一栗豊後誕生

2016年04月14日 18:48

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/14(木) 02:30:18.62 ID:DDb6sdaQ
一栗豊後誕生

山形の最上義光は目を掛けた家臣に「光」の字や受領名を与えていた

しかしあるとき市来隆春(一栗高春)といった侍が苦虫を潰した様な顔で義光に尋ね出た

高春「周りに人がいないので殿に直にお聞きしますが、何故に私の受領を豊後守になされたのでしょう?
いくさに後(おく)れ(油断や遅れ)を取る事が多い、もっと精進せよとでもいった意味でもあるのでしょうか?」

義光は高春に即座に返答した

(´・ω・`)「否、そちはなにか思い違いをしておる。そちは兵の道の他に歌や文の道にも長けておる。
豊後はいくさで遅れを取るのが多いといった意味ではなく、文悟(武道だけでなく文才もある一角の人物だよ)といった言葉遊びを含めてのもの。
難しく考えず、受領を授けるだけ気に入ってると考えてほしいんよ」

「山形の昔話」

裸武太之助や鶴ヶ岡・亀ヶ崎のネーミングと連歌の豊かな表現とのギャップとで、鮭様の普段のセンスが正直わからなくなってきた…



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一栗高春、不吉な狂歌を詠む

2014年11月08日 19:20

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/08(土) 02:16:16.13 ID:/37eLJmV
一栗高春、不吉な狂歌を詠む

義光の死後、一栗高春は些細な事で家臣を罰する新領主の家親とは水が合わなかった

高春は庄内の添川に館を構えていたが、昵懇であった清水義親を新たな当主に据えようと酒田亀ヶ崎城の
志村光惟(志村光安の息子)を訪ね、「義親君の方が最上の総頭に相応しいのではないか」と語らい、
同意を求める一筆を取り付けた
高春は光惟から約定紙を得た事を喜ぶと
「田河は大山城の下吉忠も同士になれば心強い」と光惟に言うと
光惟は「吉忠は父の代からの仲ですから、きっと意を汲み賛同してくれる事でしょう」と高春に答えた

高春は「この計画がうまくいけば、義親さまの新体制の下、光惟さまも吉忠さまも私も、
きっと加増は間違いないでしょう」と、記念に一首の狂歌を詠んで扇にしたためた

かはるなよ 下も志村も諸ともに 思ふ心は みな一つ括り(一ツ栗)

一栗の乱で三人が一日中にみな斬死したのは後の事である

またこの密談の後に酒田から添川に戻った高春は西馬音内市正と碁を打った

勝敗は高春の負けの様に見えたが、最後に整地してみると高春の二石差での勝ちであった

高春は喜びまた一首を詠んだ

うれしやな 今を賽碁(さいご)の盤の上(へ)に 一つ栗こそ二つ勝ちけれ

この狂歌も一栗の乱の後に思い直せば、志村と下を二人討ちながら高春も仲が悪かった新関久正に討ち取られたのを思合すれば、「一栗は忌まわの最期に二人の将を道連れにしたのだ」と、人々は狂歌の内容は不吉な言葉だったと噂した

『奥羽永慶軍記』




716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/08(土) 11:38:31.56 ID:/37eLJmV
>>714
碁を打った翌日が「一栗の乱」の日だと言われている。
下吉忠の意思を確認しないまま、楯岡光直の訪問に気を取られて高春は事を急ぎ過ぎたのか。

一栗高春、東禅寺城に潜入する

2014年11月06日 18:54

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 16:20:04.42 ID:bsemGf33
一栗高春、東禅寺城に潜入する

慶長6(1601)年、一栗高春最上義康の軍内にあり、上杉軍志駄義秀の篭る東禅寺城を攻めていた

一栗高春は東禅寺城の様子を見て廻り、搦手の東側が堀や塀が一・二重とやや手薄で本丸に近いと考え、忍び入り火をかけようと思い、配下から手練を選び、泳ぎの得意な者を三十余人を引き具し、
いっさい道もない難所から午前2時頃に忍び入り、塀の境界に辿り着き、家人等をそこに残すと一人堀を泳いで向こう岸に上がり、塀を登って城内に潜入した

潜り込んだ所は土蔵のある区画で城奥への通路は閉ざされ、それ以上奥へは簡単に行ける様子もなく、時折見回りの番兵が巡回していた

下手にこれ以上進んで敵に見つかってたいした武器の用意もないのに捕らえられても恥になるし、かと言ってそのまま帰陣するにも労多く骨折り損だと考えた高春は近くの土蔵の鍵を破ると、そこは上杉軍の火縄銃の火薬庫だった

高春は塀の傍に潜めさせていた手勢を呼び集め、土蔵内の硝煙や火薬をことごとく堀の水に沈めさせ、明け方近くに作業を終わらせるとまた堀を泳いで帰陣した

火薬庫を高春に破られた志駄勢からの鉄砲は散発的になり、東禅寺城攻めに高春は大きく貢献した

人々は「さすがの一栗!常人に出来ない事を平然とやってのけるなんて凄え!」と高春の活躍を褒め讃えた

高春はその功を攻め手の大将の最上義康にも大いに賞賛された

一栗高春のいくさ働きの記述

『奥羽永慶軍記』




一栗高春の乱

2014年08月22日 13:49

983 名前:sc→net未反映分のコピー[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 00:27:11.06 ID:k/wP8bZN
一栗高春の乱

慶長19(1614)年に最上義光が没すると、江戸で徳川秀忠の近習をしていた最上家親が帰国しその遺領を継いだが、国元から長く離れていたために在国の重臣らとは意思の疎通が噛み合わない部分が少なからずあった

鶴ヶ岡城の侍大将であった一栗高春も家親とは馬が合わず、酒田を治める亀ヶ崎城の志村光惟(志村光安の息子)を訪ね
「家親様よりは舎弟の清水義親さまの方が我らが最上家の当主として押しいただくべき方ではなかろうか?」と腹の内を打ち明けたが
光惟は高春に「徳川の治世が定まった今、徳川家に覚えめでたき家親さまをこのままみなで支えていくべきでしょう」と諌めた

しかし日がな家親の政事は義光のやり方に倣わぬ部分があり、些細な事で処罰をされる郎党が増えるに至り
大事を光惟に漏らした高春は「家親の耳に反意が入れば、わしとてただでは済まぬだろう」と危惧を強めた

同年6月、故・最上義光の弟である楯岡光直が内陸から庄内に来るのに合わせ、宴の企画がなされた

高春は寶客警護と称して武装させた兵を鶴ヶ岡城に数十人配し、宴もたけなわの時を見計らい
「かねて諸将にお話いたしました清水義親さまを仰ぐ儀のご返事を、この場で改めて頂戴できませぬでしょうか」と申し出た

志村光惟「楯岡光直さまも見えられてるのに、そちはまだその様な事を言うのか?」
下秀実(下吉忠の息子。吉忠の隠居により跡を継ぎ尾浦城主)「宴の席で切り出す話でなかろう」

高春「同心頂けぬのであれば御免!」

光惟と秀実が高春によって斬られた

(つづく)

984 名前:sc→net未反映分のコピー[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 00:28:24.50 ID:k/wP8bZN
(つづき)

新関久正「兵部(高春)!貴様乱心したか!?」

高春「新関さまこそかねては親身に話を聞いてくだされたのは偽りでござれたか?」

久正「多少の蟠(わだかま)りがないとは言えないまでも、そちのやっている事は謀叛でしかないわ!」

この一喝で鶴ヶ岡城にいた侍たちがすわ大事(事件)かとわらわらと集まって来た

高春はどうにか城外に逃れたが、追っ手は増すばかり

添川の淵に達した所で天命を悟った高春は自刃して果てた

高春に最期まで従った者は40名ほどであったという

この乱により清水義親を最上家の当主に擁立しようと考える家臣の存在を知った最上家親は
大阪の豊臣征伐を控える大変な時期に少しでも後顧の憂いを減らそうと
清水城攻撃を発令した