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このような名君が表れたのは天下の悦び

2018年08月18日 21:09

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/17(金) 23:27:19.56 ID:MXVA3GZ4
文明11年の春、新将軍義煕(義尚)卿の御判始、評定始あり。これより天下の政道を執政された。
御年未だ15歳の御若冠であったが才徳が豊かで慈悲深く、その上理非分明にて御学業も怠らず、
このような名君が表れたのは天下の悦びであると、人々は皆、乱世の愁眉を開いた。

父である公方家義政公はこの年、諸国御治世についての政道を皆、新将軍家へ譲り渡し、大変喜んだ
様子であった。それより義政は隠居し、東山慈照寺の院内に東求堂を造らせ、ここに閑居されたため、
当時の人々は皆、彼を東山殿と呼んだ。
この東山殿は御若冠の頃より天性遊興、美麗の事を好まれ、芸能数寄の嗜みは世に超えており、
萬に結構を尽くさせたが、御隠居の後も累代の奇物、和漢の名器を収集し、茶の湯の会を催され、
世事雑用より逃れられ、ただ老楽の御楽しみにて月日を送られていた。
(中略)

同年秋7月、義尚より近代博覧の君子と聞こえる一条禅定殿下兼良公へ、天下を治める政道の事について
記すべきと御懇望あり、殿下は御辞退叶わず一巻の書を著し、新将軍家へ呈進された。
今の『樵談治要』がこれである。

(應仁後記)

足利義尚の将軍就任と足利義政の隠居のことなど


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鈎の陣

2018年07月17日 21:11

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/16(月) 22:15:21.41 ID:ZMGQkMUJ
文明一統(応仁の乱の終結)の後も、諸国では先の乱の餘類が尚も国々に散在し、互いに押領を繰り返し、
兵革が止まなかった。その中でも近江国の佐々木六角高頼は、畿内近国に在りながら、上洛することもなく
公方の下知に従わず我意に任せて逆威を振るい、あまつさえ山門の領地まで妨げ、山徒の訴訟頻回となり、
これ以上放置する訳にはいかないと、征伐有ることに決まり、長享元年9月12日、新将軍家(足利義尚)は
数多の軍勢を供として江州へ出陣した。

その日の内に坂本まで進み、そこにしばらく陣を張ると、越前守護であった故朝倉氏景の家督、弾正左衛門
孝景が多勢を引き連れ馳上がって味方に加わった。朝倉が合流すると即座に六角高頼を攻めたところ、
高頼も一家尽く出陣しこれと合戦に及んだが、新将軍家は武勇を励まされ、お供の人々は我劣らじと攻め戦ったために、
高頼もついに一戦に打ち負け、自身の居城である観音寺山を落ちて、山賊の望月、山中、和田といった者達を頼み
同国甲賀山の中に隠れ行方知れずとなった。

しかし新将軍家はこのようになってもそのままにはしなかった
「かつて宝筐院殿(足利義詮)の時、南方(南朝)の敵徒御退治として、京鎌倉よりおおよそ天下の大軍を
集め、大樹自ら南方へ出陣した。敵はすぐに退散し国中が治まったため、敵が少しばかり山中に隠れて居たものの、
『何程の事もない』とすぐに帰陣されてしまった。ところがそれから、楠や和田と言った者たちは南帝を守護し
身を潜めて吉野の奥、賀名生の山中に隠れており、大樹が帰座すると幾程もなく立ち返り、国人らもこれに
同調して、また元のように蜂起し、大樹が南方に出陣した功は無となった。

その後、鎌倉御所の足利基氏はこの前例を後悔し、東国新田の氏族退治として武州入間川に出陣した時は、
ここに数年に渡り陣を取って毎日敵徒を捜索し、幾程もなく新田の氏族は尽く征伐された。
そして敵が尽く果てた後ようやく鎌倉へと帰陣したため、以後関東は再乱の心配もなく諸人が安堵する
治世を成した。然らば、今の六角もこのまま帰座してはまた元のように帰還し、六角の譜代の家人や重恩の
国人たちは彼に同調し蜂起して状況を覆すだろう。そうなっては今回の征伐の甲斐もない。
今回はとにかく、孝頼を初めとして残党たちを一々に探索し敵の根を絶ち葉を枯らして後難無きように誅伐
しなければならない。」

義尚はそう下知したが、甲賀山は深嶺幽谷、人跡絶って攻め入ること難しく、探索は難しかった。
また六角の残党たちは数多く、その旧領は広く、一類は所々に隠れていて短期間に征伐することは
無理であったので、「順々にかの輩を探し出して誅伐すべき」と、10月4日、義尚は坂本より琵琶湖を船で
渡って安養寺に陣を変えた。この事を父である東山殿(足利義政)へ使いを以て知らせた、そこに次の歌を
付けた
 坂本の 浜路を過ぎて波安く 養ふ寺に住と答へよ

東山殿はこれに返歌して
 頓にて 又国治りて民安く 養ふ寺も立そ帰らん

28日に同国鈎の里に着陣し、ここに3ヶ年まで在陣して六角高頼の行方を捜索し、また六角の徒党の輩を
一々に退治した。
同年12月2日、侍従中納言実隆卿を勅使として今上天皇(後土御門天皇)より忝なくも陣中に御製を下された
 君すめは 人の心の鈎をも さこそはすくに治めなすらめ

義尚より返歌を献上し
 人身 鈎の里の名のみせる 直なる君が代に仕えつつ

かくして長陣の間の徒然を慰めるため、かつ心得のためとして折々に、春秋、伝卜、孝経の講義を受けた。
彼は天下の乱を退治し太平の世にしようという志が深かったため、片時も自身の時間を無駄にしなかった。
翌年9月、義尚は内大臣に任命された。この時名を義煕と改めた。
ところが長享3年の春、体調を崩した。当初は大したことはないと考えられたが、次第に重体となり、
治療も祈誓も験無く、同年3月26日辰の刻、鈎の里の御陣所にて逝去された。
父君東山殿、御母公大方殿(日野富子)の嘆きは例えようもなかった。
この義尚公は御歳未だ25、器量、才芸、皆以て世に超え、特に天下の武将としての行跡もいみじきもので
あったのに、この人が世を去ってしまったため、「天下の兵乱はついに治まること無く、扶桑一州は長く
戦国の世となるだろう」と、貴賤上下の別なく嘆き悲しんだ。
(應仁後記)

鈎の陣についてのお話


奪う者は飢え、奪われる者は飢えず。

2018年07月16日 16:52

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/15(日) 21:09:58.79 ID:p0z8v/pj
文明9年11月、将軍家(足利義尚)より東西の陣に上使が立てられ和平をなした。
「各々戦を止め自分の領邑に戻り兵士を休めて将軍家の命を受けよ」
東軍西軍である細川山名の両家とその従類はその命に従い自分の領邑に帰った。

しかし11年の兵乱に都鄙尽く衰微し、世路を渡ることも成り難い有様であった。
そこで将軍家は所司代、奉行人らと協議して、『天下徳政』と称して、福人の財貨を借り取り、借り捨てとして
返済の沙汰を禁止することとした。

ところが奸邪の者、すばやくこの事を聞きつけて、村里近隣の馴染みの者の家に行き、当座の銭や鎌鍬に至るまで
借り取って返さず、その内に徳政の触れがあると貸主の家に行き、あたかも迷惑のような振りをして
「これを返せば法令に違う、返さずば芳志を失う。どうにも出来ない。」などと騙し、結局はこれを奪った。

このような者たちに対し天下の人々は「奪う者は飢え、奪われる者は飢えず。これが天道の応報というものだ」
などと言い合ったという。

(南海通紀)



将軍・足利義尚の歌について

2014年07月02日 18:51

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/02(水) 12:26:43.79 ID:8AGAwg9Y
ある日、飛鳥井老翁(雅親)がこのように語られた。

「常徳院内大臣義尚公(将軍・足利義尚)は天性歌のお好きな方で、武芸の暇には和歌を心がけ、
その才能も年齢以上に大きなものでした。

高官昵近の公家が参った時は、仮初にも雑談などはせず、歌についての方法論のみを談じていたと
いうことです。その頃の歌の達者として有名だった某大納言は、始めは歌の形についてなど
心やすくご指南申し上げていましたが、御年二十歳を過ぎられてからは、かの卿はかえって、歌の
風情について義尚公にお尋ねになるほどでした。

このように義尚公はいみじき国主でありましたが、ただただ、ご年齢が壮年に満たず亡くなられた事は
口惜しいことだと、当時も皆口々に言っていました。

義尚公がかつて、近江に久しく滞陣されていた時、ある日お遊びとして湖水のほとりに出御され、
多くの船を飾り饗膳も珍しやかに調えて、諸道の達人を数人供奉しました。

公方は湖水の水際を眺めながら、童子二人が小舟に乗って遊んでいるのに気が付き、「あれは何者か?」と
尋ねると「梅ケ原の者です」との答えが帰ってきた。これを聞いて心にふと浮かんだ句があった

『湖辺自異山林興 童子尋梅棹小船』

この二句が心に浮かび、その対句についてしばし思案されましたが、ついによろしき句も浮かばず
還御され、その夜、夢の中に男装した人が現れて、先の句に足して七言四句とし、義尚公は
夢の中に喜び、程なく目が覚められた。その句は近習の人に仰せになり書き留めさせたということですが、
その後人々はみな、その二句を失念し、詮無き事になったそうです。大変残念なことです。

これだけではなく、かつて、また逆敵が近隣に侵入した時に、いそぎ出陣されたことがありました。
その時は炎天の時期で、五万ばかりの軍兵を召しつれられましたが、士卒はこの暑さに耐えかね、
滝のように汗をかき、馬もこらえかねて多くは跪き、人々はこのことに大いに混乱しました。

この時軍勢は鑑山の麓にありましたが、義尚公はここで

『けふばかり くもれあふみのかがみ山 たびのやつれの影のみゆるに』
(近江の鏡山よ、今日くらいは曇ってほしい。皆に旅の疲れの様子が見えるではないか)

と詠まれ、暫く木陰で休むように命じた。そこで少しすると天曇り、涼風おもむろに吹き始め、
軍勢はまるで中秋の夕暮れの中に居るようにように感じ、たちまち元気を蘇らせた、と言われます。
これなど歌における、上古末代までの高名の誉れでしょう。

まことに一句の力で数万の軍兵の苦しみを止めるなど、天感不測の君であったと言うべきです。

(塵塚物語)

歌人・飛鳥井雅親による、将軍・足利義尚の歌についての思い出である。




241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/03(木) 06:42:18.40 ID:R/nXxM+J
料理漫画が料理で全てを解決するように
歌で全てを解決する将軍か

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/03(木) 08:42:54.41 ID:RsSJEXGt
たしか近江で陣歿したんだったか
六角退治に躍起になったのは親へ反動か?

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/03(木) 23:29:09.25 ID:GQBIVGxe
辞世の句が複数あるのは歌を愛しすぎた故か

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/04(金) 08:54:48.75 ID:OvpIbfGP
織田信孝