったといっては、八王子の甲の原・兜松・九十九塚などが掘り返されたが、
結局誰一人として財宝にたどりつけぬまま、今もどこかに本物の財宝は眠ったままだという・・・。




194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 10:06:29.72 ID:E/LRBovL
『朝日さす 夕日輝く」って佐々成政の埋蔵金伝説の歌にも出てくるよね。

景信山由来

2014年06月23日 18:57

186 名前:3/5[sage] 投稿日:2014/06/22(日) 23:57:02.97 ID:tk9XLXfB
景信山由来

高尾山の西方、小仏峠を経た峰続きの山中に、景信山という名前の山がある。
天正18年、八王子城がいよいよ落城寸前となったとき、横地景信は愛馬に鞭打ち西に向かって逃げた。
やがて恩方の里に入り、山道へとかかったが、既に馬も疲れており、山道の端から藤蔓が伸び出ているのに、
馬も人も気付けなかった。
景信の馬は、その藤蔓に足を取られてあっという間に横倒しとなり、更に悪い事にはそこは高い崖の上だったので、
景信は愛馬もろとも谷底の淵へとまっさかさまに転げ落ち、無残な最期を遂げてしまった。
淵にはまった景信は、息絶える前、駈けつけた村人にこう言い残した。

「拙者は、まだ永らえねばならぬ命を、藤蔓の為に失うことになった。憎いのはあの藤蔓じゃ。
我が魂魄はこの世に残り、今後この辺りの山には、藤は一本たりとも生えさせぬぞ!」

その後、この山には藤は一本も生えなくなったといい、景信が落ちた淵を「景信ヶ淵」、山の名を「景信山」と呼ぶようになった。
景信ヶ淵にはヤマメがたくさん住んでいるが、不思議な事には、この淵に住むヤマメはどれをとっても目が一つしかない、
片目の魚ばかりだという。景信は淵に落ちる前、既に敵の矢で片目を失っており、それがヤマメに乗り移ったのだという。
またあるとき、この淵の因縁を知らない太公望がここでヤマメ釣りをしていると、どこからか一匹の大きな蜘蛛が現れ、
その人の足を糸でぐるぐる巻きにしてしまった。その人は、逃げることもできず、終いには淵の中に落ち込んで死んでしまったという。


また山名の由来には別説もあり、甲州方面に備える狼煙台として、景信が守備していたことから来ているともいう。



190 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/06/23(月) 06:42:45.62 ID:IN14G2Ii
片目の落武者に由来する片目のヤマメの話、釣りキチ三平で見たな。
沢の源流に放射線を出す石が露出してるのが原因だったけど

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 06:50:47.03 ID:eUZS7rHf
>源流に放射線を出す石が露出してるのが原因だったけど

オカルトより怖いわw

192 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/06/23(月) 08:34:31.10 ID:NFDW0WCH
調べたら釣りキチ三平の話はイワナだった。
メッコ岩魚の怪という話でアニメ化もされてた(´・ω・`)

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 08:37:31.97 ID:+/92uB7z
三平のでどうなってるんかは知らんが、現実として放射線をだすのは珍しくないんじゃないかい?
特に川なんかだったら顔料の岩とかあるし
まあ管理されなきゃいけないようなものはなかなかぶち当たらんだろうが

195 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/06/23(月) 15:13:16.14 ID:D97Hzhx7
(●Д°)呼ばれた様な気がして…

196 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/06/23(月) 15:22:44.13 ID:D97Hzhx7
来たんだぜ
(●Д° ))3333Ξ<

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 15:34:50.89 ID:JQV1wirX
政宗の奇行は放射線の影響だったのか

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 15:40:50.78 ID:i97Wvsz9
(´・ω・`)「温泉って怖いね。たまに賊も出るし」

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 20:11:47.71 ID:l4P4q902
>>198
まとめにあるから読み返すだけにしとけ

横地社

2014年06月23日 18:57

187 名前:4/5[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 00:02:13.37 ID:2C/a4wTB
横地社

奥多摩にある栃窪という村に、田草川新左衛門という者が住んでいた。
元は甲斐武田家に仕えていたが、武田家滅亡後に北条家に仕え、天正18年の八王子籠城の際もこれに加わっていたが、
落城の際に城を落ち、自分の在所に帰ろうと檜原村から小河内へ山を越えようとした。

ところが新左衛門はそこで偶然、これも城を落ちのびて来た、八王子城本丸の守将・横地景信に出会った。
景信は、乱軍の中を切り抜けて来る途中で数か所の痛手を負い、いよいよ所存を決めて自害せんとしていたが、
幸いそこに新左衛門が通りがかったので、自分の最後の始末を頼んだ。

この頼みを引き受けた新左衛門は、景信自害の後、その骸を埋葬してそこに小さな社を営み、景信の短刀をその神体とした。
この社を立てた地は、新左衛門の住む栃窪村とは別の原村の内にあったが、後世、社の修繕を行う際には
新左衛門の子孫の家が修理していたという。


「武蔵国名所図会」では、上記のように別々に行動していた新左衛門と景信が、偶然出会ったように書かれているが、
八王子市史が引用する「三つ鱗翁物語」という史料では、新左衛門は景信が城を落ちるときに従った五人の従兵の一人で、
他の者が土民の襲撃で死に、景信もまた深手を負ったので、最後に生き残った新左衛門が後始末を託されたとしている。





367年後の帰還

2014年06月23日 18:56

188 名前:5/5[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 00:11:37.42 ID:2C/a4wTB
367年後の帰還

横地景信が自害(※)してから、三百数十年の時が流れた。
八王子城で討死した中山家範や狩野一庵の子孫は、徳川家に仕えるなど繁栄したが(特に中山の子孫からは大名になる者まで出た)、
一方で江戸時代における景信の評価は、城から逃れたという行為が武士道に反するとして非常に低く、
さらに小瀬甫庵の「太閤記」では、

「旧来からの家臣でもなかったのに氏照に取り入って立身し、百姓を虐げては金銀を取り諸士を悩ませた」

などと根も葉もない悪評までされてしまった。
また景信を祭った横地社では、神体の短刀を盗賊に奪われるという被害も受けたが、
社自体は変わらず小河内に存在し続けた。

ところが、昭和に入ると、小河内谷全体を水没させる大規模なダム計画の話が持ち上がり、
紆余曲折はあったものの、小河内村はダムの底に沈むことになってしまった。
当然、谷の内にあった横地社も湖底に沈む運命にあったが、幸いに社は八王子城跡に移されることになり、
社という形ではあるが、景信は約400年ぶりに八王子城へ戻ることになったのである。

現在、城跡に立つ八王子神社の横に小さな横地社が建てられており、傍らには由来を記す碑も建てられている。
昭和32年(1957)に建てられた、その石碑の裏面にある建立の日付は、敢えてその日を選んだのであろう、こう書かれている。
あの落城の日、6月23日と…。


(※)ここでは小河内で自害したという説で話を進めたが、他にも、落ち延びたが絶望して深淵に身を投げた、
または高麗郡の村に潜伏して姓名を変え、天寿を全うした等の話がある。



参考文献(武蔵国名所図会・新編武蔵風土記稿・八王子市史・落城ものがたり・武蔵野の民話と伝説)


八王子城落城の日だったので投稿。
最初は影武者の話だけにするつもりだったのに、調べていくうちにどんどん関連する話が出てきて
かなり長くなってしまった・・・。
両方のスレに一話ずつ投稿していくのも、同じ落城ネタばかり続いてウザがられそうだったし、
いい話の方が多めなこともあって、いい話と悪い話をまとめて一気に投稿させていただきました。